あづさ丸とは、大日本帝國海軍が運用した1TL型タンカー(戦時標準船)の12番船である。1944年3月25日竣工。本土・シンガポール間を往来するための1TL型ながら、マリアナ沖海戦に参加して敵機2撃墜と1機撃破の戦果を挙げ、壊滅したヒ71船団から生還するなど強運を持っていたが、9月17日にプラタス島南方165kmで米潜水艦バーブの雷撃を受けて沈没。
大東亜戦争が勃発した1941年12月、連合軍の猛攻で増大するであろう船舶被害を見越し、海軍艦政本部が設計した戦時標準船を造船統制会を通して民間会社に一括注文した。
戦時標準船に求められたのはとにかく短期間に大量生産出来る事。あづさ丸が属する1TL型タンカーのベースは川崎造船所で建造されていた川崎型油槽船で、量産性を上げるため船体設計を標準化・簡易化し、主機をディーゼル機関からタービン機関に換装。また1TL型は戦後の需要を見越していたため川崎型油槽船を若干簡略化した程度に留まっている。したがって戦時標準船の至上命令である生産性の向上はあまり達成出来なかった一方(それでも建造の技巧化で建造期間を3ヶ月にまで短縮したが)、最大速力約19ノットを発揮出来る当時最高速の貴重なタンカーとなり、空母改装の余地も残されている丁寧な作りであった。また戦時標準船で唯一艦隊随伴能力を持っており、実際この能力を買われてあづさ丸はマリアナ沖海戦に参加している。戦時標準船と言えば簡略化し過ぎて機銃弾でも沈没の恐れがあったり、突然ボイラーが爆発するなど粗製乱造の代名詞だとよく言われるが、その粗製乱造の中で1TL型は品質を維持した「高級品」と言えた。
1TL型は川崎重工神戸造船所、三菱重工長崎並びに横浜造船所、播磨造船相生工場で18隻建造され(戦後就役したものを含むと21隻)、あづさ丸は石原汽船に割り当てられた。ネームシップから「みりい丸型」とも呼ばれる。他にもあまつ丸、たかね丸、しまね丸が石原汽船に所属した。18隻のうち、あづさ丸を含む10隻が帝國海軍が徴用されて特設運送船となっている。
排水量1万22トンの巨体と19ノットの優速を誇り、石油10万600バレルまたは原油1万3724トンの積載能力を持つ。兵装はTL型によってバラバラだが、あづさ丸の場合は短20cm砲1門や25mm連装機銃2基のみと他の1TL型タンカーと比較すると貧弱だった。乗組員は官民一体となっており、船の運航に関しては石原汽船の社員68名が担い、対空機銃や砲の運用、損傷時の応急修理、信号員は54名の下士官と水兵が代行している。特設運送船甲に指定された後は唯一の准士官である兵曹長が乗船した。船名は「あづさ丸」だが、「あずさ丸」「梓丸(日栄丸戦時日誌)」「あずさ」といった表記ぶれも散見される。
1943年8月9日、石原汽船向けのタンカーとして川崎重工神戸造船所で起工。1944年2月10日に進水してあづさ丸と命名され、3月22日に発令された配当船発令で呉鎮守府所管となり、そして3月25日に竣工を果たすとともに海軍が徴用、船舶運営会配当船となる。所属上は呉鎮守府であったが実際は大阪警備府に委託されていた。1番船のあまつ丸は起工から竣工まで要した時間が214日なのに対し、あづさ丸は229日と何故か余計に時間が掛かった。高級船員15名のうち13名は竣工時に乗り組み、二等航海士と機関長は1ヶ月遅れて4月25日に乗り組んで人員配置を完了。
無事就役したあづさ丸だったが、果てしなく悪化し続ける戦況は、あづさ丸に充分な訓練期間を与えないまま危険を伴う輸送任務へと誘うのだった。
