長谷部誠単語

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長谷部誠1984年1月18日 - )とは、日本サッカー選手である。ルシオではない。ドイツブンデスリーガアイントラハト・フランクフルト所属。メインポジションMF。時々DF、GK

サッカー日本代表では、2010年2014年2018年ワールドカップ3大会でキャプテンを務めた。

概要

静岡県出身。3歳の頃、キャプテン翼の大に憧れてサッカーを始める。小学校中学校サッカーを続け、1999年に地元の名門校である藤枝東高校に一般入試により進学。2年生の頃からレギュラーとなり、2001年の全高校総体では準優勝。全高校サッカー選手権の出場は果たせなかったものの、静岡県選抜に選ばれたときのプレーが認められ浦和レッズからオファーを受け、卒業後のプロ入りを決断する。

浦和レッズ時代

2002年浦和レッズプロとしてのキャリアスタート。1年はナビスコカップ1試合に出場したのみだったが、2003年からトップ下とボランチで出場機会が増え、プロ入り初タイトルとなるナビスコカップ優勝を経験。

2004年は、チームJ1リーグ2ndステージ優勝に貢献。この年のJリーグベストイレブンとナビスコカップニューヒーロー賞を受賞し、大きく飛躍した1年となった。

その後は、鈴木啓太と中盤の底でコンビを組むことが定着し、2006年クラブ初となるJ1リーグ年間優勝2005年2006年天皇杯連覇、2007年にはセパハンと争ったAFCチャンピオンズリーグ決勝の2試合にフル出場しアジア王者にき、浦和黄金時代として牽引する。浦和で全てのタイトル獲得を達成した2007年シーズン終了後、欧州移籍を決意する。

ヴォルフスブルク時代

2008年1月ドイツブンデスリーガvflヴォルフスブルクへ移籍。エディン・ジェコら一流プレイヤーチーム々と出場機会を得ると、4月27日レバークーゼン戦で初ゴールを記録。2008-09シーズンには本職のボランチだけでなく右SHや右SBでもプレーするようになる。負傷して離脱する期間もあったが20試合以上に出場。チームブンデスリーガ優勝に貢献。長谷部欧州舞台に連れてきたフェリックス・マガト監督シーズン終了後に同リーグシャルケ04へ引き抜かれるが、UEFAチャンピオンズリーグに出場しアシストを記録するなど監督交代後もチームとして活躍。

だが2011年3月シャルケでのリーグ戦成績低迷を理由にマガト監督が解任され再びヴォルフスブルク監督に就任すると状況が一変。2011-12シーズンリーグ戦23試合に出場したが、そのどが後述のように本職外のポジションでの出場である。便利屋のように扱われ、ベンチ外を経験する事も多かった。前年の15位から8位へと向上したクラブとは対照的に長谷部個人としては不本意なシーズンとなった。

そしてシーズン終了後、長谷部は他クラブとの移籍交渉が許可され、事実上の戦力外通告を受けてしまう。古巣浦和への復帰も囁かれたが、本人は欧州トップリーグ舞台でのプレー希望。だが、2年の残り契約により発生する移籍や高額の年俸やクラブの財政状況(ヴォルフスブルクスポンサードイツ最大手の自動車メーカーフォルクスワーゲンであり、お金には全く困っていない。つまり移籍びた一文まける必要がない)がネックとなり、移籍市場閉幕を迎えても長谷部獲得に手を挙げるクラブは現れなかった。
地への移籍がう事なく迎えた2012-2013シーズン、堅物の「鬼軍曹」としても知られるマガト監督は当然のように長谷部を構想外に。合流した日本代表の試合でもミスを連発し試合勘不足を露呈するなど、クラブどころか代表での立場すら失いかねない状況に陥ってしまう。

