オーシャン島事件とは、1945年8月に起きた日本海軍による民間人虐殺事件である。
オーシャン島は、有名なナウル島の東300kmに位置している。現在はキリバス共和国の領土であり、バナバ島と呼ばれる。
第二次世界大戦前は、近隣にあるギルバート諸島やエリス諸島とともにイギリスの植民地「ギルバートおよびエリス諸島」に編入され、リン鉱石[1]の採掘が行われていた。
第二次世界大戦中には日本軍により占領された。その後、オーシャン島では食糧などが深刻に不足していったため、住人らのうち女子供や老人から日本の船で別の島への移送が行われた。だが戦局の悪化も伴い、百数十名の男性らが残っている時点で移送する船が出せなくなった。これらの残された男性らは日本軍の支配の元で労働に就かせていた。一部の者には、敵の上陸に備えた守備隊としての訓練も受けさせていたようである。
だが、1945年8月14日に日本はポツダム宣言を受諾し終戦。通信機が存在し、短波ラジオも受信していたオーシャン島の日本軍も、このポツダム宣言受諾、つまり日本の降伏について知った。
そして終戦の数日後(8月19日という情報と8月20日という情報が錯綜しているようだ)、島の日本軍部隊の指揮官であった「鈴木直臣」海軍少佐が出した命令により、部隊は島に残っていた百数十名の男性らを海を望む崖に連れ出して縛り、次々に射殺処分した。
このとき日本軍は男性ら全員を射殺する予定であったし、実際にそれを成しえていたつもりであった。だが実は男性らのうちの一人「カブナレ」[2]氏が辛くも生存していた。カブナレは落ちた崖下から逃げて洞窟などに身を隠し、島の日本軍らが連合軍に降伏して居なくなってから姿を現し、虐殺事件について証言した。
虐殺が判明したことで鈴木直臣少佐を始めとした部隊の主要メンバーらは戦犯として裁かれることとなり、鈴木少佐、4つの中隊の中隊長4名、小隊長3名が絞首刑となった。
この時に有罪となり一時は絞首刑を宣告されるもその後に減刑され生存した「奈良賀男」海軍主計大尉は、1987年に開催された「太平洋戦史研究部」第6回セッションに出席して当時について詳しく証言している[3]。その中で、虐殺に至った経緯については「鈴木少佐は反抗を警戒していた。戦後に住民らの証言で反抗意思があったという言葉が出ているのだから反抗するかもしれないという警戒自体は正しかった」「虐殺より以前に既に住民を殺害しまっていた。そして連合国側は戦犯を裁くとして短波ラジオで喧伝していた。そのことが鈴木少佐に殺害に関する口封じをしようという決断に至らせた。よって連合国側にもこの虐殺を招いた遠因はあった」などという、鈴木少佐への弁護的な意見を交えて説明している。
本事件は日本海軍が行った民間人虐殺事件としては「駆逐艦秋風虐殺事件」や「ビハール号事件」のように比較的規模が大きいものであるが、日本ではあまり知名度が高くない。そのためか事件を指す名称についても定まっているとは言い難いが、「オーシャン島事件」と記す例が比較的多いようだ。他には1953年に『週刊サンケイ』誌に「オーシャン島土人銃殺処分事件」という呼称が載ったことがある。後述する書籍『責任 ラバウルの将軍 今村均』内では「オーシャン島民集団虐殺事件」と呼称されている。英語圏では「Ocean Island massacre」(和訳例:オーシャン島の虐殺、オーシャン島虐殺事件)としてWikipedia記事が作成されている[4]。
戦争が終結したことを知りつつも民間人を大量に虐殺した理由としては、大きく分けて2つの理由が語られる。「口封じ」と「反乱の阻止」である。
まず一つ目の理由としては、「それ以前に日本軍が行った住民殺害に関する口封じ」である。
ノンフィクション作家「角田房子」氏は、1984年出版の今村均陸軍大将に関する伝記書籍『責任 ラバウルの将軍 今村均』内で、今村均氏に関する取材内で偶然にも本事件に関わった人物から話を聞いてしまった際の情報として「白人宣教師の殺害を隠蔽するためだった」という説を記している。
私のホテルに現われたのは六十歳を過ぎたばかりと見える、実直そうな静かなもの腰の人だった。
「この街のラバウル会に出席した時、久しぶりで今村大将にお目にかかりました」
と、彼はおだやかな微笑を浮かべていった。
「大将は『ラバウルの収容所で苦労したことは、忘れられんなあ……』と、声をかけて下さいました」
