伊6とは、大日本帝國海軍が建造・運用した巡潜2型1番艦である。1935年5月15日竣工。雷撃で米空母サラトガを撃破し、連合軍船舶4隻(1万1621トン)を撃沈する戦果を挙げた。1944年6月16日に出港したのを最後に消息不明となる。アメリカ艦艇に撃沈されたとも、味方の豊川丸に体当たりされたとも言われる。
巡潜2型とは航洋型高速潜水艦こと巡潜1型の改良タイプ。建造時から航空艤装と水上機運用能力を有した最初の艦で、その基礎設計は潜特型まで続く巡潜型の始祖的存在。ちなみに伊5も航空艤装を持っていたが就役後に追加されたものである。法令上は伊1型(巡潜1型)の6番艦。
第一次世界大戦においてドイツ帝国は世界最高の潜水艦技術を有しており、終戦後は戦勝国がこぞって技術の取得を狙った。大日本帝國も例外ではなく、大戦後期に登場したU-142型(巡潜型)とU-117型(機雷敷設型)に興味を持った事でその設計図を入手、更に独ゲルマニア社に所属する主任設計者ハンス・テッヘル博士を招いて潜水艦技術を学んだ。こうして誕生したのが巡潜1型であり、帝國海軍が待ち望んでいた高い攻撃力と長大な航続距離を併せ持つ理想的な潜水艦に仕上がった。
次に帝國海軍は巡潜1型の改良に着手。ドイツ式だった巡潜1型の設計を日本式に改め、主機を純国産の艦本式1号甲7型に換装して最大速力を21.3ノットに向上させるなど、外国色の強かった巡潜1型を日本色に染めていった。ちなみに艦本式ディーゼルは海大六型にも搭載されているが伊6の方が先だったため初めて国産ディーゼルエンジンを積んだ潜水艦となった。ただ性能が安定していなかったらしく前級の巡潜1型と比べて航続距離が4400海里も減少している(それでも長大なのは変わりないが)。他にも夜間潜望鏡と複式水中信号機を新たに装備し、MV式聴音機の受信機を九一式特三号受信機に換装。
巡潜1型改(伊5)が後付けで搭載した射出機を建造時から装備しており、魚雷格納庫の容積と甲板砲を減らして艦後方に航空機格納筒2基を設置し、水上機の運用能力を付与した。航空機格納筒を半引き込み式にする事で水中抵抗を減らす工夫も凝らしている。とはいえ水上機を保有した最初の艦だけあって運用は試行錯誤の連続だった。艦後方に射出機を装備した弊害で、水上機を発進させるには後進しなければならない手間が浮き彫りになるも、伊6が示した欠陥は後の建造に活かされ、後発の巡潜型は射出機を艦前部に設置している。魚雷格納庫の容積を減らした弊害で魚雷搭載本数が20本から17本に減少。純粋な攻撃力は巡潜1型より劣ってしまった。また船殻の対弾防御を廃した結果、巡潜1型より排水量が軽くなっている。
計画では巡潜2型を量産するはずであったが、マーシャル諸島方面で演習を行った際に日本本土からの作戦通信が途切れ途切れにしか受信できない事が判明。急遽通信機能に優れた旗艦用潜水艦(巡潜3型)が求められるようになり巡潜2型は僅か1隻のみの生産で終わってしまった。
要目は排水量1900トン、全長98.5m、全幅9.06m、最大速力21ノット(水上)/7.5ノット(水中)、燃料搭載量580トン、乗員68名、安全潜航深度80m。武装は12.7cm高角砲1基、13mm単装機銃1丁、53cm艦首魚雷発射管4門、同艦尾魚雷発射管2門、魚雷本数17本、九一式水上偵察機1機、呉式1号3型射出機1基。
大東亜戦争開戦時は二線級の性能だったが最前線で活躍。開戦劈頭に米空母サラトガを雷撃してドック送りにした事でアメリカ軍は最も苦しい時期にサラトガを使えない事態に追いやられた。通商破壊で4隻の連合軍船舶を撃沈し、数多くの困難な輸送任務を成功させた。東はハワイ諸島、西はアラビア海、南はブリスベーン、北はキスカ島と太平洋を縦横無尽に駆け巡った武勲艦と言えよう。
1931年、ロンドン海軍軍縮条約下で策定された第一次補充計画(通称マル一計画)において巡潜2型一等潜水艦の仮称で建造が決定。1932年10月14日に川崎重工神戸造船所で起工、1934年3月31日に進水式を迎えて多くの来賓が招かれたが、機密保持のため艦首及び艦尾方向と正横からの撮影が禁じられていた。同年8月25日の公試で21.3ノットを記録、10月15日に運転用のボルネオ産重油170トンの補給を受け、1935年5月15日に竣工を果たした。横須賀鎮守府に所属するとともに準姉妹艦の伊3や伊4と第1艦隊第1潜水戦隊第8潜水隊を編制。
1935年8月1日午前8時、水雷戦隊の投射目標艦となるべく伊勢湾内を出港し、午前10時14分に指定位置について潜航哨戒を開始する。14時16分、駆逐艦暁に発見されたため水深20mに潜航、暁は右舷側を通過して伊6の後方で爆雷を投射し始めた。10分後、暁は左舷方向から急接近してきたため、出していた潜望鏡を下げようとした14時27分、第2潜望鏡が暁の船体と接触。暁の通過を待ってから浮上し、被害状況を確認すると潜望鏡上端の折損が見られ、暁側にも士官糧食庫と艦底に浸水が発生した。幸い両艦ともに航海に支障は無く、事故後に伊6は横須賀で修理を受けた。