5月3日午前4時45分、特設空母大鷹、駆逐艦朝凪、響、電、海防艦佐渡、倉橋、第5号、第7号、第13号が護衛するヒ61船団に加入して門司を出港。加入船舶は全て空荷となっており、目的地のシンガポールへ到着した時に南方産資源や燃料を満載して内地に持ち帰る訳である。しかし既に道中の海域は米潜水艦が跳梁跋扈する危険極まりないものになっていた。14時15分、船列に建川丸と仁栄丸が加入。ヒ61船団は中国大陸に沿って南下。大陸接岸航路は遠回りになってしまうものの、浅瀬を通るため敵潜が待ち伏せしにくく、逆に沿岸の味方航空基地から援護を受けやすいメリットがあった。5月4日は午前11時30分から14時30分、16時から23時までの2回に渡って濃霧が発生し、レーダーを持つ敵潜水艦に狙われやすい環境であったが、幸い雷撃は無かった。5月7日16時にあかね丸が船団に加わった。
5月8日午前6時15分頃、米潜ホー(SS-258)はヒ61船団に向けて全ての艦首魚雷を発射し、そのうち1本があかね丸に命中して小破。修理のため高雄に向かった。直ちに日栄丸が爆雷を投下してホーを追い払う。その後は襲撃を受ける事なく5月9日20時55分に経由地のマニラへ入港した。
2月から3月にかけて行われた米機動部隊によるトラック大空襲やパラオ大空襲、米潜水艦の通商破壊により帝國海軍は油槽船14隻(12万4896トン)を喪失、このうち連合艦隊配属の油槽船の喪失は11隻(10万2477トン)に上った。艦隊随伴可能なタンカーを殆ど失った事で日本艦隊の作戦範囲は大きく制限を課される事となり、もし敵がマリアナ方面に来襲した場合、同方面に進出して迎撃する事は不可能であった(したがって西カロリン方面までが範囲の限界)。リンガ泊地に進出中の第1機動艦隊には使用可能なタンカーが8万8000トンしかなく、9万トンが不足していると窮状を訴えてきた。このため5月1日から6日夕刻にかけて陸海軍との間で折衝が行われ、最終的に油槽船6万トンの増徴で海軍が妥協。
機動艦隊を率いる小沢治三郎中将も大本営にかなり無理を言い、5月9日、マニラ寄港中のあづさ丸、建川丸、日栄丸を供出して貰えるよう話をつけた。これに伴ってあづさ丸は特設運送船(甲)に指定されて海軍直轄となり、指揮官兼監督役の兵曹長が乗船すると同時に第1機動艦隊に部署、急遽「あ」号作戦への参加が決まった。5月10日、第1機動艦隊参謀長よりバリクパパンに直行するよう命じられる。
5月11日16時25分、あづさ丸、建川丸、日栄丸は響と電に護衛されてマニラを出発。ボルネオ島バリクパパンに向かった。ところが5月14日午前3時頃、シブツ海峡で水上航行していた米潜ボーンフィッシュは14ノットでジグザグ運動をする船団を発見し、3番目の最大級の輸送船を狙って5本のMk.14魚雷を発射。輸送船には命中しなかったが、午前4時20分、電の中部と後部にそれぞれ魚雷1本が命中して瞬く間に右舷側へ傾斜、後部を真っ二つに折って轟沈。ボーンフィッシュは玄洋丸型タンカー撃沈と報告した。響が生存者の救助と爆雷投射を行ってボーンフィッシュを撃退。17時40分にも潜望鏡が確認されたが、これ以上の攻撃は無かった。電を失った船団は駆逐艦響に護衛されて5月15日18時に何とか産油地バリクパパンへ到着、小沢機動部隊向けの燃料を満載する。5月16日、あづさ丸は正式に帝國海軍に接収されて呉鎮守府に配属。
小沢機動部隊にとってバリクパパンにいる3隻の1万トン級タンカーは虎の子であり、「あ」号作戦の要となる艦隊給油船でもあった。何としてでもタウイタウイ泊地回航を成功させるため、第10戦隊や第2水雷戦隊から護衛艦艇を供出し、駆逐艦朝霜と浜風がタウイタウイより出発、更に竹船団の護衛を終えたばかりの五月雨も護衛任務に駆り出された。5月17日午前10時20分、響、朝霜、五月雨、浜風の駆逐艦4隻と海防艦干珠に護衛されてバリクパパンを出発。出港直後に日栄丸が触雷したが航行に影響は無かった。また5月19日午前11時20分に湾口を見張っていた敵潜水艦から雷撃を受ける一幕があったものの、1隻たりとも欠けずに午後12時50分にタウイタウイへ入港。無事あづさ丸、建川丸、日栄丸のタウイタウイ回航に成功したのだった。その後の5月23日、建川丸と日栄丸はタウイタウイを出発してダバオに向かったが、その途上で米潜ガーナードに襲われて建川丸が被雷沈没している。5月25日に重巡愛宕に対して給油作業を行う。5月28日に曳航給油訓練を実施。21時から翌29日21時30分まで運送艦鶴見の右舷に横付けして重油の補給を受けた。6月1日、あづさ丸は玄洋丸とともに「あ」号作戦第2補給部隊に編入。6月2日に戦艦武蔵と重巡愛宕に重油を補給した。
