伊168とは、大日本帝國海軍が建造・運用した海大六型a(伊68型)潜水艦1番艦である。1934年7月31日竣工。ミッドウェー海戦で米空母ヨークタウンと駆逐艦ハンマンを撃沈する戦果を挙げて一矢報いた艦として有名。1943年7月27日にラバウル北方で雷撃を受けて撃沈された。戦果は2隻撃沈(2万1445トン)。
ロンドン海軍軍縮条約の制限により巡潜型を多数保有できなくなった大日本帝國海軍は、代用として小型・高速・航続性能に優れた艦隊用潜水艦の開発に着手する。
ロンドン条約の保有量を考慮して排水量を1400トン程度に制限、前級の海大五型をベースに全長7mを延ばして高速性能を確保し、縦横舵を大型化するとともに内殻を外フレーム式に変更、内殻内に燃料タンクを増設した事で航続距離の長大化を図った。艦型そのものは海大五型と同一ながら、水上高速性発揮のため船体線図は細長くなっており、全長は海大型の中で最大、満載排水量と水中排水量は前級を上回っている。その様相は日本独自に発展した海大型と、ドイツのUボートをベースにした巡潜型の技術が合体したと言っても良い。
また南方での長距離作戦を想定して冷房能力を強化しつつ真水タンクを拡充、重油と真水を分離させる洗浄装置の搭載、九二式方位盤と縦舵機一斉発動装置(装填された全ての魚雷の縦舵を一気にコントロール可能)を装備して攻撃力を増大するなど様々な改良を加えている。燃料搭載量が100トン増加した事で従来の海大型より4割増しの航続距離を獲得した。他にも3本あった潜望鏡を、航海見張り用と夜間攻撃用を兼用して2本に減らし、前後に1本ずつある起倒式無線支柱も前部だけに削減、減った分は艦橋上の信号マストで代用している。
海大六型aの最大の特徴は、主機に実用化されたばかりの国産ディーゼルこと艦本式1号甲8型8気筒2サイクル複動ディーゼルが採用されている事だった。ドイツから特許が取れなかったばかりに日本は独力での研究を強いられていたが遂にその努力が艦本式ディーゼルとして結実したのである。この艦本式ディーゼルは従来のドイツ製3500馬力ディーゼルと比較して殆ど同じ重量でありながら1.5倍の出力を発揮し、これにより今まで20.5ノットが限界だった最大速力が24.02ノットに向上。軍令部要求だった23ノット以上の条件を満たした上、当時世界最速の潜水艦はイギリスのテムズ級(22.5ノット)であり、見事その記録を塗り替えた。この高速性は敵艦隊触接反復攻撃に必要な速力もクリアしていて名実ともに艦隊随伴型潜水艦となる。ただ採用を急ぐあまり未完成な部分も多く、搭載からしばらくの間は架構溶接部の亀裂、ピストン棒接続ネジの折損、シリンダーの腐食・亀裂など故障が酷かったものの、4年ほどで改善されたという。海大六型は艦底部も含めて全てが複殻式となっておりこれも高速化の実現に一役買った。
伊68と伊69は実験的要素が強い艦だった。海大五型同様に電気溶接を多用していたが、建造中の計画変更で内殻にリベット穴が残ってしまい、安全潜航深度が70mになっている(技術改良で3番艦以降は75m)。水中聴音機も当初旧式のKチューブを搭載していた。甲板砲は、航空機に対抗出来るよう高仰角射撃が可能な10cm単装高角砲を採用。しかし砲架の背が高く水中抵抗が増大、輸送船に対して威力不足、射程に見合った射撃指揮装置が無いなど次々に欠点が露呈し、4番艦以降は従来の12cm単装砲に戻されている。したがって10cm単装高角砲を装備したのは伊65、伊66、伊67、伊68、伊69、伊70の計6隻のみ。速力・航続距離ともにバランスの取れた帝國海軍潜水艦の決定版で、続く海大六型bや海大七型はこの海大六型aをベースに建造されている。準同型艦の海大六型bからは艦尾発射管を廃しているため艦尾発射管を装備した最後の海大型でもある。
伊168は支那事変の頃から戦い続けているが、やはり最大の戦果は米空母ヨークタウンと駆逐艦ハンマンを撃沈した事であろう。日本潜水艦による敵空母撃沈は僅か三例しかなく、他2隻は実質軽空母であるため、正規空母を仕留めたのは伊168だけである。伊168の活躍は大敗したミッドウェー海戦における唯一の快報だった。他にも真珠湾攻撃の支援、イースタン島砲撃、輸送任務などに従事している。
海大六型aは伊68、伊69、伊70、伊71、伊72、伊73の計6隻が建造。ちなみに呉工廠で建造されたのは伊68だけだった。戦争中に事故も含め全艦が失われている。
要目は排水量1400トン、全長104.7m、全幅8.2m、平均喫水4.58m、最大速力23ノット(水上)/8.2ノット(水中)、安全潜航深度70m、乗員68名。兵装は八八式魚雷発射管6門(艦首4門、艦尾2門)、八九式53cm魚雷14本、八八式50口径10cm単装高角砲1門、九三式13mm単装機銃1基、九二式7.7mmルイス式単装機銃1基。
1930年に策定された第一次補充計画(通称マル1計画)にて海大六型一等潜水艦の仮称で建造が決定。