「あなたもインド兵か中国人に告訴されたのですか」
と私がたずねた。
「いえ、戦争中はラバウルでなく、ずっと遠いギルバート諸島のオーシャン島におりました。本部はナウル島にありましたが」
私にはギルバート諸島がどこにあるのかわからなかった。それをたずねようとした時、彼の方が先に口を開いた。
「その島で終戦を迎えたのですが、実はそのすぐあと、島民二百人を殺してしまいましたので……」
私は絶句した。
こうして昭和二十年八月十五日、ラジオで日本の降伏を知った――とYは語る。のちにこの証言が意外な重要性を持つことになるのだが、そのとき私は当然のことと聞き流していた。日本の敗色濃いことは知りながらも、まさか降伏とは思っていなかった隊長A少佐は愕然として、すぐ中隊長らを集めた。その会議は混乱状態におちいった――とYは語る。
「実はこの島を日本軍が占領したとき、宣教師など二、三人の白人がいたのですが、彼らはいずれ利敵行為をするだろうということで処刑してしまったのです。日本が降伏したとなると、それが大問題で……、ここへ連合軍が上陸してきたら、たちまち白人処刑がばれて、我々日本軍は皆殺しになるだろう……、なにしろ島民はみなこの事件を知っていますから、秘密が保てるはずはないと判断したわけでしょう……島民二百人を殺せと命じられたのは、終戦の三、四日あとでした」
何ということか――。それは戦場の異常心理によるものでもなく、また敵に内通した者の住む村を皆殺しにしたというのでもない。そういう理由があっても是認できることではないが、白人処刑という自分たちの不法行為を秘すため協力者全員を殺そうとは……私は唇を噛んで、無言だった。「日本降伏」に大衝撃を受けたことはわかるが、それにしても彼らの行為は"血迷った"としかいいようがない。
この「聖職者を含めた白人の殺害」については、島民側の回想録にも関連する描写がある[5]。
一方、前述の奈良賀男氏は証言内で、「島にはレプラ(ハンセン氏病)患者らの収容所があった。日本軍上陸前に島から逃げた者たちは患者らを置き去りにした。戦況の悪化で食糧も医薬品も入手不能な中、患者らは哀れな状況に置かれており、青酸カリで安楽死させた」「犯罪者を電流処刑したことがあった」などとして、鈴木少佐はそれらのことを口封じしたかったものだろうと推測している。
それでほとんど気の毒な形で収容されて病室におったようですが、島民医者の意見もありまして、いわゆる青酸カリで安楽死させたわけです。
(中略)
島民の間にもやはりどうにもならん強盗殺人をしょっちゅう犯すような、二人か三人の死刑囚がおりまして、それを電流網を使って死刑に処したことがあるんです。
そういうようなことがやっぱり、島民の間に広がっているわけですね。知っているわけですね。鈴木さんにいわせれば、俺の問題だけじゃないんだ、戦争中の軍の行動に関連して、そういうようなものまで住民からの告訴とかなんとか受け付けて、戦犯裁判されたら、とてもかなわんということが心の中にあったと思います。
この電流処刑についても、島民側の回想録に関連する描写がある[6]。よってこの電流処刑自体が実際に行われたという確度は高いようだ。
ただし、奈良氏は鈴木少佐から「何のために殺す」といった説明は一切なかったことも明言している。
鈴木さんは、私どもには最後の島民処分の決断をするには、なんのためにということは一切いいませんでしたから、これは私の憶測ですが。
よって、上記の「ハンセン氏病患者の安楽死」「死刑囚の電流処刑」を口封じするため、という動機はあくまで奈良氏の憶測であるということになる。
であれば、『責任 ラバウルの将軍 今村均』に登場する「Y」氏の語った「白人殺害の隠蔽」についても、これが動機であるというのはY氏の憶測であったものか。
『責任 ラバウルの将軍 今村均』で角田房子氏が調査内容を記すところによると、鈴木少佐は裁判において「終戦についてはまだ知らなかった。島民が日本軍に反抗的であり敵上陸の際の離反が推測されたために殺害した」と虐殺の理由を語っていたという。
ラバウルへ送られたのは小隊長以上全員とカブナーが顔写真を見て指さした人々である。裁判の結果は隊長A少佐、中隊長四人、小隊長三人の計八人が絞首刑、Yを含む数人が有期刑であった。
