伊168 単語

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伊168とは、大日本帝國海軍が建造・運用した大六a(伊68)潜水艦1番艦である。1934年7月31日工。ミッドウェー海戦空母ヨークタウン駆逐艦ハンマンを撃沈する戦果を挙げて一矢報いた艦として有名。1943年7月27日ラバウル北方撃を受けて撃沈された。戦果は2隻撃沈(2万1445トン)。

概要

ロンドン海軍軍縮条約の制限により巡潜を多数保有できなくなった大日本帝國海軍は、代用として小・高速・航続性に優れた艦隊用潜水艦開発に着手する。

前級の大五ベースに全長7mを延ばして高速性を確保し、縦横を大化するとともに内殻を外フレーム式に変更、内殻内に燃料タンクを増設した事で航続距離の長大化を図った。南方での長距離作戦を想定して冷房を強化しつつタンクを拡充するなど様々な良を加えている。大六aの最大の特徴は、機に実用化されたばかりのディーゼルこと艦本式1号甲88気筒2サイクル複動ディーゼルが採用されている事である。これにより今まで20.5ノットが限界だった最大速が23ノットに向上、当時世界最速の潜水艦イギリスのテムズ級(22.5ノット)であり、見事その記録を塗り替えた。また電気溶接技術を導入したが内殻にリベットが残ってしまい、伊68と伊69は安全潜航深度が70mになっている(3番艦以降は75m)。速・航続距離ともにバランスの取れた帝國海軍潜水艦の決定版であり、続く大六bや大七はこの大六aをベースに建造されている。

伊68伊68、伊69、70、71、7273の計6隻が建造された。

は全長104.7m、全幅8.2m、均喫4.58m、排水量1400トン、最大速23ノット(水上)/8.2ノット(水中)、安全潜航深度70m、乗員68名。兵装は八八式魚雷発射管6門(艦首4門、艦尾2門)、魚雷14本、八八式50口径10cm単装高1門、九三式13mm機1丁。

艦歴

大東亜戦争開戦まで

1930年に策定された第一次補充計画(通称マル1計画)にて大六一等潜水艦の仮称で建造が決定。

1931年6月18日で起工、1933年6月26日進水式典には海軍学校の教官と生徒が参列し、1934年3月26日の全試で24.02ノットを記録、そして同年7月31日工を果たした。呉鎮守府に編入されるが、実用化されたばかりのディーゼルを搭載していたため、安全性が確立されるまで一旦海軍学校練習艦となる。ちなみに工当時の艦名は伊68であった。

1934年9月6日を出港。パラオ方面で機関テストを行い、事有用性を明。以降、帝國海軍潜水艦にはディーゼルが搭載されていく事になった。9月16日へ帰投。1935年10月8日伊68は伊69とともに第12潜隊を新編。11月9日70を加え、3隻体制となる。11月15日、第12潜隊は第2艦隊第2潜戦隊へ編入。1936年8月28日潜水艦の前部と後部に注排装置を搭載する工事を受ける。11月13日にて石井菌濾器を装備。1937年1月20日タンクベント弁曲圧管系装置の正工事を受け、4月14日に警を新設した。

1937年7月7日事件の勃発により北支で日本中国国民党の武衝突が生起する。元々潜水艦は参加する予定ではなく、第1艦隊とともに佐伯湾で訓練に従事していたが、補助艦艇まで投入している現状で座視すれば士気に関わるとして参加が決定した。7月29日、第12潜隊は北支部隊に編入。拡大する戦火から在留邦人と財産の保護を命じられ、佐伯湾を出港。7月30日に佐世保へ入港し、第2艦隊隊と合流して警待機に移行。在留邦人が最も多いでは急速に治安が悪化し、8月4日には国民党軍の便衣兵が巡回中の下士官4名を狙撃して2名に重傷を負わせる事件が発生。犯人逮捕には至らず、また現地の排日活動も化の一途を辿り、国民党軍も方面の軍備を増強するなど不穏な空気が漂っていた。このため陸軍の制圧を企図したA作戦を発8月17日、A作戦に呼応して第12潜隊は順への回航を命じられて出港。8月20日順に到着し、翌日裏長山列に進出する。