1936年6月、イギリスの海軍武官が呉工廠の見学に訪れた。この時、第1船渠には伊6が入渠中であり、海軍省事務局は呉鎮守府長官に航空艤装の存在を漏らさぬよう念押ししている。7月には試験的に九六式小型水上偵察機を搭載。10月29日、神戸沖で行われた特別大演習観艦式に参列し、西第五列に伍した。
1937年3月27日、伊1、伊2、伊3、伊4、伊5とともに佐世保を出港。青島付近で訓練に従事した後、4月6日に有明湾へ帰投して訓練航海を完了させる。しかし風雲急を告げる極東情勢は伊6を災いの渦中へと引きずり込んだ。8月13日夕刻、ドイツ製の最新鋭武器に身を包んだ中国国民党軍の精鋭部隊3万が日本軍守備隊4000名と邦人に襲い掛かり戦闘が勃発(第二次上海事変)。数に劣る守備隊は苦戦を強いられる。窮地の守備隊を援護するため本土から続々と増援が送られる事になり、8月21日に多度津から出発する戦艦陸奥、榛名、霧島、軽巡五十鈴等を巡潜1型5隻とともに護衛した。9月に入ると第1潜水戦隊は中国沿岸の海上封鎖を担当する第3艦隊に編入され、潜水母艦長鯨とともに香港を拠点に華南の監視任務に従事。1938年秋頃まで香港に留まっていたが、支那事変勃発に伴う国際的緊張を緩和するために一部兵力を内地帰投させる事になり、第1潜水戦隊は12月に香港から引き揚げた。12月15日、横須賀へ帰投した伊6は第2予備艦となる。
1939年4月1日より横須賀水雷学校の練習艦となって学生に実習の場を提供。11月1日、司令塔に九六式25mm連装機銃を装備。1940年11月15日、第8潜水隊は第6艦隊第2潜水戦隊に編入されて第一線に復帰。格納庫、水上機、航空艤装を撤去され、海大型と同じ潜水艦となった。
1941年1月31日に稲葉通宗少佐が艦長に着任。戦争の足音が迫ってきた9月1日、第8潜水隊司令に竹崎馨大佐が着任し、伊6に将旗を掲げて司令潜水艦となる。11月5日の御前会議にて対米開戦が決定するとともに大海令第1号が発令され、第6艦隊は開戦劈頭より潜水艦をハワイ及びアメリカ西海岸に派遣して偵察、監視、奇襲、海上交通破壊が命じられた。開戦の確定があまりに性急だったため第6艦隊では準備に追われ、出撃に間に合わせるべく11月8日に先遣部隊命令を概成、11月10日には旗艦香取艦上にて艦長を集めたハワイ作戦の説明があり、稲葉艦長が出席している。
11月16日13時、伊4、伊5、伊7とハワイ作戦支援の目的で横須賀を出港、ハワイ方面に向かう。敵の哨戒圏を避けるためアリューシャン列島・ミッドウェー島間の海域を通過し、12月1日頃に配備点であるオアフ島300海里圏内北東に到着した。12月2日、日米開戦不可避を意味する「ニイタカヤマノボレ」の暗号電文を受信。これは同時に8日以降軍事作戦が始まる事も意味していた。伊6がハワイ近海に潜んでいる間にも、択捉島を出撃した南雲機動部隊が荒天に紛れてハワイ諸島北西から接近し続けており、港内から脱出してくるであろう敵船舶を攻撃するため、伊6はカイウイ海峡北方を警戒する。未曾有の戦争はもう目の前まで来ていた。
1941年12月8日朝、ハワイの北方から飛び立った南雲機動部隊の艦載機が真珠湾を攻撃していよいよ大東亜戦争が勃発。ハワイ諸島を取り囲むように展開している潜水艦隊には敵艦隊の捜索と港内から逃げ出してくる敵艦船への攻撃が命じられた。
12月10日午前8時40分、モロカイ島北方のカイウイ水道を東航するレキシントン級空母(エンタープライズの誤認)、重巡洋艦2隻、駆逐艦若干数からなる敵機動部隊を発見。20ノットの速力で北東に向かっている様子だった。稲葉艦長は攻撃を試みようとしたが、敵の警戒厳しく潜航を強いられ、数時間後に何とか浮上して敵空母発見の報と位置情報をクェゼリン所在の第6艦隊に通報。第6艦隊は敵空母が西海岸に向かっていると推測し、同日16時50分に伊号潜水艦9隻に追撃命令を出した。一方で伊6はハワイ近海に留まってカウアイ海峡を監視すべくオアフ島の南へ移動。
12月27日、数日前の魚雷定期点検中に負傷した水雷科員が敗血病で死亡してしまったため、水葬された。
1942年1月10日朝、クェゼリンからハワイ近海の監視配備へ向かっていた伊18は、ハワイ西方880kmでレキシントン級空母を発見したと通報。第6艦隊はハワイ方面に配備中の潜水艦から7隻を抽出し、一線に並んで進みながら捜索する掃航索敵を命令する。本来伊6は参加の予定は無かったが、伊1が機関故障を訴えて脱落したため、急遽穴埋めに入るべくオアフ南方の哨区を出発。1月12日早朝よりジョンストン島北東から西進を開始した。この日、見張り員は哨戒中の敵艦上機を5回発見し、航海長が敵機の飛行コースから敵空母が潜んでいると思われる海域を割り出した。だがここで伊6を悩ます一つの問題が浮上してきた。燃料の不足である。他の巡潜型と比べて航続距離が短い欠点が悪い形で表面化しつつあり、以降稲葉艦長は残り燃料に注意を払いながら指揮を執らなければならなくなった。