Yの話を聞いてから、私は改めてこの事件を調べ始めた。事件の場所も、刑死した人々の名前もわからなかった時とは違い、断片的ながら資料も手に入り、伝聞がほとんどだが話を聞くことも出来た。刑死者の名前を知ってみれば、そのいくつかは「片山日出雄日記」の中に見出せたし、「世紀の遺書」には彼らのものも収められていた。
取材が進むにつれ、私はまた新たな驚きにうたれた。島民二百人の射殺も、それが日本降伏後の八月十九日の事件であったことも、Yの話と一致したが、射殺の理由は全く違っている。Yは「白人殺害を秘すため」と語ったが、法廷でA少佐が「島民が日本軍に反抗したため……」と述べているのをはじめ、どこにも「白人殺害」は現われてこない。いくつかの遺書も、内容はほぼA少佐の言葉と同じである。どちらが真の理由なのか――
ただし角田房子氏は「終戦については知らなかった」という説明に説得力がないとして、この鈴木少佐の裁判での証言には懐疑的な意見を表明している。
私がまず問題にしたのは、「彼らはいつ日本の降伏を知ったか」である。Yは「八月十五日、ラジオで終戦を知った」と語り、中隊長の一人も「島民に日本の敗北を告げてから殺した」と述べている。だがA少佐は「八月十日か十一日にラジオで阿南陸軍大臣の『徹底抗戦』の訓示を聞き、我々もこの島に敵上陸の時は存分に闘って玉砕と覚悟した。だが島民に反抗的行為があり、敵上陸の時の離反が予測されたので、八月十九日に全員射殺した。そのとき我々は日本の敗北を知らず、それを知ったのは八月二十四、五日ごろ……」と述べている。また数日に一度しかラジオを聞かなかった理由は「発電機用燃料及び硫酸液が少量しかなく、後方との無線連絡に備えて節約……」と説明されている。この説明にはいちおうの説得力がある。しかし短波によってポツダム宣言を知り、「日本の降伏近し」と聞いたが、デマだと思っていた、という供述が二、三ある。その状態で阿南陸相の訓示を聞いていながら、その後十日以上も全くラジオを聞かなかったというのは不自然ではないだろうか。私は島民射殺の理由をどちらかに断定する証拠を持っていないが、事件が日本降伏の四日後に起っていることからも、やはり「白人殺害を秘すため」というYの話に心が傾く。
一方、奈良賀男氏は、鈴木少佐が住民・島民を信用しておらず離反を警戒していたことを強調しつつ、「島から貴重な船を使って脱走した者がいた。彼が連合軍に情報を漏らしたようで空襲の狙いが正確化した」「終戦後に、日本軍と戦うつもりだったと証言した住民もいた」ことなどを理由として、「鈴木さんの考え方が正しかった」というコメントを述べている。
鈴木さん、典型的な海軍士官といいますか、頭脳も明晰ですし、この方は通信関係の専門、砲術とか、そういうほうじゃなくて、通信を専門にされた、いわば現在でいう、はやりの情報将校的な生き方をして来た方で、六七警に来られる前は、ペナンの警備隊に勤務した人です。
ずいぶんペナンでのいろんな苦労した話をしておりました。衛兵司令、警察ですね、軍隊の警察をやらされたようです。あそこは大都会ですから、衛兵司令というのは、いわゆる民間の取締りなんかも相当やらされたんだろうと思います。ペナンで日本の貨物輸送船が爆破されたり、あるいはテロ行為にあったり、そういうような事件もあったらしくて、ともかく原住民とか、そういうのは敵性を持っているんで絶対に信用できないと、こういう考え方でした。
鈴木さんはそういうことで、いわゆる一見平和的な住民、島民でも、絶対に敵性を持っているという考えかたでした。そこから出発されておりました。私のその後の経験から見まして、その考え方が、正しかったと思います。
『責任 ラバウルの将軍 今村均』内では、「Y」氏は殺害について以下のように証言したと記されている。
二百人の島民は五班に分けられ、海岸の崖の上に連行されて射殺された。
「私の班にも五人が渡されました。みな屈強な若者なので、暴れ出したら手に余るぞと思いましたが、彼らはふしぎなほどおとなしく、目かくしをする時も黙って地に膝をつきました」
この虐殺のただ一人の生き残りカブナレ氏の証言に基づいた以下の話が、島民の間には伝えられている[7]。
OSAKISO then divided them up into their new sections as instructed by SUKAISO [SUZUKI]. Kabunare's section was the last to be divided up.
