U-861単語

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U-861とは、第二次世界大戦中にドイツ海軍が建造・運用したIXD2Uボートの1隻である。1943年9月2日工。通商破壊連合軍商4隻(2万2048トン)撃沈の戦果を挙げた。1945年12月31日デッドライト作戦により処分。

概要

IXD2とは、前級IXC以上に作戦範囲の拡大をした長距離航洋Uボートである。これまでのIXとは全く違う体と設計を持ち、排水量1600トン以上と、日本海軍に迫る巨を誇る。

まず最初にIXD1が建造されたが、搭載していたメルセデス魚雷艇エンジンの信頼性が低かったため、IXD2では、IXCと同一のMAN社製M9V40/46ターボチャージドエンジン2基に戻し、新たに低速巡航用のMWM社製RS34/5S巡航用ディーゼル2基を搭載。これによりフランスからインド洋やオーストラリアまで長駆出来る長大な航続距離を獲得した。またIXCより体を10m延伸して燃料搭載量を増大させている。補助用ディーゼル発電機と電動モーターを同時駆動させる事で、水上速力19ノットを発揮。

には10.5cmシフスカノーネC/32を採用。360度旋回可、23kgの弾丸を最大1万5300m先まで発射出来るこのは操作に3名の人員を要する。戦況が不利になるにつれ、各種Uボートから甲が撤去されたが、IXのみ何故か最後まで搭載され続けていた。後甲には強力な重対空砲である3.7cm Flak M/42単装機関を装備。IXD2VIICより大なので更に2cm Flak38連装機関を装備、Flak38はFlak30の改良にあたり、3倍以上の発射速度を誇る。ウィンターガルテンを採用。

航洋Uボート完成形とも呼べるIXD2は合計28隻生産された。U-861は特筆するような大改造をしておらず標準的な艦体を持つ。

諸元は排水量1616トン、全長87.6m、全幅7.5m、最大速力19.2ノット(水上)/6.9ノット(水中)、燃料搭載量389トン。兵装は21インチ艦首魚雷発射管4門、同艦尾魚雷発射管2門、45口径10.5cm単装1門、37mm機関1基、20mm単装機関1基。

艦歴

1941年6月5日にデジマーグAGヴェーザー社へ発注。建造資材調達の途が立ったため、1942年7月15日ブレーメン所にてヤード番号1067を刻んだを設置して起工、1943年4月29日し、そして同年9月2日工を果たした。初代艦長にユルゲン・オーステン少佐が着任するとともに訓練部隊の第4潜隊群へ編入される。

記念式典にはアルベルト・シュペーア軍需大臣が参列して艦を視察。この際、艦長に内定していたオーステン少佐ドイツの将来について尋ねたところ、「1944年頃には敗北するだろう」と答えたという。には「地球儀に登るパンサー」をあしらったエンブレムを描いているが、これは連合軍優勢の戦況下においても、世界的な作戦規模を維持するドイツ海軍の努力姿勢を示す。

オーステン艦長はU-61とU-106の艦長、第9潜隊群北方潜水艦を歴任し、15隻撃沈と4隻撃破の戦果を挙げて、騎士十字章を授与された老練のベテランであった。彼はドイツ空軍からグスタフ・ゲッチェを引き抜いて操手に充てる。ゲッチェは優れた航法士かつ機知に富んだ逸材で、その才を艦長は見抜いていたのだ。

バルトでは潜航機動、魚雷操作、高度なシュノーケル操作、長距離航行などの諸訓練に従事、艦の耐航性・推進力に関する試も行われた。その一方でU-861には戦闘訓練が施されていない。また訓練中、リバウ湾でダグボートに衝突され損傷する不幸に見舞われている。

1944年4月1日ボルドーを拠点とする第12潜隊群へ異動。

東南アジアへの派遣

インド洋では、日本軍の協力を得てモンスーン戦隊通商破壊作戦を行っていた。しかし、熱帯気特有の高温多湿環境魚雷の機不全を招き、戦果を低調なものにしてしまう問題が発生。そこでドイツ海軍魚雷を満載したUボート部隊第三波を東南アジア派遣する事を決定。U-861もペナン行きを命じられる。