1931年6月18日に呉工廠で起工。同年11月に国産複動ディーゼル機関の試験が完了したため急遽搭載される事となった。1933年6月26日の進水式典には海軍兵学校の教官と生徒が参列し、1934年3月26日の全力公試で24.02ノットを記録、そして同年7月31日に竣工を果たした。呉鎮守府に編入されるが、実用化されたばかりの国産ディーゼルを搭載していたため、安全性が確立されるまで一旦海軍潜水学校の練習艦となる。ちなみに竣工当時の艦名は伊68であった。
1934年9月6日に呉を出港。パラオ方面で機関のテストを行い、無事有用性を証明した事で、以降帝國海軍の潜水艦には国産ディーゼルが搭載されていく事になった。9月16日に呉へ帰投。
1935年10月8日、伊68は姉妹艦伊69とともに第12潜水隊を新編。11月9日には伊70を加えて3隻体制となった。11月15日、第12潜水隊は第2艦隊第2潜水戦隊へ編入。
1936年8月28日、潜水艦の前部と後部に注排水装置を搭載する工事を受け、11月13日に呉工廠にて石井式無菌濾水器を装備。1937年1月20日にタンクベント弁曲圧管系装置の改正工事を実施。4月14日には警笛を新設した。
1937年7月7日、盧溝橋事件の勃発により北支で日本と中国国民党の武力衝突が生起する。元々潜水艦は参加する予定ではなく、第1艦隊とともに佐伯湾で訓練に従事していたが、補助艦艇まで投入している現状で座視すれば士気に関わるとして参加が決定。7月28日夜、受領した大海令と大海機密により第2艦隊は北支派遣陸軍輸送の護衛を命じられる。
7月29日に第12潜水隊は北支部隊へ編入。拡大する戦火から在留邦人と財産の保護を命じられて佐伯湾を出港、7月30日に佐世保へ入港し、第2艦隊主隊と合流して警戒待機に移行する。
在留邦人が最も多い青島では急速に治安が悪化し、8月4日には国民党軍の便衣兵が巡回中の下士官4名を狙撃して2名に重傷を負わせる青島事件が発生。犯人の逮捕には至らず、また現地の排日活動も激化の一途を辿り、国民党軍も青島方面の軍備を増強するなど、不穏な空気が漂っていた。このため帝國陸軍は青島の制圧を企図したA作戦を発令。8月17日、A作戦に呼応して第12潜水隊は旅順への回航命令を受けて出港。8月20日に旅順に到着して翌日裏長山列島に進出する。
8月21日朝、伊68が所属する第2潜水戦隊は第11水雷戦隊と協同で、六連島から大連に向かう第14師団の船団を直接護衛するよう下命される。8月23日午前0時、第14師団を乗せた船団が多度津を出港。潜水母艦迅鯨に護衛されながら大連に向かっていたが、8月25日午前2時にA作戦の中止が下令される。第二次上海事変の勃発で上海方面へ早急に増援を送らなければならなくなった事、その戦況で青島方面にまで戦線を拡大するのは好ましくないとして、中止が下された訳である。代わりに青島からの邦人引き揚げを援護するべく8月28日に裏長山列島を出発。青島の沖合いで警戒を行った。8月31日には大部分の引き揚げが完了。同日23時に帰投を命じられ、裏長山列島に戻った。
9月1日、青島沖で待機していた第14師団を上海方面に転用する事になり、船団が青島を出発。9月3日に船団護衛を命じられて旅順を出港。翌日輸送船団と合流し、増援を渇望する上海派遣軍に8個船団を送り届けた。9月11日午後に任務を完了。大連にて待機する。
第3艦隊司令の長谷川中将は中国沿岸の海上封鎖を宣言し、第三国租借地と青島以外の港を監視する事に。9月24日、伊68は第一封鎖部隊に編入され、旅順を拠点に海州以北の封鎖監視任務に6回従事。11月19日に旅順へ帰投した。第二次上海事変が日本の勝利に終わった11月20日、第一封鎖部隊の任を解かれ、11月24日に佐世保へ帰投。戦線が内陸に移動したため出番が無くなった。
1938年12月15日、第12潜水隊は第3潜水戦隊へ転属。この年に近代化改修を受け、水中聴音機をKチューブから九三式に換装、九八式潜水艦対勢儀対勢盤を新たに搭載し、更に伊68、伊69、伊70の3隻は機関を改良している。
1940年10月11日、横浜沖で行われた紀元二千六百年特別観艦式に参加。年内は内地待機勤務を続け、第2艦隊より勲功丙を賜った。
戦争の足音が聞こえ始めた1941年7月25日に中村乙二少佐が艦長に着任。
9月、海軍大学校で行われたハワイ作戦の図上演習で第3潜水戦隊はオアフ島を包囲する計画が立てられた。海大六型は航続距離に優れるためハワイまでの長駆が可能だったのである。11月5日の御前会議で12月上旬の開戦が決定。これに伴って大本営は大海令第一号を発令、第6艦隊にハワイ及びアメリカ西海岸への潜水艦派遣を命じた。既に出撃の時が間近に迫っていた関係上、命令を受領した第6艦隊司令部は大急ぎで先遣部隊命令を概成し、連合艦隊命令とともに11月10日に第3潜水戦隊へ手交。伊68は先遣部隊第3潜水部隊に部署して旗艦伊8の指揮下に入った。
11月11日、伊68、伊69、伊70、伊71、伊72、伊73はハワイ作戦支援の任を帯びて佐伯湾を出港。南方航路を通ってマーシャル諸島クェゼリン基地に向かった。ハワイ作戦に関しては極秘であり、全容を把握しているのは司令官と首席参謀のみで、艦長以下乗組員には知らされていなかった。11月20日にクェゼリンへ入港。潜水母艦大鯨から燃料補給を受ける傍ら、各潜水艦の科長以上が大鯨に集められ、司令官の訓示と作戦の打ち合わせが行われた。この時に初めてハワイ作戦の意図が知らされ、戦意が大いに盛り上がったとされる。