1月12日14時51分(現地時間18時41分)、ジョンストン島東北東60度270海里にて伊6は米駆逐艦を発見して急速潜航。間もなく右舷側に14ノットで航行する巨大なる鋼鉄の島――米空母サラトガ、巡洋艦1隻、駆逐艦1隻が夕陽を背に姿を現した。伊6側は宵闇に包まれているため発見される恐れが無い、言わば良好な雷撃位置と言えた。しかし敵空母は高速で移動していて潜航中の伊6にはとても距離が詰められない。発射管に装填されている八九式魚雷の射程距離は7000mであったが、命中を期するには最低でも1500mまで肉薄しなければならず、このままでは何も出来ないまま逃げられてしまう。サラトガの針路変更で偶然距離が縮まった事はあれどやはり状況は好転しない。ここで稲葉艦長は一か八かの賭けに出る。
15時41分、距離4300mからサラトガに対して八九式魚雷3本を発射。本来は4本発射するはずだったが発射管の故障で1本発射に失敗した上、遠距離からの雷撃だったため乗組員は命中を絶望視していたのだが、やぶれかぶれの攻撃が見事実を結んだ。発射された魚雷1本がサラトガの左舷中央部に命中したのである。鋭利なる一撃に鋼鉄の島が揺さぶられながら苦痛の呻き声を上げる。生じた破孔から1100トンの海水が流入し、内部の防水隔壁を歪ませ、12個ある機関室のうち3つを満水させ、機関科員6名を戦死に追いやって洋上停止させる。伊6の聴音手は2回の大きな爆発音と、続いて一連の小さな爆発音を聴いた。
雷撃から7分後、護衛の駆逐艦が迫ってきて爆雷を投下してきたが、正確な位置を掴めなかったようで伊6は水深100mまで潜って難なく回避に成功。22時以降に浮上してレキシントン級空母撃沈を報告した。海面には残骸の類は確認されなかったが、それでも竹崎大佐や先任将校などが「あの爆発音は火薬庫の誘爆かもしれない。敵空母は確実に沈没しているぞ」と楽しそうに談義し、大本営海軍部もレキシントン級の撃沈を公表して新聞にも掲載された。伊6の快報は、ハワイ作戦でイマイチ戦果が振るわなかった潜水艦部隊を元気付け、帰投時に稲葉艦長と伊6乗組員は喝采を以って出迎えられたという。しかしレキシントン級は元々戦艦だけあって非常に堅牢であり、大破で踏みとどまった後、伊6が潜航している間に自力で真珠湾まで帰投。だが伊6の攻撃は決して無駄ではなかった。サラトガは修理に4ヶ月を要してミッドウェー海戦終結後の7月まで復帰出来ず、限定的とはいえ太平洋から敵空母1隻を減らせたのは特筆すべき戦果と言えた。のちにサラトガが真珠湾に入港したとの報告を受けて大本営は戦果を撃破に改めている。
サラトガを撃破した日、伊6は撤哨を命じられて帰路に就き、1月22日にマーシャル諸島の潜水艦基地クェゼリンに帰投。燃料が僅か800リットルしか行っていなかったという。燃料補給を受けたのち1月24日に出港し、2月2日に横須賀へ入港して入渠整備を受ける。だが次なる作戦が伊6を戦場へといざなう。2月8日、第2潜水戦隊は蘭印部隊に編入され、今なお東南アジアで続く蘭印作戦を支援するべく南東方面を哨戒エリアに割り当てられる。
2月13日、第8潜水隊旗艦の座を伊4に継承して横須賀を出撃。2月22日にセレベス島南東ケンダリーのスターリング湾に到着し、翌23日午前8時に姉妹艦伊4や伊5とともに出港するが、2月25日午後12時30分、東ティモール西方で伊5と航行中に九八式司令部偵察機と遭遇。味方機なので伊6側は特に警戒していなかった一方、偵察機は両艦をオランダ軍の潜水艦と誤認して通報、アンボンから飛び立った9機の零戦が機銃掃射を浴びせてきたため潜航退避を強いられた。幸い伊6は無傷で済んだが伊5は信号弾が暴発して損傷を負い、応急修理の目的でクーパンに向かった。スマトラ島西岸で作戦に従事したのち3月8日にペナンへ寄港。
3月14日、南雲機動部隊によるインド洋機動作戦に先立ち、伊1を除く第2潜水戦隊の艦はインド洋の偵察を命じられ、これに伴って伊6は3月26日にペナンを出撃。ボンベイの西方からモルディブ諸島北方を哨区に定めた。翌27日、同盟国ドイツからインド洋での通商破壊を要請され、偵察に加えて敵船舶攻撃も担う。稲葉艦長は同期の木梨鷹一少佐から教えられた商船のマストを利用した襲撃法を実行。3月31日16時35分、モルディブ北方で伊6は敵船を発見して追跡。距離を詰めて魚雷を発射しようとした直前で英病院船ヴィータだと判明したので攻撃を中止した。
4月2日午後、アラビア海ボンベイ南西沖300海里で3655トンの貨物と1027トンの爆発物をコチンに運んでいる英貨物船クラン・ロス(5897トン)を発見し、高速で接近したのち有利な位置で急速潜航。17時14分、約1500mから2本の魚雷を発射、1本が左舷中央部に命中して船尾から沈んでいった。生存者に尋問を行うべく浮上した伊6は救命ボートの一つを捕まえて情報を聞き出す。この時、稲葉艦長はイギリス人乗組員の態度に感銘を受けたようで尋問を終えると通訳の軍医長が水とビスケットを与え、ボンベイの方角を教えるとともに手すきの乗組員が後甲板に並び、生存者に敬礼しながらフランス語で「良い旅を」を意味するボン・ヴォヤージュと叫んだ。
