乾貴士 単語

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イヌイタカシ

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乾貴士Takashi Inui, 1988年6月2日 - )とは、日本サッカー選手である。
J2リーグ清水エスパルス所属。元サッカー日本代表

169cm63kg。ポジションMF(SH、OH)。利き足は右足。

概要

滋賀県近江八幡市出身。小柄ながらも緩急を活かしたドリブル突破が魅のアタッカー
2005年度の第84回全高校サッカー選手権で「セクシーフットボール」と呼ばれた野高校メンバーとして全制覇を成し遂げ、セレッソ大阪時代は香川真司との息の合ったコンビで注されるようになる。

2011年ドイツへと渡り、2015年からの6シーズンに渡り長年日本人は活躍できていないと言われてきたスペインラ・リーガ日本人選手としては初の100試合出場を達成している。特に2017年5月FCバルセロナ戦で2ゴールを決めるセンセーショナルな活躍を見せ、スペインで初めて地位を築いた日本人選手となった。

日本代表には2013年デビュー海外で長年活躍しているにもかかわらずなかなか代表に定着できずにいたが、2018 FIFAワールドカップメンバーに選ばれると左サイドハーフレギュラーを掴み、チーム最多の2得点の活躍でベスト16進出に貢献している。特に、ラウンド16で強ベルギーを相手に決めた快なミドルシュートとなっている。

一方、負けず嫌いな性格が災いして感情のコントロールができない一面があり、2022年には途中交代を命じられた監督の采配に激怒し、チームの規を乱す行為に出たことで最終的にセレッソ大阪契約を解除することとなった。

経歴

プロ入り前

の4人家族の次男として生まれる。サッカーを始め、小学生のときに地元のセゾンフットボールに所属。「一芸を底的に伸ばす」というクラブの方針のもと、現在でもストロンポイントであるドリブルの技術をこの頃からひたすら磨いている。当時からすでに抜きんでた才を発揮しており、当時の監督は「放っておいてもJリーガーになれる逸材」と評されていた。セゾンFCには中学生までの9年間在籍しており、その後のプレースタイルの礎を培っている。

2004年に野高校に進学。2005年度には2年生にしてくもレギュラーに定着した。同年度の第84回全高等学校サッカー選手権大会では、青木孝太などと共に全制覇を経験。あのFCバルセロナモデルとした「セクシーフットボール」と呼ばれた高い技術を駆使した攻撃的なスタイルで一躍有名になったチームにおいて中心選手となっていた。3年生時に選手権に出場した際は、大会直前にスパイクを盗まれるという事件に巻き込まれている。

横浜F・マリノス

2007年横浜F・マリノスに入団。J1第2節横浜FC戦でプロデビューをするも、なかなか出場機会が得られず、コーチに干されて挫折を味わう。結局1年はリーグ戦7試合、カップ戦3試合のみの出場となる。

2年となった2008年6月まで全く試合に出場できず、出場機会をめて移籍を希望する。

セレッソ大阪

2008年6月に当時J2セレッソ大阪レンタル移籍。チームに在籍していた香川真司と息の合ったコンビを披露し、共にクラブの躍進に貢献。才が開したシーズンとなったが、チームの順位は惜しくも4位でJ1昇格を逃す。

2009年セレッソ大阪全移籍。背番号も「7」に変更。この年のJ2では香川とともに得点を量産。2人を擁するC大阪の攻撃は全にJ2レベル駕するものであり、他チームとの格の違いを見せつける。5月23日J2第17節アビスパ福岡戦では自身初のハットトリックとなる1試合4ゴール記録。さらに、11月8日ザスパ草津戦でもこのシーズン2度となる1試合4ゴールを達成。最終的にシーズン20ゴールを決める大活躍となり、香川と合わせて47得点という脅威的な記録を残し、チームを4年ぶりのJ1昇格に導いた。

2010年には香川の2シャドー、3試合のみ家長昭博を加えた3シャドーを形成し、前半戦を8位で折り返す。後半戦はボルシア・ドルトムントへ移籍した香川に変わり清武弘嗣を加えた3シャドーを形成。7月24日J1第14節モンテディオ山形戦でJ1での初ゴールを決める。ゴール数こそ4ゴールにとどまったが、高いテクニックは相手チームの脅威となる。J2でも見せた攻撃J1でも通用することを明し、チームは昇格組ながら優勝争いにも加わるほどの躍進を遂げる。最終的にはリーグ戦を3位で終えAFCチャンピオンズリーグ出場権を獲得、クラブの躍進に貢献した。