しかし、10月末になって思わぬ転機が訪れる。開幕から低調な戦いぶりで8試合消化時点で勝ち点5でリーグ最下位に低迷する原因となったマガト監督が解任されたのだ。するとチームの再出発となった第9節デュッセルドルフ戦、前日に遠征メンバー入りしていた長谷部は4-2-3-1の右サイドハーフでいきなりのスタメン出場。元々タレントいだったチームはこれまでの憤をらすかのような圧巻のパフォーマンスを披露し、2部からの昇格チームを圧倒。ヴォルフスブルクの面々は得点の度に喜びを爆発させ、2-0で迎えた後半19分には長谷部アシストを記録するなど結果は4-1の快勝。長谷部誠の新シーズンは2か遅れの開幕を迎えた。

ニュルンベルク時代

2013年8月31日、5シーズン半を過ごしたヴォルフスブルクに別れを告げ、清武弘嗣の所属する1.FCニュルンベルクへ移籍。加入1年でありながらもチームとして試合に出場したが思うように結果が残せず、チームも低迷。2014年1月には膝の負傷で戦線離脱を余儀なくされ、クラブツヴァイテリーガ(2部)への降格が決定した。

フランクフルト時代

2014年6月アイントラハト・フランクフルトへ移籍。2014-2015シーズンは本人が希望するボランチで固定され、自身リーグ戦最多出場となる33試合に出場するなど充実したシーズンとなる。しかし、2015-2016シーズン開幕前にトーマス・シャーフ監督が解任され、アルミン・フェー監督が就任すると状況が一変。ここでもまた右SBプレーさせられることが増え、チームは大きく低迷し降格の危機に直面するとともに自身も調子を落としてしまう。それでも、2016年3月にフェー監督が解任され、ニココバ監督が就任すると再びボランチで起用されるようになり、4月30日ダルムシュタット戦で1091日ぶりのゴールを決める。入れ替え戦でも2試合にフル出場し、古巣のニュルンベルクを退けて残留に貢献。

2016-2017シーズンは大きな転機を迎えることとなる。コバ監督の提案により、3バックの中央(リベロ)にコンバートされると、チーム戦術の要となる重要な役割を担い、以降チームに欠かせないプレイヤーとなる。3月5日フライブルク戦ではブンデスリーガ出場試合数を235試合とし、寺康の持つ日本人最多出場記録を更新。しかし、シーズン終盤に右膝の手術をおこなったことで5カもの長期離脱を余儀なくされる。2017-2018シーズンに入って復帰すると、引き続きリベロとしてプレーする。4月21日ヘルタ・ベルリン戦において相手選手の顔面への肘打ちで一発退場となり、4試合の出場停止処分を受ける。5月19日のDFBポカール決勝のバイエルン・ミュンヘン戦にフル出場。下評を覆すバイエルン相手の勝利に貢献し、ドイツに渡ってからは2つめとなるタイトル獲得を果たす。

2018-2019シーズンは、リーグ戦とUEFAヨーロッパカップ(EL)の2つのコンペティションを戦うことになるが、獅子奮の大活躍を見せる。毎試合のようにハイパフォーマンスを見せ、リーグ前半戦のベストCBに選出。最後は失速したもののチームは一時は上位入りを狙える位置をキープし、ELでも準決勝まで勝ち抜く躍進を遂げる。ファンからは「フランクフルト皇帝」とまで称されるようになり、ドイツの有サッカー専門誌『kicker』からはシーズンベストイレブンに選出され、UEFA公式によるELの優秀選手賞に選出。35歳にしてキャリアハイシーズンを過ごすこととなった。

2019-2020シーズンは、ルカ・ヨビッチアンテ・レビッチといったが抜けた影もありチームは低迷。2020年年明けあたりからチームが4バックに変更した影もあり、ベンチで過ごすことが増える。だが、新型コロナウィルスによる中断明けから再び3バックを採用したことでリベロ定位置へ返り咲く。6月6日マインツ戦でブンデスリーガにおけるアジア人最多となる309試合出場を達成。長谷部が復帰後は、一時は残留争いに巻き込まれていたチームも失っていたバランスを取り戻し、最終的には9位でシーズンを終える。シーズン後には日本に一時帰し膝の手術を受け、8月6日のELラウンド16・2nd legのバーゼル戦に後半の45分間出場している。