4月7日19時、ボンベイの北西170海里で哨区の移動準備をしていた伊6はボンベイからイラクのバスラに向かっている英貨物船バハタール(5424トン)を捕捉。直ちに潜航して魚雷4本を扇状に放つが、バハタールは雷跡をいち早く発見して右へ急回頭し回避。全速力で逃走するバハタールに対し、次に伊6は艦尾魚雷発射管から2本を発射したが、これも外れてしまう。このままでは逃げられると考えた稲葉艦長は浮上して水上追跡に切り替え、距離6010mから甲板砲を発射しようとするも1発目を発射したところで空薬莢の排出に失敗して故障、相次ぐ不運に伊6は狩りを諦めて潜航退避を開始した。するとバハタールは潜水艦が去ったと油断したのか速力を下げ、ボートを降ろし始めた(伊6が沈没したと勘違いして生存者を救おうとした説がある)。その隙を突いて2本の魚雷を発射し、左舷側に命中して22時20分に船尾より沈没。4月10日午前8時15分、ボンベイの南西300海里で浮上し、甲板砲で150トンの帆船2隻を撃沈。4月17日にシンガポールのセレター軍港へ帰投した。第2潜水戦隊全体の戦果は貨物船5隻と機帆船4隻撃沈、貨物船1隻大破であった。
4月21日、内地帰投のためシンガポールを出港し、5月1日に横須賀に到着して6月6日まで入渠整備を受ける。その間に中村省三少佐が艦長に着任して稲葉前艦長と交代した。米機動部隊がアリューシャン方面に進出する公算大と判断され、6月9日、迎撃のため第2潜水戦隊は北方部隊に編入。本来伊6の出撃は見送られるはずだったが北方部隊からの命令で参加が決定。
6月20日、伊5とともに横須賀を出港して北東方面に向かう。翌日犬吠岬東方50海里で特設巡洋艦粟田丸から誤射を受けるハプニングがあったものの、無事アリューシャン列島アダック島方面の配備点に到着。ここは霧と流氷が支配する極寒の海域であった。伊6が到着した頃には既にアリューシャン作戦は完了しており、ダッチハーバーを空襲した第二機動部隊は撤収済み、アッツ島とキスカ島の占領も問題なく実施された。しかしアリューシャン方面には少数ながらも旧式の米潜水艦が活動していたため決して安全な場所とは言えず、また占領した両島への補給の妨害も想定される事から伊6は哨戒任務を開始、しかし濃霧と天候不良に阻まれて有効な哨戒とは成り得なかった。6月30日に第1潜水戦隊が撤収した影響でアリューシャン方面に展開中の潜水艦は第2潜水戦隊所属艦のみとなる。
7月7日、伊6はキスカ防備への協力を命じられて同島近海へ移動しつつ哨戒。7月20日に第2潜水戦隊はアリューシャン方面からの撤収を下令されたが伊6のみ残留を命じられて哨戒任務を続行。7月29日、偵察の九七式飛行艇がアトカ島ナザン湾に敵水上機母艦の停泊を認めて報告、伊6がその調査に向かったが何も発見出来なかったためそのままキスカ島に向かった。8月7日夜、敵重巡インディアポリスを基幹とした第8.6任務部隊がキスカ島を砲撃。湾内で停泊中だった伊6、呂61、呂64、呂68の4隻は潜航退避を行って難を逃れた後、上陸中の乗組員を呼び戻して第8.6任務部隊を追撃するべく出撃、翌8日夜まで追いかけたが敵情を得られずキスカに帰投している。8月15日にようやく帰投命令が下り、8月17日にキスカ島を出発、道中の8月20日に第2潜水戦隊が解隊となったため伊5ともども第7潜水戦隊へ転属、そして8月23日に横須賀へ入港した。
8月24日より九六式魚雷の発射実験に協力したのち9月10日に横須賀海軍工廠に入渠。防水加工された2隻の大発動艇を搭載するための改装と、魚雷発射管を機雷敷設用に改造する工事を受けた。その間に乗組員は上陸してゆっくりと羽を伸ばす。人事異動で若干の入れ替わりこそあったものの中堅下士官の異動は殆ど無く練度の低下は避けられた。
1943年2月16日午前10時10分、伊6は大発を積載して横須賀を出港。2月23日午前10時15分にトラック諸島へ到着し、同日夜遅くに第7潜水隊司令の視察を受けた。元々はガダルカナル島の将兵に対する補給任務で大発を使用するはずだったが、伊6がトラックに進出した時点でガ島からの撤退作戦が終わっていたため、使用する機会を逸してしまった。代わりに2月25日、伊6と伊26はオーストラリア東岸での通商破壊及び機雷戦を命じられる。2月26日に不必要になった大発を降ろし、特設潜水母艦日栄丸から弾薬と燃料を補給、2月28日午前8時から15時までウマニ島沖で試験航海を行った。
