ハーバート・フーヴァー(フーバーとも)とは、アメリカ合衆国の第31代大統領である。
概要
アメリカ合衆国の第31代大統領であり、1929年3月4日から1933年3月4日まで大統領を務めた。
生い立ち
アイオワ州ウェストブランチにおいて、クエーカー信者である一家に生まれ、幼少時代に両親を失いおばの助力でオレゴン州ニューバーグに住む医者であるおじの下に移り住み、両親と同じくクエーカー信者であった彼の下で育てられた。
幼い頃から独立志向が強く、おじが勤めるランド・カンパニーで使い走りをしながら、夜はビジネススクールに通って簿記とタイピングをマスターする。そうして苦労しながらも、スタンフォード大学へ入学し地質学を専攻、卒業後はオーストラリアの鉱山で鉱山技師として働き始め、後に清に移り義和団の乱(北清事変)に巻き込まれながらも鉱山の開発に従事し、世界的な新規鉱脈開発の波に乗って鉱山業で実業家として大成を成した。
政治家として
行政官として優れた手腕を持つ一方で人道主義を重んじ、第一次世界大戦が勃発した際はドイツ軍の占領下にあったベルギーと北フランスで深刻な食糧不足に陥った人々を、交戦していたドイツ・イギリスの両政府を説得しアメリカ政府の協力を取り付け、アメリカが参戦するまでの4年間に渡り援助を行い、アメリカの参戦後に当時のウィルソン大統領によって食糧機構長官に任命され、戦時下の食糧統制行政を一任された。その後は商務長官となって経済構造の改革などに尽力する傍ら、 上院の共和党員たちの反対を押し切り、ロシア革命後の混乱により飢饉で苦しんでいたソ連や、大戦後のドイツの人々にも食糧支援を提供した。
1927年に長雨によって引き起こった、アメリカ建国以来最大の天災と言われたミシシッピ川の大氾濫(ミシシッピ大洪水)により50万人が住居を失った際には、彼が救援と復興の指揮を執って150ヶ所以上の大規模なテント市を設立し、全国から巨額の義捐金を募るなど超人的な手腕を見せている。
大統領として
上述した功績や民主党側候補の大統領の資質への疑問もあり、全米的な人気を得て1928年の大統領選挙に共和党候補として見事に当選。当初は彼の手腕の高さから未曾有の繁栄がもたらされると大いなる期待がされ、ウォール街の証券取引所の株価が急騰したほど。
不運なことにこの年世界大恐慌が始まり、フーヴァー政権はこのかつてアメリカが歴史上経験したことの無い大不況に対して、鉄道公社の救済や失業者に賃金を無償給付するなど、様々な対策を行う。
しかしマクロ経済面では静観を重視したために初動に遅れを招き、さらなる経済悪化を招く。その影響もあって1932年における大統領選挙でフーヴァーは再選をはかったが民主党のルーズヴェルトに破れ落選。政治家として逸材であったにも関わらず、一般的には世界恐慌の際に有効的な対策が打てなかったとして、大恐慌と同義語となってしまい、そのイメージが強くなってしまっている。
また、彼の二度の大統領選挙にはヴォルステッド法(禁酒法)が大きく関わっており、どちらの選挙でも禁酒法の存在が彼の明暗を分けたとも言われている。
1928年大統領選挙では禁酒法修正・撤廃派であった民主党候補のアル・スミスに対して禁酒法支持派のフーヴァーは都市部の進歩的文化人やアメリカ禁酒党員、更には本来民主党贔屓なのだが禁酒法に賛同する南部の敬虔なキリスト教徒の票を獲得して大統領の座を得た。
だが1929年の大恐慌により人心から余裕が喪失し、さらに禁酒法施行以後モグリ酒場の急増や違法酒を巡るギャングの抗争などにより都市部で治安の悪化が露呈すると、アメリカ市民は禁酒法の効果に疑問を抱くようになり、禁酒法の撤廃を求め始める。その結果1932年の大統領選では禁酒法廃止を約束した民主党候補のフランクリン・ルーズベルトに対して禁酒法を支持し続けたフーヴァーは主張的にも不利だったと言われている。
なお禁酒法を揶揄した「高貴な実験(The Noble Experiment)」という言葉は、実はフーヴァーの言葉である。
大統領退任後
大統領時代はいいとこなしに終わったフーヴァーだったが、大統領解任後も才覚を生かして共和党の大物政治家として活動。彼に替わって大統領になったルーズベルトのニューディール政策を自由に反する国家主義的なものとして批判している。
終戦後は敗戦国である日本とドイツの食料事情査察に派遣されていて、日本ではGHQ総司令マッカーサーに対して食料援助の申請や対日政策への助言を残した。
1947年と1955年にはそれぞれ当時のトルーマン大統領・アイゼンハワー大統領に直々に命じられる形でアメリカの行政部再編成委員会(フーヴァー委員会)の委員長に就任。アメリカ行政の改革に着手し、多くの無駄を廃することに成功する。
1964年、フーヴァーは90歳でこの世を去る。葬儀は国葬で執り行われ、遺体は生まれ故郷のアイオワ州ウェストブランチの地に葬られた。
歴史研究者
彼には歴史家としての側面があり、歴史の真実を追求することに強い情熱を持っていた。
原文
I said that the whole Japanese war was a madman's desire to get into war. He(MacArthur) agreed.
And also agreed that the financial sanctions in July 1941 were not only provocative but that Japan was bound to fight even if it were suicide unless they could be removed, as the sanctions carried every penalty of war except killing and destruction, and no nation of dignity would take them long.
「日本との戦争の全ては、戦争に入りたいという狂人(ルーズベルト)の欲望だった」と私(フーヴァー)がいうとマッカーサーは同意した。
私(フーヴァー)は更に続けて次のように言った。「1941年7月の(日本への)経済制裁は、単に挑発的であったばかりではない。それは、例え自殺行為であると分かっていても、日本に戦争を余儀なくさせるものであった。なぜなら、この経済制裁は、殺人と破壊を除く、あらゆる戦争の悲惨さを(日本に)強制するものであり、誇りのある国ならとても忍耐できるものではないからだ」。この私の発言にもマッカーサーは同意した。
ハーバート・フーヴァー
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関連項目
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