(オサキソ[8]はスカイソ[9](スズキ)の指示に従って彼らを新たなグループに分けた。カブナレの班は最後のものだった。)
Kabunare was with this fifth group of about eight men.
(カブナレは5番目のグループに入り、その人数はおよそ8名であった。)
SHOTAISO drew his sword and revolver and the soldier drew a revolver and both pointed at them. They did not speak to them but called out for some more soldiers to come out. Eight soldiers arrived with guns and bayonets on them and came around in front of their group. Each soldier stood in front of each of them just six inches away.
(ショータイソー[10]は彼の軍刀と拳銃を抜き、兵士も拳銃を抜いて、二人とも男性たちにそれを突き付けた。彼らは男性たちに何も語らなかったが、更に数名の兵士をこちらに呼んだ。銃剣の付いた銃を携えた8名の兵士が男性らのグループの前に回り込んだ。それぞれの兵士がそれぞれの男性らのわずか6インチ前に立った。)Without anything being said, the soldiers who had led them tied each man's hands in order with some twine he had in his pocket. It was twine that was used for rope making. Kabunare's hands were tied very tight. Then SHOTAISO spoke to the soldiers before telling them to stand up. The soldiers gathered up the long ends of the ropes so they could not run away. SHOTAISO then walked toward Tabiang village, while the soldiers holding the ropes binding them followed behind him. Another eight soldiers followed behind.
(沈黙したまま、男性らを先導してきた兵士らは、男性らの手を彼らのポケットに入れていた紐を使って順番に縛った。それはロープを作るのに使われる紐だった。カブナレの手はかなりきつく縛られた。それからショータイソーは兵士たちに話しかけ、そして男性らに立ち上がるように言った。兵士たちは男性たちが逃げられないようにロープの長い端をまとめた。それからショータイソーはタビアン村へと向かって歩き、男性らを縛ったロープを掴んだ兵士らも彼の後を追った。さらに8人の兵士がその後を追った。)
When they got to the cliff the soldiers released the ropes and told them to line up on the edge of the cliff and squat down close together. Then a cloth was tied over their eyes. The same man who tied their hands tied their blindfolds. Kabunare could hear movements behind and to the left of him as though the soldiers had moved up behind them. He had been the second man to be blindfolded.