6月3日、あづさ丸と玄洋丸は駆逐艦雪風、山雲、野分に護衛されてタウイタウイを出港。港外70海里で野分と山雲が護衛より離脱し、6月8日にネグロス島とパナイ島の間にある前進拠点ギマラス泊地へ到着。6月8日から特設運送船栄邦丸からガソリンと重油を移載する。移載作業が完了した6月14日16時30分、「あ」号作戦発動の命を受けてタウイタウイから出発してきた小沢機動部隊がギマラスに入港し、玄洋丸とともに夜通しで給油作業を行う。
6月15日午前7時、給油を完了した小沢機動部隊は舳先を北東に向けて出撃。サイパン島を攻囲する敵艦隊を撃滅するためサンベルナルジノ海峡へと向かった。一方、第2補給部隊は雪風と卯月の護衛を受けて午前8時30分にギマラスを出港。第一警戒航行隊形を組んで小沢機動部隊との次の会同地点に向かう。同日20時頃にサンベルナルジノ海峡を通過して太平洋に進出。予想された米潜水艦の待ち伏せは無かった。6月16日23時頃、パラオの北西で米潜キャバラ(SS-244)がサンベルナルジノ海峡を目指していると、レーダーが南東方向を走る4つの目標を探知。速力を上げて追跡に入った。翌17日午前3時15分、キャバラは急速潜航。あづさ丸に狙いを定めて雷撃を行おうとしたその時、駆逐艦の1隻が潜望鏡目掛けて突撃しているのを発見し、やむなく潜航退避。駆逐艦は頭上を通過していったものの午前5時頃まで海中深く押し込められ、再び浮上した頃には既に逃げられていた。14時40分に分離していた卯月と、15時50分に秋月が合流。18時30分には駆逐艦初霜、国洋丸、清洋丸、日栄丸からなる第1補給部隊との合流を果たした。ここへ来るまでに第1補給部隊は清洋丸との衝突事故で白露を失っていた。18時45分、本隊の護衛に復帰するため秋月と浦風が離脱。東進中の6月18日午前7時30分に給油艦速吸が、15時15分に軽巡名取が護衛に加入。間もなく小沢機動部隊が攻撃を開始するという事でF点と呼ばれる給油予定地点に向かい同日深夜に到着した。
マリアナ沖海戦が生起した6月19日午前5時15分、マニラに向かうため名取が離脱。小沢艦隊では午前8時より各空母から攻撃隊が飛び立ち、午前10時に第二次攻撃隊が発進。敵機動部隊攻撃に向かったが、レーダーにより待ち伏せていた敵機や熾烈な対空射撃を受けて大部分が戻って来ず、敵潜水艦の雷撃で虎の子の大型空母である旗艦大鳳と翔鶴を喪失してしまう。体勢を立て直すため艦隊は西方への退避を開始。17時30分、あづさ丸では総員集合の号令がかけられ、指揮官より決戦開始の訓示が行われた。21時20分、小沢中将は艦隊への給油を実施するため第1及び第2補給部隊に対し合流地点への進出を命じ、24時より移動を開始。
翌20日午前6時、補給部隊は指定された合流地点に到着し、給油作業準備を完成させて艦隊の到着を待つ。20分後、あづさ丸、玄洋丸、日洋丸、国洋丸、速吸の5隻は退却してきた小沢機動部隊との合流を果たした。あづさ丸は第4戦隊の重巡高雄、愛宕、鳥海、摩耶に曳航給油を命じられて艦隊の後尾から続航するも、敵索敵機から逃れるため艦隊は高速で西航し続けており、15時45分、西方への急速退避が下令された事で補給部隊を会同させたまま速力を15ノットに増速。あまりの高速退避に補給部隊が付いていけなくなり、17時頃には艦隊を見失ってしまった。周囲には護衛のため残った駆逐艦響、雪風、夕月、初霜、卯月、栂が伴走する。だがこの事が思わぬ幸運を生んだ。見失ったのと時同じくして200機以上の敵艦上機が出現して小沢機動部隊に襲い掛かったのである。もし艦隊に追従出来ていたら、敵機の集中攻撃を受けていた事であろう。