8月21日伊68が所属する第2潜戦隊は第11戦隊と協同で、六連から大連に向かう第14師団の団を直接護衛するよう下命される。8月23日午前0時、第14師団を乗せた団が多度を出港。潜水母に護衛されながら大連に向かっていたが、8月25日午前2時にA作戦の中止が下される。第二次上海事変の勃発で上海方面へ早急に増援を送らなければならなくなった事、その戦況で方面にまで戦線を拡大するのは好ましくないとして、中止が下された訳である。代わりにからの邦人引き揚げを援護するべく8月28日に裏長山列を出発、合いで警を行った。8月31日には大部分の引き揚げが了。同日23時に帰投を命じられ、裏長山列に戻った。

9月1日で待機していた第14師団を上海方面に転用する事になり、団がを出発。9月3日団護衛を命じられ、順を出港。翌日輸送団と合流し、増援を渇望する上海派遣軍に8個団を送り届けた。9月11日午後に任務を了、大連にて待機する。第3艦隊長谷川中将中国沿上封鎖を宣言し、第三租借地と以外の港を監視する事に。9月24日伊68は第一封鎖部隊に編入され、順を拠点に州以北の封鎖監視任務に6回従事。11月19日順へ帰投した。第二次上海事変日本勝利に終わった11月20日、第一封鎖部隊の任を解かれ、11月24日に佐世保へ帰投。戦線が内陸に移動したため出番がくなった。

1938年12月15日、第12潜隊は第3潜戦隊へ転属。1940年10月11日横浜で行われた紀元二千六百年特別観艦式に参加。

戦争の足音が聞こえ始めた1941年6月1日より内地待機となる。7月25日中村少佐が艦長に着任。9月海軍大学校で行われたハワイ作戦の図上演習で第3潜戦隊はオアフを包囲する計画が立てられた。11月5日の御前会議にて12月上旬の開戦が決まり、大本営大海一号を発。第6艦隊にハワイ及びアメリカ西海への潜水艦派遣を命じた。11月10日、第6艦隊は軍隊区分を発し、伊68は先遣部隊第3潜部隊に部署。旗艦伊8揮下に入った。

11月11日、第12潜隊はハワイ作戦支援の任を帯びて佐伯湾を出港。南方航路を通って前線基地のマーシャル諸島クェゼリンに向かったが、ハワイ作戦の全容を把握しているのは官と首席参謀のみで艦長以下乗組員には知らされていなかった。11月20日前線基地のマーシャル諸島クェゼリンへ入港。潜水母大鯨から燃料補給を受ける傍ら、各潜水艦の科長以上が大鯨に集められ、官の訓示と作戦の打ち合わせが行われた。この時に初めてハワイ作戦の意図が知らされ、戦意が大いに盛り上がったとされる。11月23日に僚艦と出港し、12月1日ハワイ300里圏内へ到達。12月2日瀬戸内海戦艦長門から中継された「ニイタカヤマノボレ」の通信を傍受。開戦は避けられない事態となった。12月7日、オアフ南東の配備点に到着した。

大東亜戦争

1941年

1941年12月8日、オアフの近で息を潜めて南雲機動部隊の攻撃を待つ伊68。やがてハワイ北方から飛来した攻撃隊が到達、断続的に爆発音がいた。午前8時30分、展開中の全潜水艦に対し、港内から脱出してくるであろう敵艦隊の撃滅が下された。午後12時30分、特殊潜航艇収容のため移動する潜水艦群の埋めとして、伊69とともに真珠湾口南のE1区への移動を命じられる。航空攻撃により敵の警は厳重となり、翌9日夕刻に外側のD区へ後退している。12月11日にクェゼリンへの帰投命を受領して退却を始めるも、12月14日から18日にかけて21回の爆雷投下を受け、致命傷には至らなかったものの多数の電池が破損、後部発射管が浸し、漏被害を受けた。相変わらず敵の警は厳しく、バッテリー充電のため間浮上するだけでも苦労した。撃沈の恐怖と戦いながら敵の支配圏から脱出した後、中村艦長は修理が必要と判断。12月28日にクェゼリンに寄港して応急修理を受ける。本格的な修理のため内地へ向かう事になり、12月31日に出港。

