U-861とは、第二次世界大戦中にドイツ海軍が建造・運用したIXD2型Uボートの1隻である。1943年9月2日竣工。通商破壊で4隻(2万2048トン)撃沈の戦果を挙げた。終戦まで生き残った後、1945年12月31日にデッドライト作戦で海没処分。
概要
IXD2型とは作戦範囲の拡大を目指した長距離航洋型Uボートである。
これまでのIX型とは全く違う船体と設計を持ち、排水量も1600トン以上と、日本海軍の海大型に迫る巨躯を誇る。生産性を優先し、前級IXD1型に搭載したメルセデス製魚雷艇用エンジンが使い物にならない事が判明したため、IXC型と同じM9V40/46 ターボチャージドエンジン2基へ戻し、更に低速巡航用のMWM社製RS34/5Sディーゼル2基を搭載。IXC型より船体を10m延伸して燃料搭載量を増大させた。これにより水上航続距離がIXC/40型の2万1113kmから4万3893kmにまで増加、水上航行中に補助用ディーゼル発電機と電動モーターを同時駆動させる事で、最大速力も18.3ノットから19.2ノットに増加するなど、全体的に性能が向上している。
大型航洋型Uボートの完成形とも言えるIXD2型は計28隻が量産され、南アフリカ沖やインド洋における通商破壊で戦果を挙げた。
諸元は排水量1616トン、全長87.6m、全幅7.5m、最大速力19.2ノット(水上)/6.9ノット(水中)、燃料搭載量389トン。兵装は21インチ艦首魚雷発射管4門、同艦尾魚雷発射管2門、45口径10.5cm単装砲1門、37mm機関砲1基、20mm単装機関砲1基。
戦歴
1941年6月5日にデシマーグAGヴェーザー社へ発注。建造資材調達が完了したため、1942年7月15日、ブレーメン造船所でヤード番号1067を刻んだ竜骨を設置して起工、1943年4月29日進水し、そして9月2日に無事竣工を果たした。記念式典には軍需大臣アルベルト・シュペーアが参列して艦を視察。艦長に内定していたユルゲン・エスタン少佐がドイツの将来について尋ねたところ、「1944年の秋頃には敗北するだろう」と答えたという。
竣工と同時に訓練部隊の第4潜水隊群へ編入。司令塔には「地球儀に登るパンサー」をあしらったエンブレムを描いた。
エスタン艦長はU-61とU-106の艦長、第9潜水隊群司令、北方海域潜水艦隊司令を務め、15隻撃沈と4隻撃破の戦果を挙げて、騎士十字章を授与された老練のベテランであった。エスタン艦長指揮の下、バルト海で諸公試及び慣熟訓練を行うが、訓練中にリバウ湾でタグボートに衝突されて損傷するという不幸に見舞われている。
ドイツ海軍は日本占領下ペナン基地にUボートを派遣し、モンスーン戦隊を編制して、インド洋での通商破壊及び戦略物資の輸送を試みていたが、高温多湿の環境が魚雷を機能不全を起こし、通商破壊の不活発化を招いていた。そこでドイツ海軍はペナン行きの第三波をヨーロッパから送る事とし、U-861にもペナン行きが指示される。艦内には日本向け水銀100トンと鉛100トン、追跡装置、電動モーター、工具、郵便物、ペナンに派遣されるヘルマン・キーファー隊員などを積載。
1回目の戦闘航海
1944年4月20日にキールを出撃、バルト海、カデカット海峡、スカゲラク海峡を通過し、4月22日、ドイツ占領下ノルウェー南部クリスチャンサンへ寄港して生鮮食品を補給、そして翌23日に同地を出発してペナンへの旅路の第一歩を踏み出す。アイスランド・フェロー諸島間の海域と突破したのち中部大西洋を南下していく。
最初の航海に出た時、エスタン艦長は重い心境を抱えていた。「本当に不安だった。何も達成できないと分かっていたからだ。何を沈めようが、誰を殺そうが、本当に必要なことなど何もなかった」と戦後述懐したほど。
6月23日に赤道を南下して南大西洋に進出。艦内では恒例の赤道祭が行われて盛大な式典が催された。7月2日、ブラジル沖で活動するU-861は、リオデジャネイロからイタリアに輸送するブラジル兵第1部隊を乗せた米兵員輸送船ウィリアム・A・マンへの攻撃を試みるも、発見出来ずに取り逃がしてしまう。
