マパニケ村事件とは、1944年11月23日にフィリピンで発生した日本陸軍による軍事行動である。
事件を生き延びた多数の女性らによって、「日本軍が住民に対する虐殺と集団強姦、略奪を行った」として糾弾されている。そのため「マパニケ村住民虐殺・集団強姦事件」等とも呼称される。
第二次世界大戦中、フィリピンのルソン島にあるパンパンガ州の村「マパニケ」で発生した事件。マパニケは抗日武装ゲリラ組織「フクバラハップ」の根拠地の近辺にあり、同組織の影響下にあるとみなした日本陸軍戦車第二師団(「撃」兵団、撃部隊)が村に攻撃を加えた。
この「マパニケ村がフクバラハップに協力していた」という話自体は濡れ衣というわけでもないようで、フクバラハップ創設者の一人「ルイス・タルク」は2000年のインタビューで「当時、マパニケ村は村をあげてゲリラ活動に協力していた」と語っている。[1]
だが、「この際に日本軍が住民の男性を拷問し虐殺し、物品を略奪し、少女を含む多数の女性を強姦した」と住民の女性多数が証言したため、戦争犯罪、戦時性暴力の事例として知られるようになった。
ちなみに、マパニケは「Mapanique」とも「Mapaniqui」とも表記する[2]ため、「Mapanique」をカタカナ転記した「マパニケ」と「Mapaniqui」の方を採った「マパニキ」の2つの表記がありうるが、日本で本事件が言及される際には主に「マパニケ」が採用されることが多い。
英語圏では「Siege of Mapanique」「Mapanique Siege」(マパニケ攻囲)や「Siege of Mapaniqui」(マパニキ攻囲)、「Mapanique Massaccre」(マパニケの虐殺)などと呼称されるようである。
戦後数十年間、この出来事についてはほとんど知られていなかった。50年以上が経過した1996~1997年に被害者の女性らが謝罪と補償を求める運動を始めたことにより、フィリピン国内や日本、その他海外でも報道されて知られるようになった。例えば本記事「関連リンク」に示すように、日本の共同通信、イギリスのBBC、アメリカのNPRなどの有名メディアでも取り上げている。
ただし、本記事初版時点の2025年現在でも知名度が高いとは言い難い。
同じフィリピンで被害者が訴えた日本軍の性加害事件としては、1945年マニラ市街戦のさ中で発生した「ベイビューホテル事件」が知られる。ベイビューホテル事件が終戦後すぐに発覚して戦争犯罪事件として問題となった例と比較すると、本事件が世に知られるには50年以上かかっている。これは「首都のマニラで発生し、いわゆる「上流階級」の女性や外国人が被害者であり家族が生存した被害者も多数あり、戦後すぐにいくらかの被害者は生活に戻ることができ、米軍に被害を訴えることもできたベイビューホテル事件」と、「地方在住の地元住民が被害者であり、村が焼き払われ元の生活に戻ることはできなかった本事件」の差であるのかもしれない。
「敵に協力した村の住民を虐殺した上で、若い女性を連れ去った」というこの本事件の態様は、1945年7月に日本陸軍がビルマで行った「カラゴン村事件」とも類似している。
They were 13 and 15 years old when Japanese soldiers attacked their village in 1944.
1944年に日本軍が彼女たちの村を攻撃したとき、彼女たちは13歳と15歳だった。Everyone was forced to watch as the men were executed, suspected of being resistance fighters, the sisters recall. One old man was castrated and forced to eat his own penis. Mapanique was looted and razed.
レジスタンスの戦闘員だと疑われた男たちが処刑されるのを皆が見届けさせられた、と姉妹は回想する。ある年配の男性は去勢され、自分のペニスを食べることを強要された。マパニケは略奪され、破壊された。Then the girls and women, more than 100 in all, were forced to carry the looted goods to the Red House, which Japanese troops were using as a garrison.