11月23日に僚艦とともに勇躍クェゼリンを出港。12月1日、ハワイの300海里圏内に到達する。翌2日、瀬戸内海に停泊している連合艦隊旗艦の長門から中継された「ニイタカヤマノボレ」の暗号通信を傍受。日米交渉決裂――開戦は避けられない事態となった。そして12月7日に伊68はオアフ島南東の配備点に到着。ここで運命の開戦を迎える。
1941年12月8日早朝、オアフ島近海で息を潜めて南雲機動部隊の攻撃を待つ伊68。やがてハワイ北方から飛来した攻撃隊が真珠湾に到達し断続的に爆発音が響いてきた。午前8時30分、ハワイ沖で展開中の全潜水艦に対して、港内から脱出してくるであろう敵艦隊の撃滅が下令される。
午後12時30分、特殊潜航艇収容のため移動する潜水艦群の穴埋めとして、伊69とともに真珠湾口南のE1哨区への移動を命じられる。しかし真珠湾攻撃によって敵の警戒が厳重となり、翌9日夕刻に外側のD哨区への後退を強いられた。巡潜型より航続距離に劣る海大型だったためか12月11日にクェゼリンへの帰投命令を受領して退却を開始。が、12月14日から18日にかけて21回の爆雷投下を受け、致命傷には至らなかったものの多数の電池が破損、後部発射管が浸水し、漏油も確認された。相変わらず敵の警戒は厳しくバッテリーの充電のため浮上するだけでも苦労したという。何とか敵の勢力圏を脱した後、中村艦長は本格的な修理が必要と判断。
12月28日から31日までクェゼリンで応急修理を実施。それが終わると内地に向けて出発した。
1942年1月2日、ミッドウェー近海を航行中に敵機の爆撃を受けて小破するも航行に支障なし。1月9日に呉へと帰投して工廠にて修理を受ける。
初動のハワイ作戦で、海大六型は伊70と伊73の2隻を喪失する幸先の悪い滑り出しとなった。
1月15日、ハワイ近海で撃沈された伊70が第12潜水隊から除かれ、伊68と伊69の2隻体制となる。1月17日、中村艦長が戦艦大和に赴き、ハワイ作戦における伊68の深度充電と受けた爆雷攻撃について説明を行った。出渠後は呉にて単独訓練に従事。1月31日、後に大戦果を挙げる事となる田辺弥八少佐が艦長に就任。3月20日、司令潜水艦の伊73を失って解隊された第20潜水隊から伊71と伊72が編入され、伊68は第12潜水隊の司令潜水艦に指定、中岡信喜大佐が乗艦する。
4月10日、第3潜水戦隊は敵機動部隊への警戒として東京湾東方700海里付近のG散開線への進出を下令され、4月15日、呉を出港して僚艦とともにG散開線へ向かう。
ところが4月18日午前7時52分、第二十三日東丸が犬吠岬東方720海里で敵機動部隊発見の緊急電を発信。後の世に言うドーリットル空襲の発生である。直ちに対米国艦隊作戦第三法が発動され、犬吠岬東方410海里の散開線にて索敵を実施。しかし4月20日、四国沖でエンジントラブルに見舞われて翌日反転、4月26日に呉へ入港して主電動機をそっくり入れ替える大規模修理に着手した。
5月20日、伊68は伊168に改名。巡潜型には1~50の数字が、海大型には51~100の数字が割り当てられていたが、巡潜型が50隻以上増産される事になり、数字が足りなくなってしまった。そこで運用中の海大型の数字にプラス100をして命名の余剰スペースを作り、伊68も伊168に改名した訳である。
5月21日、ミッドウェー作戦に先立ってキューア島及びミッドウェー島の偵察、その後はミッドウェー東方を機宜行動し、天候偵察並びに敵艦船に対する奇襲が命じられた。大任を帯びた事で、とある乗組員が真夜中にこっそり亀山神社を参拝して作戦の成功を祈願。また望月電機長は水天宮を参詣した際に全員分のお守りを購入している。
5月23日、伊169、伊171、伊174、伊175とともに、在泊艦艇から登舷礼で見送られながら呉を出港。柱島を通りがかった時には連合艦隊からも登舷礼を受けた。瀬戸内海から豊後水道に入り、四国や九州の自然に見送られながら太平洋に進出。東進してミッドウェー方面に向かう。5月25日、司令部からミッドウェー島の偵察を命じられ、単独行動に移る。5月30日にミッドウェー近海で哨戒中と思われる敵飛行艇を発見。
6月1日、伊168はキューア島近海に進出し、敵飛行艇の存在と天候情報を通達する。翌2日夜よりミッドウェー北西からサンド島に向かって接近を開始。
6月3日未明、東の水平線上に米粒のような島影が見えてきた。太陽が昇るにつれて輪郭がハッキリ見えるようになり、アメリカ軍の一大拠点ミッドウェー基地が伊168の前に姿を現した。敵はまだ伊168の存在に気付いていない。潜航しながら環礁の北側に移動し、昼間は南の水平線上に浮かぶミッドウェー島を遠巻きに偵察、夜間は9.3km圏内にまで肉薄して潜望鏡偵察を実施しつつ時計回りに東側、南側へと移動。飛行機格納庫や燃料タンクが立ち並んでいるのが確認出来た。最後に西側の湾口に向かい陸上施設の動静を監視する。潜望鏡を高く上げられないため、飛行場を直接見られなかったものの、それでも数十機の哨戒機が盛んに発進し、周囲を警戒しているのが手に取るように分かった。得られた情報を連合艦隊に報告しつつ偵察を続けながら近海で待機。