(彼らが崖に着くと、兵士たちはロープを放し、男性らに「崖の縁に一列に並んで、互いに集まってしゃがめ」と指示した。それから男性らの目に布が巻かれた。男性らの手を縛ったのと同じ男が、彼らの目隠しも結んだ。カブナレは、兵士たちが背後に迫ってきたと思しき、自分の背後と左側の動きを耳にした。彼は二番目に目隠しをされた男だった。)Falailiva was the first man to be blindfolded and was to his left. He asked Kabunare, "Are you ready?"
(ファライリヴァは最初に目隠しをされた男で、カブナレの左にいた。彼はカブナレに「覚悟はできたか?」と尋ねた。)"Yes!" Kaburnare was ready to die.
(「ああ!」カブナレは死を覚悟していた。)Then Falailiva asked, "You remember God?"
(そしてファライリヴァはこうも尋ねた。「神様のことをおぼえているか?」)He replied, "Yes! I remember."
(カブナレは答えた。「ああ!おぼえているとも」)Then everything was quiet for a moment. Then, Kabunare fell over the cliff. He did not try to, but he just fell. Almost at the same time, he heard a scream and someone fell on top of him. He thought that it was Falailiva. He heard a lot of shots fired.
(それから一瞬、辺りは静まり返った。そして、カブナレは崖から転落した。そうしようとしたわけではなかったが、しかしただ落ちたのだ。ほぼ同時に、彼は叫び声を耳にし、そして誰かが彼の上に落ちてきた。彼はそれがファライリヴァだと思った。彼は多数の銃声を耳にした。)Failailiva was still on top of him and some of the bullets he could hear were close to him.
(ファライリヴァは彼の上から動かず、また彼は近くをかすめる数発の弾丸の音を聞いた。)It was about 3-4 pm. The water kept breaking over them but he could take a breath as the water reached him each time. Even though he was blindfolded he could see a little out of his left eye, but didn't look up. Then he bit Falailiva's shoulder to see if he was still alive. He was still lying partly on top of him. Falailiva did not cry out, so he was dead.
(午後3時か4時頃の出来事だった。水が彼らの上に打ち寄せ続けていたが、水が彼の元に届いた時でも彼は何とか呼吸をすることができた。目隠しをされていたにもかかわらず左目で少し見えていたが、見上げることはしなかった。それから彼は、まだファライリヴァが生きているかどうか確かめようとしてファライリヴァの肩に噛みついた。ファライリヴァはまだ半ば彼の上を覆うような形で倒れていた。ファライリヴァは声を上げず、死んでいることがわかった。)He stayed about an hour in the water until he thought the Japanese would be gone. Then he got up and went over to a sharp piece of the cliff where he cut the bindings from his wrists. He removed his blindfold and went to check all the other bodies to see if any were still alive. He looked at each man's face and realised they were all dead.
(彼は日本人が行ってしまったと思うまでの約1時間、水中に留まった。それから彼は起き上がって崖の鋭い部分に行き、そこで手首の束縛を切った。彼は目隠しも外して、まだ生きている者がいないか確認するために他の全ての遺体を調べた。彼は男性ら一人一人の顔を見たが、全員が死んでしまっていることを悟った)There was a lot of blood about. Kabunare didn't know how all the other men were killed, but he remembered Falailiva had a wound on his left side and blood was coming from it. Ueantaiti had a bullet hole in his head. After he found they were all dead he looked for a place to hide and found a cave. He stayed in the cave all night.
(辺りは大量の血で染まっていた。カブナレは他の男性らがどのように殺されたのかはわからなかったが、ファライリヴァの左側面に傷があり、そこから血が流れ出ていたことは覚えていた。ウエアンタイティの頭には銃創があった。全員が死んでいることが分かった後、彼は隠れ場所を探し、洞窟を見つけた。彼は一晩中洞窟の中にいた。)The next morning he saw some of the dead bodies floating outside his cave. They were swollen. Two of the bodies washed into the entrance of his cave. He didn't touch them and stayed inside his cave and only peeped outside.