2011年チームに残ったものの、ドイツに渡った香川の大活躍に触発され、海外プレーしたいという思いが強くなっていた。5月24日ACLラウンド16 ガンバ大阪戦で前半だけで交代を命じられたことでロッカールームで昂。シャワー室のガラス叩き割って怒りを露わにしている。この行為がレヴィー・クルピ監督逆鱗に触れ、公式戦4試合出場停止を含む謹慎処分を受けている。それでもシーズン前半戦の14試合で前年を上回る5ゴールを決めるなど好調を維持し、に念願だった海外移籍が決定する。

ボーフム

2011年8月1日ドイツツヴァイテリーガ(2部)のVfLボーフムに全移籍。ボーフムではボランチの位置まで下がり、崩しのキーマンとなりつつゲームを組み立て、さらにトップ下の位置まで上がりチャンスメイクを行っていた。1シーズンで30試合7得点4アシストと奮闘したもののチームが低迷。ボーフムは11位に終わり昇格を逃した。しかし、2部での活躍はブンデスリーガ複数のチームスカウトのに留まり、3チームが獲得に名乗り出る。

フランクフルト

2012年6月23日ドイツブンデスリーガアイントラハト・フランクフルトへの移籍2012年9月16日に行われたブンデスリーガ第3節のハンブルガーSV戦での初ゴール記録アルミンフェー監督からは守備意識の低さを摘され、善に取り組むようになる。昇格組であるクラブの中心選手として活躍しクラブの6位進出、UEFAヨーロッパリーグ出場権獲得に貢献。

2013-2014シーズンには昨シーズン以上の活躍が期待されたが思うような活躍が出来ずベンチに座ることも少なく、出場試合数は11試合に留まっていた。しかし2014年に攻撃的なスタイルを好むトーマス・シャーフが監督に就任し信頼を掴むと見事に復活を遂げる。また、この年に日本代表将の長谷部誠が加入し、チームメイトとなっていたこともいいを与えていた。だが、シーズン途中でチームが守備的な戦術にを切るようになったことでスタメンを外れることもあり、徐々にストレスを感じながらプレーするようになっていた。第28節を最後に出場機会はく、シーズンノーゴールで終わっている。

2014-2015シーズンは、シーズンを通して出場機会は得たものの、低迷するチームはシャーフが解任となり、シーズン途中に前年まで揮を執っていたフェー監督に復帰する混乱っぷり。二転三転するチームの方針の煽りを受けて自分のプレーを十分に発揮できず。2シーズンぶりにゴールは決めたが、ブンデスリーガではその1ゴールのみとなった。

エイバル

2015年8月27日スペインリーガ・エスパニョーラSDエイバル全移籍。 小さい頃からのだったというスペイン移籍を果たす。2015年9月23日リーガ・エスパニョーラ第5節レバンテUD戦でリーガデビューホセルイス・メンディリバル監督の志向する攻撃的なフットボールプレースタイルが見事にマッチし、日本人にとって門といわれるスペインで個性を十分に発揮する。2016年1月10日エスパニョール戦で移籍後初ゴールを決める。2年となる2016-17シーズンもキレのあるプレーチームの中心として活躍。最終節となったFCバルセロナ戦では、敵地カンプ・ノウで2得点を決める大活躍を見せる。

2017-18シーズンは、第16節のバレンシア戦で初得点を決めれば、続くジローナ戦でも得点を挙げ、2試合連続ゴールを決めるだけでなく、シーズンリーガ最速となる開始41でのゴール、さらにリーガ通算70000ゴールメモリアルゴールとなる。チームは史上最高順位となる9位でシーズンを終え、自身も33試合5得点という成績を残し、次のステップをめることとなる。

ベティス→アラベス

2018年6月1日リーガ・エスパニョーラレアル・ベティスに3年契約で移籍することが発表される。当初は背番号14の予定だったが、開幕前にエイバル時代と同じ「8」を付けることとなる。鳴り物入りでの加入となったが、キケ・セティエン監督が3-5-2を採用したことで居場所が見つからず、出場機会が与えられない日々を送ることとなる。結局ベティスでの出場は8試合のみにとどまる。

2019年1月24日出場機会をめて、リーガ・エスパニョーラのデポルティーボ・アラベスシーズン終了後までの期限付き移籍を果たす。これまでと違う右サイドハーフでの起用が多かったが、アラベスきを取り戻しカウンターの起点として機する。第27節では古巣のエイバルを相手に得点を決めるが、チームに敬意を表しゴール後に謝る素振りを見せた。シーズン終盤に右足首を負傷し、戦線を離脱する。