この時、既に敵機動部隊は味方の潜水艦が散開線へ就く前に哨区を通過しており、単独行動中だった伊168のみ敵艦隊と会敵出来る有利な位置にいた。
6月5日朝、南雲機動部隊から発進してきた攻撃隊がミッドウェー島を空襲。その様子を伊168は海中から観戦していた。それは田辺艦長が「潜望鏡一杯に火炎と黒煙が見えた」と評するほど激しい攻撃であり、燃料タンクが爆発して島内は黒煙に覆われた。その一部始終を見ていた田辺艦長が乗組員に伝えるとドッと歓声が湧き上がり、司令塔にいる航海長や砲術長、伝令員にも潜望鏡を覗かせ、一同手を叩いて友軍の活躍に喜んだ。
いつまで経っても来るはずの第二次攻撃隊が来ない。やがてその疑問への解答として伊168の受信機が「味方空母被弾」の電文を受信。田辺艦長は困惑した。作戦後の燃料補給はミッドウェーで行う予定になっていて、もし攻略作戦が頓挫すれば補給を受けられなくなってしまう。そうなれば如何に航続距離に優れた海大六型でも帰国が危うくなる。…言い知れぬ不安が艦内を支配し始めた。補給の問題に頭を抱えていると連合艦隊司令部からミッドウェー島への砲撃命令が下された。第7戦隊(熊野、鈴谷、最上、三隈)が断念した砲撃任務を伊168にやらせようとした訳である。田辺艦長は「潜水艦に砲撃をやらせるなんて、上層部は血迷ったな」と内心毒づきながらも、命令通りに行動を開始。
21時54分、イータスタン島東方4000mで浮上してサンド島方面に移動。22時24分にイースタン島南方4000mから航空基地を狙って10cm砲弾6発を叩き込んだ。被害の程度こそ不明だったが、アメリカ軍を驚かせるには十分であり、依然日本軍上陸の危険性が高いとして緊張を強いた。敵の反撃は思いのほか早く、戦果を確認する前に飛行場から敵機が飛び立ち、同時に陸上砲台から照射砲撃が始まったため、伊168は潜航退避。アメリカ海兵隊からサーチライトを向けられた時には既に海中へ没していた。
6月6日朝、深々度で息を潜めていると突然爆雷攻撃を受けた。ミッドウェー島より出撃してきた敵の駆潜艇に捕捉されたのだ。激しい攻撃によって長時間海中に押し込められる伊168。幸い正確さを欠いた攻撃だったため損傷は軽微で済んだ。
夕刻、潜望鏡深度まで浮上して潜望鏡と短波アンテナを出すと、新たな命令を受信した。第1機動部隊の筑摩艦載機がミッドウェー北北東にて、飛龍攻撃隊の反撃を受けて大破漂流中のヨークタウン級空母を発見。たまたま近くにいた伊168に攻撃命令が下された。ミッドウェー海戦の大敗を取り戻すには是が非でもヨークタウン級を仕留めなければならない。16時30分、司令部宛てに「本日終始、敵駆潜艇の攻撃の制圧を受けたため受信遅れたり。ただちにトスオ18(ミッドウェー北北東150海里)に向かう」と打電し、早速伊168は行動を開始。たった1隻だけの復讐劇が始まった。
燃料の都合から真っすぐに針路を取り、16ノットの速力で水上を疾駆する。道中でカタリナ飛行艇に攻撃されるも急速潜航が間に合って被害は無かった。潰れてしまいそうな重圧の中、田辺艦長は一睡もせずに想定される事態一つ一つに対策を練る。極限の緊張下でも乗組員は至って平常であり、あたかも訓練を行っているかのような冷静さを保っているのを見て、艦長は「これならやれる」と確信。望月電機長は事前に買い込んだ水天宮のお守りを全乗組員に配布。天佑神助を祈る。
6月7日午前1時に伊168は目標地点に到達。しかしヨークタウン級空母の姿は無かった。伊168は敵の制圧を受けて長らく命令を受信出来ない状況にあり、命令発信から受信まで大きなタイムラグがあった。このため命令文にある地点に到達しても既にヨークタウン級空母は去った後だったのである。田辺艦長は見張りを立たせ、血眼になって敵空母を探す。空も白み始めた午前4時10分、見張り員が東方22km先に黒点を発見。艦長はこれを命令のあった敵空母と判断し、戦闘配置を下令、速やかに潜航して潜望鏡を上げる。
ミッドウェー海戦も終わりに近づいた6月7日、周囲に味方がいない中、伊168だけの決戦が始まった。
大破状態のヨークタウンは掃海艇ヴィレオに曳航されて速力3ノットでハワイに向かっていた。右舷にはシムス級駆逐艦ハンマンが横付けし、排水ポンプを貸与するとともに電力供給源として機能。ヨークタウンは昼夜兼行の応急修理によって自力航行が可能になる寸前まで回復しており、沈む気配を感じさせない逞しい姿に、乗組員は安堵しつつあった。このままでは逃げられる。
しかし、ヨークタウンの周囲にはレーダーを持つ6隻の駆逐艦が円を描くように二重の警戒網を敷いており接近は困難、海面はさざ波一つ立たない鏡面のようになっていて襲撃に適さず(潜望鏡を発見される可能性が高い)、戦前の訓練成果からも、このような警戒厳重な敵艦隊への攻撃は不可能と認識され、艦長・乗組員ともに実戦での敵艦襲撃は今回が初めてなど、まさに全ての面において伊168不利と言わざるを得ない状況だった。
