辻政信(つじ まさのぶ、1902年(明治35年)〜1968年(昭和43年))とは、大日本帝国軍人、政治家である。最終階級は陸軍大佐。
概要
大日本帝国陸軍の参謀を務め、当時は「作戦の神様」と表されたが、現在では戦時中の言動からむしろ悪名の方で知られるようになる。戦後は政治家となったが、ラオスに赴いた際に消息を絶つ。一説には中国共産党に捕らえられて処刑されたとも言われているが、詳細は不明。
辻は独断専行を好む傾向があった。それを踏まえて、2ch軍板のネタスレにおいて、機動戦士ガンダム第一話のジーンとデニムのやり取りを流用したネタが作られた。
「石原だって、手柄を立てて出世したんだ、俺だって!」
「やめろ、辻ーン!」
このネタが受けたことから、ネットでは以後辻政信のことを「辻ーん」と呼ぶことが、主に軍板で一般化した。
陸軍大学校まで
1902年10月11日に石川県に四人兄弟の三男として生まれた。苦学の末1918年名古屋陸軍地方幼年学校に補欠入学。ただし卒業は首席。陸軍中央幼年学校では有名なバロン西こと西竹一らが同期。
陸軍士官学校は36期生として入学する。予科二年間終了後は士官候補生として金沢の歩兵第7連隊に配属。その後本科に進み1924年に士官学校を首席で卒業。恩賜の銀時計を拝受。
見習士官として再び第7連隊に配属。三か月後には少尉、1927年は中尉になり同年陸軍大学校に入学。
卒業は三番目の成績だった。恩賜の軍刀拝領している。
参謀本部〜関東軍まで
第一次上海事変に歩兵第7連隊の中隊長として出征。その年に参謀本部付きになる。第一課に配属。
第一課には東條英機課長(当時大佐)がいた。大尉に進級するものの1934年には士官学校の生徒隊中隊長に任命された。これは栄転である筈のモスクワ駐在武官職を断っている。辻は生徒と泥まみれになりながら指導した為、生徒の間では人気が高かった。
当時の士官学校では数年前に起きた5.15事件の影響を受けて、軍部の主導による国家改造を目指す国家社会主義思想が広まっていた。辻は学校内部を内偵してのちに2.26事件を起こす人物を軍法会議送りにしている。ただし辻も重禁固30日を食らっている。
2.26事件後の1936年関東軍参謀本部に転出。兵站を担当する第三課に配属。そこで、以後生涯に渡って尊敬することになる石原莞爾に面会する。
1937年に発生した盧溝事件により戦線拡大を主張。当時の作戦主任に自ら爆撃機で中国軍を爆撃すると申し出るも、”戦闘機で撃ち落とすぞ”と言われ断念。その後、支那駐在軍に自分を売り込むも、新設された北支那方面軍に第一課に配属となった。そこの参謀と過去に確執があり、第5師団に転出されるも関東軍作戦参謀に返り咲いた。南京に駐在し不良軍人を片っ端から狩り出し軍紀の回復に努めた。
ノモンハン事件
1939年5月、外蒙古と満州国が共に領有権を主張しているハルハ河東岸において両軍による小規模な衝突があった。ハイラルに駐屯する第23師団は「満ソ国境紛争処理要綱」に従い部隊を派遣した。
外蒙古を植民地化していたソ連は英雄ゲオルギー・ジューコフを第57軍団に任命しハルハ河に派遣した。
関東軍司令部は拡大を決定し、外蒙古の航空基地の空爆を計画した。これに驚いた東京の参謀本部は直ちに作戦中止を電報で送るが、辻は見なかった事にして逆に作戦実行の電報を送った。
紛争は数倍の損害を受けたもののソ連が物量で圧倒し、北部及び中央部はソ連が、南部は日本がそれぞれ優位な停戦ラインで解決した。辻は前線指揮官を姑の如くネチネチ失敗を粗探しをして自殺に追い込んだ。
戦争は負けたと感じたものが、負けたのである。
と回想している。
大東亜戦争 南方作戦編
