大瀧詠一とは、日本のポップスとロックシーンに多大な影響を残した福生在住の音楽仙人である。「大滝詠一」名義と使い分けて活動していた。
概要
尊敬するフィル・スペクターなど、1950年代~60年代のアメリカンポップスに多大な影響を受けた作風で有名。元々がオールディーズ的な作風のため、山下達郎と同様に時代の風化にも耐えうる楽曲作りに定評がある。
但し、これは「A LONG VACATION」「EACH TIME」における“メロディタイプ”と呼ばれる作品のことを指しており、フィル・スペクター的なウォール・オブ・サウンドを目指したオーケストラ楽器やコーラスを重ねた多重録音での音造りでの楽曲がよく知られている。これが一般的に言われる「ナイアガラ的な音作り」と理解されている節がある。提供曲を集めた死後発売のセルフカバーアルバム「DEBUT AGAIN」も、どちらかというとこの系統の音造りの楽曲を集めたものとなっている。
この音造りは松本隆の詞による部分も大きかったようで、シングル「幸せな結末」の制作時には、ドラマの制作サイドから「ロンバケ的な作品を」という依頼であったが、松本と作り上げたあの世界観を一人で再現することは無理であるとして、思うように歌入れが進まず苦労したことが語られている(本人曰くあの1曲にアルバム1枚分を賭けたとか)。
このため、一般に理解されるシティポップの始祖とされる「大瀧的な作品」の楽曲数は実はそれほど多くない。
実際にはこの他にもコミックソング的な作品も数多く作っており、そちらの方は全く音造りが異なっている。こちらは“ノベルティタイプ”と呼ばれ、洋楽のパロディやそもそも歌詞がギャグ、音頭や演歌調の作品とこちらもバラエティ豊かな作風となっており、人によってはこちらが大瀧の本領であるとの声もある。このような作品は第一期ナイアガラと呼ばれる70年代の作品「NIAGARA MOON」や「LET'S ONDO AGAIN」などに多くみられた。
1990年代以降は長年住んでいる東京都福生市で「勉強家」として活動しており、山下達郎のラジオ番組で毎年新春対談をするなど、ごく僅かな親しい人物(山下達郎、坂崎幸之助、高田文夫など)のラジオ番組にゲスト出演する以外は殆ど姿を表すことはなかった。
経歴
生誕~上京
1948年、岩手県江刺郡梁川村(現:奥州市)生まれ。本名、大瀧榮一(おおたきえいいち)。
自作したラジオから聞こえる米軍放送やレコードでアメリカン・ポップスに明け暮れる少年時代を送る。
その後、高校に進学するも親から貰った授業料を全額くすねてレコード代に充ててしまった為1年で退学。他の高校に編入するも今度は大学受験に失敗。上京して入社した小岩の製鉄会社にもロクに出社せず(3ヶ月で20日間しか行かなかった)退職、ニート暮らしを経て1968年に早稲田大学第二文学部へ入学。ここで終生の友人となる細野晴臣と出会う。
はっぴいえんど~ソロ期(1970年代)
1970年、細野晴臣、松本隆、鈴木茂とロックバンド「はっぴいえんど」を結成。日本語ロックのさきがけとして後世に多大なる影響を残す。
1972年にアルバム『大瀧詠一』をベルウッドより発売、ソロデビューする。が、この時のベルウッドの契約・楽曲の権利関係の管理やマスターテープの保存方法があまりにも杜撰であった。
その為、1974年に作詞・作曲・編曲・プロデュース・エンジニア・原盤制作などをこなすプライベートレーベル「ナイアガラレコード」をエレックレコードの出資で設立する。同時期にシュガーベイブ(山下達郎や大貫妙子が在籍)のプロデュースや、ラジオ『ゴー・ゴー・ナイアガラ』なども開始、順風満帆なソロ活動をスタートさせるも、その矢先にエレックレコードが倒産。更にはっぴぃえんどもメンバー間に軋轢が生じ解散してしまう。
1976年、レーベルごと日本コロムビアに移籍するも、その際の「スタジオに16chマルチトラックレコーダー(当時の最新鋭機材)を提供してもらう代わりに、3年でアルバム12枚を製作する」というとんでもない契約が大瀧を苦しめる事となる。
最初の3枚はそこそこ売れたものの、年間4枚という異常な製作スピードによるクオリティの低下でマニア層が離れ、趣向を凝らし過ぎた楽曲によりライト層が離れるという悪循環に陥り、アルバムを出す度に売上が急落、11枚目の『LET'S ONDO AGAIN』の売上が500枚を切った段階で契約は解消。1980年にコロムビア主導で12枚目のアルバム(ただの編集盤)が発売されるまでソロ活動が出来なくなってしまい、赤字補填の為スタジオの機材も売却されてしまう。皮肉な事に権利保護の為に設立したはずのナイアガラレコードが逆に自身の活動の枷となってしまった。