数回の潜望鏡観測の結果、敵はヨークタウンを中心に1000mの距離で二段の警戒駆逐艦を配していると把握した田辺艦長は、推進器を停止して潮流だけで移動する策に出た。水深45m、水中速力6ノット(時速11km/h)、息を殺しながら接近する伊168。発見されれば容易く撃沈されてしまうだろう。敵の警戒陣に進入すると聴音機のレシーバーを介さなくても敵艦のスクリュー音が聞こえてきた。潜望鏡を上げた時、ヨークタウンとの距離は1万5000mであった。間もなく敵駆逐艦からソナー音が聞こえてきたため、対爆雷防御が取られ、艦内の防水扉が閉められた。これにより艦は5つの区画に分断されて孤立。
ヨークタウンは左舷に傾いていたので艦長は左舷側からの雷撃を考えたが、敵の警戒激しく断念。右舷側から雷撃を仕掛ける事にした。敵駆逐艦の警戒陣を突破する時、伊168は3ノット(6km/h)に減速する。
午前9時37分、敵陣の真っ只中で再び潜望鏡を上げてみると、ヨークタウンとの距離は500mにまで縮まっていて、山のように大きく感じられた。作業をしている敵水兵の顔まで窺い知る事が出来る。ここから雷撃しても魚雷が艦底をくぐって外れてしまう恐れがあるため、田辺艦長は冷静沈着に「360度回頭」と命じ、乗組員を驚かせた。要するに警戒中の駆逐艦の真下をぐるりと一周回転するのである。直ちに右へ転舵し、速力を4ノットに上げて最適な雷撃位置を探す。すると、しきりに鳴り響いていたソナー音が止まった。田辺艦長は「敵のソナー当番が昼食を取るために休んだな」と冗談を言って艦内を和ませた。ソナーが無くなった事で敵の対潜網に大穴が開き、伊168の行動に幾許かの自由が生まれた。
午前10時5分、潜望鏡で海上の様子を窺うと距離約900mの位置にいて、しかもヨークタウンが右の横っ腹をこちらに向けている。絶好の雷撃位置だ。田辺艦長の「潜望鏡下ろせ!魚雷発射準備!針路調整開角2度!1番2番発射の3秒後に3番4番を発射!発射始め、用意…撃て!」の声が響いた。まず魚雷2本が発射され、3秒後に2本を重ねるように発射した。通常であれば魚雷は扇状に放つのが基本だが、今回は1本目が直撃して破孔が生じた所に2本目を突入させ、内部で炸裂させるという意図があった。放たれた魚雷は真っ直ぐにヨークタウンへと伸びていく。ストップウォッチの秒針を見ながら固唾を呑む艦長。
波を蹴立てて迫り来る4本の魚雷に、ヨークタウンとハンマンの見張り員が気付いた。横付けを離しながら爆雷を用意し、20mm砲で魚雷を射撃して早爆を狙うが、もう間に合わなかった。2本がハンマンの艦底下をすり抜けてヨークタウン(1万9800トン)の右舷に、1本がハンマン(1570トン)の右舷中央部に直撃。最後の1本はヨークタウンの艦尾後方をすり抜けた。被雷したヨークタウンは格納庫甲板の補助発電機や備品を全て破壊され、生じた破孔から大量の海水が流入、多数の防水扉と機関室は破壊し尽くされた。皮肉な事に浸水の影響で傾斜が26度から17度に回復したものの、もはや曳航は不可能であり総員退艦命令が下される。
一方、ハンマンは被雷の4分後に弾薬庫が誘爆し、艦体を粉砕されて轟沈。乗組員は海上に脱出する。しかし対潜戦闘を見越して爆雷の信管を抜いていた事が仇となり、零れ落ちた爆雷が炸裂、ヨークタウン・ハンマンともに圧死者を出して、最終的にハンマンの乗組員251名中81名が戦死した。ウィリアム・C・ロイ二等兵曹によると「(爆雷の爆発は)ヨークタウンの艦首から艦尾まで揺さぶった」との事。ちなみに伊168はハンマンの撃沈に気付いておらず気付いたのは戦後の事だったという。
こうして伊168は味方空母の仇を討ち、ミッドウェーの復讐を成し遂げた。
伊168でも4回の爆発音を聴音。遅れて届いた衝撃波が伊168の艦体を揺さぶった。大業を完遂したと知るや、田辺艦長は思わず力が抜けてその場に座り込んでしまう。喉が引きつって声が出ない艦長を気遣って部下がコップ1杯のサイダーを差し入れてくれた。
だが潜水艦はここからが大変だった。雷撃で敵駆逐艦6隻に位置が露呈してしまったのだから。ヨークタウンを雷撃された敵艦は混乱して周囲を走り回っているが、いずれ鋭利な爪牙を剥いて伊168を沈めようとしてくるのは明々白々である。ひとまず水深61mにまで潜航するが伊168に出来る事は、敵が去るまで待つか、振り切るかの二択だけ――。
絶体絶命の窮地の中、田辺艦長は思わぬ奇策に出る。伊168の艦体を、今にも沈みそうなヨークタウンの真下に滑り込ませ、隠れ蓑にしたのだ。当時の事を田辺艦長は「沈みつつある敵艦の下に突っ込むということは危険です。兵学校では落第ですよ。沈みよるフネの下に潜る奴がいるか、ということになります。しかし、一か八かそうしなきゃいかんというのが、あの時の状況だったんです」と述懐している。この奇策は見事功を奏した。敵駆逐艦群は雷撃位置を重点的に探し、ヨークタウンの真下は完全にノーマークだった。兵学校では愚策とされる行動を伊168は見事上策に昇華させてみせた。
だがその上策も長くは持たなかった。敵駆逐艦はソナー探知で伊168の所在を掴み、ヨークタウンの周りを取り囲む。夜の帳が下りるまで時間を稼ぎたい田辺艦長であったがこうなってしまっては不可能だった。ちょうどヨークタウンから脱出してきた生存者が漂っていたため、一時的に爆雷攻撃が封じられたものの救助し終えると、いよいよ恐怖の時間が幕を開けた。