1942年

1942年1月2日、ミッドウェー付近を航行中に敵機の爆撃を受けて小破するも航行に支障し。1月9日へ帰投して工修理1月15日ハワイで撃沈された70が除かれ、第12潜隊は伊68と伊69の2隻体制となる。1月17日、艦長の中村少佐戦艦大和に赴き、ハワイ作戦における伊68の深度充電と受けた爆雷攻撃について説明した。出渠後はで単独訓練に従事する。1月31日、後に大戦果を挙げる立役者となる田辺弥八少佐が新たな艦長に就任。3月20日、解隊された第20潜隊から71と72が編入され、伊68が第12潜隊の旗艦となって中岡信喜大佐が乗艦。

4月10日、第3潜戦隊は敵機動部隊への警として東京湾東方700里付近のG散開線への進出を下される。4月15日を出港して僚艦とともにG散開線へ向かった。ところが4月18日午前7時52分、第二十三日東丸東方720里で敵機動部隊発見の緊急電を発信。後の世に言うドーリットル空襲の発生である。直ちに対米国艦隊作戦第三法が発動され、東方410里の散開線にて索敵を実施。4月20日四国エンジントラブルに見舞われ、翌日反転4月26日へ入港して機械修理に着手した。

5月20日伊68は伊168に名。巡潜には1~50の数字が、には51~100数字が割り当てられていたが、巡潜が50隻以上増産される事になり、数字が足りなくなってしまった。そこで運用中の数字プラス100をして命名の余剰スペースを作る事になり、伊68も伊168に名した訳である。5月21日、ミッドウェー作戦に先立ってキュー及びミッドウェーの偵察、その後はミッドウェー東方を機宜行動偵察並びに敵艦に対する奇襲が命じられた。大任を帯びた事で、とある乗組員が真夜中にこっそり亀山神社を参拝し、作戦の成功を祈った。また望月電機長は水天宮に参詣した際、全員分のお守りを購入した。

5月23日、在泊艦艇から登舷礼で見送られながらを出港。柱を通りがかった時にも連合艦隊から登舷礼を受けた。瀬戸内海から豊後に入り、四国九州自然に見送られながら太平洋に進出。東進してミッドウェー方面に向かった。5月25日部からミッドウェーの偵察を命じられ、単独行動に移る。5月30日、ミッドウェー近で敵飛行艇を発見。6月1日キューへ進出し、敵飛行艇の存在と情報を通達する。6月2日、ミッドウェーの北西からサンドに向かって接近。翌3日未明、東の線上に粒のようなが見えてきた。太陽が昇るにつれて輪がハッキリ見えるようになり、敵拠点ミッドウェー基地が伊168の前に姿を現した。敵はまだ伊168の存在に気付いていない様子。潜航しながら環礁の北側に移動し、内を潜望で観察しながら東側、南側へ移動。飛行機格納庫や燃料タンクが立ち並んでいるのが確認できた。最後に西側の湾口に向かい、陸上施設の動静を監視する。潜望を高く上げられないため飛行場を直接見る事はわなかったが、それでも数十機の哨戒機が盛んに発進して周囲を警しているのが手に取るように分かった。得られた情報連合艦隊に報告しつつ、偵察を続けながら近で待機。

6月5日南雲機動部隊から発進してきた攻撃隊がミッドウェー襲。その様子を、伊168は中から観戦していた。田辺艦長が「潜望一杯に火炎と煙が見えた」と評するほどしい攻撃であり、燃料タンク爆発して内は煙に覆われた。その一部始終を見ていた田辺艦長が乗組員に伝えると、ドッと歓が湧き上がった。にいる航長や砲術長、伝員にも潜望を覗かせ、一同手をいて友軍の活躍に喜んだ。しかし、ここから行きが怪しくなっていく。来るはずの第二次攻撃がいつまで経っても来ないのである。その疑問への解答として、伊168の受信機が「味方空母被弾」の電文を受信した。田辺艦長は困惑した。作戦後の燃料補給はミッドウェーで行う予定になっており、攻略作戦が頓挫すれば補給を受けられなくなってしまう。そうなれば航続距離に優れたでも帰が危うくなる。言い知れぬ不安が艦内を支配した。

