伊156とは、大日本帝國海軍が建造・運用した伊156型/海大3型B潜水艦の1番艦である。1929年3月31日竣工。大東亜戦争時には旧式化が進んでいたが、通商破壊により連合軍船舶4隻(9125トン)を撃沈。ミッドウェー海戦を境に現役を引退して練習艦となる。1946年4月1日、五島列島沖で海没処分。
艦隊随伴型潜水艦である海大3型Aに細かな改良を加えたタイプ。建造当時の艦名は伊56であったが、のちに伊156に改名したのと伊54型に同名の艦が存在するため、便宜的に伊156と呼称される事が多い。
1924年からヤードポンド法からメートル法に改める事になり、それに伴って海大3型Bの設計図もメートルやミリに書き直された。新たに巡潜型の設計を取り入れつつ、ドイツから招聘したテッヘル博士の助言で艦首と艦尾の形状を鋭角に変更して凌波性強化と水中抵抗減少を実現。これにより全長が40cm延伸された。低圧ブロワーと残水管による排水力強化を狙ってトリムポンプを2台に増やし、メインタンクにキングストン弁を追加。また上部構造物に直径178mmの耐圧通風管を、魚雷発射管室に送風機を設置して換気冷却能力を向上させている。海大3型Bは伊56、伊57、伊59、伊60、伊63の5隻が生産された。このうち伊60が衝突事故で開戦前に沈没し、伊60が開戦劈頭に喪失。残った3隻は無事終戦まで生き残った。
要目は全長101m、全幅7.9m、乗員63名、排水量1800トン、速力20ノット(水上)、8ノット(水中)、潜航深度60m、航続距離1万8520km。武装は12cm単装砲1門、7.7mm機銃1門、艦首53cm魚雷発射管6門、艦尾53cm魚雷発射管2門、6年式魚雷16本、水中聴音儀。
1923年度艦艇建造計画にて海大3型一等潜水艦として建造が決定。1926年5月24日に伊56と命名され、11月2日に呉海軍工廠で起工。1928年3月23日に進水し、1929年3月31日に竣工して呉鎮守府へと編入される。竣工翌日の4月1日、姉妹艦の伊58とともに第2艦隊第2潜水戦隊に第19潜水隊を編制。訓練航海を開始する。4月30日には新たに竣工した伊57が第19潜水隊へ加わっている。
1933年6月29日に伊56は佐世保を出港し、僚艦伊57、伊58、第18潜水隊(伊53、伊54、伊55)とともに澎湖諸島や馬公沖で訓練航海を実施。7月5日から13日までに高雄へ寄港した後、中国近海で訓練をしながら8月21日に東京湾へ到着。そのまま8月25日に横浜沖で行われた大演習観艦式に参加する。
1934年9月27日、伊57、伊58、伊61、伊62、伊64、伊65、伊66、伊67とともに青島沖で訓練を行い、10月5日に佐世保へ帰投。11月15日より第19潜水隊は呉警備隊に編入される。1935年11月15日に連合艦隊へ復帰し、第1艦隊第1潜水戦隊に転属。12月18日未明、呉に停泊中の伊56へ向かっていた上陸用舟艇が強風にあおられて転覆し、艦長と4名の機関要員が溺死。日の出後の捜索で救助できたのは1名だけだった。
1936年2月1日、本州沖での訓練のために出港するが、2月27日午前10時16分に大王崎灯台沖59kmにて伊53と接触事故を起こす。1937年1月7日に第1予備艦となり、12月1日に再就役するまで一時的に現役を引退。1939年11月15日、第19潜水隊は第4潜水戦隊に転属。