またドイツ内ではゴムタングステンモリブデンといった重要な原材料が不足。これらの産地は同盟日本が占領する東南アジアにあったので、往路は日本軍向けの材料や新兵器写真を運び、復路は東南アジア戦略物資を満載する遠大な輸送計画を画策。

艦内には日本軍向けの水銀100トン100トン、追跡装置、電動モーター、工具、郵便物などを積載し、加えてペナンに赴任する報道部隊ヘルマンキーファー備中尉が乗艦した。今回が初めての航だという若手の下士官ノール伍長は、行き先がペナンだと知らされると子供のように喜んだという。

1回目の戦闘航海(1944年4月~9月)

1944年4月20日キールを出撃。バルト、カデカット峡、スカゲラ峡を通過し、4月22日ドイツ占領下ノルウェー南部クリスチャンサンへ寄港して生鮮食糧を補給。そして翌23日同地を出発してペナンへの長い旅路の第一歩を踏み出す。連合軍が厳重な警を敷く、アイスランドフェロー諸島間の域を突破し、中部大西洋を慎重に南下していく。

最初の航に出た時、オーステン艦長は重いを抱えていた。戦後彼は「本当に不安だった。何も達成できないと分かっていたからだ。何を沈めようが、を殺そうが、本当に必要なことなど何もなかった」と述懐している。

ノルウェーから南緯15度線までは日中は潜航、間のみ浮上してバッテリー充電を行う。浮上すると艦内のシステムが、あらゆる方向からの線通信を傍受し、それが凄まじい音量となって襲ってくるので、グレイウルブス通信士にとって浮上は忌々しい時間の始まりであった。しかも浮上と潜航は1時間おきに繰り返されるため一晩に何度も騒音く。数晩経った後、ついに耐え切れなくなったオーステン艦長は悪態をつきながら全てのシステムを切るよう命じた。

6月23日赤道を南下して南大西洋へと進出。艦内では恒例の赤道祭が開催され、乗組員は日々の任務を忘れてどんちゃん騒ぎを繰り広げた。6月28日BdU(Uボート部)より「政治的理由からアルゼンチン域での通商破壊は不可。南緯28度0度以南は絶対に越えてはならない」との警告文を受領。

南緯15度線を通過すると、ようやく日中水上航行が出来るようになり、乗組員たちは約70日ぶりに太陽を一身に浴びた。しかし太陽を受けられるのは職務に就いている者だけで、非番の者は酸素節約の的から寝台で横にならなければならなかった。

7月2日ブラジルにて、リオデジャネイロからイタリアに向かうブラジル兵第1部隊を輸送中の兵員輸送ウィリアム・A・マンへの雷撃を試みるも、発見出来ずそのまま取り逃がしてしまった。

南大西洋での通商破壊

7月20日午前4時54分、サント灯台南方約40里にて、サルドルからリオデジャネイロに兵員と木材を輸送していたブラジル海軍輸送艦ヴィタル・デ・オリヴェイ(1737トン)を雷撃し、これを6分以内に撃沈せしめる。乗組員100死亡。この戦果はUボートブラジル海軍の正規艦艇を撃沈した一の例であった。直ちに駆潜艇ジャバリがU-861を捜索したものの難なく離脱に成功した。

ヴィタル・デ・オリヴェイアの撃沈により、バイーア州とエスリトサント州の航行は全て消され、7月22日付のロイター通信がヴィタル・デ・オリヴェイラの撃沈を報道BdUにも戦果が伝わる。

7月24日午前3時24分、フロリアノポリス南東約150里を単独航行中のリバティ船ウィリアムガスト(7177トン)はU-861から雷撃を受け、右舷側の第4倉と第5倉の間に魚雷が命中。ハッチカバーが吹き飛ばされ、左舷に破孔が発生、また蒸気管が破裂するとともに、積み荷のトウモロコシデッキ中に散乱した。約10分後、トドメの魚雷を受けて尾より沈没。士官8名、員33名、武装警備員26名は救命ボート4隻と筏1隻に分乗して上へと脱出していった。同日ブラジル南東よりケープタウン方面に向けて移動を開始。