補給の問題に頭を抱えていると、連合艦隊部からミッドウェー撃命が下された。田辺艦長は「潜水艦撃をやらせるなんて、上層部は血迷ったな」と内心づきながらも、命通りに行動開始。21時54分、イースタン東方4000mで浮上し、サンド方面に移動。22時24分、イースタン南方4000mから航空基地に向けて6発の10cm弾を叩き込んだ。被害の程度は不明だったが、アメリカ軍を驚かせるには十分であり、依然上陸の危険性が高いとして緊を強いた。ゆえに反撃も素く、戦果を確認する前に飛行場から敵機が飛び立ち、同時に陸上台から照射撃を受ける。伊168は急速潜航し、サーチライトが向けられた時には中へしていた。

6月6日、深深度で息を潜めていると突然爆雷攻撃を受けた。ミッドウェーから出撃してきた敵の駆潜艇に位置を探知され、長時間に渡って中に押し込められた。しい攻撃だったが正確さに欠いていたため、損傷軽微で済んだ。夕刻、潜望深度まで浮上して潜望と短波アンテナを出すと、新たな命を受信した。第1機動部隊筑摩艦載機が大破漂流中のヨークタウン空母を発見し、たまたま近くにいた伊168に攻撃命が下された。ミッドウェー海戦の大敗を取り戻すには、是が非でもヨークタウン級を仕留めなければならない。16時30分、部宛てに「本日終始、敵駆潜艇の攻撃の制圧を受けたため受信遅れたり。ただちにトスオ18(ミッドウェー北北東150里)に向かう」と打電し、速伊168は行動を開始。燃料の関係からっ直ぐに針路を取り、16ノットの速水上を疾駆する。中でカタリナ飛行艇に攻撃されたが、急速潜航が間に合って被害かった。潰れてしまいそうな重圧の中、田辺艦長は一睡もせずに想定される事態一つ一つに対策を練っていた。極限の緊下でも乗組員は至って常であり、あたかも訓練を行っているかのような冷静さを保っている。その様子を見て艦長は「これならやれる」と確信した。望月電機長は事前に買い込んだ水天宮のお守りを全乗組員に配り、助を祈る。

6月7日午前1時、伊168は的地点に到達したが、ヨークタウン空母の姿はかった。伊168は敵の制圧を受けて長らく命を受信できない状況にあり、命発信から受信まで大きなタイムラグがあった。このため命文にある地点に到達しても、既にヨークタウン空母は去った後だった。田辺艦長は見りを立たせ、血眼になって敵空母を探す。み始めた、見り員が東に黒点を発見。田辺艦長は命にあった敵空母を判断し、戦闘配置を下。速やかに潜航して潜望を上げる。ミッドウェー海戦も終わりに近づいた6月7日、周囲に味方がいない中、伊168だけの決戦が始まった。

ヨークタウン撃沈

飛龍艦載機の反撃を受けて大破したヨークタウンは、掃海艇ヴィレオに航されて速3ノットでハワイに向かっていた。右舷には駆逐艦ハンマンが横付けし、排ポンプを貸与するとともに電供給として機ヨークタウンは大破こそしていたが、兼行の応急修理により自航行が可になる寸前まで回復しており、沈む気配を感じさせない逞しい姿は乗組員に安堵感をもたらしていた。このままでは逃げられる恐れがある。しかしヨークタウンの周辺には6隻の駆逐艦が円を描くように二重の警網を強いており、接近は困難を極めた。加えてはさざ波一つ立たない面のようになっていて、潜水艦の襲撃に適さない。潜望を発見される危険性が高いからだ。まさに全ての面において伊168が不利と言えた。