(翌朝、彼はいくつかの遺体が彼のいる洞窟の外に浮かんでいるのを見た。彼らは膨れ上がっていた。死体のうち2体が彼のいる洞窟の入り口に流れ着いた。彼は彼らに触れることはせず、洞窟の中に留まって外を覗き見るだけだった。)
この記述からは、カブナレが生き残った理由は「撃ち殺されて崖下に落とされるというまさにその瞬間、崖の下に落ちたため」だったことがわかる。
また、「五班に分けられた」「しゃがまされ目隠しをされた」「おとなしく指示に従っていた」という点が「Y」の証言と一致していることがわかる。
この処刑に関わった日本兵の一人「関利保」氏は、この事件に関する手記を記していた。1980年代半ばから執筆に取り掛かり、入退院を繰り返しながら晩年まで書き続けたが未完のまま死去したという。
その中には処刑について以下のような内容が記されているという[11]。
敗戦を迎えて三、四日たったころ。兵舎に総員二十数人が集められ、思いも掛けない命令が小隊長から下る。「残した全島民を今から処分する」「コメを盗んだと理由をつけて後ろ手に縛り、海岸に連行してただちに射殺」「最後の指揮官命令だ。総員心して掛かれ」
関さんは「一人一人の名前や顔まで互いに覚え心が通じ合うほどに親しくなったのに」「胸が急に締め付けられ全身の力が抜け、膝ががたがたと音が聞こえるくらいに震えだし」と当時の心境を表現する。
この命令で約百六十人が殺害された。このうち、三人に対し、関さんら六人も射手に指名され、士官の「早くやれ」の言葉を受けて引き金を引いた。
「ざんきにたえず、知ってるかぎり彼らの名を心の内で呼び、予想もしない命令で尊い命を奪いさり、許してもらえないだろうが冥福を祈るだけでした」
角田房子氏は、『責任 ラバウルの将軍 今村均』内で鈴木少佐について「部下を助けようとした」と思われる言動があったことは記している。
A少佐は「この事件は部下の反対意見を採用せずに、作戦命令として射殺を強制したので、責任は私一人にある。私は部下に『逡巡する者あらば、抗命罪を以て処断する』と告げた」と述べている。ラバウルのA少佐は責任を一身に負って部下を助けようと努力を重ねたが果せず、遺書に「余の不徳により多数の部下を犠牲にせしことは、最後迄遺憾のことなり」と書いている。
だが、彼が島民へ向けた言葉が「あまりに手前勝手」であると批判的であり、
私はA少佐が島民の態度の変化について、「我々の恩を忘れ……」と語っていることに、強い抵抗を感じた。"恩"とは何を指しての言葉なのか。非戦闘員ばかりのオーシャン島を占領した日本軍は、侵略者以外の何であったのか。島民を利用するための好遇を"恩"と呼び、その"恩"をふりかざして、「共に戦え」というのは、あまりに手前勝手な注文である。日本軍のこの思いあがりが、中国や南方などの戦線の随所にありはしなかったか。
同時に、まだ若い青年将校だった彼を哀れんでもいたようだ。
「片山日出雄日記」によれば、A少佐は結婚後わずか二週間で戦地に出た人である。獄中の彼が妻を案じている様子を、片山は書いている。刑死した時のA少佐は二十九歳であった。もし戦争がなかったら、彼は自分の中にこれほどの残虐性がひそんでいることを知らずに、生涯を過したであろう。
1980年代から1991年にかけて旧海軍軍人が行った会合「海軍反省会」でも、本事件について話題に出ていた記録がある。佐薙毅元海軍大佐による発言。
それから、これも雑談になりますが、陸軍の人に言わせると、海軍というところは俘虜の取り扱い、思い切ったことをやるもんですなと言われている。それは海軍側の俘虜、そこに関する大胆さといいますか、証拠隠滅の、まあ大胆さの件を二つ、私がラバウルでもグアム裁判でも経験しておりますので、これをここで披露しておきますと、