護衛空母ソロモンズ率いるハンターキラーグループがU-861の行方を追うも事対潜警網を掻い潜った。8月上旬頃、南アフリカ南端ケープタウンへと到着。その頃、モザンビーク峡で通商破壊を行っていたU-198を立て続けに3隻撃沈、同方面の交通が極めて良好であるとBdUに報告したため、8月8日、ペナンに向かっているU-861とU-862に「ケープタウン域には留まらず、アデン湾方面に向かえ」と示を下した。

敵の圏を避けるべく喜望峰を大きく回してインド洋に進出。航空が厳重との情報が入っていたので、当初予定していたモザンビーク峡での通商破壊を取りやめ、オーステン艦長は船舶の往来が少ないマダガスカル回する航路を選択、ただひたすらペナンしてインド洋を東進する。

DN-68船団との戦闘

8月19日、右舷前方の線上から煙の柱が数本立っているのを見り員が発見・報告。ギュンター副艦長は「一体どこから団が来ると言うんだ?マダガスカルのすぐ東から?」と朝食の席でぶつぶつとく。今通っているのは中立船舶すらど見かけない航路だ。それでも念のためオーステン艦長は食堂を出てへと向かう。今まで努力と苦難に釣り合わない成果しか挙げられていないため、艦内の雰囲気は最高とは程遠いものだった。

に上がってみると確かに敵団の姿が見える。艦長は双眼鏡団の動向を監視しながら、ジークフリート・シュルツェ戦闘手に針路変更の示を出す。U-861の針路をもとにアフメド一等航士が定規分度器鉛筆コンパスを用いて攻撃計画をに出力していく。オーステン艦長は団の右舷側から雷撃する事に決め、日を迎えるまでは、距離を保ちつつ敵に見つからないよう静かに追跡、どうやら敵団は油断しているようで、中になっても針路を変えずにワンパターンジグザグ運動を続けている。見り中の私語は禁止されているが、禁止事項が多いと、かえって反発を招く恐れから敢えて艦長はおしゃべりを許可した。

やがて適切な雷撃位置についたU-861、間もなく「外側と中央の貨物船にそれぞれ1本ずつ魚雷を発射せよ」とオーステン艦長が命じ、準備が整った3番、4番艦首発射管から白線の尾を引く音響魚雷が発射された。手にしたストップウォッチ視線を落とす艦長。

8月20日午前0時30分、ダーバン東南東約400里で、ダーバンマダガスカル行きのDN-68団を雷撃し、蒸気リックシャー(7464トン)の右舷側に命中、柱と鈍い爆発音が生じた。敵襲を悟った団からは照明弾が打ち上げられ、コルベット艦2隻のうち、1隻がU-861の方へと接近、見り員のチョッペ兵曹がコルベットの接近を報告する。

が、コルベットはある程度時間を稼ぐと踵を返して去っていった。どうやら団からU-861を引き離すのが的だったらしい。当然オーステン艦長がこの好機を見逃すはずがなく、「まだ楽しめるな」ときつつ、コルベット注意深く追跡するよう命じた。ドイツ製の暗視双眼鏡は実に素晴らしい。これを使えば間とほぼ同じように見えるのだから。

被雷炎上中のベリックシャーに寄り添うかのようにコルベット艦2隻が波に揺られている。おそらく員の救助をしているのだろう。しかし、それ以外のの姿は見受けられず、オーステン艦長は潜航を命水中聴音機による索敵を試みる。長い追跡の末、U-861は2隻の貨物船が航行しているのを発見、度的に1隻しか攻撃出来ないので、最も大きい1万トン貨物船に狙いを定める。