3月2日16時、ドイツ製TMC型磁気機雷9発(1942年7月に横浜停泊中の独封鎖突破船ドッガーバンクから譲渡されたもの)を積載してトラックを出撃し、セントジョージ海峡を南下してオーストラリア東岸に向かう。ところが3月8日、メルボルンに拠点を置く連合軍の通信解析部隊FRUMEL(フルメル)は伊6の出港を察知してオーストラリア近海の船舶に警告を発した。そうとは知らず3月11日正午に伊6はブリスベーン北東110km沖に到着して通商破壊を開始。同日17時15分にリバティ船らしき1万トン級の商船を発見、18時44分に2本の魚雷を発射したがいずれも命中しなかった。商船の方も雷撃には気付かなかったようで攻撃に関する報告を行っていない。
3月12日、機雷の敷設場所を決めるべくモートン湾、ブリスベーン、カラウンドラヘッドを潜航偵察。出入りする船舶に警備艦の類は見られなかった。3月13日13時35分、カラウンドラヘッド北東で機雷戦の準備に取り掛かり、まず九九式測深儀で水深を測定、18時50分から19時14分にかけてブライビー島北方にて海岸から6海里圏内の24~34mの水深に艦首魚雷発射管から磁気機雷を射出して敷設。任務を終えると伊6はノースストラドブローク島とフレーザー島との間で哨戒を開始するが、FRUMELの暗号解析により連合軍は沿岸の砲兵隊に警戒を呼び掛け、空からはオーストラリア空軍のアブロ・アンソンとブリストルビューフォートが哨戒。敵機の哨戒時間の増大で日中は潜航を強いられた。それでも3月14日から16日まで敵に見つかる事無く通商破壊任務を続けた。
3月17日14時30分、サンディ岬の南東沖で掃海コルベット艦ジンピーに護衛されたリバティ船2隻からなるBT-44船団を発見。15時7分、リバティ船チャールズ・C・ジョーンズを狙って八九式魚雷2本を発射するが、4分後にジョーンズの後方18mを通過して外れた。すかさず2隻のリバティ船は別々の方向へと逃げ始め、ジンピーに警告を促すべく伊6に発砲。更に上空を旋回していた豪空軍第71飛行隊所属のアブロ・アンソンも雷跡を確認して推定位置に発煙筒を投下し、ジンピーとアンソンから同時に捜索を受けるという窮地に追いやられる。そして15時32分にアンソンから1発の爆雷が投下されるも回避に成功。そのまま追っ手からも逃れられた。20時22分、虎口を脱した伊6は浮上してトラックに状況報告を行う。しかしこの通信をFRUMELに傍受され、すぐさまアメリカ海軍の哨戒艇2隻が現場海域にすっ飛んできて翌18日の日没まで徹底的に捜索されたが、幸い見つからずに済んだ。
3月21日朝、バイロン岬沖を哨戒中の伊6のもとにラバウルへの帰投命令が下り、オーストラリア東海岸から撤収。同日19時33分に状況報告を送信するがこれを再びFRUMELに傍受される。帰投ルートを把握した連合軍は伊6を確実に葬り去るべく、道中に米潜スティングレイ、ハリバット、トリガーの3隻を待ち伏せさせたが、巧みにすり抜けて3月27日午前7時30分にラバウルへ入港。ちなみに伊6が敷設した磁気機雷は暗号解析を以ってしても連合軍に位置を把握させなかったが、前情報の不足から敷設した場所は船舶が殆ど通らない海域であり、残念ながら海上交通に何ら悪影響を与えるものではなかった。発覚したのは敷設から11日後、掃海艇ジンピーがイギリス空軍のロッキード・ハドソンを相手に対空演習している時だった。放たれた砲弾や破片が海へ落下した際に偶然機雷が爆発して高さ122m幅40mの水柱を築いたのである。機雷が敷設されている事に気付いたジンピーによって9月までに掃海が完了した。
3月29日、伊6が属する第7潜水戦隊は南東方面艦隊へ転属。ビスマルク海海戦で大敗した帝國海軍は水上艦によるラエ補給を断念し、代わりに潜水艦による作戦輸送を立案。伊6の南東方面艦隊異動もこれに呼応するものだった。4月2日午前7時30分から午前11時40分まで、伊6は武器と弾薬、衣服22トン、15.4トンの食糧、便乗者33名、77個の補給用ドラム缶の積載作業を実施。
4月3日午前8時50分、ラバウルを出港。補給を断たれて物資不足に苦しめられている第51師団8000名を援護するためニューギニア東岸ラエに向かう。ポートモレスビーから飛来するB-17や敵哨戒機が上空をくまなく飛び回り、海上にはPTボートが遊弋しているなど道中は危険で満ち溢れていた。どうにか敵の監視網を掻い潜って4月5日午前4時33分にラエ沖へ到着、日中の揚陸作業は敵に見つかる恐れがある事から潜航してやり過ごし、宵闇に包まれた18時13分に浮上、19時より大発動艇に貨物や便乗者を乗せて揚陸作業を開始。それが終わると歩兵第41連隊の軍旗や陸兵4名及び便乗者25名を乗艦させ、20時3分にラエを発った。出発から20分後、180度方向に哨戒中のPTボートを発見して潜航退避を行い、1時間潜ってやり過ごす。4月7日午後12時42分に危なげも無くラバウルに帰投。そしてすぐに次の輸送任務のため4.4トンの弾薬や武器類、19トンの衣服、ドラム缶77個、便乗者26名の積載作業が始まる。
