矢作芳人 (やはぎ よしと・1961年3月20日~) とは、JRA所属の調教師である。
1961年、大井競馬場の調教師である父(矢作和人)のもとに生まれる。母タキもトウメイを管理した坂田正行調教師の妹であり、生粋の競馬一族の出である。
幼い時から父の仕事の関係やハイセイコーブームの到来で競馬に興味を持つ一方で、勉学の成績も極めて優秀であり、中学は毎年日本一の東大合格者を輩出する日本最高峰の名門、開成中学校へ進学する。
しかし、開成中では自分よりも勉強ができる人の存在を目の当たりにして、矢作は徐々に勉学への情熱を失い、テニスへ熱中。高校生になると競馬や競輪、麻雀などのギャンブルにもハマり始め、中学から留年制度がある開成で危うく留年になりかねないほど遊びまくった。
周囲が東大や国公立医学部を志望する中、矢作は既に受験のための勉強に嫌気がさしており、「金を稼ぐために好きでもないことを仕事にしたら、人生地獄だ」という教師の言葉を受けて、高校卒業後の進路に競馬の世界を選ぶ。当初父は反対したものの、最終的に「中央競馬に身を置くこと」と「海外で修行すること」という二つの条件を出して容認した。これは矢作の父が地方競馬が将来的に苦境に立たされるであろうことと、日本競馬にも国際化の波が訪れることを予見した上で掲示した条件であり、実際に地方競馬はバブル崩壊を機に多くの競馬場が経営難で廃止或いは廃止の危機に見舞われ、日本競馬界全体も矢作が高校を卒業してから一年後の1981年に第一回ジャパンカップが行われ、それを境に日本競馬の国際化が加速していったため、矢作の父の予見は全て的中していたと言えるだろう。これに関しては矢作自身も自著の中で「親父には先見の明があった。つくづく感心させられるし、感謝の念に堪えない」と述懐している。
また、中高時代の友人との親交は現在も続いているらしく、矢作を特集したドキュメンタリー番組では同じ開成の同級生との飲み会の様子も映し出され「俺が一番この中じゃバカだった」などと冗談交じりに話しながら笑い合う姿も見られた。
矢作は半年間語学を学んだ後、海外修行先としてオーストラリアを選び、およそ1年間オーストラリアで修業した。その結果、馬の疲労回復や厳しいローテーションでも馬を走れるようにするコツ、馬場状態に応じた調教掛けの他、特に矢作はオーストラリアで「馬があっての我々」ということを学んだとしていて、たとえ馬がビリになってしまっても怒ったりせずに「良く頑張ったね」と声をかけるオーストラリアのホースマンの姿が今でも印象に残っているという。
また、長期の海外滞在により英語も上達し、この英語力は調教師となってから海外セリに馬主の代理で参加するときや、海外の競馬関係者と関係を構築する際に役立ったとしている。
矢作は帰国後、大井競馬場で父親の厩舎の手伝いをしながら、JRA競馬学校の厩務員過程に3度目の試験で合格し、1984年7月に競馬学校に入学する。因みに不合格だった1,2回目の試験は、一次試験の筆記はパスできたものの、二次試験の体力測定と面接で落ちたとのこと。
同年10月には厩務員課程を卒業。栗東トレセンの工藤嘉見厩舎の厩務員になり1986年11月には調教助手にもなるが、担当馬が調教中の予後不良や内臓破裂によって死亡するという憂き目に遭い、一勝も挙げれないまま1987年3月に名伯楽として名高い武田文吾の長男である武田博の厩舎へ移籍する。しかしその3か月後、新人調教師の菅谷禎高が矢作の才覚を見抜いて厩舎のスタッフに勧誘し、結果菅谷禎高厩舎に移籍することになった。
菅谷は矢作の手腕を信頼し、矢作に管理馬の調教や矢作の担当馬のローテーション策定を一任していた。矢作はその中で厩舎の経営理念や厩舎スタッフへの対応が学べたと述懐しており、自著においても菅谷を「師匠」と仰いでいる。
