村上 春樹(むらかみ はるき、1949年1月12日 - )は、日本の小説家、文学翻訳家。ラジオDJ。ランナー。
小説家の一人。その評価は日本のみならず世界的に高い。また売上面でもトップクラスの成績を叩き出す。柴田元幸は村上を現代アメリカでも大きな影響力をもつ作家の一人と評している。2006年、フランツ・カフカ賞をアジア圏で初めて受賞して以降、日本の作家の中でノーベル文学賞の最有力候補と見なされている。
近年の年収は海外分が既に国内分を上回っており、事務所の仕事量も3分の2は海外とのものであるという。
近年ではラジオDJも始めた(村上RADIO)。村上の敬愛するサリンジャーがそうであったように、村上春樹は覆面作家的存在として長らくメディアに深い関わりを持つことは避けてきたが、この村上の冠ラジオ番組の誕生はかなり画期的なことであった。
両親ともに国語の先生という環境で生まれる。当然のように本に囲まれた生活を送る。しかし親があまりに日本文学について話すので嫌になり欧米翻訳文学に嗜好がいくようになる。アメリカの船が神戸港へ入港するたびに船員が読み終えた本が二束三文で古本屋に売られていてそれを手に入れては読みまくった。親が購読していた河出書房の『世界文学全集』と中央公論社の『世界の文学』を読み上げながら10代を過ごす。また中学時代から中央公論社の全集『世界の歴史』を繰り返し読むことにより世界史に強くなる。小学校の卒業文集では前書きをまかされ生徒一人一人をまだ熟す前の「一粒の青いぶどう」と例え、この文集は「まだまだ未熟な一房のぶどう」と表現した。小学6年生にしてすでに文章力があったことが伺える。「神戸高校では新聞委員会に所属した。このときから文章力が際立っており「村上というすごい生徒がいる」と伝説になっていた。
1年の浪人生活ののち、1968年に早稲田大学第一文学部に入学、映画演劇科へ進む。入学試験は国語は元来得意、英語はペーパーブックを読みまくっていたのでこれも得意、世界史も前述のとおり得意だったので楽勝で合格する。関西の大学にも受かっていたがなぜか東京に行きたくなる。在学中は演劇博物館で映画の脚本を読みふけり、映画脚本家を目指してシナリオを執筆などもしていたが、大学へはほとんど行かず、新宿でレコード屋のアルバイトをしながら歌舞伎町のジャズ喫茶に入り浸る日々というダメ学生生活を送る。1971年10月、こんな状態で学生結婚をしてしまう。ふつうの就職をする気がどうも起きなかったため、バイトをしまくって親と銀行からも借りて開業資金500万をためジャズ喫茶を開業。
大学で小説を書くことは自分の日本文学嫌いとの壁にぶつかって書くことができなかった。
1974年、国分寺駅南口にあるビルの地下でジャズ喫茶「ピーター・キャット」を開店。店名からして猫好きが伺える。夜間はジャズバーとなり、週末は生演奏を行った。当時この手のジャズ喫茶は珍しくわりと繁盛した。1975年、7年間も在学した早稲田大学を卒業。卒業論文は「アメリカ映画における旅の系譜」でアメリカン・ニューシネマと『イージー・ライダー』を論じた。1977年ビルから増築を理由に追い出されジャズ喫茶を千駄ヶ谷に移す。
ジャズ喫茶経営中もアメリカ文学を読みまくりジャズを聴きまくった。
1978年4月1日、明治神宮野球場でプロ野球開幕戦、ヤクルト×広島を外野席の芝生に寝そべり、ビールを飲みながら観戦中、なにか天命が降り小説を書くことを思い立つ。1回裏、ヤクルトの先頭打者のデイブ・ヒルトンが左中間に二塁打を打った瞬間のことだったという。これのおかげで小説家村上春樹は誕生した。それからはジャズ喫茶を経営する傍ら、毎晩キッチンテーブルで妻にナイショでこっそり書き続けた。そしてさらっと書き上げてしまう。
1979年4月、『群像』に応募した『風の歌を聴け』が第22回群像新人文学賞を受賞。同作品は『群像』1979年6月号に掲載され、作家デビューを果たす。カート・ヴォネガット、リチャード・ブローティガンらのアメリカ文学の影響を受けた清新な文体で注目を集める。デビュー作としては前例のない15万部が発売される。同年、『風の歌を聴け』が第81回芥川龍之介賞および第1回野間文芸新人賞候補、翌年『1973年のピンボール』で第83回芥川龍之介賞および第2回野間文芸新人賞候補となる。