A LONG VACATION~EACH TIME
しかし1981年、大瀧に大きな転機が訪れる。ナイアガラレコードの運営をとりあえず肩代わりしていたフジパシフィック音楽出版の担当者が機転を利かせ、CBSソニー(現:ソニー・ミュージックエンタテインメント)へ大瀧を移籍させる。
そして同年、日本音楽史に残る名盤『A LONG VACATION』が発売。ソロデビューから9年で遂に日本レコード大賞を受賞した(今でこそ「表彰式に出席できて賞をもらってくれる人にあげる賞」程度の扱いだが、当時のレコ大はとんでもなく権威のある賞である)。更に、松田聖子に提供した『風立ちぬ』、森進一に提供した『冬のリヴィエラ』、小林旭に提供した『熱き心に』などもも大ヒット、今までの不遇を跳ね返し一躍トップミュージシャンの仲間入りを果たす。
が、『A LONG VACATION』のヒットに大瀧は再び苦悩する事となる。
「オリジナル作品をコンスタントに発表していく意味」に戸惑うようになり、1984年にリリースされた『EACH TIME』の製作中に歌手活動の休止を決める。また、ロンバケは世界最初のCD第一号カタログにも選出されたが、「人の何倍もアナログレコードに拘りのあった自分がデジタルCD普及を早めた」という自責の念から、自身のレーベルから発売されていたアナログ盤を全て廃盤にしてしまう。
このほか、『EACH TIME』は大瀧にとっては「1つの独立した作品」であったが、世間の認識は『A LONG VACATIONの続編』でしかなかったことや、1985年のはっぴぃえんど再結成ライブでの待遇(松任谷由実やはっぴぃえんどなどのニューミュージック世代が演奏した後にサザンオールスターズと佐野元春ら新世代のロックミュージシャンが大トリで登場する、まるで「ニューミュージック世代はお払い箱である」とでも言うような侮辱的な扱いであった)なども一因とされる。但し、サザンについては83年にステージを共にしており、「何かの形で彼らとの足跡を残しておきたかった」と、その当時は競演に前向きだった。
長い沈黙期~新曲発表
1980年代後半以降はエンジニアとしてナイアガラレコード時代の音源のリマスターやラジオDJとして音楽のナビゲーション、音楽史や音楽理論の研究などに時間を費やすようになる。
この時代はかつての活動でファンになった熱狂的ナイアガラー達に支えられていたものの、世間的には完全に「過去の人」とされてしまう。
しかし、ファンであったさくらももこが原作の「ちびまるこちゃん」の中で過去の楽曲が使用されるなど、散発的に大瀧詠一の存在を知らしめていた。
1990年代になると自身がソニーミュージック関連会社の取締役に就任したこともあり、徐々に音楽活動を再開。
1997年に放送されたテレビドラマ「ラブジェネレーション」(フジテレビ)の主題歌に起用された12年ぶりの新曲『幸せな結末』を収録したシングル『幸せな結末/Happy Endで始めよう』がオリコン最高2位を記録する大ヒットを記録した。「ラブジェネレーション」の番組プロデューサーを務めた亀山千広(後にフジテレビ社長を歴任)が大瀧詠一の熱狂的大ファンであり、長年に渡る交渉の末ようやく新曲を制作してもらったという。2003年には同じくテレビドラマ「東京ラブ・シネマ」(フジテレビ)の主題歌として書き下ろした6年ぶりの新曲『恋するふたり』を発表し、こちらもオリコン最高7位のヒットとなった。
この『恋するふたり』をリリース後、大瀧は「90年代に作ったのは2曲、2000年代が1曲だから2010年は0曲だよ」と冗談交じりに話していた。
が、奇しくもそれは現実となってしまう。
急逝~死後に新作発表
2013年12月30日の17時頃、妻の静子さんに突然『ママ、ありがとう!』と大声で言った直後意識を失い、そのまま搬送先の病院で他界した。享年65歳。亡くなる2週間ほど前から足腰の弱りや頭の疲れを訴えていたが仕事の関係で病院へ行かず経過を見ていた。死因は解離性動脈瘤による心肺停止(解離性動脈瘤は初発症状の一つに「突然死」がある危険な病気である)であった。
