旧皇族とは、
本来は1を指す言葉だが、近年は2の意味で用いられることも多い。
概要
現在の皇室は明治天皇の男系子孫(および男系男子の妻)によって構成されているが、大日本帝国時代には明治天皇と男系での直接的な繋がりを持たない皇族も多数存在していた。その大半を占めていたのが、室町時代前期に天皇家嫡流から分離した伏見宮家を源流とする一族である。
伏見宮家は代々当主が親王として皇族に列せられるという特権を有していたが、幕末までは嫡流断絶時の後継天皇を出すことも庶流から新たな宮家を立てることもないまま、細々と続いてきた傍流の宮家に過ぎなかった。だが幕末期の当主・邦家親王が大勢の男子を儲けると、皇室の強化を図る大日本帝国の方針もあって、彼らによる宮家新設が次々に認められたため、伏見宮系宮家は皇室内の一大勢力に成長した。
しかし大日本帝国の崩壊に伴い皇室財政が逼迫すると、伏見宮系皇族は全員が皇籍を離脱して一般国民となることを余儀なくされ、伏見宮系宮家は皇室から姿を消すことになった。伏見宮系一族は大日本帝国と共に栄華を極め、大日本帝国と共に歴史から消えた一族だったとも言える。
ただ皇位継承権者の不足が問題視されるようになった近年では、男系継承を核心的価値とみなす勢力によって伏見宮系一族の皇籍復帰が盛んに訴えられるようになり、再び一族に社会的な注目が集まりつつある。
歴史
伏見宮家の起源
天皇家は伝統的に男系継承を旨としているため、古来より天皇の男系男子(親王・王)は跡取り候補として尊重された。だが大勢の親王・王を養うことは天皇家の経済力をもってしても不可能であり、平安時代以降は特に嫡流に近い有力な親王以外は、「平」「源」などの姓を与えて臣下(貴族)としたり、出家させたり、既存の高位貴族の家に養子に出したりと、様々な手段で皇族から切り離すようになっていった[1]。
そのため嫡流から外れた親王・王の家は早いうちに皇室から消えてしまうのが常であった。皇位を巡って激しい争いが展開された両統迭立期・南北朝動乱期には、皇位継承争いに敗れた有力親王の男系男子がしばらく親王・王の地位を保ったまま皇室に残るケースも見られたが、彼らの大半は数世代のうちに消えていった。
このうち北朝内の皇位継承争いに敗れた崇光天皇の嫡男・栄仁親王の一族は伏見御料での逼塞を余儀なくされていたが、1428年に当時の天皇家嫡流の断絶が確定すると、栄仁親王の孫・彦仁王が次の天皇(後花園天皇)として即位、嫡流の地位を奪還した。すると彼は弟の貞常親王に対し、その子孫が代々「伏見殿」を称して親王の地位に就くという内容の特権を与えた[2]。これが伏見宮家の始まりである。
御落胤・長九郎
それから200年余り後の1654年、伏見宮家を悲劇が襲った。同年1月から9月までのわずか8か月のうちに、当時の当主である貞清親王、その嫡男・邦尚親王、そして次男の邦道親王が相次いで亡くなり、家中から後継者となれる男系男子が一人もいなくなってしまったのである。
朝廷は後水尾上皇の男子の一人に伏見宮の名を継がせる方針を固め、かくして貞常親王以来の伏見宮家嫡流の血統は絶えるかに思われた。だがその時、邦尚・邦道両親王のはとこの息子にあたり、家令として伏見宮家に仕えていた安藤定為なる人物が京都所司代・板倉重宗の下を訪れ、思わぬ事実を明かした。
定為の話によると、彼の従姉にあたる定子は邦尚親王に女房として仕えていた際にお手付きとなり、男子を産んだ。だが当時は邦尚・邦道両親王が後継者争いをしていたため、定子は息子を連れて安藤家に身を寄せていたという。定為は自身の従甥にあたるこの男子に伏見宮家を継がせるべきだと訴えたのであった。
以上は定為の息子・為章が記した「年山紀文」によるものだが、同時代の文献には全く異なる記述も見られる。壬生忠利の日記「忠利宿禰記」によると、この男子は貞清親王の子、すなわち邦尚・邦道両親王の兄弟であり、丹波国の某の養子となった後、山城国の鍛冶屋で徒弟として働き、長九郎を名乗っていたというのである。