1981年、専業作家となることを決意し、人に店を貸すのではなくそっくりそのまま譲ってしまう。
前2作では途中を抜いたりすることで既成小説とは違う形で小説を作っていた村上だったがこれから二作、三作と進めていこうと思うと、ストーリーがないとやっていけないことに気づく。彼はこれだけでは足りないと思った。だからこれを発展させた形で、少しずつストーリーを作っていき、それが「羊をめぐる冒険」という小説で一つの物語になる。
ここから村上の作品はだんだん長くなっていった。その時村上は「長くしないと、物語というのはぼくにとって成立しえないのです」と述べている。
村上春樹は小説を書き始めた時に、先行する小説家のスタイルの中に、真似したいというものがなかった。それで、まず何をしたかというと第一に、これまでのいわゆる作家のスタイルとはまったく逆のことをしてみようと考えた。村上はまず朝早く起きて、夜早く寝て、運動をして体力をつけた。文壇にかかわらず、注文を受けても小説は書かない。そういう細かいことを自分の中で決めて、そういうことをやっていった。
翻訳もこなす村上の英語力はかなりのものである。翻訳家としても一流。彼の作品よりも彼の翻訳した作品のほうが好きな人もいる。
高校時代は英語が苦手だった(本人談)。当時の英語教師が英語の翻訳をやってると聞いたら驚くだろうと語っている。
「わからないところがあってもとにかく全部読む。単語は後ででもいいから、辞書でいくらでも調べるようにする」ということをした。
更にストイックなことに「英語を読めるようになるには英語を読むしかない。かわりに英文を持ち歩く。それを読む。英語以外はダメならば、英語を読むしかない」状況まで追い込んだという。日々の情報や話題は「それがなにか?」というかんじ。
「村上春樹の話が聞きたいわ」
個性的な寝癖がチャーミングな彼女はそう僕に言った。僕は彼女が村上春樹について聞く理由を考えたが、何故かわからなかった。ためしにその質問を頭の中で3回ほど繰り返してみたが、やはりわからなかった。
「村上春樹の話は誰も好きになってくれないようなタイプの話なんだ。それに正確な情報なら、wikipediaにのっている」
「いいから話してみて。あなたから聞いてみたいわ」
「生まれは1949年。平凡な街で育って、平凡な学校を出た。大学に入って、東京に出てきた。平凡な初恋をして、30歳のときに『風の歌を聴け』でデビューした。それ以降、いくつも小説を書いているけど、彼の小説は必ず女の子とセックスする話なんだ。退屈そうな小説家だと思わないか?」
「面白そうだわ」
「今はスコット・フィツジェラルドやトルーマン・カポーティとか流行遅れの小説の翻訳の仕事をしている。プルーストの『失われた時を求めて』も揃いでもっているけど、半分しか読んでない。好きなアーティストはドアーズ。最近、エレサレム賞を受賞してスピーチをした」
「ずっと退屈な人生だったし、これからも同じさ。でもそれが気に入らないというわけでもない。要するに仕方ないことなんだよ」
「あなたと寝てみたいわ」と彼女は言った。
そして、僕たちは寝た。
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掲示板
355 ななしのよっしん
2024/01/31(水) 23:51:16 ID: I3GIWhUiJk
村上春樹の年齢的に60年代後半から70年代が青春で
要は大学やコミューンのフリーセックス文化に影響されてんじゃね
356 ななしのよっしん
2024/09/15(日) 02:52:38 ID: IjIKIHkv6w
ライ麦畑を村上春樹の方から読んでしまったんだけど主人公の言い回しがもともとこうなのかそれとも村上春樹節が炸裂しているのか分からん
357 ななしのよっしん
2024/10/01(火) 13:50:39 ID: +3X5VWREZH
日本だといまだにノーベル文学賞最有力候補として崇められてるけど、海外からは過去の作家として段々忘れられているのが現状
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最終更新:2024/10/06(日) 19:00
最終更新:2024/10/06(日) 18:00
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