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坂本龍一(さかもとりゅういち)とは、日本を代表する作曲家・演奏家である。
概要
東京藝術大学大学院を卒業したことから、「教授」の愛称で親しまれている。
前衛音楽からポップスまで幅広い分野で活躍し、1970年代から常に第一線を走り続けてきた。
特に80年代における彼のカリスマぶりはすさまじく、ミュージシャンのみならず俳優、タレント、ラジオパーソナリティーとしても大活躍し、時代の寵児となった。
現在ニューヨーク在住。
1990年代以降は地雷廃絶運動やロハス啓蒙運動、PSE法反対運動など、政治的な活動を行うことが多い。
略歴
1952年1月17日、東京都生まれ。幼少時からピアノを始め、幼稚園の頃にはすでに作曲を始めていたという。
東京都立新宿高等学校在学時には、高校闘争を主導し、級友の塩崎恭久(元官房長官・現厚生労働大臣)らと校長室を占拠するなどして、制服の廃止などを目指す。「藝大を解体する」と言い残し、東京藝術大学へ入学。
東京藝術大学・音楽学部作曲科を経て同大学院の音響研究科修士課程に進む。この時期に飲み屋(新宿ゴールデン街)で知り合ったというミュージシャンの友部正人の「誰もぼくの絵を描けないだろう」にピアノで参加し、スタジオミュージシャンとしてのキャリアをスタートさせる。その後、山下達郎・大瀧詠一・大貫妙子など多くの作品に参加、サーカスの「アメリカン・フィーリング」の編曲で日本レコード大賞編曲賞を受賞している。この曲のB面に収録の、鉄オタには知名度の高い「ホームタウン急行」(ドラマ「鉄道公安官」主題歌)も坂本の編曲である。
1978年、細野晴臣のアルバム「はらいそ」に参加。その後、細野氏の誘いで高橋幸宏とともにイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)を結成。同年10月には初のソロアルバム「千のナイフ」をリリース。
1983年、YMO散開。大島渚監督の映画「戦場のメリークリスマス」に俳優および音楽でも参加。同作がカンヌ国際映画祭に出品された際、カンヌにて映画監督ベルナルド・ベルトルッチと出会う。
1987年、山賀博之監督でGAINAX製作のアニメ映画「王立宇宙軍~オネアミスの翼~」の音楽に参加。
同年、ベルナルド・ベルトルッチ監督の映画「ラストエンペラー」に俳優および音楽で参加。音楽は高い評価を受け、翌1988年にゴールデングローブ賞・アカデミー賞作曲賞を受賞する。これを期に「世界の坂本」というあだ名でも呼ばれるようになる。
1989年発売の「天外魔境 ZIRIA」(ハドソン、PCエンジン CD-ROM2)に楽曲を提供する。一億円のギャラが支払われたとして話題になった。
1992年、バルセロナオリンピックの開会式のマスゲームの音楽「El Mar Mediterrani」を作曲し、指揮も行った。(同曲はその後アレンジが加えられCD化されている)
1993年、「再生」と称し期間限定でYMOを復活。アルバム「テクノドン」をリリースし、東京ドームにてライブも行った。
1995年、ダウンタウンの音楽ユニット「ゲイシャガールズ(GEISHA GIRLS)」をプロデュースした。
1998年、セガから発売された家庭用ゲーム機「ドリームキャスト」の起動音を制作。しかし、ドリームキャストは僅か3年で生産中止となってしまった。
1999年、シングル「ウラBTTB」リリース。このシングルの中に収録された「Energy Flow」が坂本龍一本人出演の栄養ドリンク「リゲイン」のTVCMに起用されたことから爆発的人気を呼び、インストゥルメンタル曲として初のオリコンチャート1位を達成、ミリオンセラーにもなった。
2001年、TBSの「地雷ZERO」プロジェクトに参加し、自ら作曲した「ZERO LANDMINE」を多くのミュージシャンと共に演奏した。同曲はN.M.L(No More Landimine)名義でCDリリースされた。同年にはボサノバトリオ「Morelembaum2/Sakamoto」を結成。翌年にはこうした活動や自身の音楽にボサノバを取り入れてきたことなどが評価され、日本とブラジルの友好化に寄与したとしてブラジル政府から国家勲章を授与されている。
2003年、六本木ヒルズのテーマソング「the land song-music for Artelligent City」を作曲。
2007年、YMOのメンバーが再び集結し、キリンビールのCMに出演。CMで使われた曲「RYDEEN 79/07」は配信限定でリリースされた。その後もHASYMO名義で断続的に活動。
2014年7月、中咽頭癌であることを公表。療養に専念するため、コンサートなどの活動を中止することを発表。
2015年8月、映画「母と暮せば」の音楽で仕事復帰した。
しかし、入退院を繰り返しており、2023年3月28日に逝去された事が4月2日報じられた。享年71歳。
関連情報
- 父は河出書房の編集者であった坂本一亀で、三島由紀夫や中上健次などを担当した。自宅に作家が来ることもあり、坂本もたびたび目にしていたという。
- 「教授」というあだ名の命名者は高橋幸宏であると言われている。初めて坂本と出会った時、坂本は大学院生で、「大学教授にでもなるの?」と高橋が尋ねた事がきっかけであったとされている。なお、それ以前は漫画「あぶさん」の主人公に似ていると言われ、「あぶ」と呼ばれていた時期があった。
- 政治家・塩崎恭久とは高校の同級生で親友でもある。彼が新人議員の頃には愛媛まで応援に行った事があるとコラムで述べている。
- 1981年~1986年に放送された「サウンドストリート」(NHK-FM)のパーソナリティーとしても活躍。当時まだメディアで紹介されることの少なかった国内外の様々なジャンルの音楽を紹介した。また、同番組の名物コーナーにデモテープのコーナーがあり、アマチュア時代のテイ・トウワや槇原敬之が投稿していた。その他、電気グルーヴ(石野卓球・ピエール瀧)や高野寛など、この番組のリスナーでミュージシャンになった者も多い。
- 上述の「天外魔境 ZIRIA」についてだが、高橋名人によると、1985年秋頃にファミコンの音楽に興味を持った坂本がハドソンを来訪し、接点が出来たとのこと。この時は成就しなかったが、1988年にCD-ROM2が発売されたことで環境が整ったため改めて仕事を依頼し、快諾されて実現したのだそうだ。なお、ギャラ一億円というのは話題作りの大嘘で、実際に支払われたのは常識的な価格だったそうである。
- バルセロナオリンピックの仕事で支払われたギャラはたった1ドルであった。これは基本的にボランティアなのだが、お金が発生しないと契約として成立しないために1ドルとなっていたようである(現在のオリンピックがどうなっているのかは不明)。
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関連項目
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