アーヴ・カネモト(Erv Kanemoto)
とは、1980年代から1990年代にかけてMotoGPで活躍した車両整備員である。
日系アメリカ人の技術者。見た感じはコテコテの日本人だが、日本語を喋ることができない(RACERS 1983年特集号 87ページ
)。
ホンダでの活躍が長く、1983年や1985年はフレディ・スペンサーを最大排気量クラスチャンピオンに導いた。1989年はエディ・ローソンを最大排気量クラスチャンピオンに導いた。
1989年から2002年までカネモトレーシングというチームのオーナーだった。金持ちの家に生まれたわけでもなく、人付き合いや金集めが上手いわけでもない彼だったが、ホンダの手厚い支援を得てチームを運営していた。要するに、「第二のホンダワークス」という感じのチームだったと見てよい。
マックス・ビアッジは、1993年と1997年~1998年にカネモトレーシングで走っており、いずれも好成績を残している。1997年のマックスはホンダに乗り換えていきなりチャンピオンを獲得したが、それを支えたのがアーヴ・カネモトである。
2003年から2004年のころは高齢のためレースの第一線から離れていたが、マックス・ビアッジからの要望を受けて、2005年の1年だけレプソルホンダのテクニカルディレクターという要職に復帰した。
アーヴ自身は、自分の性格について「性格が内向的で、あまり外に出たがらず、特定の人としか一緒にいたがらない」と言っている(RACERS vol.8 55ページ
)。フレディ・スペンサーと同じ、シャイな性格だと語っている。
「アーヴさんの仕事に対する姿勢は女房役に徹するもので、昔ながらの日本人気質を感じさせて、すごくやりやすかった」と岡田忠之が語っている(RACERS vol.39 91ページ
)。
福井威夫は「彼は気配りの人だね。自分の体を壊しちゃうぐらいの。」とアーヴを評している(RACERS vol.1 58ページ
)。
金澤賢は「アーブはライダーだけじゃなく我々スタッフに対してもすごく気配りをする人で、ライバルのことを含めて持っている情報量がすごい」とアーヴを評している(RACERS vol.1 78ページ
)。
ライダー第一に考えるタイプで、ライダーにとっての選択肢をできる限り大きく確保するタイプだった。ホンダからパーツを送り込まれて、そのパーツがイマイチだったときも、パーツをすぐに返さず、「他のサーキットで可能性があるかもしれない」といってチームのトラックに残しておく。他のチームから「バカじゃないの」と言われるほど、パーツを持っていたという。ライダーにとっては助かるタイプだったが、パーツを管理するチームスタッフにとっては大変な人だった。「アーヴのチームが朝一番早くて夜終わるのが一番遅い」というのが、パドックの伝統だった(RACERS 1989世界GP500特集チーム編 95ページ
)。
アーヴと同じタイミングでMotoGPにやってきてアーヴと同じ環境で戦い続けたエディ・ローソンは、パドックにおけるアーヴの評判を知っていて、「僕の長いレース生活の中でアーブのことを悪く言う人にはただの一度だって会ったことがないし、彼の悪口など聞いたこともない」と語っている(RACERS 1989世界GP500特集ライダー編 93ページ
)。
1943年5月7日にアメリカ合衆国・ユタ州
で生まれた。さらに細かい出生地の名はツリーマウンテンで、ユタ州南部のこの場所
だと推測できる。
1948年頃に両親とカリフォルニア州サンノゼ
へ移住し、その地で育った。両親は農業を営んでおり、家の近くに農場があった。
農家の父親が機械いじりを好んでいたので、アーヴも小さな頃から父親のエンジン整備を手伝うようになった。車やボートのエンジンを整備していたという。
そのうち、アーヴはボートのレースをするようになった。サンノゼ近郊にはいくつか湖があるので(地図
)、その湖にボートを浮かべていたものと思われる。アーヴの父がそのエンジンを整備していた。
アーヴが15歳だったころのある日、父親がカート
(レース用小型4輪車)を買ってきて、アーヴやアーヴの妹に与えた。
アーヴもカートでレースをしたが、レースの中で抜きん出るために必要とされる自己主張の激しさを持ち合わせていないことに気付くことになった。レースで勝つためには自己主張の激しさが必要だということを理解していたが、「他の人と接近しつつ抜き合いをしたら、どういう結果になってしまうだろう」と考えるタイプの性格だった。