数回の潜望観測によって敵はヨークタウンを中心に1000mの距離で二段の警駆逐艦を配している事を掴んだ田辺艦長は、推進器を停止して潮流だけで移動するという策に出た。深度45m、水中3ノット(時速6km/h)で隠密裏に接近する伊168。発見されれば容易く撃沈されてしまうだろう。敵の警に進入すると、聴音機のレシーバーを介さなくても敵艦のスクリュー音が聞こえてきた。再び潜望を上げた時、ヨークタウンとの距離は1万5000mであった。やがて敵駆逐艦からソナー音が聞こえ始め、艦内では対爆雷防御が取られて防が閉められた。艦は5つの区画に分断されて孤立した。

ヨークタウンは左舷に傾いていたので、艦長は左側からの攻撃を考えたが、敵の警厳しく断念。右舷から撃を仕掛ける事とした。午前9時37分、敵中で潜望を上げてみると、ヨークタウンとの距離500mにまで迫っていて、山のように大きく感じられた。作業している敵兵の顔までい知る事が出来る。ここから撃しても魚雷が艦底をくぐって外れてしまう恐れがあるため、田辺艦長は冷静沈着に「360度回頭」と命じ、乗組員を驚かせた。要するに警中の駆逐艦下をぐるりと一周回転するのである。直ちに右へ転し、速を4ノットに上げて最適な撃位置を探す。すると、しきりに鳴りいていたソナー音が止まった。田辺艦長は「敵のソナー当番が食を取るために休んだな」と冗談を言って艦内を和ませた。ソナーが止まった事で敵の対潜網に大穴が開き、伊168の行動に幾許かの自由が生まれた。午前10時5分、潜望を上げてみると距離約900mの位置に居て、しかもヨークタウンは右舷の横っをこちらに向けている。絶好の撃位置だ。田辺艦長の「発射始め、用意…撃て!」のいた。まず2本が発射され、3後に2本を重ねるように発射した。通常であれば魚雷は扇状に放つのが基本だが、1本が直撃してが開いた所に2本を突入させ、内部で炸裂させるという意図があった。放たれた魚雷っ直ぐにヨークタウンへと伸びていく。

波を蹴立てて迫り来る4本の跡に、最初に気付いたのはハンマンだった。横付けを離しながら爆雷を用意し、備魚雷射撃するが、全てが手遅れだった。2本がヨークタウン(1万9800トン)の右舷に、1本がハンマン(1570トン)に直撃。1本はヨークタウンの艦尾後方をすり抜けた。息を吹き返す寸前だったヨークタウンは致命傷を受ける。格納庫の補助発電機や備品を全て破壊され、生じた破孔から大量のが流入、機関室は破壊し尽くされた。皮な事に浸で傾斜が26度から17度に回復したが、もはや航は不可能であり、総員退艦命が下された。一方のハンマンは被の4分後に弾薬庫が誘爆し、体を粉砕されて沈。乗組員は上に脱出したが、対潜戦闘を見越して爆雷の信管を抜いていた事がとなり、れ落ちた爆雷が炸裂して圧死者を出した。こうして伊168は味方空母を取り、ミッドウェーの復讐を成し遂げた。ちなみに伊168はハンマンの撃沈に気付いておらず、気付いたのは戦後の事だった。

伊168でも4回の爆発音を聴音し、遅れて届いた衝撃波が伊168の体を揺さぶった。大業を成し遂げたと知るや、田辺艦長は思わずが抜けてその場に座り込んでしまった。喉が引きつってが出ない艦長を気遣い、部下がコップ1杯のサイダーを差し入れてくれた。しかし、潜水艦はここからが大変だった。撃をした事で敵駆逐艦6隻に居場所が露呈してしまった。ヨークタウンを撃沈された敵艦は混乱して周囲を走り回っているが、やがて鋭利な牙を剥いて伊168を沈めようとしてくるのは明々々である。伊168に出来る事は、敵が去るまで待つか振り切るかの二択だけだった。絶体絶命の窮地の中、田辺艦長は思わぬ奇策に出る。伊168の体を、今にも沈みそうなヨークタウン下に滑り込ませて隠れたのである。当時の事を田辺艦長は「沈みつつある敵艦の下に突っ込むということは危険です。兵学校では落第ですよ。沈みよるフネの下に潜るがいるか、ということになります。しかし、一か八かそうしなきゃいかんというのが、あの時の状況だったんです」と述懐している。この奇策は見事功を奏した。ヨークタウン下は全にノーマークであり、駆逐艦撃地点を重点的に探していた。思わぬ形でヨークタウンに助けられ、兵学校では愚策とされる行動を伊168は見事上策に昇させてみせた。

