井山裕太(いやまゆうた)とは、日本の囲碁棋士である。1989年(平成元年)5月24日生まれ。日本棋院(関西総本部)所属。九段。大阪府出身。石井邦生九段門下。号は本因坊文裕(もんゆう)。
2016年4月には囲碁棋士として史上初の【棋聖・名人・本因坊・王座・天元・碁聖・十段の七冠独占】という偉業を達成。2017年10月には二度目の七冠独占を達成した。史上初の年間グランドスラム(年間で七大タイトル全て制覇)も達成。
二十六世本因坊、名誉棋聖・名誉碁聖・名誉天元の資格保持(最多名誉称号資格保持者)。
国民栄誉賞受賞。
概要
2002年入段。同年二段。2003年三段、2005年四段と順調に昇段後、同年、規定により七段に飛び昇段。2008年八段。そして2009年九段に史上最速で到達。
20歳の若さで名人位を獲得して以来、十段・天元・本因坊・碁聖・王座・棋聖(獲得順)と七大タイトルすべての獲得を経験(グランドスラム)。
2013年、張栩から棋聖を獲得し史上初の六冠となる。その後、十段位は結城聡に奪われてしまうが、山下敬吾から名人を奪い返し六冠に復帰。そして2014年、夢の七冠独占へ――と思いきや惜しくも、十段戦挑戦者決定戦で高尾紳路に敗れてしまい、2014年の七冠独占はお預けとなったが、2015年に(十段位を除く)全てのタイトルを防衛・奪取し3度目の六冠に。
そして2016年4月に、最後の十段も奪取し、ついに前人未到の七冠を達成している。
2016年には本因坊・碁聖5連覇を達成し、二十六世本因坊・名誉碁聖の資格を得る。本因坊の号は文裕(もんゆう)。同年、東大阪市名誉市民に選ばれる。
さらに2017年には棋聖5連覇を達成し、名誉棋聖の資格を得る。そして、前年失った名人を奪還し、二度目の七冠を達成。
2018年には国民栄誉賞を受賞。
2011年から8年連続で囲碁プロ賞金ランキングで一位、7年連続で賞金総額1億円超え。2012年から7年連続で最優秀棋士賞も獲り、名実ともに囲碁界トップ棋士である。
2012年には将棋の女流棋士・室田伊緒(井山と同じ、1989年5月24日生まれ)と5月24日に結婚するも、2015年末に離婚。その後2019年に25歳の一般女性と再婚、2021年2月に第1子(長男)が誕生した。
2020年に本因坊9連覇を達成し、二十六世本因坊を60歳未満ながら名乗ることができるようになった。
囲碁界での活躍
1996年 とあるアマ大会に出場。石井九段をうならせる。
1997年 少年少女囲碁大会にて優勝(山下敬吾と同じく小学二年生での全国制覇)
2002年 院生リーグで46連勝を含む71勝8敗(当時12歳)。
同年プロ入り。ちなみにこの前年にもプロ試験を受けていたが、残念な事に落ちていた。もしも受かっていたら趙治勲の最年少入段記録を1ヶ月あまり更新していた。残念。
以下
- 2005年 NHK囲碁トーナメント出場 (15歳10ヶ月、最年少記録。なおNHK杯に予選はなく、前年度賞金ランキングの上位者から順に選抜されることに注意)
- 第12期阿含・桐山杯全日本早碁オープン戦で小林覚九段を破り、初の棋戦優勝 (16歳4ヶ月、最年少記録)
同タイトル獲得により七段に昇段 (最年少記録) - 2007年 棋聖戦リーグ入り (最年少記録)
- 名人戦リーグ入りして (最年少記録) そしてその期に
名人戦挑戦者になって (最年少記録) 敗れたけど次の年(2009年)に
名人タイトル獲得 (20歳4ヶ月、七大タイトル獲得の最年少記録)
名人獲得により九段昇格 (最年少記録)(最短記録) - 2009年 本因坊リーグ入り (最年少記録)
- 2011年 十段タイトル獲得 (最年少記録)
天元タイトル獲得 (最年少記録) - 2012年 本因坊を獲得し、本因坊、天元、十段の三冠達成 (最年少記録)
直後に碁聖も獲得し、四冠達成 (最年少記録)(史上5人目)
その後王座も獲得して五冠達成 (張栩に続いて史上2人目)(最年少記録) - 2013年 棋聖タイトルを獲得(最年少記録)、これにより六冠を達成 (史上初)
これにより「グランドスラム」(七冠すべてを経験)も達成 (史上3人目)(最年少記録) - 次の十段戦では結城聡に敗れ、一時五冠に後退。その後の河野臨との碁聖戦5番勝負では、
