財部彪日記(たからべたけしにっき)とは、日本海軍軍人・財部彪の日記である。「財部日記」とも。
海軍高官としての日々を克明に記録し、近代日本史上における史料的価値は非常に高い……が、ただでさえこの時代の人間らしくかなり厄介な手書きくずし字の日記で、しかもよりによって書き方が下みたいな感じなので、価値と同じくらい読解難易度が高いことでもつとに知られている史料。
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財部彪(たからべ たけし、1867-1949)は、1889年から1932年まで日本海軍に奉職し、海軍兵学校15期首席卒、舅は山本権兵衛(海軍大将・内閣総理大臣)、最終階級は海軍大将、43年間のキャリアで海軍次官を4年8ヶ月、海軍大臣を三回あわせてほぼ5年にわたって勤め上げた、まさしく栄光の時代の日本海軍で過ごしたと言っても過言でない日本史上の人物である。
その彼が、まさに少尉任官した1890年から退役後の1943年まで54年間にわたり書き記した日記がこの「財部彪日記」である。財部は毎日、帰宅後の就寝前に自室で日記を書く習慣を持ち、しかも日記自体は余人の目に触れさせようとしなかったという。その内容は外に知られない海軍最上層部の内情から日常生活まで多様な出来事が書き綴られていることが特徴で、政軍の枢要事項、その日の会話記録、政界の噂話、家族旅行や公務出張の様子、家庭内のちょっとしたイベントや自分の体調まで含まれる。
こうした日記は、ほぼ全て(1年分の欠がある)が他の手帳類とともに遺族より国立国会図書館の憲政資料室に寄贈されている。現在では戦前日本の政治史と財部の几帳面さを物語る歴史資料として、誰にでも利用できるようになっている。
だが、これほど貴重な史料であるにもかかわらず、財部彪日記にはその利用をさまたげる、大きな大きな問題があった。
読みづらい
のである。
とりあえずネットで見られる画像だとこんな感じ。これでもペン字で横書き、(たぶん)上から下に素直に書かれている点、かなりおとなしめなほうである。
しかし多くは1日1ページの当用日記に墨筆書きのくずし字で記されたもので、分量が多い日には欄外にはみ出すだけで収まらず、記事冒頭のように上や右の余白に好き勝手な向きで書き続ける有様。むろん本来は当人がわかればそれでよいのだが、史料として見る第三者としてはそもそも判読も困難なら読む順番もわかりにくい、二重に厄介な状況なのである。
そういうこともあって、半世紀分の日記のうち海軍次官時代を中心とした5年余が1983年に活字化・出版されたものの、ほかは永く残されていた。しかし2021年になって、ロンドン海軍軍縮会議全権(後世の財部の評価を永く決定づけていたイベントである)も経験した三度に渡る海軍大臣時代の8年間(1923年~1930年。うち大臣在任5年間)の翻刻がついに刊行されるに至り、財部彪日記の最重要部分が相当簡単に利用できるようになったといえよう。
ちなみに、とてつもなく読みづらいタイプの本文はこれら翻刻本の冒頭にも写真が載っている。
内容の学術的な研究は研究者の方々にお任せするとして、ここでは国立国会図書館の個人送信でも読める『財部彪日記 海軍次官時代』上下巻(坂野潤治、広瀬順浩、増田知子、渡辺恭男編、山川出版社、1983年)から、日記の内容の実態を見てみたい。
この海軍次官在任時期は、1909年(明治42年)末から1914年(大正3年)4月にかけて。当時の日本政界は第二次桂太郎内閣、第二次西園寺公望内閣、第三次桂内閣、第一次山本権兵衛内閣と交代するなかで政党と議会が政治の表舞台に立ちつつあり、いっぽう陸海軍は「帝国国防方針」のもと日露戦争後の拡張に乗り出していた時代である。ジーメンス事件に連座して海軍次官を退いてのち、翌年2月に第三艦隊司令官となるまで待命で過ごした10ヶ月分ほども収録されている。