だが、その上策も長くは持たなかった。駆逐艦はソナー探知で伊168の所在を掴み、ヨークタウンの周りを取り囲む。の帳が下りるまで時間を稼ぎたい田辺艦長であったが、こうなってしまっては不可能だった。ちょうどヨークタウンから脱出してきた生存者が漂っていたため一時的に爆雷攻撃が封じられたが、救助し終えるといよいよ恐怖の時間が幕を開けた。

撃から約1時間後の13時36分、爆雷攻撃が始まった。聴音を頼りに行して回避運動を取るも、前部魚雷室と操縦室が浸。更に61発が至近弾となり、衝撃で艦が1m以上跳ね上がって多くの乗組員が天井または床に叩きつけられた。艦内の電が消滅するとともに各所から浸報告が届き、艦前方への浸が原因で深60mまでしか潜航出来なくなった。手すきの乗員は袋を持って後部に移動し、臨時の重しとした。不断の努により浸は食い止められたが、電池の破損という最悪の事態が発生。電池は言わば潜水艦心臓のようなもので、操艦と浮上が出来なくなってしまった。電池から漏洩した硫が化合して塩素ガスが発生し、圧搾空気も40kgにまで減少。全乗組員がガスマスクを着用し、暗闇の中で懐中電灯を片手に機関員が苦しみに喘ぎながら電池の修復作業に取り掛かる。しかし爆雷が落ちてくるたびに作業が中断し、伊168は仰20度の状態で心肺停止となる。6時間近くかけて何とか電池を修復したが、艦内の炭酸濃度は最限界だった。艦長は日2時間は潜航していたかったが、これ以上潜航すれば全員が窒息死してしまう。万策尽きたため危険を承知で浮上、もし敵艦がいれば機で刺し違えるつもりだった。

夕日によって朱色に染められたに、伊168が姿を現した。すぐさまハッチが開けられ、中から飛び出した乗組員が単装に飛びつく。幸運な事に、周囲に駆逐艦がいなかった。実は伊168への攻撃中に敵駆逐艦群は別の音を探知し、そちらに気を取られていたのである。田辺艦長が双眼鏡で周囲を見回していると、10km先に駆逐艦グウィン、ヒューズ、モナガンがいて、伊168の浮上に気付くや否や突撃してきた。伊168はディーゼルエンジンを発動して全速水上を疾駆、その間に充電と換気を行い、ヨークタウン撃沈の報告も送った。3隻のうち1隻は引き返したが、残りの2隻が背後から迫る。敵駆逐艦は30ノット以上を出せるのに対し、伊168の最大速は23ノット。どれだけ速く走ってもいずれは追いつかれてしまう。彼距離5000mに縮まり、敵駆逐艦が発。着弾まで後50ほど。ここで圧搾空気が80kgに回復3時間程度の潜航しか出来ないが、田辺艦長は潜航を決意。見り員たちを艦内に入れ、最後に艦長がハッチを閉めて急速潜航。中にするのと同時に頭上で弾が炸裂した。まさにギリギリだった。伊168がするのを見た敵駆逐艦は追撃を断念し、悔しそうに爆雷1、2発を撒いて夕闇に包まれつつある域から去っていった。中で電動機の修理を行って潜航時間を稼ぎ、15時50分に離脱成功。約13時間に及ぶ苦闘を制した間だった。20時、伊168は明かりに照らされた上に顔を出し、新鮮な空気を味わった。