今となっては何が事実なのか判然としないが、ともあれこの青年は伏見宮家の御落胤と認められ、晴れて伏見宮家当主・貞致親王となったのであった。以後の伏見宮系一族は全員この貞致親王の子孫であり、彼の血統的正当性を疑うことは一族のそれを疑うことと同義であるとしてタブー視された。
伏見宮系宮家の隆盛
伏見宮家創設の後、同様の特権を持つ世襲親王家として桂宮・有栖川宮・閑院宮の三家が天皇家嫡流から分かれ、共に嫡流断絶時への備えとされた。実際に閑院宮家は新たな嫡流(現在の天皇家)を輩出する役割を果たしたが、これらの三家はあまり男子を残せず、男系的には明治末までに断絶、または断絶が確定した。
一方、これらの三家よりも数百年早く嫡流から分離した伏見宮家は、幕末期の当主・邦家親王が大量17人もの男子を儲け、その多くが成人まで育ったことで大いに繁栄した。邦家親王の息子や孫たちは次々に新たな宮家を創設し、その継承も認められたため、伏見宮系は皇族における一大勢力へと成長した。
明治中期まで嫡流の男子は明治天皇と病弱な皇太子(大正天皇)しかおらず、血縁的により近い他の世襲親王家も断絶、もしくは先行きが危うくなっていたため、遠く離れた伏見宮系に皇統が移る可能性は十分にあった。明治天皇も万一の場合に備え、4人の娘を全員別々の伏見宮系宮家に嫁がせて血統の強化を図っている。
だが大正天皇が儲けた4人の男子がみな健康に成長していくと、伏見宮系への皇統移行の可能性は極めて低いものとなった。逆に増えすぎた伏見宮系皇族が皇室財政を圧迫するようになったため、大正中期の1920年には「既存の伏見宮系宮家では長男の系統以外は原則として臣籍降下、長男の系統も邦家親王から5世代以上離れた時点で原則として臣籍降下」という内規が出されるに至った。
帝国崩壊に伴う一斉皇籍離脱
敗戦から2年後の1947年、日本国憲法の施行により大日本帝国は事実上崩壊する。新憲法によって皇室財産が国有化されたことで独自財源がなくなり、しかも国庫は窮乏の極みにあったため、皇族の格式を保てるレベルの生活を当時60人近く居た皇族たち全員に受けさせることはおよそ不可能な状況となった。
そこで皇室の「口減らし」のため、伏見宮系の11宮家51人全員が皇籍を離脱するという案が出された。この案については伏見宮系皇族の間でも賛否が分かれ、折衷案として母系で嫡流と繋がりがある宮家を残す案も出されたが、結局皇室会議の決定により、伏見宮系皇族は全員が皇籍を離脱する運びとなった。
彼らは所属していた宮家の名称を姓に、王・女王としての名称を名前とする一般国民とされた(○○宮の××王であれば「○○××」という姓名を与えられた)。建前上は一般人になったものの元皇族としての権威は生きており、若い世代は大半が大学卒業後に一流企業へと迎え入れられ、名誉ある地位に上った。一方年長者たちはしばしば自ら事業を起こしたが、こちらは殿様商売で失敗に終わることも多かった。
また制度的な特権は全て失ったものの、昭和天皇の発案により現皇族と旧皇族の親睦団体「菊栄親睦会」が設立され、以後も「皇族と親戚付き合いができる」というささやかな特権は残された。
皇位継承問題と旧皇族
伏見宮系宮家の皇籍離脱後も皇室には昭和天皇の3人の弟が設けた直宮家が残っており、皇位継承権者を確保する分には問題がないと考えられた。実際に皇室の男系男子は昭和天皇の代で4人、明仁上皇の代で5人確保されており、近い将来に皇位継承権者が不足するようなことはなさそうに思われた。
ところが明仁上皇の世代の4人の親王は誰一人として男子を儲けることができず、今上天皇の世代の男系男子はわずか2人、その下の世代に至っては悠仁親王のみとなった。そこで十分な数の皇位継承権者を確保するための方法が議論され、大きく分けて2つの案が出された。
一つは「万世一系の世襲君主であること」こそが天皇制の核心的価値であり、男系という周縁的価値に固執して皇統断絶のリスクを増やすのは本末転倒であるとして現皇室の女系による継承を容認する案。もう一つは男系も核心的価値に他ならず、男系の破棄は天皇制の破棄と同義であるとして女系による継承を否定した上で、伏見宮系一族を皇籍に復帰させることで皇位継承権者となる男系男子を確保するという案である。
