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フィオレンティーナ
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ACFフィオレンティーナACF Fiorentina)とは、イタリアセリエAに所属するサッカークラブである。本拠地はフィレンツェ。ホームスタジアムはスタディオ・アルテミオフランキ。

クラブ称はヴィオラ楽器ヴィオラとつづりは一緒である(楽器についてはヴィオラの項を参照)。

概要

ヨーロッパサッカーリーグ
AFCフィオレンティーナ
基本情報
創設 1926年
所属リーグ セリエA
ホームタウン フィレンツェ
ホームスタジアム アルテミオフラン
(47,495人)
クラブカラー
代表者 ロッコ・コンミッソ
プロサッカークラブテンプレート

1926年にフィレンツェを本拠地としていた2つのクラブが合併し、現在のACFフィオレンティーナの元となったACフィオレンティーナを創設。

フィレンツェ公式エンブレムである地に百合の紋章は、クラブシンボルとして定着しており、百合の人を意味する「ジリアティ」とも呼ばれている。

1990年代中盤から2000年初期にかけてはガブリエル・バティストゥータやマヌエル・ルイ・コスタを筆頭に多くのスター選手が在籍し、当時世界最高峰のリーグだった時代のセリエAでも屈の強として名をかせており、「セブンシスターズ」の一にも名を連ねていた。

しかし2002年には力選手を次々と放出し、2001-2002シーズンリーグ戦を17位で終える。セリエB降格と思われたが、会社が経済破綻しペナルティとしてセリエC2(イタリア4部)に強制降格となった。これによりクラブは1度消滅を余儀なくされたが、フィレンツェの経済界やファンによって再結成。2003年には管財人より「フィオレンティーナ」の商標権を入札により250ユーロで獲得し、2003-04シーズンからはACFフィオレンティーナとして戦うことになった。

1990年に当時のクラブアイドル的選手だったロベルト・バッジョが引き抜かれたことが発端となってサポーターたちはユヴェントスのことを毛嫌いしており、両クラブサポーターの仲にある。もっともクラブ間での選手の移籍取引きはたびたびおこなわれている。

日本では過去中田英寿が在籍していた。またマツダMAZDA)、京セラKYOCERA)、東洋タイヤTOYO TIRE)、ピュアスマイル任天堂Nintendo)、トヨタTOYOTA)など数多くの日本企業スポンサーとして提供しており、日本と縁があることでも知られている。また、日本にもクラブサポータークラブヴィオラクラブジャパン」が存在している。

歴史

旅先のイングランドで観たサッカーに魅了された創設者のルイジリドルフィ伯爵は、パレストラジンナスティカ・リベルタス (Palestra Ginnastica Libertas) とクラブ・スポルティーヴォ・フィレンツェ (Club Sportivo Firenze) というフィレンツェの2つのサッカークラブを合併させて、1926年8月26日ACフィオレンティーナ (Associazione Calcistica Fiorentina) を創設。

1931年にセリエBを優勝し、セリエAに初めて昇格。初年度となった1931-32シーズンに本拠地のアルテミオフランキが完成。さらに1930 FIFAワールドカップ優勝メンバーでもあるペドロ・ペトローネがリーグ得点王となる活躍を見せ、セリエA初年度は18チーム中4位に食い込む。1938-39シーズンにセリエBに降格したが、1年でセリエAに復帰。さらに1939-40シーズンコッパ・イタリア優勝を果たし、クラブ創設以来初のメジャータイトルを獲得。

その後はセリエAに定着するようになったクラブ1950年代になって黄金期を築く。ジュリアーノ・サルティジュゼッペヴィルジーリ、ミゲル・モントーリを擁したチームクラブ創設から30年の1955-56シーズンに初のスクデットを獲得。1956-57シーズンUEFAチャンピオンズカップでは決勝まで進出したが、レアル・マドリードに敗れ、惜しくも準優勝となった。その後もセリエAで4シーズン連続で2位に入る。クルトハムリンエースとして活躍した1960-61シーズンは2度コッパ・イタリア優勝と初のタイトルとなるUEFAカップウィナーズカップ優勝の二冠を果たす。1968-69シーズンにはハムリンが移籍したACミランルイジリーヴァを擁したカリアリとの競り合いを制し、二度のスクデット獲得を果たす。