6月8日午前7時1分、ヨークタウンは転覆して沈没した。ヨークタウンハンマンの撃沈は大敗したミッドウェー海戦における一の快報で、伊168が一矢報いた形となった。この戦果はアメリカ西海通商破壊中の伊25伊26にも届けられている。

生還したとはいえ、伊168にはまだ問題が残っていた。ミッドウェー作戦の中止により給油を受けられなくなり、燃料欠乏状態で遠く離れた故へ戻らなければならなかった。残りの燃料だけでは港のまで帰れず、やむなく片舷航行で燃料を節約しながら北方に針路を向ける。北海道から三陸方面に南下し、最悪の場合は漁から燃料を分けて貰う予定だったが、6月19日に辛くもに帰港。入港時に残っていた燃料は僅か1トンであり、本当にギリギリだった。大勢の人々が集まって勝利した復讐者を出迎え、軍楽隊の演奏で生還を祝してくれた。6月25日を出港し、翌日佐世保に入港。本格的な修理を受ける。7月25日、功労者の田辺弥八少佐が退艦し、後任の中村少佐が二代艦長に着任した。8月31日修理了。

10月5日、最後の艦長となる中島少佐が就任。10月31日、第6艦隊直卒潜部隊に編入され、瀬戸内海西部で訓練及び輸送実験の命が下される。11月7日に佐世保を出港し、翌日にへ入港。敵制権下での輸送を的とした潜水艦航式物資輸送筒の運用実験に協する。伊168によって得られた情報は直ちに活用され、前線で行われるモグラ輸送に役立てられた。11月18日へ入港し、再び修理を受ける。

血染めのソロモン戦線に向かう

ガダルカナル島争奪戦は日本側不利の戦況で推移し、同の将兵は飢餓に苦しめられていた。前々から駆逐艦潜水艦による輸送が試みられていたが連合軍の包囲網が分厚く、また3が魚雷艇の襲撃で撃沈されたため潜水艦輸送を一時中断。しかし戦局の悪化により再開を余儀なくされ、暗期となる12月26日から輸送を始める事になった。

伊168はガ方面の応援として12月15日を出港。12月22日に前進基地のトラックへ進出し、現地で第6艦隊第1潜部隊に編入されてガダルカナル島への作戦輸送を命じられる。12月25日トラックを出港し、29日に物資集積所のショートランドに到着。ゴム袋に入れた糧食や弾薬を上甲に満載して固縛し、潜水艦は運送艦に変わりする。12月30日ショートランドを出港してガダルカナル島に向かった。

1943年

1943年1月1日、敵中を突破して揚陸地点のカミンボに到着。潜望から発信号を送って陸上の友軍と連絡を取り、から大発動艇に乗った陸兵が出発。伊168に横付けして乗組員と陸兵が協してゴム袋を大発に移乗させる。糧食15トンを積載したところで魚雷艇2隻が出現し、6割程度で揚陸中止。撃沈された照月生存者60名を収容したのち帰路につき、1月3日ショートランドへ帰投した。しかし漏が酷かったため内地での修理を命じられ、翌日出発。トラックを経由して1月14日へ帰港。入渠整備を受ける。

霧と氷の北洋を進む

その頃、アリューシャン列島方面ではアメリカ軍がアムトチカに進出し、列西部への圧を強めていた。これに対し大本営はアッツ、キスカ、セミを中心とする要地群の形成を企図。陸上飛行場用資材等の輸送を行い、3月には防備を開始する計画を練った。同時にソ連に対する備えも急務であり、連合艦隊北方部隊の増強に着手。

2月1日、第12潜隊を第6艦隊から外し、北東海域の警備を担当する第5艦隊に転属。2月22日を出港し、2月25日横須賀へ到着。しばらく警待機を行ったのち、3月5日横須賀を出発。3月10日に北東方面の策地である片岡湾に進出した。アリューシャン方面の戦況も日に日に悪化の一途を辿っており、2月に入ってからは襲だけでなく敵水上艦艇の出現も認められるようになった。陸軍輸送あかがね丸の沈没により、北方部隊筵に近いアッツ島までは水上艦で輸送し、アラスカ側のキスカ島へはアッツから潜水艦で輸送する事に決めた。