4月9日午前8時15分にラバウルを出発して再びラエに向かう。同日13時56分、オーフォード岬沖21海里の地点で敵機から爆撃を受けて潜航退避、幸い被害は皆無だった。4月11日午前0時20分、タミ島130度で右舷に敵機が出現したため潜航、午前0時46分に浮上するも爆音を探知して再度潜航を強いられ、浮上後の午前1時24分にも右舷側に反航する敵味方不明機が確認された。四苦八苦の末、19時28分にラエへ便乗者と物資を揚陸、帰り道は便乗者42名を乗せて20時16分に出発する。4月13日午後12時46分、ラバウルへ帰投した。
4月15日午前7時55分、4トンの武器類や弾薬、17トンの衣服、77個のドラム缶、28名の便乗者を載せてラバウルを出港。3回目の補給任務に臨む。翌16日午前0時22分に打ち上がった照明弾を確認して急速潜航する一幕があったが、4月17日18時50分よりラエへの揚陸作業を開始。帰路は39名の便乗者を乗せた。23時20分、タミ諸島付近でPTボート数隻を確認したため潜航退避でやり過ごし、4月19日午前11時5分にラバウルに入港。給油艦鳴戸より燃料補給を受ける。翌日は丸一日使って整備を行った。4月21日にアリューシャン方面を担当する第5艦隊に転属し、アッツとキスカへの補給任務を担当する事になったが、引き続きラエ輸送に邁進するべく当面の間は延期となる。
4月22日午前7時53分、弾薬1トン、衣服16トン、食糧16トンを内包したドラム缶を積載して出港。日中は潜航して進み夜間のみ水上航行を行った。針に糸を通すように警戒網を突破し、4月24日18時27分、ラエへの揚陸作業を開始。42名の便乗者を収容して19時40分にラエ沖を出発、4月26日午前10時30分にラバウルへの帰投を果たし、潜水母艦長鯨から15トンの潤滑油を供給してもらった。
4月28日午前8時25分、5回目の輸送任務のためラバウルを出港。4月30日午前0時15分にPTボートの航跡らしき白波を確認して一時転舵、同日18時30分よりラエへ3トンの武器弾薬類、19トンの衣服、1トンの食糧を持つ30名の陸兵を揚陸し、41名の便乗者を収容。19時12分に出発する。連続で補給任務を成功させる伊6だったが連合軍も徐々に対策を練り始め、ラエ5海里沖で目を光らせているPTボート数隻を発見、1時間潜航して逃れた。また23時30分にタミ島近海で往路の伊5とすれ違っている。5月2日午前11時18分、ラバウルに帰還した。5月3日午前7時45分から午前10時20分まで兵器2.8トン、砲弾4トン、衣類13トン、ドラム缶77個の積載作業を実施。
5月4日15時20分、便乗者10名を乗せてラバウルを出発、16時17分に港外で20分間の潜航試験を行ったのちラエに向かった。道中の5月5日午前4時41分に潜航してみたところ後甲板で固縛していたドラム缶の一部が流失してしまう。16時27分に浮上した伊6は17時に上層部へ輸送中止を具申したが、返答が無かったため続行、5月7日午前4時39分にラエ沖へ到着して夜明けとともに潜航。夜になるのを待つ。そして17時48分に浮上し、18時8分から37分間の揚陸作業と便乗者10名を上陸させ、潜航してドラム缶を放った後、水上航行で離脱を図った。5月9日午前11時34分、ラバウルに到着。
7回目の補給でついに伊6も攻撃を受ける事になった。5月11日午前8時50分、ラエに向けてラバウルを出発。出港から約6時間後の14時32分、フォート岬沖26海里でB-17爆撃機を視認して潜航退避し、15時11分に浮上。また5月12日23時30分から20分間、フィンシュハーフェン方向に照明弾を確認、ただ伊6を狙ったものなのかは不明だった。そして5月13日18時50分よりラエに11.5トンの武器、5トンの弾薬、9トンの食糧、便乗者10名を揚陸し、4名の便乗者を乗艦させた後、いつものように帰路についた。19時42分、ラエから10海里離れた地点で伊6は敵航空機を発見。20時45分には第7潜水戦隊は前日伊121がスルミ南方で敵機に発見されたとして伊6と伊5に揚陸時の対空警戒を厳重にするよう警告を受け、続いてクレチン見張り所やサラモア通信基地等から敵味方不明機の出現や魚雷艇の爆音を確認したという不穏な情報が続々と寄せられる。そしてそれらの情報は間もなく正しかったと証明される。
5月13日22時37分、サラモアの90度24海里沖を12ノットで水上航行中にPT-150とPT-152の2隻に捕捉される。伊6を仕留めようとPTボートは距離5500mから2本の魚雷を発射。相手は魚雷艇と言えど油断ならない敵である。何せ準同型艦の伊3はPTボートにやられたのだから。自身に伸びて来る雷跡に素早く気付いた伊6は艦を急停止させ、命中するはずだった2本の魚雷は白い尾を引きながら前方を通り過ぎていった。PT-150は3700mまで肉薄したのち更に1本の魚雷を放ってきたが今度は急発進して回避。2隻のPTボートは伊6と並走しながら追い越し、反転して再度迫ってきたが、その隙を突いて急速潜航に成功。目標を見失って洋上停止するPTボートに向けて反撃の魚雷1本を放つもPT-150の浅すぎる艇首下を通過して外れた。もし相手が駆逐艦以上の大型艦であれば命中していたという。