もう一つは、ナウル・オーシャン、ナウル島の事件ですが、これは終戦後なんですよね。あの、ナウル島で、さっきのアンダマン・ニコバルであったように、島民を疎開させるためによそへ船で送り出して、そして実は途中で死んでしまったり、あるいはどっかの島で、死んだりしたりして、要するに住民殺害の事件があったわけです。それが終戦後ばれると困るというので、終戦後残っていた婦女、老人から在島の住民全員をですね、海岸の崖の上に並べて、これも機銃掃射かなんかで、全部殺してしまったと。そしたらこれまた一人、海岸から飛び降りて、江の島の洞窟のようなところに残ってたのが、豪州軍が上陸してきてから、ノコノコ出てきて事実を話したと。要するに海軍の人の、俘虜取り扱いに対する考え方は、陸軍の人に言わせると、実に思い切った大胆なことをするという、まあ、私が陸軍の人からも言われ、また自分も痛感した、俘虜取り扱いに対する海軍側の感覚といいますか、あるいは戦犯に対する証拠隠滅に対する、私もラバウルでも証拠隠滅を図ったんですけども、まあ、生き残りの人を全員殺害して証拠隠滅を図るといっても今のように二つとも生き残りの人が一人ずつ出て、あの、証拠がばれてしまったという事件がありました。
ナウルで起きた事件であるかのように話しているが、これは「ナウル・オーシャン」と言いかけていることから、上述のようにオーシャン島とナウル島が比較的近い位置にあることから、どちらの島で起きた事件であったかを失念したものかと思われる。また、実際には男性らが殺害された事件であるのに「残っていた婦女、老人から在島の住民全員」と言っていたりと、直接よくは知らない伝聞を話していることがうかがえる。
「陸軍はそんなことはしない」とも読み取れそうな述べ方だが、部隊による組織的な軍事行動として民間人を意図的に虐殺した事件は陸軍でも起きている。例えば「カラゴン村事件」など。
(2015年2月4日のブログ記事。鈴木少佐の遺書の文面を掲載している)
(2022年10月13日の新聞記事)
(虐殺の唯一の生存者「カブナレ」氏の体験したことについての内容。消滅済みの個人サイトの一ページのため、インターネットアーカイブへのリンク)
(バナバ人によるウェブサイト、日本軍占領期のバナバ島に関するページ)
(同サイト内、カブナレ氏の体験に関するページ)
(オーストラリア国立図書館公式サイト内、オーストラリアの新聞『The Herald』の1946年4月26日付の記事が閲覧できるページ。本虐殺が判明したことについて報じている)
(オーストラリア国立図書館公式サイト内、オーストラリアの雑誌『Pacific islands monthly』の1946年5月号の記事が閲覧できるページ。本虐殺に関して日本軍の士官が戦犯裁判にかけられることを報じている)
(オーストラリア国立公文書館に収蔵されている資料。「原忠一」海軍中将の氏名を冠したタイトルからは想像しづらいのだが、全1798ページという多数のページ数の一部として本事件に関する資料が収録されている。例えばページ番号1550
の資料は鈴木少佐による証言の開始ページである。これは原中将にもこの事件に関する責任が問われたためであるようで、ページ番号1795
の資料にて列挙された原中将の容疑内の最後に「20 Aug.1945, Ocean Is., kill 200 British Nationals.」(1945年8月20日、オーシャン島、200名のイギリス国民[12]を殺害)と掲載されている。なお、なぜかページは番号を遡る方向に進む。つまり「最初のページが1798ページで、最後のページが1ページ」となっているようだ。)
」にまとめられている。
」を参照。
」を参照。
」より引用。
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最終更新:2025/12/11(木) 01:00
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