1941年マレー半島コタバルにおいて、真珠湾奇襲攻撃に先んじること1時間20分、つまり日本時間12月8日午前1時30分、言いわゆる大東亜戦争はこの時に開始された。
辻はノモンハン事件後、東京の参謀本部に返り咲き作戦課兵站班長に任命される。南方作戦では、第5師団の先頭に立ち直接作戦指導を行っている。この時、敵軍戦車を奪い敵陣へ突撃を敢行している。
参謀としての任務を放棄して前線で命令系統を無視した指揮をとる辻に対して、山下奉文中将は警戒感を露わに「使用上注意すべき男」と日記に書いている。
1942年2月15日のシンガポール陥落後、反日分子を探すために日本軍が市内の華僑約20万人を一斉検問して「怪しい」とされた人物を大量に処刑したという「シンガポール華僑粛清事件」が発生した。この時に半日分子かどうかを判別するための取り調べが荒くなる原因となるような命令を辻が出したとの証言がある(ただ命令書の類は見つかっていない)。ただし英軍に協力する華僑が居たことも事実である。
この事件は終戦後に命令に従ったとされる2名の指揮官の処刑で幕を閉じた。
マレー作戦後東京に呼び戻され作戦班長に指名抜擢されるがフィリピンでは上手く進撃が進まず、現地の参謀を更迭して辻を送り込んだ。
1942年4月9日にアメリカ極東軍は降伏。米比軍兵士が続々と降伏するなか、辻が「米比軍投降者を一律に射殺すべし」の「大本営命令」を口頭で発令していたという証言がある。もちろん大本営は関与しておらず、ここでも終戦後、バターン死の行進の責任とメンツを潰された戦勝国によって本間雅晴中将は全ての責任を取らせられる形で処刑された。もちろん辻の関与を示す客観的な証拠もないので真相は闇の中。
大東亜戦争 ガダルカナル島編
1942年のガダルカナル島で米軍の本格的な反攻が始まると現地作戦指導の為ガダルカナル島へ出征。
途中、トラック島泊地にて連合艦隊司令長官山本五十六大将と旗艦「大和」で作戦打ち合わせの為乗艦。
その際、日本国内では物資統制されているにもかかわらず鯛の塩焼き、刺身、ビールなど豊富な食事について「成程、大和ホテルとは、よく言ったものです。これでは、ガ島ではトカゲを食っている陸軍の気持ちは判らすまい」と皮肉を述べている。
ガダルカナルに上陸後作戦の方針を巡り現地指揮官と対立する。権限を使い左遷させるも失敗する。
途中マラリアに罹り鼠輸送の為訪れた駆逐艦に便乗。結局満足な指導も出来ないまま撤退する。
大東亜戦争 ビルマ編
ガダルカナル島より帰還後は、中支、ビルマ戦線に異動する。
1944年垃孟・騰越の戦いに参加。ミイトキーナ守備隊に死守命令を発令。現地指揮官の水上中将は独断で部隊の脱出を命令。脱出を見届けた後自決。辻は生き残りの副官を凄まじい勢いで殴打。それは居合わせた師団長が止めるほどだった。
既に劣勢の日本軍だったが15倍の英軍相手に遅滞作戦を実施。ビルマ方面軍はタイに転進する。辻は作戦中愛想を尽かし、裏切ったビルマ国軍に襲撃され負傷する。
終戦
バンコクで終戦を迎える。進駐して来た英軍に捜索されるが、僧侶に扮して中国へ逃亡した。
中国では、かつての敵の中華民国に匿われる。
しかし、国共内戦で国民党が不利になると日本本土へ逃亡。かつての戦友を頼りながら1950年まで逃亡する。
関連動画
関連項目
- 大日本帝国陸軍
- ノモンハン事件
- シンガポール華僑粛清事件
- 第二次世界大戦
- 大東亜戦争 / 太平洋戦争
- 軍人の一覧
- 政治家の一覧
- 石原莞爾 - 満州事変を計画した参謀で、軍人の独断専行の範を示した
- 神重徳 - 海軍の辻政信と呼ばれる
- 服部卓四郎 - 辻の相棒で、戦後もGHQで生き残った
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