後者の案に対しては、既に世俗化して60年以上が経過し、実業家や政治評論家などを輩出している伏見宮系一族は、現在の皇室に比べ幅広い国民からの支持を得られないのではないかといった懸念や、一夫一妻制を徹底するようになってからは伏見宮系一族でも男系男子の数は減少の一途を辿っており、彼らを復帰させたところで数世代分の時間稼ぎにしかならないといった指摘が寄せられている。
また一族の者を復帰させる場合の復帰範囲や形式については支持者の間でも意見が分かれている。
2021年(令和3年)に行われた皇位継承の安定化のための有識者のヒアリングで旧皇族の皇籍復帰は憲法14条に反するとの見方が出た。同年に加藤官房長官は旧皇族に皇籍復帰の意思を聞いたことはないし今後も聞くつもりはないと述べており、皇籍復帰の可能性はないとみるものもある。
伏見宮系宮家の一覧
- 本項では1947年の皇籍離脱時点で存続していた伏見宮系11宮家について解説する。
- 宮家の並びは嫡庶長幼の順による。
- 解説文中の「第○世代」という記述は一族全員に共通する直近の男系祖先である邦家親王を0世代目として計算した場合の世代数である。なお第4世代は明仁上皇、第5世代は今上天皇、第6世代は悠仁親王の世代に相当する。ただし同じ世代でも年齢には個人差がある。
- 本項中で記載される情報はその記載がなされた時点のものでしかなく、閲覧時点で既に古い情報となっている可能性があることに注意。誕生・死没・婚姻・離婚などによって状況は変化していく。
伏見宮家
他の10宮家の源流となった筆頭家。邦家親王が正室との間に儲けた十四男・貞愛親王の流れを汲む。現在では嫡流の男系断絶が確実になっており、庶流でも第6世代の男子を確保するのは困難な状況にある。
- 嫡流(男系断絶がほぼ確定)
- 現在の当主は第4世代にあたる博明王改め伏見博明だが、3人の子は全員女子であり、本人も既に80歳を超えていることから、近い将来の男系断絶は確実と見られる。
- 庶流
- 第3世代から華頂侯爵家と伏見伯爵家が分立しているが、後者は第5世代で皇族外からの養子を取ったため既に実系が断絶。前者は第5世代に3人の男子がいるものの、第6世代の男子が誕生したとの報がないまま全員50代を迎えており、男系男子の確保は難しくなりつつある。
山階宮家
邦家親王の長男(庶子)・晃親王を初代とする、伏見宮系庶流の筆頭家。嫡流は既に絶えており、庶流も第5世代の男子が1人確認されているのみである。そのため復帰運動でも話題に上ることはあまりない。
- 嫡流(断絶)
- 第3世代の当主・武彦王改め山階武彦は、初子を妊娠中の妻を関東大震災で亡くしたことで精神を病んでしまい、以後子供を儲けないまま亡くなった。これにより山階宮本家は完全に断絶した。
- 庶流
- 武彦王の4人の弟が山階侯爵家・筑波侯爵家・鹿島伯爵家・葛城伯爵家の4家を設け、第4世代では5人の男子が確保されていたが、第5世代は筑波家の筑波宏彦(1971年生)のみとなっている。第6世代の男子は未だに確認されていない。
賀陽宮家
後述する久邇宮家の初代・朝彦親王の嫡男・邦憲王を初代とする、久邇宮系宮家の筆頭家。邦憲王は病弱だったため久邇本家を弟に譲り、自身は父のかつての宮号である賀陽宮を冠する新たな宮家を立てた。
嫡流は既に絶えているが、嫡流に近い分家筋で第6世代の男子が2人生まれていることから、復帰運動の対象として、あるいは愛子内親王の配偶者候補として取り上げられることもある。ただ同じく第6世代の男子を輩出した東久邇宮家と異なり、女系でも現皇室との繋がりが薄いことを問題視する声も上がっている。
- 嫡流(断絶)
- 第4世代の当主・邦寿王は学生時代に祇園の芸妓と激しい恋に落ち、彼女の死後も生涯彼女への想いを忘れられなかったという。後に親の勧めで3度結婚したものの全て離婚に至り、結局一人の子供も儲けないまま亡くなった。これにより賀陽宮本家は完全に断絶した。
- 庶流
- 邦寿王には5人の弟王が居たが、第5世代に男子を残せたのは三男・章憲王改め賀陽章憲だけだった。ただ彼の息子・正憲は第6世代にあたる2人の男子(1996年・1998年生)を儲けている。