また1990年にはJRAのドバイ奨学生に選ばれ、イギリスの厩舎で3か月間の研修を行うなど、将来を期待される調教助手の一人になっていた。
そんなこんなで幾つかの躓きはあったにせよ、調教助手として着実に実力を付けていき、ゆくゆくは調教師になるだろうと目されていた矢作だったが、1991年に事件が起こる。なんと矢作が暴力団相手に喧嘩をしたということで警察のお世話になってしまったのである。
幸い相手が暴力団ということもあり、書類送検で事は収まったが、この事件を機に周囲は「矢作は調教師試験に通らない、JRAは事件を起こした奴を調教師にはしない」とささやかれるようになる。本人もそれを意識しており、調教師試験の受験勉強にも身が入らなかったという。しかし師匠である菅谷の励ましや、同世代の藤岡健一が2000年に調教師試験を合格したことで徐々に本気で調教師試験に取り組むようになり、2004年に14回目の受験で遂に調教師試験に合格した。
調教師試験に合格した人は、合格後1年間は開業までの猶予期間が与えられる。殆どの合格者はその期間に何処かの厩舎で調教師としての研修を受けるのだが、矢作は厩舎の退職金や父親からの借金を使い、北海道の競走馬生産牧場を巡る他、日本国外の競走馬セールや競馬を視察して過ごし、2005年3月に厩舎を開業した。
厩舎スタッフは同じ年に解散した松永善晴厩舎(ナイスネイチャの調教師として有名)から引き継ぐ予定だったのだが、不運にも同年には“牝馬の河内”として名を馳せた河内洋も厩舎を開業するということで松永善晴厩舎のスタッフの大半はそちらへの移籍を希望してしまい、残ったのは平均年齢50歳以上、馬に乗れるスタッフは2人だけという厳しい状況に置かれる。
しかしそんな厳しい状況の中、矢作は様々な施策を行い厩舎の士気や人材の流入、収益率を高めようと模索した。
具体的には、
これらの施策の効果もあり、厩舎スタッフのレベルの向上や移籍してくる厩務員も増え、2008年には史上最速で通算100勝を達成。2009年にはわずか開業5年目にも関わらず関西リーディングトレーナーの座に輝く等目覚ましい活躍を見せ、現在に至るまで関西屈指の名門としての地位を維持し続けている。
そして、2020年にはコントレイルが無敗で三冠を達成。史上3人目となる無敗の三冠馬を管理した調教師となった。
2025年にはブリーダーズカップ・クラシックを管理馬のフォーエバーヤングが日本馬として初制覇を成し遂げた。
矢作芳人著 開成調教師の仕事 Amazon商品ページ
| 中央競馬の三冠達成調教師 | ||
| クラシック三冠 | 牡馬三冠 | ★田中和一郎 | 尾形藤吉 | 藤本冨良 | ★武田文吾 | ★松山康久 | ★野平祐二 | 布施正 | ★大久保正陽 | ★池江泰郎 | 角居勝彦 | 長浜博之 | ★池江泰寿 | 友道康夫 | ★矢作芳人 | |
|---|---|---|
| 牝馬三冠 | 尾形藤吉 | |
| 変則三冠 | 尾形藤吉 | |
| 中央競馬牝馬三冠 | 稲葉幸夫 | ★奥平真治 | 松田由太郎 | 鶴留明雄 | 松田博資 | 伊藤雄二 | ★松本省一 | 西浦勝一 | 松田国英 | ★★国枝栄 | ★石坂正 | ★杉山晴紀 | ★中内田充正 |
|
| 古馬三冠 | 春古馬 | 達成者無し |
| 秋古馬 | 岩元市三 | 藤沢和雄 | |
| ★は同一馬による達成者。変則三冠、古馬三冠は同一年達成者のみ。 | ||
| 調教師テンプレート | ||
掲示板
急上昇ワード改
最終更新:2025/12/16(火) 12:00
最終更新:2025/12/16(火) 12:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。