エイバル復帰

2019年7月24日古巣のエイバルに1年ぶりに復帰することとなる。シーズン序盤はスタメンで起用されていたが、第6節のセビージャ戦で前半32分で交代させられる屈辱を味わい、以降チームと共に下降線を辿るようになり、スタメンから外れたり、出場機会が与えられないことが増える。12月20日のグラナダ戦で復帰後初ゴールを決めるなど、エイバルの残留に貢献はしたが、期待値以上の活躍もできず。日本国内では、某タレントとの不倫疑惑のほうで話題になった。

2020-2021シーズンは本職の左サイドハーフだけでなく、右サイドハーフでの起用も増え、開幕からコンスタントに活躍し、として定着。攻守一体のスタイルすメンディリバル監督からも信頼のコメントを寄せられるなど、チームの戦術オプションとして重要な存在となる。2021年1月10日の第18節レバンテ戦ではシーズンゴール記録。しかし、その試合の敗戦を皮切りにチームは大きく調子を落とし、17試合から遠ざかっている間に最下位に転落。自身も調子を落とし、次第に序列が低下し、出場機会が減っていった。結局チームは降格となり、不本意なシーズンとなった。
2021年6月30日チームの降格に伴い退団が発表される。

セレッソ大阪復帰

2021年8月31日、古巣であるJ1リーグセレッソ大阪へ10年ぶりに復帰することが発表される。背番号は初めて海外に挑戦した年齢から取って「23」。9月8日J1リーグ第19節北海道コンサドーレ札幌戦で後半19分から出場し、大久保嘉人ゴールアシストしている。10月24日には、J1第33節横浜F・マリノス戦でJリーグでは10年ぶりとなる復帰後初ゴールを決める。11月12日、以前から違和感のあった右膝軟損傷の手術を受けることが発表され、一足シーズンを終えることとなる。

2022年は副キャプテンに就任。さらに自ら志願してチームエースナンバーである「8」に背番号を変更する。4月2日J1リーグ第6節川崎フロンターレ戦では王者を相手に2ゴールの活躍を見せ、守備でも川崎の長所を消す役割を担い、川崎ホーム連続記録ストップさせる値千の働きを見せる。ところが、3日後の第7節柏レイソル戦で後半17分に途中交代を命じられた際、労をねぎらった小菊昭雄監督らの手を払いのけ、交代に対する不満の態度を示す。試合後にもスタッフに対し暴言を吐いたことが発覚。事態を重く見たクラブ期限の謹慎処分を下し、4月14日あらためて6試合の出場停止処分と5月14日まで練習にも参加させないという厳しい処分を決定する。だが、処分解除後も全体練習に姿を見せず、6月9日に双方合意により契約を解除することになる。

清水エスパルス

セレッソ大阪を退団後、J2リーグファジアーノ岡山練習に参加し調整していたが、2022年7月22日J1リーグ清水エスパルス全移籍することが発表される。
加入後すぐにチームフィットし、8月27日J1第27節京都サンガ戦では移籍後初ゴールとなる決勝ゴールを決め勝利に貢献。最下位に沈んでいたチームを一時は残留圏まで引き上げる活躍を見せる。しかしこの試合を最後にチームから見放され、再び降格の危機に直面。さらには守備に問題を抱えていたチーム事情によってシーズン終盤はスタメンを外れるようになる。結局、チームは最後まで浮上することができず、J2降格となる。

チームが降格したことで去就が注されたが、契約更新2023年も引き続き清水プレーすることになる。シーズン前の負傷で開幕から出遅れ、その間にチーム監督交代となる。コンディションが回復するとトップ下でプレーするようになり、攻撃の中心として躍動。5月7日の第14節いわきFC戦では1ゴール3アシストの大活躍を見せ、7月には3試合連続ゴール、うち7月9日の第25節大分トリニータ戦では2ゴールを決める。昇格争いを繰り広げるチームの中で10ゴール10アシスト記録するも、チームリーグ戦4位に終わり、プレーオフでも決勝で3位・東京ヴェルディ引き分けたことで1年でのJ1復帰を逃す。

日本代表

世代的には北京世代にあたり、2006年U-21日本代表に選出されるが、途中出場2試合のみだった。

日本代表には、2009年1月20日AFCアジアカップ予選イエメン戦でデビューを飾る。しかし、岡田武史監督の信頼を得ることはできず、南アフリカワールドカップ後の2010年9月7日グアテマラ戦で初スタメンを飾るが、前半のみの出場となり、その後2年もの間代表からは遠ざかる。ブラジルワールドカップまでの4年間は当時の日本代表に2列タレントっていたこと、さらにグループとしてチームを固定化していたアルベルト・ザッケローニ監督の強いの選出に積極的でなかったことから代表に呼ばれたり、呼ばれなかったりが続き、2014年ワールドカップメンバーには選ばれなかった。