- 正憲と徳仁天皇は学習院初等科で同級生となって以来の親友で、美智子上皇后も正憲に深い信頼を寄せているという。また正憲自身も一流企業から宮内庁職員に転じるなど(現在は外務省に出向中)、皇室との関係が深い。そのため正憲の2児のいずれかを愛子内親王(2001年生)の婿とし、生まれてきた男子を皇位継承権者とするなどのプランが持ち上がっているが、正憲は消極的な姿勢を見せている。
久邇宮家
邦家親王の四男・朝彦親王を初代とする家。本来は嫡男の邦憲王がその跡を継ぐ予定だったが、病弱を理由に三男の邦彦王が後継者となった。
第3世代の良子女王が昭和天皇に嫁いだことで現皇室の外戚となった有力一族であり、第5世代までは一定数の男子を確保していたものの、第6世代は未だに一人も出ていない。久邇本家・分家では最年少の朝俊(1971年生)が既に40代と厳しい状況だが、庶流の東伏見伯爵家・龍田伯爵家には30代の男子が残っている。
- 嫡流
- 現当主の邦昭王改め久邇邦昭は長男・朝尊と次男・邦晴の2人の息子を儲けたが、いずれも第6世代の男子を儲けられないまま50代に差し掛かっており、男系を維持できるかは微妙な状況である。
- 庶流
- 分家筋では邦昭の甥・朝俊が第5世代に居るものの、既に40代を迎えており状況は芳しくない。
- ほかに第3世代で臣籍降下した東伏見伯爵家・宇治伯爵家・龍田伯爵家があり、龍田家の吉光(1980年生)と東伏見家の憲和(1977年生)・禎容(1981年生)が第5世代の男子にあたる。なお龍田家は第3世代の徳彦の代で梨本宮家に養子に入っているが、吉光とその父・徳久は梨本姓を名乗らず、梨本家を継いだ徳彦とも絶縁状態になったことから、本項では久邇系庶流の扱いとしている。
梨本宮家(断絶)
元々は邦家親王の弟・守脩親王が創設した家である。後継者不在のため山階宮家の菊磨王が中継ぎで入るもすぐに実家に復帰、紆余曲折を経て久邇宮朝彦親王の四男・守正王が名跡を継いで久邇宮系となった。
守正王も跡継ぎを残さずに亡くなったため、死後に久邇分家から臣籍降下した龍田伯爵家の徳彦が養子として迎えられた。ただ前述のとおり徳彦の子・孫は梨本宮家との関係を断っており、現在は徳彦が晩年に皇室外部から養子として迎えた隆夫なる人物が当主を名乗っている。そのため実系では既に断絶している。
なお当家は嫡流のみで庶流が存在しなかった。
朝香宮家
久邇宮朝彦親王の八男・鳩彦王を初代とする家。鳩彦王は明治天皇の八女を妻として貰い受けたため、朝香宮一族は母系では現皇室とある程度血統が近くなっている。
代々男子の少ない系統であり、現在存命な男系男子は当主で第4世代にあたる誠彦王改め朝香誠彦と、その長男の明彦(1972年生)の2人だけである。なお庶流には第3世代から分かれた音羽侯爵家があったが、初代当主の正彦が子を儲けることなく戦死を遂げたため一代限りで断絶となった。
東久邇宮家
久邇宮朝彦親王の九男・稔彦王を初代とする家。嫡庶長幼の順で言えば5つある久邇宮系宮家の最下位であるが、稔彦王が明治天皇の九女を、その嫡男・盛厚王が昭和天皇の長女を妻として貰い受けたため、伏見宮系宮家の中では最も現皇室と血統上の繋がりが深い。
さらに代々男子に恵まれやすいという特徴があり、嫡流から1人、庶流から3人と計4人もの第6世代男子を確保している。これらのことから皇籍復帰に最も近い家と目されている。
- 嫡流
- 現当主は第4世代にあたる信彦王改め東久邇信彦。信彦の長男・征彦が既に男子(2010年生)を儲けており、伏見宮系宮家の中では唯一嫡流で第6世代男子を確保できた家となっている。
- 庶流
- 信彦の弟・眞彦の系統では眞彦の長男・照彦が第6世代の男子(2004年生)を儲けているほか、眞彦の次男・睦彦(1980年生)も第5世代の中では比較的若い部類に属する。さらに信彦のもう一人の弟で、壬生伯爵家の養子となった秀彦改め基博の系統でも、基博の子である基成・基敦兄弟がそれぞれ男子(いずれも2010年頃に誕生)を儲けており、いずれの系統でも男系男子は潤沢に確保されている。