それから100人以上の少女や女性らが、日本軍が駐屯所として使用していた「赤い家」まで略奪品を運ぶよう強制された。"We thought it was the end of our world," says Mileng. "We thought they were going to kill us," adds Lita.
「この世の終わりだと思った」とミレンさんは語る。「殺されると思った」とリタさんは付け加える。But the soldiers were in high spirits. They took off their uniforms, ate and had a smoke.
しかし兵士たちは意気揚々としていた。制服を脱いて、食事をし、タバコを吸っていた。Then, as the light faded, they began to rape the women and girls.
そして、暗くなると、彼らは女性や少女らを強姦し始めた。"It was so painful," says Mileng.
「とても痛かった」とミレンさんは語る。Inside the skeleton of the house, Lita points out where the stairway used to be. That's where they raped her.
「赤い家」の廃墟の中で、リタさんはかつて階段があった場所を指差した。そこは彼女が強姦された場所だ。"I was really struggling because I didn't want my clothes to be stripped off. I kept my legs together, tightly crossed. After I did that, they punched my thighs so that they could do what they wanted."
「服を剥ぎ取られたくなくて、本当に抵抗した。足をしっかり組んで閉じたままにしていた。すると、彼らはやりたい事が行えるようにするために私の太ももを殴りつけた」The following morning they were allowed to leave. Their village - including Lita and Mileng's home - had been burned down and survivors were taken along the river to a nearby town.
翌朝、彼らは村を離れることを許された。リタさんとミレンさんの家も含め、村は焼け落ち、生き残った人々は川沿いに近くの町へ連れていかれた。[3]
上記の証言でも登場する、強姦の主な舞台となったとされる「赤い家」は、現地ではタガログ語で「Bahay na Pula」(バハイ・ナ・プラ)と通称され、そのまま「赤い家」という意味である。
全ての強姦がこの家の中で行われたというわけではなく、「家の近くのテントの中でも行われた」とされる。[4]女性の数が多かったために家の中に入りきらなかったものか。
その名の通り赤いペンキで塗られた特徴的な外見もあってか、本事件の象徴的なアイコンとして用いられることがある。
そのためこの建物の保存を訴える人々もいるが、一方被害者らの中には、今でもこの廃墟を目にした時の気持ちについて「I feel like I'm losing my mind. I wish it would be destroyed.」(「気が狂いそうになる。壊されてしまえばいいのに」)と語る人もいる。[5]
ちなみに「マパニケ村にある」わけではなく、村から数キロ離れた場所に位置している。
日本側の資料としては、防衛研究所の戦史資料室に保管されていた資料内からマパニケ村の討伐命令の資料が発見されている。『季刊戦争責任研究』(日本の戦争責任資料センター)第30号(2000年12月)に掲載の「資料紹介 フィリピンにおける日本軍の性暴力―『日本占領下フィリピンにおける日本軍性暴力史料集』 (解説 林 博史)」に収録されている。
そのほか、『「慰安婦」・戦時性暴力の実態Ⅱ―中国・東南アジア・太平洋編』(緑風出版、2000年12月)に収録された岡野文彦による報告「フィリピン・マパニケ村住民虐殺·集団強かん事件」でも検討を加えている。
同報告ではマパニケ村の討伐命令書として、以下のように四つの公文書を紹介している。