水平線の向こう側へ消えた艦隊を追いかけて270度方向に向けて進んでいると、17時15分に北上する敵機16機を遠方で目撃し、総員戦闘配置を発令。25mm連装機銃や短20cm砲に人員を配置して対空戦闘の準備を完成させる。間もなく19機の敵機が西方に飛び去って行くのを目撃。給油船は護衛艦艇と縦三列・横四列・距離5000mの密集陣形を組み、あづさ丸は日栄丸ともども中心に配置された。17時45分、味方艦艇が発射したと思われる炸裂弾の砲煙を発見。その5分後に補給部隊へ接近する敵空母ワスプⅡ所属の敵機16機を認めて300度方向に転舵、敵機は補給部隊の後方に回って急速接近してきたため、あづさ丸は対空射撃を開始した。ヘルダイバーと思われる敵機は3機編制で、高度4000mより急降下しながらあづさ丸に機銃掃射と投弾を行い、左舷45mに3つの水柱を築いて勢いそのままに北方へと退避していった。18時6分、あづさ丸の正横3000mを走る玄洋丸と栂に敵機3機が急降下するのを認め、爆撃を阻止するため射撃を浴びせかける。1分後、今度はあづさ丸の右130度方向高度3000m付近より急降下してくる敵機を発見して、全速退避を行うとともに25mm連装機銃2基と短20cm砲1門で迎撃。火線を集中させたにも関わらず敵機の急降下を許し、高度約500mで60kg爆弾3発を投下、左舷船橋側約40mに船橋を超えるほどの水柱が高々と築かれた。息つく間もなく次は左150度方向からヘルダイバー2機が急降下、あづさ丸の後部両舷に60mないし80mの水柱が立ち、更に左舷後方から2機編隊の敵機が3回に渡って機銃掃射を仕掛けてきた。平時の訓練が功を奏して乗員一同沈着にして勇猛果敢であり、爆弾の破片が降り注ぎ機銃弾乱れ飛ぶ極限状況下においても力闘奮戦を重ね、あづさ丸の対空射撃も実に正確無比であった。肉薄しようとした敵機は都度あづさ丸の対空砲火に阻まれて撃退され、痺れを切らした1機が機銃を乱射しながら迫り来るもあづさ丸からの反撃を受けて発火、後方約600mに墜落して撃墜に成功する。他の1機にも命中弾を与えて黒煙を噴かせ、4、5000m飛行したのち黒煙のみを残して海中に没した。また別の1機に数発の命中弾を与えて撃破。18時25分に敵機が引き揚げて戦闘終了。あづさ丸戦闘詳報には「さしもの敵機は遂に我が鉄壁の防御陣を粉砕する能わず多大な損傷を受けて北方指して飛び去れり」と綴られている。一連の対空戦闘であづさ丸は2機撃墜、1機撃破の戦果を挙げた。多数の機銃弾を受けて内舷に若干の被害が生じたが、人員や兵器への被害が皆無だったため、戦闘続行可能の状態だった。
戦闘を終えた補給部隊だったが、西方の水平線の彼方にいる味方艦隊は未だ空襲下にあった。また補給部隊にも無視出来ない被害が出ており、給油艦速吸と清洋丸が被弾炎上、玄洋丸は至近弾により浸水被害が発生して航行不能に陥る。身動きが取れなくなった玄洋丸を曳航するため18時30分より曳航準備を開始。18時50分から玄洋丸を曳航するが、既に海水を飲んで通常より重たくなっており、玄洋丸乗組員の決死の浸水遮防作業もむなしく曳航索が何度も千切れる事態が発生。20時には浸水量が約1000トンに達し、なおも増加中であった。また敵艦隊が東方約150海里にいるとの情報もあり、このまま留まり続ければ翌日午前1時には会敵してしまうため、玄洋丸側が自沈を決意。20時25分に総員退船命令が出され、機密書類や兵器を処分した上で右舷に横付けした駆逐艦卯月へ退避。その際に残っていた燃料120トンを卯月に補給している。21時30分に退船完了。10分後に軍艦旗を降下して、22時5分にキングストン弁を開いた事で、左舷へ8度傾いた状態で急速に浸水沈没していく。22時20分に卯月が約600mから12cm砲弾を撃ち込んで砲撃処分を行った。加えて清洋丸も雪風によって砲撃処分されている。