雷撃から約1時間が経過した13時36分、ついに爆雷攻撃が始まり、手始めに2発の爆雷が投下された。聴音を頼りに蛇行して回避運動を取るが前部魚雷室と操縦室が浸水。更に15時30分、61発目が至近弾となり、衝撃で艦が1m以上跳ね上がって多くの乗組員が天井、または床に叩きつけられる。艦内の電灯が消滅するとともに各所から浸水報告が届き、艦前方への浸水が原因で水深60mまでしか潜航出来なくなったため、手すきの乗員は米袋を持って後部に移動し、臨時の重しとした。
不断の努力により浸水は食い止められたが電池の破損という最悪の事態が発生。電池は言わば潜水艦の心臓のようなもので、操艦と浮上が出来なくなってしまった。電池から漏洩した硫酸と海水が化合して塩素ガスが発生し、圧搾空気も40kgにまで減少、全乗組員がガスマスクを着用する。暗闇の中で懐中電灯を片手に、機関員が苦しみに喘ぎながら電池の修復作業に取り掛かる。しかし爆雷が落ちてくるたびに作業が中断してしまい伊168は仰角20度の状態で心肺停止となる。
6時間近くかけて何とか電池を修復。だが艦内の炭酸濃度はもはや限界だった。田辺艦長は日没後2時間は潜航していたかったが、これ以上潜航を続ければ全員窒息死してしまう。万策が尽きたため危険を承知で浮上。もし敵艦がいれば機銃で刺し違えるつもりだった。
夕陽によって朱色に染められた海に伊168が浮かび上がる。すぐさまハッチが開けられ、中から飛び出した乗組員が機銃に飛びつくが、幸運な事に、周囲に駆逐艦はいなかった。実は168への攻撃中、敵駆逐艦群は別の音源を探知し、そちらに気を取られていたのである。田辺艦長が双眼鏡で周辺を見渡していると、1万m先に駆逐艦グウィン、ヒューズ、モナガンがいて、伊168の浮上に気付くや否や突撃してきた。ディーゼルエンジンを作動させて全速力で水上を逃走、その間に換気と充電を行い、ヨークタウン撃沈の報告も送った。3隻のうち1隻は引き返したが残り2隻が背後から迫る。敵駆逐艦は30ノット以上を出せるのに対し、伊168の最大速力は23ノット。どれだけ速く走ってもいずれは追いつかれてしまう。
彼我の距離が5900mに縮まり、敵駆逐艦が発砲。着弾まで後50秒ほど。ここで圧搾空気が80kgに回復、3時間程度の潜航しか出来ないが田辺艦長は潜航を決断し、見張り員たちを艦内に入れ、最後に艦長がハッチを閉めて急速潜航。海中に没するのと同時に頭上で砲弾が炸裂する。伊168が海に没するのを見た敵駆逐艦は追撃を断念し、悔しそうに爆雷1、2発を撒いて夕闇に包まれつつある海域から去っていった。
海中で電動機の修理を行って潜航時間を稼ぎ、15時50分に離脱成功。約13時間に及ぶ苦闘を制した瞬間だった。20時、伊168は月明かりに照らされた海上に顔を出し、新鮮な空気をたっぷり味わった。
6月8日午前7時1分にヨークタウンは左舷側に転覆して沈没。伊168によって穿たれた右舷側の大穴を見せながら…。水兵と士官合わせて141名が死亡。ヨークタウンとハンマンの撃沈は大敗したミッドウェー海戦における唯一の快報であり、伊168が一矢報いた形となった。この戦果はアメリカ西海岸で通商破壊中の伊25や伊26にも届けられている。敵艦隊に接触出来たのは伊168と伊156のみで、このうち戦果を挙げられたのは伊168だけだった。
生還したとはいえ伊168にはまだ問題が残っていた。ミッドウェー作戦の中止により給油が受けられなくなり、燃料欠乏状態で遠く離れた故国へ帰らねばならない。残りの燃料だけでは母港の呉にまで戻れないためやむなく片舷航行で燃料を節約しながら北方に針路を向ける。
北海道沖から三陸方面に南下し、最悪の場合は漁船に燃料を分けてもらう予定だったものの、6月19日に辛くも呉に帰港。入港時に残っていた燃料は僅か1トンだったという。大勢の人々が集まって勝利した復讐者を出迎え、軍楽隊の演奏で生還を祝してくれた。
6月25日に呉を出港して翌日佐世保に入港。本格的な修理を受ける。7月1日、第12潜水隊司令に岡本義助大佐が着任。伊172が旗艦となる。7月25日、功労者の田辺弥八少佐が伊176へ異動となって退艦し、後任の中村乙二少佐が再び艦長に着任した。8月31日に修理完了。同日付でトラックから呉に向けて移動中の伊169艦長渡辺勝次少佐が一時的に伊168の艦長を兼任する。
10月5日に最後の艦長となる中島栄少佐が伊157より着任。10月31日、第6艦隊直卒潜水部隊に編入され、瀬戸内海西部で訓練及び輸送実験を命じられる。これを受けて11月7日に佐世保を出港、翌8日に敵制空権下での輸送を目的とした潜水艦曳航式物資輸送筒の運用実験に協力した。伊168によって得られた情報は直ちに活用され前線で行われるモグラ輸送に役立てられた。11月18日に呉へ入港して再び修理を受ける。
伊172喪失と同時に岡本司令が戦死。海大六型aは早くも伊168、伊169、伊171の3隻にまで半減してしまった。