なお大瀧は自分の頭の中に大量の「新曲」を持っていたが譜面起こしをサボっており、それを危惧した細野晴臣が鈴木、松本や共通の友人を総動員して新作を作らせようとしていた。が、大瀧の急逝によりその新曲たちはついぞ一音も譜面に起こされることは無かった。細野が最後に大瀧と会話した内容も、ずっとアルバムを出さなかったことが気がかりだったことから、死の1ヶ月前に「みんなで手伝うからソロアルバムを作ろうよ」という事実上のはっぴいえんど再結成を匂わせるものだったという。
「時代をかける12月の旅人よ、僕らが灰になって消滅しても、残した作品たちは永遠に不死だ。(『12月の雨の日』という曲の中に)なぜ謎のように『12月』という単語が忍ばれていたか、やっとわかったよ。苦く、美しい青春をありがとう。」
弔辞 松本隆
その後、2014年に一周忌を迎える直前の12月3日に大瀧初のオールタイムベストアルバム『Best Always』の発売が決定した。死後に発売決定したもので、当然大瀧ノータッチはあるが、かつて大瀧は山下達郎のサンデーソングブックにおける新春放談で「シングルだけを集めたアルバムを出したい」といったことを語っており、かねてより念願だったオールタイムベストの発売は決して故人の遺志に反するものではないと思いたい。
これには80年代初頭(恐らく、「A LONG VACATION」前後の時期と思われる)に密かにレコーディングしていたという「Sings by OTAKI」バージョンの秘蔵音源『夢で逢えたら』が収録される。この大瀧作品最大のヒット曲ともいえる代表作のセルフカバーはこれまで"存在しない"とされており、家族のみがその実在を知らされていたという。葬儀でこの音源の存在が明かされるとファンだけでなく関係者誰もが驚いた。
そして、さらに驚くべきことに、この音源はデモテープの類でなく、きちんと「マスターテープ」として保管されていたものだという。ベスト盤に収録されるのは2014年夏に遺品から発見されたそのマスターが使用される。
かつて活動を苦しめてしまった会社ではあるものの、大瀧が音源保護と権利管理のため設立したナイアガラ・レーベルのお陰で音源散逸を免れ、理解ある家族によってもきちんと良好な状態で保管されていたことがこの大発見の一因といえるであろう。
その後、2016年には誰も出るとは思っていなかったニューアルバム『DEBUT AGAIN』の発売が決定している。
大瀧詠一の新作アルバムは『EACH TIME』以来32年ぶりで、その収録内容は誰もが一度は聴きたいと思っていた80年代~90年代の提供曲のセルフカバーバージョンである。「夢で逢えたら」に続いて遺品整理の過程において新発見に至ったマスターテープを用いている。
その中には「風立ちぬ」「探偵物語」といった大ヒット作、「熱き心に」「夏のリヴィエラ」といった演歌系歌手への提供作、「Tシャツに口紅」のような一人多重アカペラのドゥーアップ、音楽活動再開作であると同時に初の漫画家とのコラボ作となった「うれしい予感」、そして抽選プレゼントのみだった「夢で逢えたら ストリングス・バージョン」を含めた全10曲構成で、初回盤にはちびまる子ちゃんでお馴染みの「針切りじいさんのロケン・ロール」などが含まれたナイアガラ・リハビリ・セッションでのスタジオ・ライブが付属する。
大瀧は生前に「今世紀中のアルバムはもうないけど、来世というなら考えはある」といった思わせぶりな発言を遺しており、その実現となったのかもしれない。
なお、メインディスクの音源が一体いつ収録され、どのような目的で保管されていたのかは詳しく解明されていない。但し、デモテープ説(仮歌、ガイドボーカル)は公式が否定している。
時期的なこと(殆どの音源が活動していない時期の作品)からリハーサルテイクではないか?とも言われるが、本人亡き今となっては誰にもわからない。
また、これによって、上記の「90年代2曲、00年代1曲、10年代0曲」が実はウソだったことも判明している。
90年代に歌を吹き込んだ作品は『DEBUT AGAIN』の音源で3曲となる上、さらにリハビリ・セッション、『Novelty Song Book』の「ポップスター」や「ゆうがたフレンド」を含めればより曲数が増加となるからである。
この32年ぶりの新作を祝して、関東ローカルではあるが、ニッポン放送では特別番組が放送されていた('16年2月15日~19日)。なお、圏外でもradikoプレミアムに登録していれば日本全国で聴く事ができた。