アーヴがレースをしたのは高校までだった。アーヴは、次第に、エンジン整備をして他の人を勝たせる役割を担うようになった。
その一方で、アーヴの2歳年下の妹は自己主張が激しかったので、カートのレースに向いていた。ゴーカートレースで何度も優勝し、シリーズチャンピオンも獲得していたという。
※この項の資料・・・RACERSvol.8 50~51ページ
、superbikeplanet.com
、motorcyclemuseum.org
高校を卒業したアーヴは、カート販売店に就職した。
その販売店が運営していたドラッグレース
(静止状態から発進して直線の速さを競うオートバイ競技)のチームで、整備員たちがストライキを起こし、整備員たちが不在となった。そのため、アーヴはドラッグレースのチームに呼ばれた。
そのチームは、ヤマハの高級なエンジンを使ってドラッグレースで好成績を収めていた。エンジンを見たアーヴは「エンジンをチューンアップ(改造)すれば、もっと速く走ることができる」と言ったが、誰も信じてくれなかった。そのため、アーヴはその辺の非力なエンジンをチューンアップして、レース用の高性能エンジンと同等の力を出すようにした。そんな風に腕前を見せたおかげで、ドラッグレースのチームで整備を本格的に任されるようになったという。
※ここまでの資料・・・RACERSvol.8 51ページ
別の資料では、次のように紹介されている。
高校を卒業したアーヴは工場で働いていたが、その工場で労働条件向上のためのストライキが発生し、アーヴは暇になった。アーヴは、「ヘイワード
のオートバイ販売店で働かないか」という友人からの誘いに乗り、そこに転職した。10代の頃からボートやカートのエンジンを整備してきた経験が生き、すぐに優秀なオートバイ組み立て工員になった。
オートバイ販売店のオーナーはアーヴの仕事っぷりに感激し、アーヴに「ドラッグレース
(静止状態から発進して直線の速さを競う競技)に出場するオートバイのエンジンを組み立ててくれ」と依頼した。その仕事をこなすと、ロードレース(舗装された路面でのレース)やダートトラック
(平坦な土の路面でのレース)やモトクロス
(凹凸のある土の路面でのレース)といった各種レースに出場するオートバイの整備も受け持つようになった。
普通のメカニックは、オートバイの試験走行とオートバイの整備を両方同時に行う。ところが、このときのアーヴは、オートバイに乗らずにオートバイ整備をして、他の工員に試験走行してもらっていた。オートバイ販売店に就職してから数ヶ月経って、やっとオートバイの乗り方を覚えたという。
※ここまでの資料・・・motorcyclemuseum.org
レース向けオートバイの整備をするうちに、アメリカ合衆国西海岸のオートバイレース界隈において、「すごい才能を持った技術者がいるぞ」と噂が広がり、アーヴは有名人になっていった。
アーヴが25歳になる1968年になって、アーヴはカワサキのバイクレースチームに雇われた。ウォルト・フルトン・ジュニア
がデイトナでのレース(おそらく、デイトナ200
という耐久レース)に参加するため、それを手伝う工員になった。これを始めとして、カワサキ系ライダーのマシン整備をするようになった。ジム・ライス
、ジム・ディーハン
、ジェリー・グリーンなど。
1970年代初めになると、アーヴはカワサキと深い関係を保ちつつ、自分のチームをもつようになった。1973年になるとゲイリー・ニクソン
という著名なライダーを走らせるようになった。
1974年になるとカワサキがレース予算を減らしたので、アーヴとゲイリー・ニクソンはスズキへの乗り換えを決断した。
1976年になると、アーヴとゲイリー・ニクソンはカワサキとの協力関係を復活させ、フォーミュラ750という世界選手権に参戦することにした。これは200マイル(321km。4kmサーキットなら80周回)のレースを世界各地で行うものである。この年のフォーミュラ750
はベネズエラでのレースが混乱に陥り、最終的に運営によってベネズエラでのレースが無効とされた。ゲイリー・ニクソンはベネズエラでのレースを有効とするように主張し続けたが、結局却下された。ゲイリーの訴えが聞き入れられていたら、1ポイント差でゲイリーがチャンピオンになるはずだった。
アーヴとゲイリー・ニクソンとの協力関係は1978年まで続いた。1973年から6年連続で一緒にレースをしたことになった。
※この項の資料・・・RACERSvol.8 51ページ
、motorcyclemuseum.org