19時41分、蒸気ダロニア体中央部に魚雷2本を命中させて撃破、ダロニアは傾斜して瀕死の状態に陥るが、護衛のコルベット艦2隻が針路を阻むように展開、残りの1隻が全速力で逃走したため、深追いは禁物と考えたオーステン艦長はマダガスカル方面への逃走を示。戦闘は終結した。ベリックシャーは一般貨物6000トンと高オクタンガソリン70トンを抱えて沈没、ダロニアは辛くもダーバンに到着した。

インド洋を進むU-861

戦闘から数日後、マダガスカルタマタベ港とフォート・ドーフィンの潜望偵察を行うもぼしい獲物はかった。北に向かいながらフォッケアハゲリス Fa330を発進させ、からの索敵を試みたところ、貨物船マストらしきものを発見したと報告、しかし確認してみるとそれはアルダブラ諸の木だった。オーステン艦長は冒険好きな士官の勧めに折れてアルダブラ諸に向かうよう命を下す。

教本によるとは全長20m、中央を沿が隔てている典的な熱帯ので、生い茂るヤシの木の中に黒人の集落がある。出港以来陸地を踏んでいない彼らにとって魅力的なものに見えた。さっそく沿の入り口まで艦を移動させ、調の名で、ディンギーをへ降ろす作業が始まり、非番の者も上甲で新鮮な空気を吸う事が許可され、常で占められた色を楽しんだ。

ところが穏な空気は突如として打ち砕かれる。イギリス軍の巨大な飛行艇カタリナが接近してきたのである。バカンス気分から一転、U-861は急速潜航を強いられた。

マダガスカル北方を航行中、土砂降りに遭遇したU-861。午後の当直中、好奇心から味方のUボートを探していたシュライ一等航士が、自艦の担当域を行く6000トン級蒸気を偶然発見、直ちに急速潜航を行い艦長が潜望観察を実施、視界不良ゆえに敵はU-861の存在に気付いていないようだ。彼らはゴーテンハーフェンで受けた訓練と同じように動き、が来るのを待ってから狩りを始める。

9月5日18時15分、モンバサ東方250里にて、単独航行中のギリシャイオアニス・ファファリオ(5670トン)を雷撃、魚雷2本が右舷中央部と第4倉にそれぞれ命中して機関停止へと追いやる。線室が破壊されたため遭難信号を送れないまま員はを放棄せざるを得なかった。それからすぐにイオアニス・ファファリオスは沈没を始めて4分以内にへその身をする。

浮上したU-861は右舷後部側に移動しながら域を離脱、しかしオーステン艦長の裏に「もしか、もしかしたら負傷者が残骸の中に浮かんでいるとしたら?」という考えがよぎり、騎士精神を発揮して雷撃現場に反転生存者の救助を試みようとするも、も乗っていない救命ボートと筏しか見つからなかった。

懐中電灯で辺りを探し続けていると、救命ボート上に尻尾を振りながらえているを発見、にいた金髪の火夫が助けてあげようとするが、「ボート爆弾が仕掛けられているかもしれない」と士官が制止し、の乗った救命ボートは艦尾側に流されていく。やがての鳴きは「クゥクゥン」と弱気なものになり、最後は線の向こうへとしく消えていった。「人間だったらどうなっていたんだ?」とかが吐き捨てる。それに対する返答はく、押し寄せる首波の音のみがその場にいた。

9月12日、U-861はイオアニス・ファファリオスの撃沈をBdUに報告。

生死の瀬戸際に立たされるノール伍長

ノール伍長食時も、夕食時も、皿に盛られたパンを一口も食べず、顔を熱くさせていた。原因不明の頭痛が日に日に強くなっていく。痛みに耐えかねた彼は、片手で左と後頭部を押さえながら、おぼつかない足取りで軍医の下を訪れる。診断の結果、急性中炎と判明。それもかなりの重症だった。治すには手術をするしかないが、あいにく艦内には、そのような設備も器具もく、十分な設備が整っているであろうペナンまで後10日ほどと見積もられるも、軍医く「それまでは生きられないでしょう」との事。