さらにアルバム発売の2日前となる3月19日23時30分からのNHK『SONGS』は大瀧特集となり、生前に行われていたナイアガラ・レコーディングを当時のレコーディング・メンバーで再現する、というテレビのいち番組を超えた非常に大掛かりなものとなり、ボーカリストには「探偵物語」で歌唱を務めた薬師丸ひろ子、「Tシャツに口紅」を提供されたほか「夢で逢えたら」をカバーし大ヒットさせた鈴木雅之が駆けつけ、ラストは遺されたボーカルトラックを用いて鈴木・薬師丸・大瀧の三人でのユニゾンによる「夢で逢えたら」を演奏するという豪華なものとなった。
大瀧の立ち位置には生前実際にボーカルレコーディングに使われたSONY C-38型マイクが置かれていた。
当時のメンバーの中には一部故人となった者もいるものの、存命である鈴木茂、斉藤ノブ、上原祐、村松邦男、難波弘之ら総勢20名が駆けつけ、さらにオーケストラには金原千恵子ストリングスを招いての大規模レコーディング並みのセットが組まれた。
なお、「Tシャツに口紅」の演奏完了後に、井上鑑のピアノから独りでに楽譜が飛ぶというハプニングがあり、「今大瀧さんイタズラしたね」としっかり大瀧も出演したことで、共演者を和ませる場面もあった。
余談ながら、大瀧がナイアガラ・レーベルで最初に出したレコードは『SONGS』(シュガー・ベイブ)というタイトルだった。
もしかすると、他にも封印されたセルフカバーや都市伝説レベルで噂される眠っている極秘録音された新作が遺されているのかもしれないが、それを強引に引っ張り出そうとレコード会社に要請するのは「そうしたファンとかマニアとかおっしゃる人々のですね、ある意味でのそうした『独善性』というのものは大瀧さんが最も忌み嫌ったものでありました。」という山下達郎の発言にもあるように、これ以上の未発表音源を望むのは、それこそ故人の遺志を踏みにじる行為に等しい。その中でも厳選してファンが最も聴きたがっていた代表作たちに大瀧自身の声で永遠の命が吹き込まれたことだけでも喜ぼう。
その後
大瀧が亡くなって久しい現在でもテレビCMで代表曲「君は天然色」「カナリア諸島にて」が使用されるなど、メディアを通して聞く機会も少なくない。
2020年4月期に放送されたテレビアニメ「かくしごと」のエンディングテーマも「君は天然色」が起用されている。
大瀧の生まれ故郷である岩手県奥州市に所在する東北新幹線水沢江刺駅では、2020年10月1日の始発より発車メロディに「君は天然色」を使用している。地元の奥州市市民有志が約5000筆の署名を集め、奥州市などによる実行委員会がJR東日本に要望を提出したことにより実現の運びとなった。この放送開始とともに同駅では大瀧の業績を伝える展示コーナーも開設する予定がある。(ソース記事)
さらに2021年には、代表作の『A LONG VACATION』が発売から40周年を迎え、限定のVOXセットも発売、未発表だったこのセッションデータの多くが明らかになったほか、抽選制の30周年記念パーティで1度のみ公開された「Road to A LONG VACATION」もCD化された。
また、2021年3月21日より、各種音楽配信サイトでは大滝作品の全曲サブスクリプションが解禁となる。
このサブスクも、徐々にラインナップが増えており、BOXセットや周年再販時のボーナストラック、死後に発表された音源などもそのリストに追加されている。
これに伴い、各種音楽雑誌やテレビ番組では大滝特集が組まれるなど、今再び大滝詠一のナイアガラサウンドに注目が集まっていると言えるだろう。
2023年3月21日には、それまでメロディタイプの楽曲の蔵出しが中心であった死後発売音源について、初めてノベルティタイプの特集が組まれ、「大滝詠一 NOVELTY SONG BOOK / NIAGARA ONDO BOOK」として発売された。本作には、生前最後の公式録音となった「ゆうがたフレンド」や「ポップスター」「うなずきマーチ」といった提供曲のセルフカバー、「ホルモン小唄」といったごく一部で公開されただけの幻の楽曲なども含めた作品集となっており、非常に貴重な内容となっていた。
また、Best Alwaysが発売された2014年以降、ほぼ年1回ペースでセルフカバーなどの何かしらの未発表音源が3月21日付近で発売されており、皮肉にも亡くなってからの方が(バージョン違いやアウトテイクなどではない純粋な新規の)音源が増加している状況となっている。
関連動画
主な代表曲
関連項目
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