出だし2連敗するも、そこから3連勝し防衛。さらに名人を獲得し六冠に復帰。これにより
「大三冠」(棋聖・名人・本因坊の序列上位3大タイトル独占)を達成 (趙治勲に続いて史上2人目)(最年少記録) - TVアジア杯初優勝。TVアジア杯では8年ぶりの日本勢優勝をもたらす。
- 2013年の賞金・対局料の総額が1億6461万円となる (当時の史上最高額)
- 2014年 十段戦挑戦者決定戦決勝で敗れ、七冠挑戦はならず。王座、天元を失い一時四冠に後退。
- 2015年 保持していた4タイトルを防衛し、なおかつ王座、天元を奪取し1年で六冠に復帰
3タイトル戦でのストレート勝ちを含む公式戦24連勝を記録 (歴代2位タイ)
年間の賞金・対局料が1億7212万円となり、13年の自身の記録を更新 (2015年現在の史上最高額) - 2016年 タイトル戦18連勝を記録 (15年7月碁聖戦第3局~16年4月十段戦第2局まで、歴代最高記録)
同年4月 26歳で、自身が保持していた六冠に加えて十段を奪取し、囲碁棋士として史上初の国内主要七大タイトルを独占(七冠)
同年、本因坊・碁聖5連覇を達成し、二十六世本因坊・名誉碁聖の資格を得る。本因坊の号は文裕(もんゆう)。 - 2017年 棋聖5連覇を達成し、名誉棋聖の資格を得る。
さらに、昨年失った名人を奪還し、二度目の七冠を達成。あわせて同年は史上初の年間グランドスラム(年間で七大タイトル全て保持)を達成。 - 2018年 国民栄誉賞を受賞。一方で碁聖・名人を失い五冠に後退。
- 2019年 天元5連覇を達成し、名誉天元の資格を得る。一方で十段・王座を失い三冠に後退。
- 2020年 本因坊9連覇(史上3人目)、また名人を奪取し3度目の大三冠を達成。一時は四冠となるも、天元を失い三冠に戻る。
- 2021年 棋聖9連覇(通算9期、通算在位・連覇の最多記録を更新)、本因坊10連覇(史上2人目・最多タイ)。碁聖を奪取(通算7期)して四冠となる。名人2連覇(通算8期)。王座を奪取(通算7期)して五冠となる。
- 2022年 棋聖を失い四冠に後退。紫綬褒章を受章。本因坊11連覇(最多連覇記録)。碁聖2連覇(通算8期)。名人を失い三冠に後退。王座2連覇(通算8期)。
囲碁に詳しくない人のために
井山がどれほどの棋士なのかを簡単に表現すると
A:井山はどれくらい凄いの?
B:簡単に言うと、日本の囲碁界には7つのタイトルがある。
A:うん。
B:過去8年間だと、延べ56人のタイトルホルダーがいるわけだ。
A:うんうん。
B:その56人のうち、81%の42人が井山だ(2019年終了時点)。
A:( ゚д゚ )
もちろん、分身の術を会得しているわけではない。
年表
※色付きがタイトル獲得。最=最優秀棋士賞、優=優秀棋士賞、率=勝率一位賞、勝=最多勝利賞、対=最多対局賞、連=連勝賞、国際=国際賞、哉=秀哉賞。賞金対局料の単位は万円、色付きの年は全棋士中1位。
年 | 棋聖 | 十段 | 本因坊 | 碁聖 | 名人 | 王座 | 天元 | 賞金 対局料 |
備考 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2008年 | 張栩 3-4 |
3,209 | |||||||
2009年 | 張栩 4-1 |
6,244 | |||||||
2010年 | 高尾紳路 4-0 |
5,648 | |||||||
2011年 | 張栩 2-4 |
張栩 3-2 |
山下敬吾 2-4 |
結城聡 3-0 |
9,151 | ||||
2012年 | 張栩 3-1 |
山下敬吾 4-3 |
羽根直樹 3-0 |
張栩 3-0 |
河野臨 3-0 |
10,620 | 五冠 | ||
2013年 | 張栩 4-2 |
結城聡 2-3 |
高尾紳路 4-3 |
河野臨 3-2 |
山下敬吾 4-1 |
張栩 3-1 |
秋山次郎 3-0 |
16,461 | 六冠 |
2014年 | 山下敬吾 4-2 |
伊田篤史 4-1 |
河野臨 3-2 |
河野臨 4-1 |
村川大介 2-3 |