対米英戦争が不可避となってきた1941年10月9日に第4潜水戦隊は呉へ入港して戦備を開始、11月15日に南遣艦隊への編入とマレー方面の要地攻略作戦の支援を命じられた。11月20日、旗艦の軽巡洋艦鬼怒に率いられて広島湾を出発し、11月26日に前進拠点の海南島三亜港に到着。11月28日発令の南方部隊電令第10号により正式に馬来部隊潜水部隊第4潜水部隊に編入され、マレー上陸作戦支援と敵艦艇攻撃を下令。12月1日に第4潜水戦隊の潜水艦3隻は先陣を切る形で出撃。アナンバス諸島北西の哨戒線に到達したのち、12月7日に気象報告を行って運命の開戦を迎える。
1941年12月8日、大東亜戦争開戦と同時にマレーへの上陸作戦が始まり、伊56も行動を開始する。同日20時15分、マレー半島東方でコタバルの天候偵察を行っていた伊56は浮上航行中のオランダ海軍潜水艦O-16(K XVII説あり)を発見し、雷撃を行うも攻撃に失敗。
12月10日、伊65からの通報により新型英戦艦プリンス・オブ・ウェールズを基幹としたZ部隊が既にシンガポールを出撃している事が判明。マレー作戦支援中の南遣艦隊や南方部隊本隊に衝撃が走る。Z部隊の位置は艦隊で攻撃するには遠すぎたため、南方部隊本隊は航空隊と潜水艦に攻撃を委ね、敵艦がいるであろうクアンタン沖へ急行するよう下令される。しかし潜水艦が捕捉する前に航空隊がZ部隊を発見してマレー沖海戦が生起。目下最大の脅威である戦艦プリンス・オブ・ウェールズとレパルスが撃沈された事が分かり、アナンバス諸島・グレートナトゥナ島間の哨戒線への移動を命じられた。
12月11日18時30分、バンコクから米と一般貨物を輸送中のオランダ商船ヘイチング(1186トン)をコタバル沖で捕捉。銃撃で撃沈して最初の戦果を挙げる。乗組員50名は全員死亡した。翌12日に哨区の変更を命じられて移動を開始。12月14日早朝、哨戒中のオランダ潜水艦K XIIは伊56の推進音を探知し、午前11時に右舷方向にて潜望鏡を発見。K XIIは伊56に体当たりしようと転舵してきたが、回避運動によりK XIIの左舷100mにまで急接近して内懐へ飛び込み、敵の体当たり攻撃を断念。K XIIはジグザグ運動しながら退避していった。12月19日、帰投命令を受領して翌日カムラン湾へ帰投。補給を受ける。マレー沖海戦で最大の脅威が排除されたため潜水艦隊は第二期作戦に移行する事になり、12月27日に湾内にて作戦の打ち合わせを行う。
12月28日、カムラン湾を出港。オランダ軍の中枢があるジャワ島方面に向かった。
1942年1月3日、哨区のジャワ島南岸チラチャップ沖に到着。良港チラチャップには連合軍の船舶が集結しており、ジャワから脱出してくる敵船舶を狙い撃ちしようと息を潜める。
1月5日、さっそく獲物のイギリス貨物船クワンタン(2626トン)を砲撃で撃沈。乗組員と便乗の軍人133名、助かったのは35名だけだった。翌6日早朝、チラチャップ南東40海里でオランダ商船タニンバーを捕捉して浮上。砲撃戦を仕掛けてタニンバーに損傷を与えるも、反撃を受けたため潜航退避。
1月8日午前6時、チラチャップ南西80海里でスマトラ島に向かうオランダ船バン・リース(3050トン)に魚雷1本を撃ち込んで乗組員6名が死亡。やがて左舷へ傾いてバン・リースは沈没。決着がついた後、伊56は浮上して海面に漂う生存者を救助して貨物と行き先について尋問した。同日21時頃、オランダ客船バン・リービーグ(2263トン)を砲撃で撃沈。乗組員13名を死亡させる。
1月12日午後、バリ島近海でスラバヤからダンジョン・プリオクに向かっていたオランダ船パトラスを発見。魚雷を発射するも回避されてしまい、やむなく浮上して砲撃戦に移行。パトラスは最大速力の13ノットを出して全力で離脱を図る。何とか船尾に命中弾数発を与えて炎上させたが、そこへオランダ海軍のドルニエDo24K飛行艇が駆け付けてきたため急速潜航。幸運な事に敵機は爆雷が不足していて攻撃出来ないまま退却。安全を確認した伊56は浮上して再度パトラスを追跡し、バニュワンギへ逃げ込まれるまでに2発の砲弾を発射したが、遂に仕留められなかった。翌13日、帰投命令を受けてロンボク水道に向かい、1月18日にカムラン湾へ帰投した。