6月23日にギマラスへ入港。永豊丸からガソリンと重油の補給を受ける。6月26日午前2時25分に初霜、雪風、卯月の護衛を受けてギマラスを出港。ミンダナオ島ダバオに向かっている途上のペピタン礁で雪風が座礁事故を起こしてしまうが、駆逐艦響、夕凪、給油艦速吸の支援で何とか離礁させた。6月29日、内地へ帰投するため良栄丸、興川丸、日栄丸とともにダバオを出発。護衛艦艇は初霜、雪風、卯月、海防艦満珠、第22号の5隻であった。7月1日21時5分に六連へ到着して翌日呉に回航。しかしあづさ丸に休息の時は無かった。呉港内にて第2艦隊と重巡最上に対する給油任務を命じられ、それが終わるとマリアナ沖海戦の戦訓から呉工廠で機銃増備工事を受ける。7月14日に第2補給部隊の編成が解かれ、国洋丸、あづさ丸、五月花、第33号駆潜艇で第2補給部隊を再編制。同時にマニラ回航を命じられる。
7月17日午前8時に駆逐艦皐月、夕月、卯月、海防艦満珠、第30号と第33号駆潜艇の護衛を伴って呉を出港。送水ポンプ故障によりあづさ丸は若干遅れての出発となった。大本営が要望した人員と物資を輸送するため一路マニラを目指す。夕刻頃に下関海峡を通過して外洋に進出。民間の乗組員が操船する弊害か、日栄丸が一斉回頭を意味する2回赤色信号を点滅させたにも関わらず一斉回頭に応じない船がいたり、意味も無く青拳銃弾を発射する者がいたりと危うく事故に繋がる一幕があった。今回の航海では大陸接岸航路ではなく、大胆にも石垣島の西方と台湾東方のバリンタン海峡を通過する近道を選択。その分、敵潜との遭遇率が上がる危険な賭けであったが幸い襲撃を受けないまま、7月23日午前8時47分に無事マニラへの入港を果たした。
ここでシンガポールへ向かう日栄丸、良栄丸、興川丸と別れ、あづさ丸と国洋丸にはタラカンからバリクパパンへ原油を輸送、次にバリクパパンからマニラへ重油を輸送する任務が与えられる。バリクパパンに向かっていた7月29日午前、トゥバタハ岩礁近海にて米潜水艦ボーンフィッシュに発見され、翌30日午前1時頃、マカッサル海峡を通過中に5本の魚雷を発射。このうち4本が国洋丸に命中、たちまち爆発して船尾から沈没してしまった。ただ1隻生き残ったあづさ丸は輸送を完了させて内地へ帰投。
サイパン島の防衛を断念した大本営は敵の次なる目標をフィリピンと睨み、アメリカ軍の来襲に備えるため同方面への兵力輸送が盛んになりつつあった。今回あづさ丸が加入するヒ71船団にはルソン島に配備する第26師団などが積載され、加入船船20隻を空母大鷹を含む総勢15隻の戦闘艦艇が護衛する例を見ないほどの大規模船団となった。だが今回の航海は目を覆いたくなるほど凄惨なものに変じてしまう。
8月10日午前5時7分にヒ71船団は伊万里を出港。この時の編成はタンカー8隻、陸軍特種船3隻、客船ないし貨物船8隻で、いずれも15ノット以上を出せる優秀船舶で占められ、計3万7600名と膨大な軍需物資を輸送していた。護衛兵力は特設空母大鷹、駆逐艦藤波、夕凪、海防艦平戸、倉橋、御蔵、昭南、第11号の8隻。あづさ丸ら護衛対象は四列縦隊を組み、その周りを取り囲むように護衛艦艇が展開する。上空には大鷹から飛び立った12機の九七式艦攻が旋回して敵潜水艦に対して睨みを利かす。船団は之字運動G法を取りながら慎重に歩を進めていく。出港から半日後に陸軍特種船吉備津丸が機関不調を訴えて長崎へ反転離脱。他の船舶は東シナ海を横断して中国大陸に沿って南下を始めるが、8月14日午前0時3分に暴風雨による視界不良で二洋丸、第二八紘丸、瑞鳳丸が行方不明になり、翌15日午前6時5分には摩耶山丸が左100海里方向に敵潜を発見し、24分後に右45度緊急一斉回頭回避を行うなど緊迫した航海が続く。また台風接近に伴う荒天を警戒して航路の変更も行った。19時28分に馬公へ寄港。一度船団からはぐれていた3隻も8月16日14時50分に馬公へ入港している。