1977年のアーヴは、フレディ・スペンサーという15歳の少年と初めて出会っている。
このときのフレディは、オハイオ州のこの場所
にあるミッドオハイオ・スポーツカーコース
にて、WERA
というバイクレース運営団体が主催するレースを走っていた。
このときのフレディは、5~6レースほどのレースをしていたが、誰にも真似できないような走りをしていた。メーカーが異なるバイクに乗り換えても平気で走り、2気筒バイクから4気筒バイクに乗り換えても平気で走り、シフトペダルが右についているバイクからシフトペダルが左に付いているバイクに乗り換えても平気で走り、アップシフト(足で踏むとギアが低速になるシフトペダル。日本の市販車で一般的)のバイクからダウンシフト(足で踏むとギアが高速になるシフトペダル。レーサーに愛用者が多い)のバイクに乗り換えても平気で走り、しかも平気で走るだけではなくスムーズかつ上手に走ってほとんどのレースで優勝していた。
フレディの父親から「息子のバイクを整備してほしい」と頼まれたので、アーヴはそれを承諾した。
1978年のアーヴは、ヤマハのマシンを整備してアーヴに提供した。フレディはそのマシンでAMAノーヴィス・ロードレース選手権のチャンピオンになった。AMA
は全米のバイクレース連盟で、ノーヴィス(Novice)とは「初心者、見習い」という意味。ロードレースは舗装された路面のレースという意味。
1978年から1980年まで、3年ほど一緒に仕事したことで、アーヴとフレディは気が合うことが分かった。フレディは内気で控えめな青年であり、アーヴの性格と似ているところがあるので、気が合ったのだろう。
また、アーヴはフレディの底知れぬ才能に驚嘆したので、「一刻も早くヨーロッパに渡り、MotoGPへデビューすべきだ」と考えるようになった。アーヴは、自らの相棒ゲイリー・ニクソンと親しいバリー・シーン
(MotoGP最大排気量クラスの1976年・1977年連続チャンピオン。イギリスで国民的人気を博した)に相談したら、「さっさと連れてこい」と言われた。アーヴはフレディにMotoGP行きを奨めたが、アメリカの田舎に住むフレディはヨーロッパを舞台とするMotoGPへ行くのを嫌がっている。
その時点でヨーロッパで働いた経験がなく、「このままではフレディを説得するのは難しい」と思ったアーヴは、1981年からヨーロッパに渡り、そこでMotoGPのチームに所属して働いて1年の経験を積むことにした。自分がMotoGPの経験者になればフレディを上手く説得できると考えて、1981年のアーヴは、バリー・シーンのヤマハ系プライベートチームに参加した。
フレディは1982年からMotoGP最大排気量クラスのホンダワークスに所属するようになった。それに合わせて、アーヴもホンダワークスへ移籍している。
1983年に、フレディ・スペンサーは最大排気量クラスのチャンピオンに輝いた。ケニー・ロバーツ・シニアとの激闘を制したものだった。
1984年のフレディは、第8戦アメリカGPで転倒して鎖骨を骨折したこともあり、最大排気量クラスのチャンピオンを逃した。
1985年のフレディ・スペンサーは、最大排気量クラス(500ccクラス)と250ccクラスにダブルエントリーして、その両方でチャンピオンを獲得するという偉業を達成した。このとき、500ccクラスのチームと250ccクラスのチームは別個に存在していたが、クルーチーフ(整備をまとめる指導者)はアーヴが兼任していた。
ホンダグループの中のオートバイレース専門企業として、HRC(株式会社ホンダ・レーシング)が1982年9月1日に設立された。その直後からフレディ・スペンサーが黄金期を築き上げたのだが、それを支えたのがアーヴと、宮腰信一、尾熊洋一、金澤賢、福井威夫
、ジェレミー・バージェス、といった面々であった。
1986年になると、フレディ・スペンサーは負傷と燃え尽き症候群によって成績が急降下した。1986年のフレディは2戦しか走っていない。
1987年と1988年のアーヴは、ホンダワークスのニール・マッケンジー
のクルーチーフとなった。ランキングは5位と6位だった。
1988年は、実質的ヤマハワークスであるチーム・アゴスティーニ所属のエディ・ローソンが最大排気量クラスのチャンピオンを獲得していた。
そのエディは、チャンピオンを獲ったというのにチーム・アゴスティーニから減俸を提示され、怒りの頂点に達し、移籍を模索することにした。そこで、エディの方からアーヴに相談をした(RACERS 1989世界GP500特集ライダー編 93ページ