高尾紳路 2-3 |
14,078 | 六冠 | |
2015年 | 山下敬吾 4-3 |
山下敬吾 4-1 |
山下敬吾 3-1 |
高尾紳路 4-0 |
村川大介 3-0 |
高尾紳路 3-0 |
17,212 | 六冠 | |
2016年 | 山下敬吾 4-0 |
伊田篤史 3-1 |
高尾紳路 4-1 |
村川大介 3-0 |
高尾紳路 3-4 |
余正麒 3-0 |
一力遼 3-1 |
13,494 | 七冠 |
2017年 | 河野臨 4-2 |
余正麒 3-1 |
本木克弥 4-0 |
山下敬吾 3-0 |
高尾紳路 4-1 |
一力遼 3-0 |
一力遼 3-0 |
15,981 | 七冠 |
2018年 | 一力遼 4-0 |
村川大介 3-0 |
山下敬吾 4-1 |
許家元 0-3 |
張栩 3-4 |
一力遼 3-2 |
山下敬吾 3-2 |
14,696 | 五冠 |
2019年 | 山下敬吾 4-3 |
村川大介 1-3 |
河野臨 4-1 |
芝野虎丸 1-3 |
許家元 3-2 |
10,825 | |||
2020年 | 河野臨 4-2 |
芝野虎丸 4-1 |
芝野虎丸 4-1 |
一力遼 2-3 |
12,852 | ||||
2021年 | 河野臨 4-1 |
芝野虎丸 4-3 |
一力遼 3-2 |
一力遼 4-3 |
芝野虎丸 3-2 |
13,385 | 五冠 | ||
2022年 | 一力遼 3-4 |
一力遼 4-0 |
一力遼 3-0 |
芝野虎丸 3-4 |
余正麒 3-0 |
世界での活躍
国内でこれだけの活躍をしていても、海外棋戦でも活躍できるかどうかは疑問視されていた。
いくら強くても井山はほぼ全ての国内棋戦トップリーグに在籍しているので、海外棋戦の為にスケジュールを割り振る事ができないという、贅沢な悩み、というか、日本棋院の層の薄さを露呈するというか、 そういう問題が存在するのである。
現在は「日本人でも井山は別」と中国・韓国棋士などが上位を占めている囲碁界の中で唯一、海外棋士から一目置かれており日本の最終兵器と評されている。
棋風
囲碁棋士としては珍しく、得意な型や決まった型を持たない。つまり、実利の碁でも勢力の碁でも攻めでも受け守りでも居飛車でも振り飛車でも勝ててしまう、オールラウンダー(将棋世界2013年4月号の井山夫妻(当時)へのインタビューより)。
院生時代までは攻めっけが強い碁だったが、さすがに周りが強くなると通用しなくなってきた。
この頃がスランプの時期で、11歳の最年少入段を逃している。
以降、改善してバランス型の棋風に至る。(石井邦生師匠のインタビューより)
また、自分が最善と思った手は愚形や悪形(例:生ノゾキなど)であっても常識にとらわれずに打つので、解説者も普段なら「これは悪手です」と断言する場面で、井山が同じ形を打つと「この形は悪いですが、井山君が打つなら何かあるのでしょう」となることもしばしば。
あとで井山に聞けば大抵理にかなった答えが返ってくるが、稀に「あの手はやはり悪かったです」と返されることも。
最近は中盤以降に最強手を連打する傾向にあり、勝負手を発見すると時間を惜しみなく使いきってでもそのまま最強手を連打するのが井山流(なお序盤に時間を多く使う傾向は全盛期の趙治勲に似ているかも)。
特にNHK杯での時間の使い方は異常。
また、投げっぷりが悪い往生際が悪い最後まで勝負を諦めないのも特徴で、敗勢の碁をひっくり返すことも。
ネット碁
井山が一人っ子だった事、両親の気苦労や時代の変化などもあり、石井九段は内弟子(自分の家に住ませる)とする事を断念。 ネット碁を駆使し、これまで1000局近くも打った。 かつては師と対局するのは弟子入りの際と独立時の2回程度で、最近はプロなどが行う囲碁教室などから入段する例もあるが、石井の井山に対する指導法は今でも異例である。
井山トリビア
- 本因坊獲得の際、真っ先に石井九段に電話した。
電話をとった後、石井のほうから「おめでとう」。泣かせる師弟愛だぜ・・。 - 上記の通り内弟子が難しく、距離的に通い弟子も難しかったため、インターネットを用いた指導法を使った。対局が終わると電話で指導してもらうが、最初のうちは、師匠の難しい言葉は祖父が通訳してくれた。