彼の命を助けるには是が非でも手術をしなければならない。やむなく機関室から代用品を調達、沸騰した湯に浸けてしっかりと消毒した後、士官食堂を臨時の手術室にしてオーステン艦長が部外者の立ち入りを禁止、まず最初にコックがノール伍長の頭を丸刈りにする。手術室が動揺するのを防ぐためU-861は潜航した。

麻酔によってノール伍長が眠りにつくと、軍医は一度も執した事がい難しい手術に臨む。の後ろ2cmの部分にメスを走らせて切開、衛生兵の手助けを受けながら、あるいは小で会話を交わしながら黙々と作業をこなしていく。艦内は異様な静けさに包まれた。ディーゼル機関室、操縦室、艦首区画などの、あらゆる場所で乗組員が聞きを立てていたからだ。メスを置いた後はハンマーを手に取り、頭蓋の突起にガツンと当てて穿つと、スプーンを使って中の膿を優しく取り出す。

全ての膿を出し終えた後は傷口に詰め物を入れ、ステープルで縫合していく。「終わりました」と疲れ果てた軍医が言うと、エルタン艦長は飛び上がって喜び、担架に乗せられたノール伍長は、隔を通って後部区画の寝台に運ばれていった。こうして彼は死の危険から脱する事が出来たのだった。手術が終わるとU-861は水上航行を再開する。

ペナン到着

U-861は遂にマラッカ峡の北側まで辿り着いた。図台の横に立つ艦長は「あの忌々しいを見つけられると思うか?」と苛立ちながら言う。彼の機嫌は最悪のようだ。それに呼応するかのように上のも大荒れで、大人ほどの大きな粒が、のように甲へと降り注ぎ、ドラムくような音になって艦内に鳴りく。燃料はほぼ尽きかけ、今や燃料タンクで動いているような状態であった。

シューマン線通信士がペナンドイツ線局とやり取りした結果、ペナン北方100里のランカヴィ付近で、ドイツ水先案内人が乗艦した日本護衛艦艇と合流する事になり、狭いマラッカ峡をしで通過する無茶ぶりをしなくて済むとしてオーステン艦長は安堵した。

またU-861は、イェプセン艦長率いるU-859のペナン到着も近い事を知り、艦内は歓喜と陽気な雰囲気に包まれた。何故ならU-859の乗組員たちとはブレーメン、ゴーテンハーフェン、キールの基地で何度もを酌み交わし、多くの計画を練ってきた知己とも言うべき間柄だったからだ。もちろんオーステン艦長もイェプセン艦長と交があり、U-20では一緒に勤務した間柄であった。

夕刻、ランカヴィで待機していると、から小の高速艇らしきものが向かってきた。護衛と言うにはあまりにも心細い小艇に、に立っていた者は驚きで互いの顔を見合わせる。「ドイツで高く評価されている日本海軍の艦隊戦力はそれほどまでに衰弱しているのか?」と一の不安がよぎった。横付けした小艇から、水先案内人チャーリーミリッツァ中佐挨拶に訪れ、持ってきたオレンジバナナココナッツ日本ビールをU-861に贈呈。その後、食堂オーステン艦長と二人きりになったタイミングを見計らい、ミリッツァ中佐日本海軍の戦力が本当に減退していると秘密裏に打ち明けた。

ナン周辺では潜水艦がよく待ちせているため海岸線に沿ってジグザグ運動を行う。左舷側に見える豊かな色、美しき々に視線を奪われそうになるも、その誘惑を断ち切って見りに邁進する乗組員。

9月23日156日間の戦闘を経て的地のペナン基地に到着した。係留中のUボート上には手を振る乗組員が並び、では日本の軍楽隊が労いの演奏を奏でていたが、その演奏をかき消すほどの量で万歳が叫ばれた。艦を降りたオーステン艦長は基地ヴィルヘルム・ドメス中佐の下へ挨拶に赴いた。

東南アジアでの活動

ナン基地にはU-859の姿はかった。オーステン艦長がアフメド一等航士に情報を探らせたところ、U-861がペナンに入港した日、待ちせの潜水艦レンチャントによって撃沈された事が判明、実際生存者9名が日本軍に救助されている。