7月20日午前4時54分、サントメ灯台南方約40海里にて、駆潜艇ジャバリの護衛を伴ったブラジル海軍輸送艦ヴィタル・デ・オリヴェイア(1737トン)を雷撃し、6分以内に撃沈せしめる。乗組員100名死亡。これはUボートがブラジル海軍の正規艦艇を撃沈した唯一の例であった。即座にジャバリがU-861を捜索したものの難なく離脱に成功している。この影響でバイーア州とエスピリトゥサント州の航行灯は全て消され、7月22日付のロイター通信がヴィタル・デ・オリヴェイラの撃沈を報道。BdU(Uボート司令部)にも戦果が伝わった。
7月24日午前3時24分、フロリアノポリス南東約150海里を単独航行中のリバティ船ウィリアム・ガストン(7177トン)はU-861から雷撃を受け、右舷側の第4船倉と第5船倉の間に魚雷が命中、ハッチカバーを吹き飛ばし、左舷に破孔が発生、蒸気管を破裂させるとともに、デッキ中に積み荷のトウモロコシを撒き散らす。約10分後、トドメの魚雷を撃ち込まれて船尾より沈没していった。士官8名、船員33名、武装警備員26名は救命ボート4隻と筏1隻に分乗して脱出。
直ちに米護衛空母ソロモンズがU-861の捜索を行うも回避に成功。U-861はBdUに位置情報を通達、同時にブラジル南東沖を離れてケープタウン方面へ向かい、8月上旬頃に到着した。U-861と同じように、ペナンへ向かっていたU-198はモザンビーク海峡で通商破壊を行い、英商船を立て続けに3隻撃沈、同方面の海上交通が極めて良好である事をBdUに報告。これを受けて8月8日、BdUはU-861とU-862にケープタウン海域には留まらず、アデン湾に向かうよう指示する。
8月20日午前0時38分、ダーバン東南東約400海里でDN-68船団(輸送船3隻とコルベット艦2隻)を雷撃し、一般貨物6000トンと高オクタン価ガソリン70トンを積載した英蒸気商船ベリックシャー(7464トン)を撃沈。その後も追跡を続け、19時41分の雷撃で、英蒸気タンカーダロニアに2本の魚雷を命中させるが撃沈には至らず、ダーバンまで逃げられている。U-861は獲物を求めてモザンビーク海峡に移動。
9月5日18時15分、モンバサ東方約250海里にて、単独航行中のギリシャ商船イオアニス・ファファリオス(5670トン)を雷撃、魚雷2本が右舷中央部と第4船倉にそれぞれ命中して機関停止へと追いやる。無線室が破壊されたため遭難信号を送れないまま船員は船を放棄せざるを得なかった。浮上したU-861は右舷後部側へと移動し、尋問を行わずに海域を去っていった。それからすぐにイオアニス・ファファリオスは沈没を始めて4分以内に海中へその身を没した。
エスタン艦長はフォッケアハゲリスFa330を使って索敵、訓練を受けた空軍パイロットが敵船を発見するが、Fa330を艦内へ格納しているうちに、敵船は広いインド洋の何処かに姿を消し、攻撃する事が出来なかった。
マダガスカル東海岸のフォート・ドーフィンとタマタブの港を偵察したところ、獲物となりそうな船舶の停泊は確認されなかった。また哨戒中と思われるPBYカタリナ飛行艇を発見したが幸い捕捉は免れている。9月12日にU-861はイオアニスの撃沈を報告。
そして9月23日、156日間の戦闘航海を経て、目的地のペナン基地に到着。
東南アジアでの活動
間もなくペナンの造船所に入渠してオーバーホールを受ける。日本軍部隊は人手を出してくれたものの、自軍艦艇の修理を優先していて常時人手不足であり、乗組員も作業や清掃を手伝い、時にはマレーシア地域での小規模なパトロールも行ったという。それでもペナンで過ごした時間は静かなものであった。10月1日より第33潜水隊群(モンスーン戦隊)に編入。
連合軍の猛攻により、もはやペナンを拠点にし続けるのは不可能と判断され、モンスーン戦隊はより後方のスラバヤとバタビアに拠点を移す事となった。このためU-861は11月1日にペナンを出港、マラッカ海峡を通り、翌日、シンガポールへ寄港した際に日本軍向けの貨物を揚陸し、11月5日にスラバヤへと回航。現地の造船所に入渠して機関のオーバーホールを行った。
出渠後、ドイツ本国が求める錫110トン、タングステン30トン、モリブデン900kg、キニーネ300kg、生ゴム40トンを積み込む。U-861の帰国は必ず果たさなければならないため、魚雷は自衛用の2本のみ、戦闘は極力避けるよう命じられ、更に出港は極秘裏に行われただけでなく、乗組員が基地に呼び戻された後も、しばらくして再び上陸休暇に送られるという、数回の偽装出港訓練を繰り返して連合軍のスパイを混乱させた。あまりの徹底ぶりにU-861の不意の出港に乗り遅れた乗組員2名が現地に取り残されている。