PTボートとの戦闘から一夜明けた5月14日午前11時9分、伊6と伊5はオロ湾への空襲で撃墜された第751航空隊の一式陸攻搭乗員の救助を命じられ、14時43分より移動を開始。味方航空機の誘導を受け、15時30分にブイン沖で漂流中の不時着水機を発見、救命艇に横付けして搭乗員5名を救出した。見当たらない2名は戦死して既に水中へ没していたという。彼らは大小の傷を負っていて兵員室で治療を受けたが、話によると他にもう1機不時着水しているらしく、搭乗員救助のため東方へと向かう。だが間もなく捜索が困難になる夜を迎えたため一時ラバウル方面に退避し、翌15日午前5時よりスルミ南方50海里沖で捜索再開。午前10時35分に味方の陸攻7機と戦闘機10機からなる捜索隊を視認。しかし午前11時39分、7機編隊の敵機と遭遇、このうち1機が伊6に銃撃を浴びせてきて12cm水防双眼鏡と舷外電路が浸水、哨戒員1名が軽傷を負う被害を受けつつも潜航退避に成功。17時50分に浮上して4時間に渡る捜索を行ったにも関わらず搭乗員を発見出来ず、22時に中止命令を受領して帰路に就き、5月17日午前6時12分にラバウルへ入港。救助した搭乗員5名のうち4名は南東方面艦隊に預けられ、骨折の重傷を負っていた1名は病院へ搬送された。続いて海軍第8工作部で浸水した双眼鏡と舷外電路の修理を行う。
5月19日午前8時45分、兵器5.1トン、弾薬5.4トン、食糧4.6トン、便乗者31名を積載してラバウルを出港。同日午後12時50分、オーフォード岬沖34海里で敵味方不明機を発見し、およそ50分ほど潜航してやり過ごす。それ以外は何事も無く、5月21日午前4時27分にラエ沖へ到着して潜航。夜の帳が下りるのを待ってから17時37分に浮上、20分後より揚陸作業を行って便乗者40名を収容、18時35分に全ての工程を終えて水上航行で帰路に就く。5月23日正午に無事ラバウルへ到着し、給油艦鶴見より燃料補給を受ける。翌24日午前1時4分から午前2時50分まで敵の夜間空襲を避ける目的で潜航退避。
5月25日15時20分、大発1隻と武器及び医薬品4.3トン、衣服2トン、23名の便乗者を載せてラバウル出発。道中の5月27日に海軍記念日を迎え、潜航中の午前4時58分に伊勢神宮遥拝式を挙行した。5月28日17時41分にラエ沖で浮上、18時10分より揚陸作業を始め、便乗者を乗せずに19時11分に出発。この9回目の輸送任務を以ってラエ輸送は終了となりラバウルではなくトラックへと向かう。5月29日午前4時52分から17時16分まで潜航して敵制空圏内の危険なダンピール海峡を突破、そして6月1日午前6時22分、トラック諸島の南水道を通って錨地に到着。乗組員には束の間の半舷上陸が許された。本土で本格的な整備を受けるべく6月2日にトラックを出港、6月8日に横須賀へ帰投して入渠整備を受ける。
伊6がラエ輸送に身を投じていた5月11日から30日の間、北洋のアリューシャン方面ではアッツ島の戦いが行われ、連合軍の上陸と攻撃により同島の守備隊が玉砕してしまう。退路を断たれる形となったキスカ島の将兵を撤収させるべく、新鋭の巡潜甲型から旧式の海大型に至るまで内地所在の潜水艦がかき集められ、濃霧に紛れながらの撤退作戦が始まった。6月28日の機密北方部隊潜水部隊命令作第2号で伊6並びに伊5は第1邀撃隊に編入され敵艦隊攻撃を担う。整備が終わった7月1日、第7潜水隊は第5艦隊へ編入。
7月2日、キスカ島撤退作戦を支援するべく伊5とともに横須賀を出港、北東方面の拠点となっている幌筵島片岡湾を経由して1年ぶりに霧と氷の世界へ舞い戻った。しかし伊6が進出した時には潜水艦による撤収は断念され、代わりに高速な水上艦による救助が試みられている状況だったため、7月10日よりキスカ島北北東のベーリング海で哨戒任務に就き、敵艦を発見した時には通報する役割を担う。7月17日から19日にかけて3隻の米駆逐艦を発見するが攻撃は叶わなかった。7月28日、木村昌福少将率いる救出艦隊がキスカ湾に突入して守備隊を収容、幌筵まで連れ帰った事で撤退作戦は成功に終わり、8月4日に伊6も幌筵へ帰投した。8月16日、キスカ島近海で敵の通信が傍受されたため攻撃の目的で幌筵を出撃、実際アメリカ軍が無人となったキスカ島に上陸しているところだったが不運にも敵艦を捕捉出来ず、9月3日に幌筵へ帰投。キスカ島からの撤退を以ってアリューシャン方面の戦線が消滅、これに伴って9月5日に幌筵を出発して内地へ向かい、9月10日に横須賀へと帰投。霧と氷の世界に別れを告げた。