36歳となった2020-2021シーズンは、ブンデスリーガの最年長選手として開幕を迎えることとなる。開幕から7試合連続でフル出場していたが、第8節のライプツィヒ戦を皮切りに5試合連続でスタメンを外れる。このことについて、アディ・ヒュッター監督からには現役引退する見込みであるため、先を見据えて長谷部抜きのチームで戦っていると説明。12月15日の第12節ボルシア・メンヘングラッドバッハ戦から本職のボランチとしてレギュラーに復帰すると出色のパフォーマンスを披露し、あらためてフランクフルトに不可欠な選手であることを認めさせる。2021年2月からは退団したダビド・アブラアムに代わってキャプテンを任される。長谷部が中盤に定着してからチームは11試合敗と快進撃を見せ、王者バイエルンを相手に金星を奪取もしている。3月8日には、フランクフルトとの契約2022年まで延長したことが発表される。シーズン終盤には再びリベロとして出場することも増え、あらためて存在の大きさを明したシーズンとなったが、チームは惜しくもCL出場権を逃し、5位でシーズンを終えた。

日本代表

2006年1月の代表合宿において日本代表メンバーに初選出され、2月11日アメリカとの親善試合で途中出場によりA代表デビューを果たす。存在感を見せるプレーは披露したものの、ジーコ監督からの評価を得ることができず、2006年ワールドカップ本大会のメンバーに選出されなかった。その後、代表監督イビチャ・オシムに代わってから当初はメンバーに選ばれたものの、2007年に入ってからは選ばれないことが増え、この年のAマッチ出場はかった。

だが、2008年代表監督岡田武史に代わると、ドイツ移籍後の活躍が認められ、岡田体制初の海外組を招集しての親善試合のメンバーに選ばれる。5月5日のコートジボワール戦に出場すると、右サイドからのクロス玉田の決勝ゴールアシスト南アフリカW杯アジア3次予選以降は、遠藤保仁とのダブルボランチが日本代表における不動のコンビとして定着するようになる。2008年から2009年にかけてのアジア最終予選でも、として6試合にスタメンとして出場し、4大会連続での本大会出場に貢献。2009年11月18日アジアカップ2011予選香港戦で代表初ゴールを記録する。

2010年5月10日2010 FIFAワールドカップの出場メンバーに選出。日本代表は本大会前の親善試合において内容と結果が振るわず、内の解説者やメディアから惨敗が予想されるなど、厳しい批判を浴びていた。現状打破の一環として、直前のスイス合宿において岡田監督から中澤佑二に代わってキャプテン名される。本大会に入ると、チーム戦術が変わり遠藤阿部と共に守備重視の3ボランチを形成。下評を覆す戦いぶりを見せるチームを縁の下の持ちとして牽引し、2大会ぶりとなるグループリーグ突破に貢献。ベスト16までの全4試合に出場し、チームを引っった。また、この大会での長谷部は、突然キャプテンに抜されながらベテラン、若手それぞれに気を配り、メディア対応も璧にこなすなど、裏での仕事ぶりも評価されている。大会後はキャプテンということもあり、テレビに引っりだこになる。

南アフリカワールドカップ後に就任したアルベルト・ザッケローニ監督からも引き続きキャプテン名され、チームの大半が海外組となったメンバーチームリーダーを務める。2011年カタールで開催されたAFCアジアカップ2011にも全6試合にほぼフル出場。グループリーグシリア戦では先制ゴールを自ら決め、険しいのりを勝ち抜くチームを鼓舞し続け、日本代表の2大会ぶり4度アジア制覇に貢献。代表キャプテンとして初めてのビッグタイトルを獲得する。以降もザックJAPAN屋台として、ブラジルワールドカップアジア予選やFIFAコンフェデレーションズカップ2013を戦い抜き、当時史上最強という呼びもあった日本代表リーダーとして、ザッケローニ本田ら個の強いメンバー渡し役も担っていた。