このように準備が進められていた一一月二二日正午、撃兵団長岩仲義治中将より、「抗日共産匪」を「掃討」し、部隊本部のあったサンミゲル付近の治安をきびしく取り締まることを目的として、マパニキ(マパニケ = MAPANIQUI)討伐が命ぜられた。『撃作命甲第四六号』が発令され、参謀長森巌大佐による『撃作命甲第四六号二基ク参謀長指示』で討伐隊長に指示が与えられた。同日一四時、討伐隊長に指名された鹿江武平少佐による『討伐隊命令』が発令され、それには『討伐ニ関スル特別指示』が付属している。マパニケ村討伐に関して残っている公文書はこの四通である
討伐隊ハ『マパニキ』附近ノ匪団ヲ殲滅セントス
としているが、民間人の犠牲について
といった文章も含まれており、「婦女子の犠牲は努めて避けるべきではあるが」という但し書き付きではあるものの「匪賊が混じっているのであれば、一部の犠牲はやむを得ないものとして許容する」という趣旨の命令書であったことがわかる。
また
とあり、この場合の「情報班ノ調査」が拷問を、「処理」(「處」は「処」の旧字)が殺害を意味していたとするならば、「住民らが拷問を含む尋問をなされたのち殺害された」という住民証言と符合するとも言える。
さらに「鹵獲品整理班」「鹵獲品ノ處理」「鹵獲品ハ討伐隊本部取纒メ「サンミゲル」ニ輸送ス」「鹵獲品中鳥、獣、肉ハ討伐參加部隊二分配シ生獣及穀類ノ分配ハ別ニ示ス」などの文言が記されている。「鹵獲」とは敵の兵器や装備を奪うことを言う事もあるが、この場合「肉」「穀類」といった記載からは明らかに食料を奪っている。「略奪」が行われたという村民の証言を思わせるものとなっている。
これらの文書が発見された1999年の新聞報道では、作戦命令書を起案した作戦参謀の河合重雄元中佐(94歳で存命だった)に取材を試みており、
制圧射撃のあと三、四百人の部隊とともに村に入った。老人、婦人、子どもが広場に出されていた。私が村に滞在したのは二時間ほど。虐殺も強かんも聞いてない。私が知らないところであったとしたら気の毒に思う
とのコメントを得ている。
また、これらの文書が発見されるより11年前、被害者らが声を挙げ始めるより8~9年前の1988年に出版されていた戦車第二師団に所属する士官だった「柳本貴教」氏による書籍『戦車第二師団機動歩兵第二連隊比島捷号作戦の経過と結果 : 自昭和十七年九月至昭和二十年九月』に以下の記述が登場する。
十一月二十二日マパニキに於ける有力共産団(フクバラハップ)に対し、師団で討伐隊を編成したが、連隊では(個人名が登場するため省略)が参加、
よって、このマパニケ(マパニキ)に対して戦車第二師団(撃部隊)が軍事行動を実行したこと自体は確実性が高いと思われる。
ただしこれらの日本側の資料には、拷問・虐殺・強姦・略奪については(上記のように命令書にその片鱗を感じさせるものがあったとしても)記されていない。
フィリピンには「慰安婦」問題が存在しており、かつて小泉純一郎総理大臣(当時)がお詫びの手紙を送り、また「償い金」も支払われている。「フィリピン慰安婦像」が2017年から2018年にかけて日本とフィリピンの間での外交上の懸案事項となった例もある。
本事件の被害者らについても、この「慰安婦」の枠組みで語られることもある。しかし、本事件の被害者は下記証言のように「虐殺事件の後に強姦された」という経緯であって、「慰安婦として働かされた」とは言い難い。そのこともあってか、本事件の被害者らはこの慰安婦に対する補償からは漏れてしまっている。
しかし、この事がともすれば挙がりがちな「金目当ての嘘の証言だ」という中傷の声を免れる材料にもなっている。金銭が目当てであるのならば「慰安婦として働かされた」という内容で証言しさえすれば「償い金」を受け取れたわけであるため、少なくとも「金銭さえもらえればよく、その目的で嘘の内容を証言している」とは考えづらいためだ。
(歴史学者「林博史」のウェブサイト内のページ。資料本文は掲載されておらず、林博史が資料に添えた解説文のみ)
(上記の「資料紹介 フィリピンにおける日本軍の性暴力―『日本占領下フィリピンにおける日本軍性暴力史料集』」が収録された雑誌の国陸国会図書館デジタルコレクションページ。「個人向けデジタル化資料送信サービス」に登録していれば個々人のパソコン等で閲覧できる)
(消滅済みページのためインターネットアーカイブへのリンク)
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最終更新:2025/12/11(木) 22:00
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