ここで船団が再編制され、あづさ丸、阿波丸、帝洋丸、瑞鳳丸、永洋丸、旭東丸、速吸、玉津丸、摩耶山、帝亜丸、能代丸、能登丸、香椎丸、日昌丸、北海丸の15隻となる。敵潜水艦の襲撃率が高いバシー海峡と南シナ海を確実に突破させるため駆逐艦朝風と海防艦4隻が新たに護衛に加えられた。
8月17日午前8時17分、ヒ71船団は馬公を出発してマニラに向かう。ところが船団の動きはアメリカ軍の暗号解析で筒抜けになってしまい、付近を哨戒中のレッドフィッシュ(SS-395)に通報。翌18日早朝に船団を発見したレッドフィッシュは近隣の僚艦に獲物の到来を伝えた。そうとは知らずにヒ71船団は最も危険なルソン海峡を目視警戒に有利な日中に突破しようと突き進んでいたが、午前5時21分、右150度方向に浮上中の敵潜を発見。この敵潜こそレッドフィッシュであった。急速潜航したレッドフィッシュは午前5時24分に雷撃を行い、永洋丸の右舷側に魚雷が命中。立ち昇った水柱を見てヒ71船団は敵襲を悟った。直ちに平戸と倉橋が迎撃に向かい、船団は午前5時50分に右45度一斉回頭を実施、被雷損傷した永洋丸は駆逐艦夕凪に付き添われて高雄に撤退。これが恐怖の幕開けとなった。大鷹から対潜哨戒機が飛び立てる日中の間は敵潜の襲撃は無かったが、哨戒機を収容しなければならない日没を迎えると敵潜が一斉に牙を剥いてきた。いつしか隊形は二列縦隊に変わりその周囲を護衛艦艇が取り巻く。夜になってようやく危険なルソン海峡を突破。速力を16ノットに上げてルソン島北西岸まで近づいたところで天候が急変し、風速12mの暴風と強雨があづさ丸に襲い掛かるとともに視界不良で対潜監視が困難になり、次第に隊列も乱れていく。対する米潜水艦はレーダーを持っていたため荒天下においても正確に獲物の位置を把握出来た。
そしてレッドフィッシュからの通報を受けてラッシャー(SS-269)、ブルーフィッシュ(SS-222)、スペードフィッシュ(SS-411)の3隻が集まり始める――。
22時22分、ルソン島ボリナオ岬沖で米潜ラッシャーの雷撃を受けて船団の最後尾にいた大鷹が大爆発を起こし、約30分後に沈没。最も大型で頼りになる大鷹の沈没に船団は恐慌状態に陥り退避行動を取ろうとするも、視界不良に加えて無灯火だったため瞬く間に隊形が崩壊、各々バラバラに逃げ回るしかなかった。左側にはルソン島があるので近づき過ぎると座礁する危険性があり、かと言って沖合いに出れば米潜水艦の餌食になるという八方ふさがりである。二つに分裂してしまった船団を米潜水艦群はレーダーを駆使して片端から沈めていく。23時12分、再びラッシャーの雷撃で帝亜丸が沈没。乗組員と便乗者合わせて2665名が荒波に呑まれて死亡した。更にラッシャーは貪欲に戦果を拡大させようと、8月18日午前0時33分に1隻の護衛艦艇を伴う3隻の輸送船グループに雷撃を行い、能代丸を中破させた。ボリナロ岬北西130海里沖でレッドフィッシュはブルーフィッシュと合流してヒ71船団を攻撃。午前3時25分にブルーフィッシュが4本の魚雷を発射、このうち2本が速吸に命中して大破航行不能に陥り、明け方にトドメの3本の魚雷を喰らって撃沈された。午前4時33分にはスペードフィッシュの雷撃で陸軍特種船玉津丸が僅か10分で沈没。135名の乗組員と4755名の兵士が死亡して戦争中第4位の犠牲者数を出してしまった。午前6時3分、既に攻撃を受けて漂流・炎上していた帝洋丸にスペードフィッシュが2本の魚雷を撃ち込んで撃沈。狂乱と蹂躙の悪夢はいつまでも続くかに思えた。