ガダルカナル島を巡るソロモン戦線は日本側不利で推移し、同島の将兵は飢餓に苦しめられていた。前々から駆逐艦や潜水艦による輸送が試みられていたものの、連合軍の包囲網が分厚く、また伊3がPTボートの雷撃で撃沈されたため潜水艦輸送を一時中断。しかし戦局の悪化で再開を余儀なくされ月暗期となる12月26日から輸送を始める事に。
12月15日、伊168は戦火渦巻くソロモン方面の応援として呉を出港、12月22日にトラック諸島へ到着し、現地で第6艦隊第1潜水部隊に編入されてガダルカナル島への作戦輸送を命じられる。12月25日にトラックを出港、12月29日に最前線基地であるショートランドに進出した。ここで防水ゴム袋に入れた糧食や弾薬を上甲板に満載して固縛。潜水艦は輸送艦に早変わりする。
そして12月30日、ショートランドを出港してガダルカナル島を目指す。月暗期ゆえに夜間は非常に暗かった。
1943年1月1日夜、揚陸地点であるガ島北西部カミンボ沖に到着。潜望鏡から発光信号を送って陸上の友軍と連絡を取り、岸から大発動艇に乗った陸兵が出発、乗組員と陸兵が協力してゴム袋を大発にくくりつける。敵に見つからぬよう暗闇の中での作業だった。糧食15トンを積載したところでPTボート2隻が出現したため6割程度で揚陸中止。大発はゴム袋を曳航して陸地へ戻り、伊168は撃沈された照月の生存者60名を収容して帰路に就き、1月3日にショートランドへ帰投した。
ところが漏油が酷かったため内地での修理を命じられ、1月4日に出港、7日から8日にかけてトラックへ寄港し、1月14日に呉へ入港して入渠整備を受ける。
ガ島輸送に参加した潜水艦は延べ26隻(完全成功17隻、伊168を含む不完全成功6隻、失敗3隻)、輸送人員790名、弾薬及び糧食約374トン、喪失艦は伊1のみだった。
その頃、アリューシャン列島方面ではアメリカ軍がアムトチカ島に進出し、列島西部への圧力を強めていた。これに対抗するため大本営はアッツ、キスカ、セミチ島を中心とする要地群の形成を企図。陸上飛行場用資材等の輸送を行い、3月には防備を開始する計画を練った。同時にソ連に対する備えも急務だったため連合艦隊は北方部隊の増強に着手する。
2月1日、第12潜水隊を第6艦隊から外して北東海域の警備を担当する第5艦隊に転属。これに伴って作戦海域をアリューシャン方面に定める。2月22日に呉を出港。移動中の翌23日に第12潜水隊は伊31、伊34、伊35とともに北方部隊潜水部隊に編入され、アリューシャン方面通商破壊、敵艦隊索敵撃滅、アッツ及びキスカに対する防備協力を命じられる。2月25日に横須賀へ到着。しばらく警戒待機を行ったのち、3月5日に横須賀を出港、3月10日に北東方面の策源地である幌筵島片岡湾に進出する。
3月15日、解隊された第11潜水隊から伊174、伊175、伊176が第12潜水隊へ転属。6隻体制となる。
アリューシャン方面の戦況も日に日に悪化の一途を辿っており、2月に入ってからは空襲だけでなく敵水上艦の出現も認められるようになった。陸軍輸送船あかがね丸の沈没に伴い、北方部隊は幌筵に近いアッツ島までは水上艦で輸送し、アラスカ側のキスカ島へはアッツから潜水艦で輸送する事に。キスカには北海守備隊の進出が概ね完了していたものの、糧食、弾薬、飛行場の資材については今後の輸送を待たなければならなかった。
氷と霧が支配する北洋海域は他の戦線とは明らかに毛色が違った。北海の怒濤、低い気温による着氷、濃霧など厄介な条件がゴロゴロし、加えて浅瀬が多く潮流も速い事から一定の速力を出しておかないと舵が利かなくなり、座礁や衝突の危険を招く。またアリューシャン方面のアメリカ軍は元々旧式のS級潜水艦くらいしかいなかったが次第に新鋭のガトー級へと刷新されていき、危険度が高まっていった。
3月13日午前9時にアッツ向けの弾薬を積んで幌筵を出発。カムチャッカ沖の気温は内地の12月に相当し、乗組員はソロモン戦線とは正反対の寒さに震えた。3月15日、アッツ島北部ホルツ湾へ寄港して積み荷の一部を揚陸し、キスカ向けの弾薬を積載して同日中に出発する。本来アッツとキスカの距離なら潜水艦でも3、4時間程度で着くのだが、濃霧や敵への警戒から数日を要している。
3月17日17時27分、キスカ東方10kmを浮上航行中、ホルツ湾を監視・哨戒していた米潜水艦S-32に捕捉される。S-32は伊168を伊1型と推定して距離2300mから魚雷3本を発射。約2分半後に魚雷室内の乗組員がくぐもった爆発音を聞き、潜望鏡で海上の様子を窺ってみると、伊168の司令塔より黒煙が空に向かって噴き上がる様子が確認され、その数分後に聴音手が推進音の停止を確認したため撃沈と判断した。しかし実際は全て回避に成功しており、17時36分まで追跡を受けるも、無事S-32を振り切って虎口を脱する。翌18日17時30分にキスカ湾へ到着して積み荷の弾薬と糧食6トンを揚陸、同日中にキスカを出発してアメリカ軍が進出したアムチトカ島南方で索敵と哨戒を行う。