1月31日、パレンバン攻略を支援するためカムラン湾を出撃。道中でアナンバス諸島に寄港して給油を行って2月2日にスンダ海峡南口の哨戒区へ到着。2月4日、スンダ海峡入り口でコロンボからシンガポールに向かっている敵船団を発見し、オランダ船トギアン(979トン)を砲撃。命中弾を浴びたトギアンはその場は生き延びたものの東ティモール西端コパンで船体が切断されて沈没した。2月11日に伊56は「スンダ海峡南方にて連合軍商船を攻撃した」と報告しているが、該当船は存在しない。これらの戦果を以って、2月21日にセレベス島スターリング湾に帰投。
3月5日、ジャワ島チラチャップ沖に向かうべくスターリング湾を出港。3月8日、海上を救命ボートで漂うイギリス空軍のパイロット12名を発見。彼らはボートでジャワから脱出してきたようだった。浮上後、艦長が双眼鏡で観察。一度は攻撃を加えようとする雰囲気だったが伊56は攻撃をせず立ち去った。3月10日、第4潜水戦隊の解隊に伴って第5潜水戦隊に転属。そして3月12日にスターリング湾へ帰投した。開戦から連戦が続いていた伊56は休息と整備のため後退する事になり、翌日出港。3月20日に呉へ帰港する。
5月14日、ミッドウェー作戦参加のため呉を出港。道中の5月20日に艦名を伊156に改名し、5月24日にマーシャル諸島クェゼリン環礁に到着した。補給を済ませた後、5月26日に出撃し、伊157、伊158、伊159、伊162、伊165とともに散開線を形成。ところが6月5日のミッドウェー海戦で機動部隊が壊滅状態に陥ったため、第6艦隊は15隻の潜水艦からなる散開線を西へ移動させる指示を出し、追撃してくるであろう敵艦隊の出現に備えた。6月6日午前4時頃、北北西に向けて移動する伊156はミッドウェー島東方550海里の地点にいた。そこで駆逐艦2隻に護衛された敵の給油艦を発見したが、雷撃位置につけず見逃した。伊156は伊168以外で唯一敵艦に遭遇した艦となった。6月20日、クェゼリンに帰投。
6月22日にクェゼリンを出発し、6月30日に呉へ帰港。7月10日に第5潜水戦隊が解隊、第19潜水隊は呉鎮守府所属の練習艦となって潜水艦学校の生徒に実習の場を与えた。
練習艦として過ごしていた1943年5月12日、アメリカ軍の上陸を受けてアッツ島の戦いが生起。第19潜水隊は北方部隊に編入され、伊157とともに派遣される事になった。5月22日、作戦用潜水艦に復帰して呉を出港。翌日横須賀へ寄港したのち、6月1日に幌筵島片岡湾に到着。給油船帝洋丸から燃料補給を受ける。
アッツ島の失陥により、アリューシャン列島の奥地にあるキスカ島守備隊は退路を断たれて孤立。彼らを救助するため、6月4日に幌筵を出港。濃霧の中でも正確に伊号潜水艦を撃ち抜けるレーダーを持った敵艦隊が遊弋する危険な海域を抜け、6月16日にキスカ島へ到着。その直後にキスカへの空襲が行われ、急速潜航しなければならなかった。敵機の襲来が去った後、5トンの補給物資を揚陸するとともに60名の傷病兵を収容。6月20日、無事幌筵まで連れ帰った。しかし伊7を喪失した事で潜水艦による撤退作戦を中止。高速水上艦艇に後を託し、翌21日に出発。6月26日に呉へ帰投した後、再び練習艦として運用される。
12月1日に呉潜水戦隊に編入され、練習艦兼警備艦となって乗組員の養成任務に従事する。