)。
当時のアーヴは、アメリカ人ライダーなら知らない者はいないような存在になっていた。1988年以前のエディも、メーカーの垣根を越えて、しばしば相談をしていた。
エディからの相談を受けたアーヴは乗り気になり、すぐにHRCへ相談した。そして、トントン拍子に話が進んでいき、アーヴがカネモトレーシングという自前のチームを作ってエディを入団させる、という形になった。ヤマハワークスからチャンピオンを引き抜いてホンダワークスに入れる、となるとあまりにも体裁が悪いので、そういう形式がとられた。チーム設立はアーヴの願望ではなかった(RACERS 1989世界GP500特集チーム編 81ページ
)。
とはいえ、カネモトレーシングというのは、ホンダにとって望ましい存在だった。このあと10年ほど、ホンダの支援を受けてホンダのバイクを走らせる有力チームとして存在し続けることになる。
1989年のホンダは、ワークスにワイン・ガードナー
(1987年チャンピオン)とミック・ドゥーハン(MotoGP最大排気量クラスの新人)で、カネモトレーシングにエディ・ローソンという布陣だった。ところが、第3戦のアメリカGPでワイン・ガードナーが転倒し足を骨折したので、カネモトレーシングのエディ・ローソンがホンダ陣営のエースとなり、シーズン途中から開発パーツが優先的に送り込まれるようになった。
アーヴとエディは、HRCから送り込まれる大量のパーツを試すというハードワークを耐え抜き、マシンをどんどん進化させ、1989年のチャンピオンを勝ち取った。
1990年になると、エディ・ローソンは実質的ヤマハワークスであるチーム・ロバーツへ移っていった。
1990年はホンダワークスがミック・ドゥーハン1人を走らせ、カネモトレーシングがワイン・ガードナー1人を走らせるという形式になった。ワイン・ガードナーは負傷による欠場が響きランキング5位に終わった。
1991年から1994年までのカネモトレーシングは、250ccクラスが主戦場となった。
1991年と1992年はルカ・カダローラ
を2年連続250ccクラスチャンピオンに導いた。ルカは1990年までジャコモ・アゴスティーニ率いるチーム・アゴスティーニに4年間所属していて、250ccクラスにおけるヤマハ系強豪ライダーだったが、ホンダのカネモトレーシングに移籍してすぐに250ccクラスチャンピオンになった。
1992年は500ccクラスにも参戦してワイン・ガードナー
を乗せたが、ワインは開幕戦で転倒し、前半戦を棒に振り、ランキング6位に終わっている。
1993年は、MotoGP250ccクラス2年目の若手であるマックス・ビアッジと青木宣篤
を擁した。マックス・ビアッジがランキング4位、青木宣篤がランキング11位に終わった。
1994年はマックス・ビアッジがアプリリアのチームに流出したので、岡田忠之
を迎え入れた。マックス・ビアッジがアプリリアで250ccクラスチャンピオンを獲得し、岡田はランキング2位になった。
1995年は500ccクラスに戻り、アレックス・バロス
1人のみを擁して、ランキング7位となった。
1996年も500ccクラスで、ルカ・カダローラと再び組み、ランキング3位に躍進した。
1997年は250ccクラスに戻り、アプリリアのチームで傲岸不遜になり首脳から嫌われて放出されたマックス・ビアッジを迎え入れた。1994年から1996年まで3年連続でアプリリアのマシンに乗り250ccクラスチャンピオンを獲得したマックスは、ホンダのマシンに乗り換えた1997年も実力を発揮し、250ccクラスチャンピオンを獲得した。
1998年は、マックス・ビアッジとともに500ccクラスへ移籍した。マックス・ビアッジは500ccクラス初参戦ながら大躍進し、開幕戦で優勝し、ランキング2位になる。
マックス・ビアッジとの関係は極めて良好に見えたが、マックスは1999年にヤマハワークスへ移籍してしまった。
マックス・ビアッジの代わりとして、1999年にカネモトレーシングはジョン・コシンスキー
を獲得したが、ランキング8位に終わった。
1999年を終わった時点で、アーヴの年齢は56歳になった。この1999年をもって、カネモトレーシングはMotoGP参戦を一時休止することになった。
2000年と2001年は、タイヤメーカーのブリヂストンと契約を結び、サーキットでひたすらタイヤテストを行うテストチームとなった。ブリヂストンは最大排気量クラスへの参戦をもくろんでおり、最大排気量クラスのチャンピオンの経験が豊富なカネモトレーシングと手を組んだ。