3月27日に生起したアッツ島沖海戦の影響で、船団輸送は霧が立ち込める夏のみに行う事とし、3月末以降の輸送は完全に潜水艦依存となる。また北方部隊の約半分が整備のため横須賀に帰投する事になり、残った水上艦は軽巡洋艦多摩、阿武隈、駆逐艦薄雲、電の4隻のみになってしまう。戦力が減少した北方部隊は3月30日、潜水艦にアッツ・キスカ間の反復輸送を命令。
4月1日、空襲の間隙を縫ってキスカに寄港して自艦用の糧食6トンを供出し、傷病兵と第452海軍航空隊の地上要員を乗せて同日中に出港。アッツ島は連日の荒天で揚陸作業不能に陥っていたため4月5日に幌筵へ帰投した。
4月10日正午、弾薬と郵便物を積載して幌筵を出港。4月13日にアッツへ寄港した際に弾薬と数名の参謀を積載して同日出発。4月15日17時30分に目的地のキスカへと到着した。4月に入ってから同島は敵の激しい空襲を受け続けており、陸軍北海守備隊司令部を後方のアッツに退避させる事が決定、同日20時に司令部を便乗させてキスカを出発し、4月17日16時30分にアッツへ到着して司令部を揚陸。彼らは同島配置の指揮下の部隊を視察・指導した。伊168はキスカ行きの糧食5トン、弾薬、郵便物を積載して出発、4月19日16時30分に再度キスカへ入港して物資を揚陸する。毎日のように繰り返される爆撃から逃れるべく入港は毎回夜となっていた(アリューシャン方面では15時に日没を迎える)。
キスカを発った後はいつものようにアッツへ立ち寄る予定だったが4月21日に取り止めとなる。アメリカ軍はアリューシャン西部の奪還に意欲的で、その奪還と時機を報道で公表していたため上層部が警戒を強めた結果だった。
伊168は引き返し、4月23日にキスカへ寄港、航空基地要員を収容して4月25日21時に出港し、4月27日16時にアッツへ到着して要員を降ろした。視察を終えてキスカに戻る北海守備隊司令部を乗せて同日21時出発。包囲網が狭まりつつある危険な海域を突破し、5月1日16時にキスカに入港して司令部要員を送り届けた。この輸送を最後に横須賀での整備を命じられて同日中にキスカを出発。5月7日に北方部隊から除かれ、第6艦隊第3潜水戦隊に転属する。
5月9日、北洋の海域から横須賀に帰投し、5月11日に横須賀を出港、翌12日に呉へと入港して整備を受ける。伊168が呉に入港した日、アメリカ軍はアッツ島への上陸を開始した。まさに紙一重である。
7月12日に伊168は呉を出港、7月20日に南東方面艦隊第7潜水戦隊に転属し、7月22日にトラックへと入港する。7月25日にラバウルを目指してトラック南水道を出発。
ところが道中の7月27日夕刻、「イザベル海峡通過中」との位置報告を最後に消息不明となる。
1943年7月27日17時54分、ニューハノーバー島とニューアイルランド島の間にあるステフェン海峡を浮上航行中、伊168は敵潜スキャンプの潜望鏡を発見。既にスキャンプも伊168の存在に気付いており潜水艦同士の戦闘が生起した。
しかし伊168は浮上中、スキャンプは潜航中と状況が不利な上、伊168は竣工から9年目前の旧式艦、対するスキャンプは竣工から1年も経っていない新鋭艦と、性能の面においても圧倒されていた。それでも伊168は勇敢に立ち向かい、18時3分に距離4000mから敵より先に魚雷1本を発射。しかし、向かってくる魚雷を発見したスキャンプは全速力で突き進みながら深く潜り、魚雷は艦尾をかすめて通過していった。次にスキャンプは潜望鏡深度まで浮上して伊168の位置を確認。
18時12分、スキャンプは4本の魚雷を扇状に放ち、2分後に1本が命中して巨大な爆炎を噴き上げながら轟沈した。艦長以下97名全員が戦死。アメリカ側はこの時に沈めた潜水艦を伊24だと判断した(伊168だと気付いたのは戦後の事で、また当の伊24は1ヶ月以上前にアリューシャン方面で戦没している)。
帝國海軍は1943年9月10日にビスマルク諸島方面で消息不明と判断し、10月15日に戦没認定。撃沈戦果は2隻(2万1445トン)であった。
戦後、戦争を生き残った田辺艦長はGHQからヨークタウン攻撃に対する聞き取り調査を受け、その慎重かつ大胆な攻撃に調査を担当したアメリカ海軍関係者も驚いたという。特に「360度回頭」を命じたところは何度も呼び出されて理由を尋ねられた(田辺艦長曰く「理屈抜きの思い付き」らしい)。また、この時にハンマン撃沈を知らされて「儲けものをした」と思ったとの事。
1971年に放映されたテレビアニメ『アニメンタリー決断』の第12話は伊168に焦点を当てられ、ヨークタウン撃沈の経緯が描かれている。1982年には伊168潜戦友会が「大東亜戦争の伊168潜戦闘記」(非売品)を発行。
1998年5月19日、タイタニック号や戦艦ビスマルクを発見した海洋学者ロバート・バラート博士が海底に横たわるヨークタウンの残骸を発見。艦体には伊168の魚雷によって穿たれた破孔がはっきりと確認出来る。2023年9月、EVノーチラス号によって更なる残骸の調査が広範囲に渡って行われた。
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最終更新:2024/11/30(土) 16:00
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