財部は海軍省中枢の高官として活躍し、在任期間を通しての直属の上司・斎藤実海軍大臣の動向や、陸海軍の僚友や元勲・政界の要人との交友、場合によっては明らかな機密事項と思われる物事まで記録されている。ただし、日記という性質上、読む側からは興味深い出来事であっても経緯や結末の記載がないまま、ある日の出来事だけ書かれていることも多い。
当時40代なかばの財部個人としては、6男3女(うち長女は夭折)のうち長男・武雄が10歳前後、次男・実が幼児期であり、三男・真幸、四男・四郎の生誕の記事がある。自邸の近く(高輪台町)に住んでいた岳父・山本権兵衛を非常に頻繁に訪ねているほか、その長女である妻の妹の嫁ぎ先(つまり義理がふたつつく弟)とも付き合いは深かったようである。他には、故郷都城関係の記事、政軍の知人やその家族の死去・葬儀出席記事が多い。明治天皇崩御(1912年7月)、父・実秋の死去(1913年1月)もこの時期。
当時は職場の中にとどまらない家族ぐるみの友人づきあいが頻繁だった時代でもあり、財部の地位もあって、親族や同僚、さらには政界人まで、ひとの家を訪ねたり、ひとが訪ねてきたりしたことについての記事がとにかく多い。一日に2、3の家を巡ったりもするし、事前連絡などないので「いくつか回ったがどれも不在で虚しく帰宅」みたいなこともたまにある。
五月十日 火(中略)
本夜山本大人ハ予ガ腸疾ヲ心配シ呉レラレ、大人ガ海軍省主事トシテ(西郷、伊藤雋吉、仁礼氏等当局ノ時分)苦心の際、午前八時ヨリ十二時迄山県将軍ト論戦シ、又午後一時ヨリ十一時迄井上馨、井上毅ノ二老ト論戦激烈ナリシトキ、流汗頭痛嘔吐等ヲ催フシ屢々数刻モアリ。大臣ト為リタル後斯ル事無キニ至レリトノ懇切ナル咄アリタリ。
娘婿が下痢に悩んでいる(数ヶ月前からしょっちゅう下痢の記載がある)ことを知り心配した岳父・山本権兵衛からのありがたいお話。
日清戦争の前に山本が海軍省の中枢で軍政に敏腕をふるった際の思い出話で、西郷(従道)、仁礼(景範)は海軍大臣、伊藤雋吉は海軍次官や兼任軍務局長といった顕職である。山縣有朋、井上馨、井上毅といったそうそうたる元老たちとやりあった(一日に14時間も論戦している)日、相当悲惨な症状に見舞われたことを話している。
「懇切ナル咄」ではあったが特に財部の病状に影響はなく、以後も数ヶ月下痢に悩まされる話が続いた。
三月十六日 木(中略)
午後衆議院本会議ニ恩給改正案附議通過ス。寺内陸相ノ蔵原ヲ呼ンデゾー原君ニ御答スト云ハレタル為、蔵原氏憤激演壇ニ馳セ上リタルノ騒ハ一興ナリキ。蓋シ先日委員会ニ於テ陸軍次官ガ仝氏ヲ栗原君ト呼ビタル事アリ、今又此事アリ。不図仝氏ノ怒声ヲ挑発シタルモノナラン。
衆議院本会議において、寺内正毅陸軍大臣が蔵原惟郭(くらはら これひろ)議員をうっかり「ぞうはら」と呼んでしまい、怒った蔵原が演壇に駆け上がる騒ぎになった事件を伝えている。しかも前には陸軍次官から「栗原君」と間違えられ[1]てからのこれなので一層怒りを呼んだのではないか、というのが財部の分析。「一興なりき」じゃないよ。
同日の本会議議事録を見てもこの事件はしっかり残されており、寺内陸相はすぐに言い直したのではあるが(議場に笑い声が起きた)、蔵原が「無礼、取り消せ」と何度繰り返してもなぜかかたくなに「改メテ申上ゲマス」しか言わず(そういうところでは)、議場は騒然、どんどんヒートアップした蔵原が猛然と演壇まで上がってしまい、議長の命令で守衛長が割って入る様子が克明に記録されている。
その後は長谷場純孝(すみたか)議長が場を収めようと「単なる間違い、自分もじゅんこうと呼ばれることあるし」とフォローしたり、他の議員が「議長の許可なく演壇に上がるとは何事か、謝罪させよ」と迫ったり、蔵原が「過去ぞうはらと読まれたことはないので侮辱と思った」と説明したりし、議場は「ヒヤヒヤ」「ノンノン」の野次(賛否を意味する英国庶民院由来の帝国議会スラング)でgdgd。最後は蔵原が「寺内陸相が原因とはいえ議場を混乱させたのは遺憾」「遺憾と声明するつまり謝意を表する」「(ノンノン男らしく言えと野次られ)謝意を表すると声明する」と表明してどうにか収まったのであった。