ワールドカップイヤーとなった2014年は、2月に再発した右膝の炎症が再発した影で直前まで試合に出場できない状況が続く。それでも2014 FIFAワールドカップの本大会には間に合わせ、グループリーグ3試合全てにスタメンで出場。しかし、コンディション調整に失敗したチームは最後までエンジンがかからず、自身も直前でボランチの相棒遠藤から山口蛍に代わったことでゲームメイクの負担が増えたこともあり、ミス立ち、本来のパフォーマンスからは程遠い出来だった。初戦のコートジボワール戦では後半9分にベンチに下がり、第2戦のギリシャ戦では前半のみで交代させられてしまう。狂い始めたチームバランスを立て直すことができず、グループリーグ敗退に終わる悔しい結果となった。

その後もロシアワールドカップ日本代表キャプテンとして代表戦に出場することとなる。2016年9月1日おこなわれたロシアW杯アジア3次予選のUAE戦では、初代表から10年にして日本代表史上6人となる国際Aマッチ100試合出場を果たす。2017年3月おこなった手術のためクラブでも長期離脱を強いられ、しばらく代表から遠ざかっていた。しかし、本大会出場がかかる大一番となった8月31日ロシアW杯アジア最終予選のオーストラリア戦で代表に復帰。キャプテンとしてオーストラリア完封する働きを見せ、本大会出場権獲得に貢献。

2018年4月ヴァヒド・ハリルホジッチ監督電撃解任され、西野朗監督が急きょ就任する混乱おこなった日本代表だったが、2018 FIFAワールドカップメンバーに3大会連続で選出される。この頃、所属するフランクフルトではリベロ戦場となっていたこともあり、西野監督は当初3バックリベロでの起用も考えていたが、結局は代表での定位置であるボランチを務めることになる。大会では、となる柴崎岳を活かすために黒子の役割にし、未然にチームピンチの芽を摘んでいた。一部のメンバーベンスタートにしていたグループリーグ3戦ポーランド戦では後半37分から出場し、賛否両論だった残り時間を後方でのパス回しで費やす西野監督の支持をチームに伝える役割を果たす。自身2度となるグループリーグ突破を決めるが、決勝トーナメント初戦ではベルギーを相手に2点のリードを守り切れずに逆転負けとなり、2010年と同じベスト16という結果となった。

ロシアワールドカップ後、今大会限りでの代表引退を表明。
日本代表として114試合出場2得点

個人成績

シーズン クラブ リーグ 試合 得点
2002 浦和レッズ J1 0 0
2003 浦和レッズ J1 28 2
2004 浦和レッズ J1 27 5
2005 浦和レッズ J1 31 2
2006 浦和レッズ J1 32 2
2007 浦和レッズ J1 31 1
2007-08 ヴォルフスブルク ブンデスリーガ 16 1
2008-09 ヴォルフスブルク ブンデスリーガ 25 0
2009-10 ヴォルフスブルク ブンデスリーガ 24 1
2010-11 ヴォルフスブルク ブンデスリーガ 23 0
2011-12 ヴォルフスブルク ブンデスリーガ 23 1
2012-13 ヴォルフスブルク ブンデスリーガ 23 2

2013-14
ヴォルフスブルク ブンデスリーガ 1 0
ニュルンベルク ブンデスリーガ 14 0
2014-15 フランクフルト ブンデスリーガ 33 0
2015-16 フランクフルト ブンデスリーガ 32 1
2016-17 フランクフルト ブンデスリーガ 22 1
2017-18 フランクフルト ブンデスリーガ 24 0
2018-19 フランクフルト ブンデスリーガ 28 0
2019-20 フランクフルト ブンデスリーガ 23 0
2020-21 フランクフルト ブンデスリーガ 29 0

エピソード

帳面な性格として知られ、待ち合わせなどの時間を守ることにも厳格。日本代表チームメイトからは「か!」の意味で「長谷部か!」という言葉が一種のギャグとして使われていた。
ただし、遅刻者に罰制度を課したにもかかわらず、自らが食に遅刻してしまうことがあった。
故に天然のため、特に内田篤人からは弄られることが多い。