2回目の戦闘航海
1945年1月15日午前7時にスラバヤを出港。ドイツ占領下ノルウェーのトロンハイムを目指す。しかし、このような徹底した対策を以ってしても、バリ島とロンボク島の間で米潜水艦2隻がU-861を撃沈しようと待ち伏せていた。ロンボク海峡の入り口までは日本の駆逐艦が護衛してくれたが、ここから先はU-861だけで進まなければならない。エスタン艦長は「日中は深く潜り、夜間のみ全速力で水上航行する」という方法で、海峡を強引に突破、2隻のうちの1隻がU-861の浮上に気付いて追跡を開始する。
U-861は異例の南寄り航路を選択した。というのも、艦内では乗組員の一部にデング熱が流行っており、東南アジアの医師から「より寒い気候条件であれば症状を緩和出来る」との情報を得ていた艦長の指示で、敢えて寒冷な南寄り航路を通ったのである。その判断こそが米潜水艦の追跡を振り切る最大要因となった。3日後、米潜水艦はU-861を見失う。
米潜を振り切った後は平穏な航海が続いた。インド洋、南大西洋、中部大西洋、北大西洋を次々に突破していくが、困難もたびたび襲い、ケープタウン沖でジャイロコンパスが故障、以降は磁気コンパスしか使えなくなった他、グリーンランド南方を夜間航行中、艦橋の見張り員が流氷を見逃して衝突、艦首部分に軽微な損傷が発生した。当初の予定ではシュノーケルを搭載すべくロリアンに寄港するはずだった。ところがBdUの想定よりU-861の航海が進んでいたため急遽取り止めとなる。
いかに航続距離が長く、最短距離を行ったとしても、スラバヤからノルウェーまで無補給で行くのは無謀だったようで、艦長と乗組員の卓越した技術のおかげで4月19日に無事トロンハイムまで辿り着いたものの、燃料タンクに残っていたディーゼル燃料は僅か800リットルのみだったという。まさに間一髪であった。
こうしてU-861はヨーロッパに帰国出来た最後のUボートとなる。
U-861が帰投した時には既にドイツの敗北は秒読み段階に入っていた。
上陸した乗組員たちがパブで酒を飲んでいた際、毎度の如くやさぐれて、周囲の人間を嘲笑してばかりいたので、憲兵隊がやってきて彼らを逮捕。エスタン艦長は牢獄を渡り歩き、投獄されていた部下を救い出していった。艦長が持っていた騎士十字章が上官との交渉に大いに役立ったとか。
その後、エスタン艦長は掃海小艦隊の司令官に転任する事が決まるのだが、その事を伝えに来たエーリッヒ・シュルテ=モンティング少将に、彼は東南アジアより持ち帰った大きなコーヒー袋を手渡す。それが賄賂になったのか転任の話は立ち消えとなる。エスタン艦長はドイツがもう長くない事を悟り、せめて気心の知れた仲間がいるU-861に留まりたいと考えたようだ。
5月3日午前4時、海軍司令部より全Uボートに対して作戦中止命令が発せられ、5月6日にU-861はトロンハイム沖で降伏、そして5月8日、ドイツが降伏した事で欧州戦線は終結した。
戦後
トロンハイムにはイギリス軍が進駐してきてU-861を接収。5月19日、Uボートブンカーの前に停泊中のU-861とU-995を撮った写真が現代に残されている。
エスタン艦長以下乗組員はフランスに連行される予定だったものの、イギリス軍にはUボートの専門知識を持った者がおらず、このままではイギリスに回航出来ないので、ドイツ人乗組員に回航してもらおうと考えた。すかさずエスタン艦長は交渉を持ち掛け、北アイルランドまでU-861を回航する代わりにドイツへの早期帰国という報酬を確約させる。
5月29日、エスタン艦長指揮のもとトロンハイムを出港、スカパ・フローを経由して、6月2日にリサハリーへ到着、予定通りU-861を北アイルランドに届けた。しかしそこで待っていたのは不本意な逮捕だった。イギリスが事前の合意を反故にしたのだ。彼らはリサハリーにある有刺鉄線とニッセン小屋2棟からなる捕虜収容所に移送、幸いだったのは、その後行われた尋問が苛烈で不愉快なものではなかった事くらいである。11月14日にライアン湖にいる86隻、リサハリーにいる24隻のUボートを自沈させるデッドライト作戦が正式に決定。
1945年12月31日14時45分、ポーランド駆逐艦ブウィスカヴィツァの砲撃で海没処分。
関連項目
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