ナンの造所に入渠してオーバーホールに着手。日本軍部隊は人手を出してくれたものの、自軍艦艇の修理を優先して常時人手不足であり、乗組員も作業や清掃を手伝った他、時にはマレーシア地域での小規模なパトロールも行ったという。

それでもペナンで過ごした時間は静かなものであった。日本軍ドイツ人乗組員のために、ビーチとヤシの木で囲まれた快適なバンガローを居住区としてあてがい、ジョージタウンからケーブルカーに乗れば保養地ペナンヒルまで行く事が出来た他、スプリングタイホテル、エリゼホテル水泳場、ブレーザーヒルなど観光地や娯楽が盛りだくさんで、制限の自由により乗組員たちの心身はすっかり癒された。

10月1日モンスーン戦隊こと第33潜隊群に転属。

連合軍の猛攻により、もはやペナン拠点にするのは難しいと判断したモンスーン戦隊は、後方のバタビアとスラバヤを新たな拠点定。これに伴い、U-861は11月1日にペナンを出港、マラッカ峡を通ってシンガポールに寄港し、ここで日本軍向けの物資を揚陸した後、11月5日スラバヤへ入港、現地の造所にて機関オーバーホールを実施した。

出渠後、ドイツが渇望する110トンタングステン30トンモリブデン900kg、キニーネ300kg、生ゴム40トンを積載。少しでも積載量を増やすため魚雷は自衛用の2本を除いて全て揚陸された。またU-861の帰を達成すべく、帰路では戦闘を極力避けるよう命じられた他、乗組員を基地に呼び戻した直後に再度上陸休暇を与えたり、数回の偽装出港訓練を行ったりして連合軍のスパイを撹乱。

あまりの底ぶりに、U-861の不意の出港に乗り遅れた乗組員2名が現地に取り残されている。しかしこれは意図して行われた計画だった。彼らは情報漏洩U-168の撃沈要因を作ったと疑われており、ホッペ基地の策略により、2名の姿が見えなくなるまで、召集命と上陸休暇を繰り返していたのだ。

2回目の戦闘航海(1945年1月~4月)

1945年1月15日午前7時にスラバヤを出港。既にフランスは失陥しているため、入港先をノルウェートロンハイムに変更。

出港前のあらゆる努力にも関わらずバリ島ロンボクの間では、潜水艦2隻がU-861を撃沈しようと待ちせていた。ロンボク峡の入り口までは日本駆逐艦が護衛してくれたが、ここから先はU-861だけで進まなければならない。最も危険なロンボク峡を潜航状態で突破。闇に紛れて浮上するが、2隻のうち1隻がU-861に気付いて追跡を開始する。

U-861は異例の南寄り航路を選択した。艦内では乗組員の一部にデング熱が流行っており、東南アジア医師から「より寒い気条件であれば症状を緩和出来る」との情報を得ていたオーステン艦長が、敢えて寒冷の南寄り航路を通るよう示したのである。その判断こそが艦を救う決め手となった。3日後、潜水艦インド洋でU-861を見失う。

インド洋と喜望峰を抜けた後、貿易を背に受けながら北へ北へと進んでいく。潜航中、遠雷のような爆雷の炸裂音が、時には遠く、時には近くから聞こえてくる。とにかく帰を優先していたため通商破壊は一切行われなかった。それでもケープタウンジャイロコンパスが故障、以降磁気コンパスしか使えない事態に陥ったり、グリーンランド南方間航行中、の見り員が流氷を見逃して衝突、艦首部分に軽微な損傷を負うなどの困難が降りかかった。

当初はロリアンに寄港してシュノーケルの搭載工事を行う予定だった。フランスを失陥したとはいえ、ナン・ナゼールやロリアンなどの一部港湾基地は連合軍の包囲下でドイツ軍が堅持しており、寄港の余地があったのだ。しかしU-861の航BdUの想定より進んでいたため取り止めとなる。

4月18日トロンハイムへ入港。航続距離が長いIXD2と言えど、スラバヤからノルウェーまで補給で行くのはギリギリだったようで、燃料タンクに残っていたディーゼル燃料は僅か800リットルのみだったという。まさに間一であった。