1970年代に入ると上位と中位を行き来することが多くなり、1975年コッパ・イタリア優勝した以外はタイトルから遠ざかっていた。1980年宅建業者のフラビオ・ポンテッロがクラブを買収。中上位争いが続くシーズンが続いていたティフォージにとって1980年代後半に登場した新ロベルト・バッジョクラブ未来を託す希望となっていた。ところが、財政的に厳しくなっていたクラブ1990年バッジョを当時の移籍金最高額でユヴェントスへ売却。これに激怒したティフォージたちは暴動が起きるほどの抗議をおこない、会長ポンテッロがクラブを追われる事態となる。

バッジョ騒動後、映画王のマリオ・チェッキゴーリがクラブを買収。豊富な資金力によって有力な選手を次々と獲得した反面、現場に対して口を出し過ぎることが災いし、1993年に54年ぶりのセリエB降格を経験する。その屈辱のシーズンから1年でセリエAに復帰、さらにマリオ息子のヴィットーリオ・チェッキゴーリがクラブを引き継ぐと、ガブリエル・バティストゥータとマヌエル・ルイ・コスタの強力コンビを擁したチームセリエAでも屈の破壊力を見せ、リーグの強へと成長。1996年にはコッパ・イタリア優勝を果たし、24年ぶりにタイトルを獲得する。

1998-99シーズンは名将ジョヴァンニトラッパートーニが監督に就任。さらに大金を投入した大補強を敢行しスクデット獲得への本気を見せる。シーズンに入るとバティストゥータを中心にチームは第20節まで首位に走る。ところが、そのバティストゥータが負傷によって戦線を離脱してしまい、直後にエジムンドはカーニバルに参加するためにブラジルへ帰。これによってチームは失速してしまい終盤にスクデット争いから脱落しまう。

2000年代に入ると、スクデットを欲したチームバティストゥータASローマへ移籍。のルイ・コスタもACミランへ移籍すると、2001-02シーズンには17位にまで低迷。しかもチェッキゴーリ一族による放漫経営のツケが一気に回ってしまい、会社が破綻。クラブはセリエC2(4部)までの強制降格を余儀なくされ、この結果、クラブは消滅し、「フィオレンティーナ」の名称の使用権も旧クラブ債権者に渡ってしまう。
フィレンツェ財界とティフォージたちは新会社「フィオレンティーナ1926」を設立して新チーム「フロレンティアヴィオラ」を結成。クラブは再建へのを歩むことになる。

2002-03シーズンには降格1年でセリエC2を優勝。本来ならばセリエC1イタリア3部)へ昇格だったが、特例としてセリエBへの昇格となった。2003-2004シーズンは、昨シーズンまでセリエC2を戦ったメンバーが多く非常に厳しい戦いを強いられたが、力でクラブに残ったアンジェロ・ディ・リービオとエースクリスティアン・リガノの活躍によって苦しみながらもセリエBを6位で終え昇格プレーオフへ進出し勝利。3年でセリエA復帰となった。
また、新オーナーには革靴ブランド企業ディエゴ・デッラ・ヴァッレが就任し、2003年には管財人より「フィオレンティーナ」の商標権を入札により250ユーロで獲得。ACFフィオレンティーナとして再出発することになる。

セリエA復帰直後は辛うじて残留を果たすレベルだったものの、2005年に就任したパンタレオ・コルヴィーノSDとチェーザレ・プランデッリ監督を中心にチームは快進撃を見せるようになる。2005-06シーズンには31ゴールを決めて得点王となったルカ・トーニの活躍もあってリーグ4位という驚きの大躍進を遂げる。ところが、カルチョスキャンダルによって八百長疑惑に関わっていたとされ、勝点は30の減点のペナルティを科せられ、UEFAチャンピオンズリーグ出場は果たせなかった。それでもチームの快進撃は続き、カルチョスキャンダルによって受けたダメージを乗り越え、2007-08シーズンには再び4位に入り、今度こそCL出場権を獲得する。この頃はアレサンドロ・ガンベリーニ、リッカルド・モントリーヴォ、マヌエル・パスクアルジャンパオロ・パッツィーニら将来のイタリア代表を担うとされる逸材を短期間で次々に才を開2008-09シーズンにはアルベルトジラディーノが加わり、2シーズン連続でCL出場権を獲得。2009-10シーズンCLではグループステージを突破し、ラウンド16にまで進出している。

2010年プランデッリ監督イタリア代表監督就任のために退任すると、チームの成績はやや下降するようになる。2012年にはコルヴィーノSDが退任、プランデッリ時代の中心選手だったモントリーヴォも移籍と過渡期を迎えたチームにヴィンチェンツォ・モンテッラ監督に就任。モンテッラは大幅にスカッドが入れ替わった中でボルハ・バレロを中心とした攻撃的なポゼッションサッカーを導入。3シーズン連続でチームを4位入りさせ、UEFAヨーロッパリーグ出場へ導く。