内地で訓練に従事。
練習艦として余生を過ごしていた伊156であったが、回天攻撃に使用する大型潜水艦が減ってきたため練習艦隊から引っ張り出される形で回天母艦への改装が決定。
1945年2月11日、呉を出港。舞鶴へ回航されたのち工廠にて回天の搭載設備を設置する。海大型は巡潜型と比べると船体が小さいので前後に1基ずつしか搭載出来なかった。2月20日に舞鶴を出港して翌日呉に帰港。3月19日に呉軍港内の艦艇を狙った空襲が行われたが、幸い伊156に被害は及ばなかった。4月1日、第19潜水隊から除かれて第6艦隊第34戦隊に編入。いよいよ作戦用潜水艦に復帰した。5月20日、光基地に回航されて回天発射訓練に参加。しかし艦齢の高さから最前線への投入は見送られ、伊155、伊157、伊158、伊159とともに瀬戸内海西部にある回天基地から回天2基を四国沿岸の陸上基地に輸送する任務に従事。伊156は主に光基地と大神基地を行き来していた。6月5日、シンガポールで接収したUボートに充てるため伊156の航海長が第10艦隊へ転出。後に伊351に便乗して佐世保から出発していった。
6月25日、深刻化する燃料不足を解消するため大連の備蓄燃料を得るべく呉を出港。伊156は何故か味方識別用の日の丸を外していた。豊後水道を南下中に大型台風と遭遇し、付近の小さな湾に投錨したのち沈降して台風が過ぎ去るのを乗った。その後、艦長と航海長が打ち合わせのため小舟で陸地を目指すが、陸地を目前にして空襲警報が発令がされ、呉方面を襲った米艦載機4機が機銃掃射を仕掛けてきた。幸い誰も負傷せずに済んだ。
水道を通過して外洋に進出した伊156は九州を南に回って西海岸を北上。済州島方面へ向かっている時に友軍の偵察機が飛来した。しかし日の丸を外していた事が災いして敵潜と判断され、射撃体勢で一気に急降下してきた。航海長が大急ぎで手旗信号を送り、味方であると伝えて何とか事なきを得たが、どうやら周辺の基地に連絡が行っていなかったらしい。済州島の西側を通って朝鮮半島西岸を北上していると艦首右舷前方より陸軍機が飛来。またしても敵潜と誤認され、爆弾の投下姿勢に入ったため慌てて日の丸と白旗を振って攻撃を回避。まさかこの時期に日本の潜水艦がいるとは思わなかったのだろう。2回の誤認を受けながらも何とか目的地の大連港へ入り、燃料の積み込みを実施。乗組員には束の間の休息が与えられた。
大連からの帰り道、豊後水道へ差し掛かろうとしたその時、突如として敵潜が放った3本の魚雷が一直線に伸びてきた。伊156は思い切り艦体をよじり、両舷を白線が通過して辛くも回避。全速力で現場から遠ざかって九州と細島の間に逃げ込んだ。そして7月2日に無事呉へ入港。本土決戦に備えて訓練を行っていたが、8月6日に広島市へ原爆が投下された。乗組員には広島出身の者も多く、悲嘆に暮れた。
進駐してきたアメリカ軍によって、他の残余の潜水艦とともに接収された。1946年4月1日、長崎県五島列島沖で行われたローズエンド作戦で撃沈処分され、海底へと沈んでいった。
戦後しばらくの間は沈没地点が不明瞭だったが、2015年7月に海上保安庁の測量船海洋が五島列島福江島東南東約35m、水深約200mの地点に24個の残骸を確認している。
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最終更新:2025/02/12(水) 07:00
最終更新:2025/02/12(水) 07:00
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