ちなみに寺内陸相は再登壇して「あれは間違えました。もし失礼ならば再度改めて申し上げます」的に弁明したものの、そのまま改めて本来の答弁を終えてフェードアウトした(そういうところでは)。
先日乃木大将邸ニテ桂公、山本伯邂逅ノ時桂公曰ク、甘カツタハー。
山本伯曰ク、甘ヒカドーカ分ランヨ。
桂公曰ク、山本ハヒドヒ、自分が苦ツヽアルニ一向助ケテ呉レズト。
乃木大将曰ク、君等ヲ助ケテタマルモノカ。
時は1911年9月、前月末に第二次桂太郎内閣が予定調和的に総辞職し(あわせて斎藤実海軍大臣が省内で「体調不良による」辞意表明をしたことも日記に残っており「殆ンド精神無キノ譏ヲ免レザル」などと書かれている。なお結局留任した)、第二次西園寺公望内閣が成立した直後のこと。
どうもこの内閣交代の際、桂が山本権兵衛を利用して西園寺を掣肘せんとしたが失敗したらしき痕跡があり、直後に乃木希典邸で居合わせた桂と山本がやりあった……という話なのだが、会話をそのまま引き写したものか、せりふがなんだかお茶目。「お前なんぞ助けるか」と桂に嫌味を言う乃木(これでも桂よりひとつ年下で大将昇進もずっと遅い)も面白い。
なお、この後も山本はときおり桂と会った話を財部にしている(明治45年7月6日条など)が、どうもだいたい雰囲気が悪い。
二月二十八日(中略)
故なくしてハッカ油でも塗った?
皆様におかれては、自分の死後に出版されたり、それがニコニコ大百科に引用される可能性を考えて日記を書き残すことをおすすめしたい、と思わされる一節。ちなみに大正2年12月10日条では竹下勇から評判を聞いた医者で痔の治療を受けている。
人力車(日記中にはしばしば車夫の話がある)か自動車(日記中では自働車)のどちらかは不明だが、ともかくこの日はそうした足を入学式を迎える娘・喜代子のために供出したため徒歩出勤、という記録。
当時の財部はおそらく芝高輪三光町の自邸に居住していたと思われるが、霞が関の海軍省庁舎までは直線距離でも4kmほどはある(他に海軍省に近い霊南坂にも海軍次官としての官舎を持っていた)。
五月二十五日 土(中略)
大山元帥満州軍総司令官トシテ出発セラレントスルニ当リ山本海相ヲ其官邸ニ訪ヒ懇談シ曰ク、
西郷ガ居レバ西郷ニ頼ムトコロナレドモ今ヤ亡シ、故ニ貴下ニ嘱ス。今度ノ戦争ハ到底充分ナル結末ヲ告グル事は六ヶ敷シ。故ニ能キ塩ニ切リ上ゲ方尽力アリタシ。此コトタル絶大ノ手腕ヲ要シ、大巨人ヲ要ス。山県サンハ議論アレドモ胆力足ラズ、頼ムニ足ラズ。願クバ貴下御尽力アラン事ヲト。
之ニ対シ海相曰ク、閣下ノ出陣ヲ要セザルニ非ズヤ。野津アタリニヤラシテ置ケバ可ナラズヤ、ト。
元帥答テ曰ク、
否々、軍司令官連中ハ皆仝ジ高サノ人々ノミナリ。ドーセ仕事ハ下ノ参謀官等ノ為スニテ可ナリ。児玉ハ之ヲ判断ス。但シ之ヲ実行セシムルハ予ニ非レバ不可也。山本伯右ノ咄ヲ為シ喟然トシテ嘆ジテ曰ク。大山公ハ大人物、達観者也。人ヲ見ルノ明アリ。前ノ浜ノ水瓜売船ニ花染ノ手拭ヲ被リ某ト二人踴躍シテ乗組ミ勇名ヲ馳セタル大山弥助ノドコカニ、大事ニ当リ離レ高キトスルアリト。又曰ク、幼時機ノ稽古ノトキハ胴ヲツカレ泣クノ故ヲ以テ大山ナケベスノ字アリタルモ、人ハ奇ナルモノ哉ト。
岳父・山本権兵衛が語る、日露戦争当時の大山巌の思い出話。当時の山本は海軍大臣、大山は参謀総長から満洲軍総司令官への転任であった。大山は日露の戦争は潮時が大事だと唱えてその辺りの難しい対処を山縣有朋(参謀総長)より山本海相に頼み、また同格の各軍司令官の上に立つ人物として自分が必要だと述べている(現地最高司令部である満州軍総司令部の設置は日露開戦4ヶ月後)。
怜悧俊才の持ち主ながら、日露戦争では将に将たる立場として委細を児玉源太郎総参謀長に任せた大山の人物像と、その幼い頃の思い出を伝える会話である。大山は山本より10歳年上であるが、出身は同じ鹿児島城下加治屋町(この町から薩摩の維新志士・明治の政軍枢要の多くが出たことで有名)であった。話題に出ている西郷隆盛も、大山よりさらに14歳ほど年上の同地出身者である(山縣、児玉は長州藩)。