- 一方、昭和天皇の女系子孫ではない系統として寺尾家・粟田侯爵家・多良間家などが存在するが、いずれも男系は第4世代で止まっている。なお多良間家は移民としてブラジルに渡っており、第4世代のアルフレッド稔彦は一族初の外国籍(ブラジル国籍)保有者となった。
北白川宮家
当初はいずれも邦家親王の息子である嘉言親王(次男)→智成親王(十三男)→能久親王(九男)の順に引き継がれ、以後は能久親王の直系で継承されるようになった家。元々は「聖護院宮」を名乗っていたが、門跡寺院の聖護院との混同を避けるため、智成親王の代で北白川宮と改名された。
現当主を除き代々の当主が早死にしていること、また戦病死や事故死など不慮の死が多いことから「悲劇の宮家」と呼ばれる。能久親王の三男(嫡子)・成久王が明治天皇の七女を妻として貰い受けたことで家格が高まったものの、嫡流・庶流ともに第4世代で男子が止まっており、近い将来断絶する可能性が高い。
- 嫡流(男系断絶がほぼ確定)
- 現在の当主は第4世代にあたる道久王改め北白川道久だが、3人の子は全員女子であり、本人も既に70歳を超えていることから、近い将来の男系断絶は確実と見られる。
- 庶流(男系断絶がほぼ確定)
- 第2世代で小松侯爵家・二荒伯爵家・上野伯爵家が分立したが、第4世代になると男子は小松家の揮世久(1949年生)のみとなり、第5世代以降は確認されていない。揮世久が新たに男子を儲けるのは年齢的に厳しいと考えられることから、こちらも嫡流と同様に近い将来の男系断絶は確実と見られる。
竹田家
北白川宮能久親王の長男(庶子)・恒久王を初代とする、北白川宮家の庶流宮家。恒久王が明治天皇の六女を妻として貰い受けたことにより、現皇室との女系での結び付きを得ている。
第5世代に30代の男子を5人抱えているが、第6世代男子の誕生は確認されていない。皇籍離脱後はスポーツ・メディア関係の職に就く者が多く、元電通社員でプロゲーマー・ポーカープレイヤーの竹田恒昭、右派政治評論家でテレビ番組などにも出演している竹田恒泰などを輩出している家である。
- 嫡流
- 現在の当主は第4世代にあたる恒正王改め竹田恒正。長男に恒貴(1974年生)が居るが、現時点では第6世代男子誕生の報は聞かれていない。
- 庶流
- 恒正の2人の弟の系統に各2人ずつ第5世代の男子が存在する。次男・恒治王改め竹田恒治は恒昭(1979年生)・恒智(1980年生)を、三男・恒和は恒泰(1975年生)・恒俊(1978年生)をそれぞれ儲けた。ただ現時点では4人とも男子は儲けておらず、特に恒昭は未だに独身である。
閑院宮家(断絶)
元々は江戸時代中期に当時の天皇家嫡流から分かれた世襲親王家であり、後に嫡流が断絶すると後継天皇を輩出、現在の天皇家に系譜を繋ぐ役割を果たした。その後江戸時代末期に一度断絶すると、伏見宮邦家親王の十六男・載仁親王が後継者に迎え入れられ、伏見宮系の庶流宮家という位置付けに変更された。
載仁親王の男子で成人できたのは春仁王改め閑院春仁のみだったが、その春仁は男色家として知られ、軍人時代の従兵と同衾生活を送るなどしたため妻に逃げられてしまい、子を為せないまま亡くなった。これにより長い歴史を持つ名門宮家・閑院宮家は名実ともに断絶した。
東伏見宮家(断絶)
邦家親王の十七男・依仁親王によって立てられた家。依仁親王が後継者のないまま大正時代に亡くなった時点で断絶が確定していたが、妻が妃として皇族の身分を保っていたため宮家としては皇籍離脱まで存続していた。
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関連項目
脚注
- *もっとも切り離された後に事情が変わって再び皇族に戻り、嫡流を形成したというケースも存在する。宇多天皇・醍醐天皇など。
- *ただし親王になれるのは天皇の子または兄弟姉妹に限られていたため、伏見宮家の当主は当代の天皇の養子または猶子となった上で親王宣下を受けていた。大日本帝国時代になると皇室典範で皇族の養子が禁じられたため、これ以後伏見宮系の皇族男子は親王の身分を得られなくなり、単に「王」と名乗るようになった。
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