平戸に乗艦中の第6護衛船団司令部は、生き残っている船舶にリンガエン湾サンフェルナンドへの集結を指示。狂乱の夜を生き残ったあづさ丸、瑞鳳丸、香椎丸、北海丸、能登丸は藤波の護衛を受けてリンガエン湾に向かっていると、8月20日午前11時35分にサンフェルナンドから出港してきた摩耶山丸、旭東丸、日昌丸のグループと合流。馬公出港時に15隻いた船舶は8隻にまで数を減らしていたのである。事前に反転した永洋丸を除くと実に6隻が米潜水艦に食われた事となる。半壊したヒ71船団は敵潜の襲撃を警戒して沿岸ギリギリを之字運動しながら進み、19時44分にサンタクルーズで仮泊。8月21日午前6時37分にサンタクルーズを出発。午前7時50分、味方の哨戒機が左170度方向2000m先に爆弾7発を投下しているのを確認し、7分後に藤波が爆雷を投射しているが効果のほどは不明。19時19分にヒ71船団はマニラへ入港した。対潜掃討のためヒ71船団の護衛を務めていた海防艦日振、松輪、佐渡の3隻が現場海域に留まっていたが、敵情を得られなかったためマニラへ帰投しようとしたところ、8月22日早朝にハーダーとハッドに捕捉されて3隻まとめて撃沈される被害を出した。ヒ71船団の半壊は大本営陸軍部や海上護衛隊に大きな衝撃を与え、以降ヒ船団はマニラを経由しないようになった。
ずたぼろにされたもののヒ71船団のシンガポール行きの予定通り行われた。8月25日16時50分、残余のあづさ丸、旭東丸、北海丸、阿波丸、瑞鳳丸、旭邦丸(ミリ行き)がマニラを出港。護衛艦艇は駆逐艦藤波、海防艦平戸、御蔵、倉橋、第2号、第28号駆潜艇(ミリ行き)であった。翌26日午前6時55分に第一警戒航行隊形を組み、午前7時52分より之字運動を開始。敵潜を警戒しつつ仮泊錨地を転々としながらシンガポールを目指す。8月29日17時52分、旭邦丸と第28号駆潜艇がミリに向かうため船団より離脱。9月1日13時56分、遂にヒ71船団はシンガポールへと辿り着いた。
あづさ丸は現地で重油の積載作業を開始。9月3日午前1時45分に昭南地区に警戒警報が発令にされたが、何事も無く午前4時15分に解除された。9月5日、第5護衛船団が指揮を執るヒ73船団がシンガポールへ入港。あづさ丸はシンガポール発門司行きのヒ74船団(中身はヒ73船団)に加入して内地帰投を目指す事となった。あづさ丸には重油1万3137トンと便乗者100名が積載。
9月11日にヒ74船団はシンガポールを出港。あづさ丸、播磨丸、御室山丸、八紘丸、吾羽山丸の5隻を、練習巡洋艦香椎、特設空母雲鷹、海防艦5隻が護衛する。翌12日午後12時45分に海面を漂う油膜を発見して第13号と第27号海防艦が対潜哨戒機と協同で爆雷を投下。
高雄への入港を目前に控えた1944年9月16日22時31分、クイーンフィッシュ(SS-393)が放った御室山丸に命中。旗艦の香椎から敵潜襲撃を意味する赤色照明弾が打ち上がった。続いて23時34分、バーブ(SS-220)は雲鷹とあづさ丸が一列に並んだ瞬間を狙って6本の魚雷を発射、あづさ丸の右舷に2本が直撃して積み荷の重油が誘爆。乗組員と便乗者全員が死亡した。
右側にいたあづさ丸の爆沈を見て雲鷹は取り舵を取って回避運動を試みるも、右舷後方から迫ってきた魚雷2本が艦中央部と艦後部に命中して落伍、午前7時55分に沈没してしまっている。
11月10日除籍。
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最終更新:2025/12/24(水) 12:00
最終更新:2025/12/24(水) 11:00
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