3月13日午前9時筵を出港。3月15日アッツ島ホルツ湾へ寄港し、現地で弾薬を積載して同日中キスカをして出港した。3月17日17時27分、キスカ島東方10kmで敵潜水艦S-32から撃を受け、3本の魚雷が伸びてきたが回避に成功。17時36分まで追跡を受けるも、S-32の聴音手が撃沈したと勘違いしたため引き揚げていった。翌18日17時30分にキスカ湾へ到着、積み荷の弾薬と糧食6トンを揚陸した。同日中キスカを出発し、アメリカ軍が進出したアムチトカ南方で索敵とを行う。3月27日に生起したアッツ島戦の水上艦での輸送が断念され、輸送任務に従事するのは潜水艦のみになってしまった。また北方部隊の約半分が整備のため横須賀に後退し、残った水上艦が軽巡洋艦多摩阿武隈駆逐艦、電のみと戦が手薄になった事も一因と言える。このような状況から北方部隊3月30日潜水艦にアッツ・キスカ間の反復輸送を命じた。4月1日キスカへ立ち寄り、輸送が困難になる未来を見越してか自艦用の食糧6トンを供出し、傷病兵と第452海軍航空隊要員を乗せて同日出港。4月5日筵へ帰投した。

4月10日正午筵を出港して再び輸送任務に従事。4月13日にアッツへ寄港して弾薬を積載し、同日出港。4月15日17時30分にキスカへと到着したが、4月に入ってから同は敵のしい襲を受け続けていた。このため陸軍北海守備隊部を後方のアッツへ退避させる事になり、伊168に乗艦。同日20時に出発し、4月17日16時30分にアッツへ入港して部を揚陸させたのち糧食5トン弾薬郵便物を積載して出発。4月19日16時30分に再度キスカに入港して物資を揚陸する。キスカ出発後はアッツに向かったが、4月21日に入港取りやめとなる。前々からアメリカ軍アリューシャン西部の奪還に意欲的で、その奪還作戦の兆が見られたからだった。伊168は引き返し、4月23日キスカへ入港。航空基地要員を収容して4月25日21時に出港し、4月27日16時にアッツに到着して要員を降ろした。代わりに再びキスカへ進出する北海守備隊部を乗せ、21時出発。包囲網が狭まりつつある危険な域を突破し、5月1日16時キスカに入港。部要員を送り届けた。この輸送を最後に横須賀での整備を命じられ、同日中キスカを出発。5月7日北方部隊から除かれ、第6艦隊第3潜戦隊に転属。5月9日横須賀に入港した。5月11日横須賀を出港して翌日に入港。整備を受ける。

7月12日を出港し、トラックに向かう。20日に南東方面艦隊第7潜戦隊に転属し、7月22日トラックへ入港。7月25日ラバウルして出港した。しかし中の7月27日、「イザベル峡通過中」との位置報告を最後に消息不明となる。

最期

1943年7月27日17時54分、ニューノーバニューアイルランドの間にあるステフェン峡を浮上航行中、伊168は敵潜スキャンプの潜望を発見。スキャンプも伊168の存在に気付いており、潜水艦同士の戦闘が生起した。しかし伊168は浮上中、スキャンプは潜航中と伊168が不利な状況だった。また艦齢の面でも伊168は9年前の旧式艦、スキャンプは工から1年も経っていない新鋭艦と性でも圧倒されていた。それでも伊168は果敢に立ち向かい、18時3分に距離4kmの地点から敵より先に魚雷1本を発射。ところがスキャンプの艦尾をかすめて外れてしまい、逆に4本の魚雷が扇状に伸びてきて1本が直撃。18時14分、巨大な爆炎を噴き上げて沈した。艦長以下97名全員が戦死。アメリカ側はこの時に沈めた潜水艦24だと長らく認識していたが、戦後になって伊168だと判明した。ちなみに当の24は1ヶ以上前にアリューシャン方面で戦

帝國海軍1943年9月10日ビスマルク方面で消息不明と判断し、10月15日に戦認定した。撃沈戦果は2隻(2万1445トン)であった。

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