陛下ノ御容態ハ漸次御増悪、午後七八時頃ニハ已ニ御登假アリタルヤニ吾人共ニ思フ位ナリシニ、中々能ク御耐ヘ遊バサレ、十時頃ニ至リテ注射モ終ニ受附ケラレザル趣承知セリ。十時四十三分終ニ崩御、十一時少過西溜間ニ於テ十一時十分位前終ニ崩御ト実地ニハ承レリ。此時山本大将ノ黒軍服着用大奥ノ方ヘ進ミ行カルヽ後姿ヲ見タリ。
実際ノ崩御ハ十時四十三分ナリシモ、十一時半過ナランカ皇族会議ノ末三十日午前〇時四十三分御登假ト発表ノ事ニ決定セル旨承知ス。
明治天皇の崩御(登假)。当時の財部は宮城(皇居)に詰めていたようで、崩御時の逸話として有名な、公式の崩御時刻を2時間遅らせた件が記載されている。これは崩御に伴う皇太子嘉仁親王(大正天皇)の践祚(継承)関連の儀式を崩御当日に行う必要があったためとされ、財部日記の翌日の記載にも「実ノ崩御時ヨリ二時間ヲ後レシメラレタルハ、朝見改元等ノ大典ノ準備ニ鑑ミタルモノナラン」とある。
なおこの時、大臣級は危篤の枕頭で謁見を許されたらしく、翌々日の7月31日条には上原勇作陸相・斎藤実海相などからの当時の様子の聞き書きが、病室の配置を説明する図面とともに記されている。臣民家庭のように日本流の床の枕元に洋服の皇族が並ぶ様子や居室の質素さに閣僚みな感激したとのこと。「這うように進退する大臣が滑稽だった」とは上原陸相の談(不謹慎)。
財部は大喪使事務官に任じられ、9月13日実施の大喪の礼の関係事務にあたった。参列した諸外国王皇族の接遇業務なども仕事で、9月後半ごろまで大喪関連の記載が続く。
始テ展望車ニ乗リ其有利ナルモノナルヲ知ル。今日迄関ヶ原ヲ通過スル事幾回ナルヲ知ラザルモ、本日ノ如ク能ク其地勢ヲ見ルヲ得タル事ナカリキ。
父・実秋の葬儀からの帰り道。前年6月に新橋-下関間で運行を開始した「特別急行」に乗車した財部が、展望車からの景色に感嘆した記録である。当時の特別急行(1・2列車)に併結されていた展望車というから、鉄道院ステン9020型であろうか。通りかかった関ヶ原の地勢がわかりやすいことに着目して「有利」と表現しているのが軍人の財部らしい。
以上、色々と挙げてきたが、他にも引用が長くなりすぎるものや、他の史料とつきあわせた詳細な検討が必要なもの(西園寺内閣での新艦建造費関係、衆議院での島田三郎議員が牧野伸顕外務大臣に持ち出した演説漏洩疑惑など)のような、この記事に載せなかった興味深い記述が少なからずある。明治から大正へ元号が移り変わるこの時代の歴史が好きな人は読んで損はない日記である。
前述の通り、現代では『海軍次官時代』(上下巻)と『海軍大臣時代』の2つの時期が壮大な努力の結果として翻刻され、活字の書籍として参照できるようになっている。
調べると『海軍次官時代』のほうがものすごい値段になっているかもしれないが、これは古くもう在庫がないためであって、定価は上下巻とも3000~4000円程度である(無論この値段で今新品を買えるとは思えないが)。海軍大臣時代のほうはまだ新しいが、分厚いハードカバーで定価1万円弱する。
並べておいてなんだが、翻刻にかけられたであろうとてつもない労力と大変なボリュームからすれば妥当ではあるとはいえ、専門の研究者でも無い限り個人には軽々にお勧めしにくいお値段である(初版編集者も別に海軍史研究者だとかではないので持っていない)。読むならまず大きめの公立図書館や大学図書館を勧めざるをえない。前述した通り、次官時代のほうは国立国会図書館に利用者登録していればデジタルコレクションの個人送信で読める。
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最終更新:2025/05/13(火) 16:00
最終更新:2025/05/13(火) 16:00
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