こうしてU-861は東南アジアより生還した最後のUボートとなる。

ドイツ帝国最期の時

U-861が帰投した時、ドイツ敗北読み段階に入っていた。

乗組員たちは「戦争はとっくに終わった」との共通認識を持っていた一方、トロンハイムのには「奴隷より死んだ方がマシだ」と書かれており、現地のドイツ軍部隊は戦意に満ちていた。このような認識の違いは一つの悲劇を生み出す。上陸した乗組員がパブでを飲んた時、毎度の如くやさぐれて、未だ戦おうとする友軍を嘲笑したので、憲兵隊がやってきて彼らを逮捕、部下が逮捕されたと聞いたオーステン艦長はを渡り歩き、投されていた部下たちを救い出す羽となる。艦長が持っていた騎士十字章が上官との交渉に大いに役立った。

その後オーステン艦長は掃小艦隊の官に転任する事が決定。それを伝えに来たエーリッヒ・シュルテ=モンティン少将に、艦長が東南アジアより持ち帰った大きなコーヒー袋を手渡す。これは賄賂でも何でもない単なる贈り物であったが、ドイツ内ではコーヒーの欠乏が深刻化していた背景もあり、賄賂と解釈したモンティン少将は転任の話をウヤムヤにした。オーステン艦長が本を離れている間にどれだけ事情が変わったのかがえるエピソードである。艦長としても見ず知らずの掃小艦隊より、気心の知れた仲間がいるU-861に留まりたかったので好都合だったので異論はかったようだ。

5月4日15時14分、自殺したヒトラー総統に代わって、新総統に就任したカール・デーニッツ元帥が全Uボートに対して作戦中止命を出す。次いでU-861は5月6日トロンハイム連合軍に降。そして5月8日ドイツが降した事で欧州戦線は終結した。

戦後

トロンハイムに進駐してきたイギリス軍がU-861を接収。1945年5月19日Uボートブンカー前で停泊中のU-861とU-995を撮した写真が現代に残されており、IXD2VIICの大きさの違いがよく分かる重な資料となっている。

オーステン艦長以下乗組員はフランスに連行される予定だったが、イギリス軍にはUボートの専門知識を持った者がおらず、このままではU-861を北アイルランドに回航する事が出来ないため、イギリス側はオーステン艦長にロンドンリーまでの回航を依頼。しかし彼はこれを辞退した。戦争が終わったのでに帰りたかったのだ。り強い交渉により、ドイツへの期帰を条件にU-861の回航を引き受ける。

5月29日オーステン艦長の揮によりトロンハイムを出港、スカパ・フローを経由して、6月2日的地リサハリーへ到着した。護衛についた駆逐艦に「護衛ありがとうございます」とメッセージを送ると、駆逐艦側から「こちらこそ光栄でした」と返答が返って来るなど、穏やかな雰囲気が流れていたが…。

リサハリーで待っていたのは逮捕と収容だった。イギリス事前の合意を反故にした訳である。艦長たちは有刺線とニッセン小屋2棟からなる捕虜収容所に移送、後にオーステン艦長は、危険人物やナチス信奉者と判定された者たちを収容する、ノーサンバーランドのサウス・タイ沿いにあるフェザーストーン・パークの捕虜収容所に送られ、陰かつ敵意に満ちた収容所生活に彼は神経質に取り乱したという。ドイツ人捕虜の通訳としてあてがわれたドイツユダヤ人ハーバード・ズルツバッハとも上手くやれなかった。

技術の拡散を防ぐ事、そして政治的理由で接収Uボートの運用が出来ない事から、イギリス政府11月14日デッドライト作戦の実行を決定、ライアンの86隻、リサハリーの24隻を全て自沈させるよう命じた。

1945年12月31日14時15分、ポーランド駆逐艦ブウスカヴィツァの撃を受けて処分。残骸は深43mの海底に沈み、現在サンゴ礁甲殻類が楽しめるダイビングスポットとなっている。

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