プロ入りする際、両親は反対し大学進学を勧めていたが、祖の「男なら挑戦してみろ」という言葉に背中を押されて高校卒業後の浦和レッズ入りを決意。
その祖プロ1年の年に他界し、プロサッカー選手としてプレーする姿を見ることができなかった。そのため、ゴールパフォーマンスは祖のためにに人差しを上げるものとなっている。

プライベートで本田朋子との交際が報じられていることもあり、
本田朋子動画長谷部の名前が上がることがある(2010年10月に破局)。

また微妙二の独特なファッションセンスの持ちであるため、
空港での装や、インタビュー時の私服がしばしばネタ話題になる。THE END OF LOVE

ブログテレビ番組などで、幼い姪っ子をこよなくする姿が最近見られるが、
顔が笑み崩れるほどの溺っぷりが気持ち悪微笑ましい。

ロックバンドMr.Childrenファン言しており、自身のBLOG上で
「ミスチルの曲について」ひたすら語ったりexitしている。また自身の著書「心を整える」にも、
ミスチルついての記述がいくつも登場する。
数あるMr.Childrenの楽曲の中で、一番好きな曲は「わりなき」。7分間ある曲の中で、
高ければ高いの方が 登った時 気持ち良いもんな
という歌詞に、深く感銘を受けたという。 現在でもFIFAワールドカップや、国際Aマッチなど大舞台の試合に向かう際は、必ず会場到着の7分前から「終わりなき」 を聴き始め、曲終了と共に会場入りするようにしている。 

2016年7月9日モデルタレント佐藤ありさとの結婚を発表。翌年7月21日には第一子の誕生を発表している。

プレースタイル

チームにおける監督から与えられる役割に応じてプレースタイルが変化しており、それだけ戦術理解の高い選手である。若い頃は、攻撃的な選手であり、繊細なタッチでドリブルで自ら仕掛けながらパスを散らすゲームメーカーをこなし、元ブラジル代表のカカに例えられる選手だった。ボランチとしても浦和時代はボックストゥボックスプレイヤーで、前線が作ったスペースチャンスと見ると2列から飛び出すプレーを得意としていた。

ドイツに渡ってからは、バランスを重視したスタイルに年々変化していき、対人プレー危機察知カバーリングセンスが向上したことで守備で貢献するタイプとなっていく。これは長年舞台プレーしていた経験によって培った読みから可とするものであり、それだけサッカーをよく知っている選手であり、飛びぬけたフィジカルやスプリンい分を読みポジショニングセンスで補っている。中盤に攻撃的なタレントが多い日本代表において長年重宝されていたのも、バランス感覚に優れているからである。

フランクフルトで3バックの中央(リベロ)でプレーするようになったのも上述した読みカバーリングセンス危機察知による判断を活かすためのものである。ビルドアップの面でも中盤として長年培ってきた技術が活かされており、最終ラインゲームメーカーとしても重要視されている。

大きな欠点の少ない選手ではあるが、中盤として起用されていた頃は得点の少なさが摘されていた。また、相手からのプレッシャーに対する耐性が低く、マンツーマンマークされたときにパスミス立つ。

ユーティリティープレイヤー

本来のポジションであるボランチの他、トップ下やサイドバックまでこなす器用な選手である。2016年以降はセンターバックリベロ)としてプレーすることが多くなる。

2011年9月17日ドイツブンデスリーガ・ホッフェンハイム戦で右サイドバックとしてスタメン出場するが、後半35分にGKマルヴィン・ヒッツレッドカードで退場。このときヴォルフスブルクは交代をすべて使い切っていたため、急遽長谷部GKとしてプレーすることになった。正確なロングフィードからのチャンスメイクで周囲を驚かせたり、ハイボール難に処理したりとそこそこ活躍したものの、1対1の場面は流石に対処できずに1失点。チームも1-3で敗戦した。尚、これにより長谷部ブンデスリーガにおける日本人初のゴールキーパーとなり、更に欧州4大リーグにおいても日本人初のゴールキーパーとなった。あとはFWとCBだ。

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最終更新:2021/06/24(木) 17:00

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