フロントとの確執によってモンテッラ監督クラブを追われた2015-16シーズン以降は徐々にクラブの成績が低下。財政的にも厳しくなり、力選手を他のクラブに引き抜かれるようにもなる。2018年3月にはキャプテンだったダヴィデ・アストーリが遠征先のホテル心臓発作によって急死する悲しい出来事も起きる。2018-19シーズンにはセリエB降格の危機に直面するようになり、ボトムハーフ定位置クラブとなってしまう。

2019年6月、デッラ・ヴァッレ会長クラブの経営をケーブルテレビ会社メディア・コムを営むアメリカイタリア人ロッコ・コンミッソに売却。2021-22シーズンより、"鬼才"ジュゼッペイタリアーノが監督に就任。リスク覚悟アグレッシブボール導権を握りに行く動的なゲームモデルによるスペクタクルなスタイル内外から評価され、ボトムハーフが続いていたチームを4年ぶりに一桁順位に引き戻す。UEFAヨーロッパカンファレンスリーグでは2シーズン連続で決勝まで進出したが、いずれも準優勝に終わっている。

タイトル

国内タイトル

国際タイトル

現在の所属選手

背番号 Pos. 選手名 生年 加入年 前所属
- 監督 ラファエレ・パッラディーノ 1984.4.17 2024 ACモンツァ
1 GK ピエトロ・テラッチアーノ 1990.3.8 2019 エンポリ
2 DF ドド 1998.11.18 2021 ヴィトーリ
3 DF クリスティアーノ・ビラー(C) 1992.9.1 2018 インテル
4 MF ドアルド・ボーヴェ 2002.5.16 2024 ASローマ
5 DF マリンポングラチッチ 1997.9.11 2024 レッチェ
6 DF ルカ・ラニエリ 1999.4.23 2018 サレルニターナ
7 MF リッカルド・ソッティ 1999.6.3 2018 リア
8 MF ロランド・マンドラゴラ 1997.6.29 2022 リノFC
9 FW ルーカスベルトラン 2001.3.29 2023 リーベルプレート
10 FW アルベルト・グズムンドソン 1997.6.15 2024 ジェノア
11 FW ジョナタン・イコネ 1998.5.2 2022 リール
15 DF ピエトロ・コムッツォ 2005.2.20 2023 フィオレンティーナU-19
20 FW モイーズ・キー 2000.2.28 2024 ユヴェントス
21 DF ロビン・ゴゼンス 1994.6.5 2024 ウニオンベルリン
22 DF ティアス・モレノ 2003.9.24 2023 CAベルラー
23 MF アンドレア・コルパーニ 1999.5.11 2024 ACモンツァ
24 MF アミール・リチャールソン 2002.1.24 2024 スタッド・ランス
28 DF ルーカスマルティネス・クアル 1996.5.10 2020 リーベルプレート
29 MF シン・アドリ 2000.7.29 2024 ACミラン
30 GK トンマーゾ・マルティネッリ 2006.1.6 2023 フィオレンティーナU-19
32 MF ダニーロ・カタルディ 1994.8.6 2024 SSラツィオ
33 DF マイケル・カヨーデ 2004.7.10 2023 ゴッツァーノ
43 GK ダビド・デ・ヘア 1990.11.7 2024 所属
53 GK オリバークリステンセン 1999.3.22 2023 ヘルタ・ベルリン
60 DF エディ・クアディオ 2006.5.7 2024 フィオレンティーナU-19
61 DF レオナルドバロンチェッリ  2005.8.13 2024 フィオレンティーナU-19
65 DF ファビアーノパリージ 2001.11.9 2023 エンポリ
66 MF トンマーゾ・ルビーノ  2006.11.10 2024 フィオレンティーナU-19
99 FW クリスティアーノ・クアメ 1997.12.6 2024 アンデルレヒト

※はプリマヴェーラ所属。

永久欠番

過去所属していた主な選手

歴代監督

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ACFフィオレンティーナ

1 ななしのよっしん
2013/04/14(日) 04:41:55 ID: g3YdU5TZFw
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2 ななしのよっしん
2014/02/16(日) 16:57:05 ID: rQ5RCk4KSb
イタリアってMAZDA多くは知ってるのかね?
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