2014年11月14日1年ぶりに日本代表に復帰したホンジュラス戦で後半から出場すると代表初ゴールを含める2得点を挙げる活躍を見せ、2015年オーストラリアで開催されたAFCアジアカップ2015メンバーに選出される。3トップの左ウイングとして全4試合にスタメンで起用され、グループリーグ第2戦のヨルダン戦では得点を挙げるが、PK戦の末に敗れたUAE戦では前半のみで交代となる。大会後、ハビエル・アギーレ監督が解任され、ヴァヒド・ハリルホジッチ監督が就任すると再び長らく代表から遠ざかるようになる。

だが、エイバルでの活躍もあり、メディアファンからは待望論が挙がるようになっていた。2017年5月におよそ2年ぶりに代表に復帰すると、8月31日ワールドカップ出場権獲得のかかったロシアワールドカップアジア最終予選オーストラリア戦に右ウイングとしてスタメンで起用される。

2018年5月ロシアで開催される2018 FIFAワールドカップメンバーに選出される。当初は控え組という位置づけだったが、本番直前のパラグアイ戦での香川との息の合ったコンビ西野朗監督に評価され、左サイドハーフレギュラーを掴む。グループリーグ初戦のコロンビア戦で30歳にしてワールドカップ初出場を果たす。第2戦のセネガル戦では、前半34分に長友佑都アシストからゴールを奪い、ワールドカップ得点記録ベスト16のベルギー戦でも、後半7分に強なミドルシュートを決め、チームの2点を挙げる。チームは逆転負けを喫したが、自身のキャリアハイライトとなるような大会となり、FIFAが選ぶ「驚きの活躍を見せた5人」に選出される。

2019年1月UAE開催されたAFCアジアカップ2019では、直前の合宿で負傷し離脱した中島翔哉の代わりとして追加招集され、背番号「10」を付ける。決勝までの6試合で3試合に出場。しかし、アジアカップを最後に代表から招集されなくなる。

個人成績

シーズン クラブ リーグ 試合 得点
2007 横浜F・マリノス J1リーグ 7 0
2008 横浜F・マリノス J1リーグ 0 0
セレッソ大阪(loan) J2リーグ 20 6
2009 セレッソ大阪 J2リーグ 47 20
2010 セレッソ大阪 J1リーグ 33 4
2011 セレッソ大阪 J1リーグ 14 5
2011-12 ボーフム ツヴァイテリー 30 7
2012-13 フランクフルト ブンデスリーガ 33 6
2013-14 フランクフルト ブンデスリーガ 14 0
2014-15 フランクフルト ブンデスリーガ 27 1
2015-16 フランクフルト ブンデスリーガ 1 0
エイバル ラ・リーガ 27 3
2016-17 エイバル ラ・リーガ 28 3
2017-18 エイバル ラ・リーガ 34 5
2018-19 ティ ラ・リーガ 8 0
アラベス(loan) ラ・リーガ 12 2
2019-20 エイバル ラ・リーガ 29 2
2020-21 エイバル ラ・リーガ 28 1
2021 セレッソ大阪 J1リーグ 8 1
2022 セレッソ大阪 J1リーグ 5 3
清水エスパルス J1リーグ 10 1
2023 清水エスパルス J2リーグ 32 10

個人タイトル

プレースタイル

幼いころから磨いてきたドリブルの技術など、高いテクニックが長所。ドリブラーというイメージが強いが、味方とのコンビネーションによって局面を打開するタイプの選手である。本人もドリブラーとカテゴリー分けされることを否定している。左サイドハーフが適性ポジションであるが、横幅を使ったプレーよりも、ハーフスペース活用し自分の持ち味を発揮しながら周りを活かすことが得意。もっとも多いゴールパターンは左からドリブルで中にカットインしてからの右足シュート

かつては守備意識の低さが摘され、ヨーロッパで活躍しながらなかなか日本代表に定着できない原因の1つでもあった。だが、エイバルプレーするようになってから、守備時のポジションニグやパスコースを切りながらプレッシングをかける技術が劇的に向上。守備でも貢献できるプレイヤー進化している。しかし、自に引いて守る際の守備は相変わらず課題となっており、持ち場に戻ってこなかったり、下がるタイミングが悪くてサイドバックに負担をかけてしまうこともある。

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