2002年のカネモトレーシングは、2スト500ccのマシンであるNSR500に、ユルゲン・ファンデングールベルグ
を乗せて、久々にMotoGP最大排気量クラスへ参戦した。ところがこの年は4スト990ccのマシンの参戦が許可された年で、4スト990ccのマシンが圧倒的好成績を収めていたので、ユルゲンの成績もランキング13位に終わった。
2002年を終えて、カネモトレーシングは解散した。
カネモトレーシングが解散した後、アーヴはいくつかのMotoGP最大排気量クラスのチームに招かれた。
2004年にはスズキワークスの相談役となり、2005年にはレプソルホンダに移籍したマックス・ビアッジの要望でレプソルホンダのテクニカルディレクターになった。
2005年をもってマックス・ビアッジはレプソルホンダから出ることになった。それと同時に、62歳のアーヴもレプソルホンダを退職した。
アーヴの父方の祖父母と母方の祖父母の4人すべてが、日本からアメリカ合衆国に渡った日系1世である。
アーヴの父と母は、生まれも育ちもアメリカ西海岸のカリフォルニア州サンノゼ近くだった。
アーヴが語るところによると、アーヴの両親は徴兵を逃れるためユタ州に引っ越したという。アメリカ合衆国が第二次世界大戦に参戦したのは1941年~1945年なので、1941年以降にユタ州に移ったということになる。
アーヴは、1943年5月7日に、ユタ州で生まれた。アーヴが5歳になった1948年頃、カリフォルニア州サンノゼに、一家揃って戻っていったという。
「カリフォルニア州に住んでいた日系人が1943年頃までにユタ州に移住した」と聞くと、誰もが即座に連想するのは、日系人の強制収容
である。第二次世界大戦中の日系アメリカ人は日系人強制収容所
に移住させられた。ユタ州にも日系人向け強制収容所が1箇所だけあり、トパーズ戦争移住センター
という。ただ、アーヴの発言からすると、アーヴの両親のユタ州への移住は、強制収容ではなく自発的な移住だったといえる。アーヴの出生地はユタ州南部のツリーマウンテン
で、トパーズ戦争移住センターはユタ州中部のこの場所
にあるので、その点でもアーヴの両親の移住が自発的なものだったことを示している。
2011年のアーヴは、生まれ故郷のカリフォルニア州サンノゼで隠退生活をしていて、彼女がいる。どういう人かは、RACERSvol.8の98ページ
で報じられている。
※この項の資料・・・RACERSvol.8 50~51ページ、98ページ
本田宗一郎が描いた桃の絵を所有している(RACERSvol.8 52ページ
)。ちなみに本田宗一郎は絵が上手く、静岡県浜松市天竜区に存在する本田宗一郎ものづくり伝承館において、たまに企画展として本田宗一郎が描いた絵が展示されることがある(このブログ記事
で、その様子が紹介されている)。
アーヴによると、1983年にフレディ・スペンサーがMotoGP最大排気量クラスのチャンピオンを獲得したとき、アーヴとフレディとジョージ(おそらくジョージ・ヴクマノビッチ
。小柄で眼鏡をかけていてサーキット内でいつもタバコを吸っていた名物メカニック)が本田宗一郎の家に行って報告をして、本田宗一郎から3人に向けて渡されたものだという(記事
)。
身長178cmのフレディ・スペンサーと並んで立っている写真がある(RACERS vol.16 89ページ
)。それを見ると、アーヴの方がフレディよりも少し高い。ゆえにアーヴの身長は180cm程度だと推測できる。
| 80~85ページにアーブのインタビューがある。主に、フレディ・スペンサーの扱いの難しさなどを語っている。 | |
| 1984年のホンダのマシンを特集する号。50~55ページにアーヴのインタビューがあり、生い立ちを詳しく語っている。 | |
| 80~89ページにアーヴのインタビューがあり、1985年にフレディ・スペンサーがダブルエントリをした経緯を話している。 | |
| 1989年をチームスタッフの目線から振り返る本。80~87ページにアーヴのインタビューがあり、エディのホンダ入りの経緯や、エディとの仕事について話している。 |
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最終更新:2025/12/08(月) 10:00
最終更新:2025/12/08(月) 10:00
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