10月25日に伊6は南東方面艦隊へ転属。再びニューギニアとビスマルク諸島への輸送任務に臨むべく、10月30日に横須賀を出港してラバウルに向かった。今度の目的地はニューギニア北東部シオ。連合軍の跳梁により現地の守備隊は慢性的な食糧不足に陥り、自生しているバナナや木の根を食べなければならない惨状が引き起こされ、また連合軍侵攻の兆候も見え隠れていたため補給が急務となりえた。ラバウルで物資を積み込み、11月16日と12月4日にシオへ送り届けた。しかし三度目の補給のためシオを訪れた12月18日、同地は連合軍の上陸を受けて戦場と化しており、上空から飛来した敵機の襲撃で揚陸作業半ばで退避しなければならなかった。戦場となってもなお輸送は強行され、12月27日夜、砲火を掻い潜ってシオへの揚陸を完了。早朝にシオ沖を出発したが、道中でPTボートに発見されて爆雷攻撃を受けたり、同日午後に敵機から攻撃されるなど連合軍の猛攻に曝される。
何とか無傷で切り抜けたのも束の間、今度はグロスター岬で発見された敵船団への攻撃を命じられ、魚雷2本だけを武器にダンピア海峡を遊弋。しかし敵船団は見つからなかった。
1944年1月1日、ダンピア海峡からラバウルに帰投。戦闘生起によりシオ輸送が困難になったため、今度はニューブリテン島イボキへの輸送任務に従事する事となり、ラバウル所在の伊6、伊16、伊36、伊177、伊181、呂104、呂105、呂106、呂109の9隻が参加した。ギルバート作戦で生じた6隻喪失という甚大な被害と、南東方面の輸送作戦に可動潜水艦兵力を集中させた弊害で、組織的な作戦が一時ストップしてしまっている。
1月4日、物資を満載した伊6はラバウルを出港。ブインほどではないがイボキの水路も複雑であり、PTボートや敵機の哨戒も厳しくなっているなど四苦八苦を強いられ、1月6日にどうにかイボキへ到着して物資を揚陸し、1月10日にラバウルへ帰投する。1月17日から21日にかけて2回目の輸送を、1月17日から19日にかけて3回目の輸送を行い、いずれも成功させた。1月28日、兵員だけを乗せてラバウルを出港、1月30日にイボキへ到着するも北側の停泊地で海図に載っていない暗礁に触れてスクリューを損傷してしまっている。2月1日にラバウルへ入港したのち2月3日にスルミへの輸送任務を成功させた。一連の輸送任務で伊177と伊181が未帰還となり、度重なる喪失で訓練中の潜水艦を合わせても第6艦隊の総戦力は37隻にまで減少してしまった。2月5日に横須賀への帰投命令を受領、伊6と伊171は伊42、伊43と交代する形で内地へ戻る事になったが、帰投命令を受領した時点で伊171は消息不明となっている。
2月13日、アドミラルティ諸島マヌス州ロレンガウへの輸送任務を帯びてラバウルを出港。アドミラルティ諸島には連合軍上陸の兆候が見られ、これに伴って駆逐艦での輸送も中止されていたため、伊6が物資を届ける最終便となった。2月17日、ロレンガウに寄港して12丁の重機関銃と弾薬を揚陸し、同日中に出発。2月29日に横須賀へ入港して修理を受ける。
6月13日、アメリカ艦隊のマリアナ諸島襲来を受け、連合艦隊は「あ」号作戦決戦準備を発令。これに伴って翌日22時50分に先遣部隊電令作第150号が発令されて動ける全ての潜水艦はマリアナ東方に投入される事になり、伊6も急速出撃準備を始める。そして6月15日に横須賀を出撃してサイパン方面へ向かった。
1944年6月16日22時33分、八丈島北東にて、小笠原諸島から出発してきた第3606船団の武装貨物船豊川丸は、船団の近くに浮上する潜水艦を発見して警報を発令。すぐに急旋回を行った豊川丸は潜水艦の右舷司令塔後方に体当たりを喰らわせ、潜水艦はたちまち大傾斜して数分後に沈没するが、追い討ちと言わんばかりに爆雷を投下し、最後は沈没地点に機銃掃射を浴びせた。沈められた潜水艦の正体は伊6で、乗組員104名が全員死亡。前日、第3606船団は米潜水艦ソードフィッシュの襲撃で甘井子丸(かんせいしまる)を失っており、濃霧で視界不良だった事も手伝って伊6を敵艦と断定してしまい、誤って撃沈してしまったようだ。
7月1日、サイパンで地上戦に巻き込まれた第6艦隊司令部を救出するよう命じられたが応答は無く、7月3日に再度命令を発しても応答が無かった事から7月13日に帝國海軍は喪失と判断、9月10日に除籍した。
潜水艦の特性として最期が判然しておらず、異説として6月30日にサイパン東方で敵空母を攻撃した通信を発して消息不明になった、あるいは7月19日に米護衛駆逐艦ウィリアム・C・ミラーと高速輸送艦ギルマーの攻撃を受けてテニアン西方130kmで撃沈されたとするものがある。
総戦果は4隻撃沈(1万1621トン)、1隻撃破(4万9522トン)。
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最終更新:2024/04/25(木) 23:00
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