- 入門の時は6子(碁盤に先に石を6個置いた状態で対局を始める)、一年後には4子でいい勝負。
院生になった頃は2子。(九段に2子は限りなくプロ初段に近い実力といわれる。)
なお、全ての対局で一切手加減をしなかった上での話である。
入段してからはプロという事で互先(たがいせん、ハンデなし)で打っていたが、更に1年経つと勝てなくなってしまった。 - 新幹線や飛行機など、長時間の移動の際は専ら読書をしている。中でもミステリー系の作品が好きで「名探偵コナン」や「金田一少年の事件簿」「東野圭吾」作品などを好んで読んでいるとのこと。
- 休日は、家のソファでゴロゴロしてるか、野球をしているか、「ビリーズブートキャンプ」等、エクササイズで汗を流している。
- 中学生の時、アニメ「ヒカルの碁」内で放送されていた「GO GO囲碁」に出演した事がある。その際、梅沢由香里プロに「今後の目標は何ですか?」と聞かれて「まずは『タイトルを取れる棋士』になること。そして『世界に通用する棋士になること』です。」と答えており、まさしく有言実行していると言える。
- 同い年の棋士には謝依旻がいる。同じく無双級の活躍をしている。詳しくは記事で。
- 同じ盤上の競技でも「将棋」は苦手。飛車と角の場所を間違えたりする。
元嫁曰く「将棋はからっきし弱い。(ルールを教えても)金と銀の動かし方さえ間違えちゃうレベル」なのだという。 - 金持ちなのに、自宅からの移動は電車or地下鉄。棋聖戦の昼食休憩で観光地の川越市内をスーツで往復2kmほど歩き回るも、何事もなかった模様。
- 師匠の候補には関西棋院の宮本直毅もいたが、石井のいない酒の席で宮本が固辞したため、石井が師匠となった(産経新聞「産経抄」)。宮本門下であれば、関西棋院棋士が七大タイトルを独占していたかもしれない。
また、井山が院生時代にスランプに陥っていたとき、石井は万が一のことを考え、当時千葉市で内弟子を育成していた趙治勲に、井山が東京へ出た場合は弟子にしてほしいと打診し、内諾を得ていた(もっとも、内弟子ではうまくいかなかったであろうことは井山が『文藝春秋』の渡辺明との対談で明言している)。実現していれば師弟揃って大三冠の可能性があったが、ほどなく井山がスランプから脱し、そのまま関西にとどまったため、この話も立ち消えとなった。
エピソード
5歳の時に、囲碁をテレビゲームで覚える。 祖父がアマ六段だった事もあり、その手ほどきを受け成長。 現在、左手で碁石を打つのは「右脳活性化」の為ということで祖父の指導の名残である。
その後メキメキと成長し、わずか1年でアマ三段に。 とあるテレビ番組に出場したところを番組の解説者の石井邦生九段が「才能に惚れた」事によりスカウト。 弟子とする。
石井九段は当時を振り返り、 「めちゃくちゃ強い。しかも早い。ただ速いだけでなく、大事な局面では、ピタッと手が止まるんですね。 そういうリズム感というか感性が素晴らしくて。 びっくりしたのと同時に感動しました。」 「私は50歳を過ぎて、この年になってタイトルを獲れないようではだめだろうと限界も感じていたので、『これからはもう思い切り遊ぼう』と思っていたんです。 弟子をとるなんて、まっぴらゴメンだったんですよ。」
ちなみに、石井への弟子入りを押したのは祖父だったと後に語っている。 とはいえ、上記のようにノリノリだった。 両親には、 「一銭もいりません。この子の才能にほれ込んでのことですから。 もし気が済まないようでしたら、盆と暮れに値の張らないものを」と…。 出世払いで、とでも言っておけばよかったかな(笑)」
その一方で、院生時代から自分の棋譜を取り、自身の考えと合わせて師に送り、時間を置いて添削してもらうという勉強法をとっていた。 一言でいえば赤ペン先生方式。 石井は最後の頃には送り返さなくなっていたが、井山はプロの高段になるまで律儀に棋譜を送り続けたという。
二人の師弟愛は有名。 ついには著書「我が天才・井山裕太」を執筆してしまった。
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