FIFAワールドカップとは、FIFAが主催するサッカーの国際大会である。FIFA所属の各国・地域の男子のA代表によって行われる。
ワールドカップを名乗る大会はいくつかあるものの、一般的にワールドカップといえばFIFAワールドカップを指す。サッカーワールドカップ、W杯などとも表記こともある。
概要
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FIFAワールドカップは男子サッカー世界一を決めるスポーツイベントであり、4年ごとに開催される。その注目度はまさに世界中の至る所で非常に高く、試合のテレビ中継の視聴率は各国で記録的な数字を残す。
参加できる主体は国またはそれに準ずる地域であり、より厳密にはFIFAに加盟したサッカー協会を単位とする。例えば、イギリスは単一の国家ながら本土4協会(イングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランド)と海外領土6協会(モントセラト、イギリス領ヴァージン諸島、ケイマン諸島、タークス・カイコス諸島、バミューダ諸島、アンギラ)による計10代表チームがあり、香港やマカオのように、FIFAが加盟を承認したサッカー協会を持つ地域にも、それぞれに出場権がある。
サッカーの大会における世界最高峰と位置付けられている。全世界のテレビ視聴者数は通算で310億人を超えており、スポーツイベントとしては最も多く、経済規模においても世界最大であり、名実ともにオリンピックをも凌ぐ世界最大のスポーツイベントとなっている。
1年以上かけて各大陸ごとの予選を行い、それを通過したチームとホスト国によって本大会が行われる(2002年大会までは前回大会優勝国は予選は免除されていた)。本大会では8グループにわけて予選リーグを行い、各リーグの上位2チームと3位の成績上位の計32チームでトーナメントを行う。参加チームは拡大傾向にある(1982年大会から24チーム、1998年大会から32チーム、2026年大会から48チーム)。
ジュール・リメの発案で1930年に初めて開かれ、以後4年ごとに開かれている(第二次世界大戦下の1942年、1946年は中止)。これまで22回開催され、最多優勝はブラジルの5回で全大会に出場しているのもブラジルのみ。次に多いのはドイツとイタリアの4回。その他アルゼンチンが3回、フランスとウルグアイが2回、スペインとイングランドが1回優勝しており、これまで8つの国と地域が優勝した経験がある。
当初は南米とヨーロッパで開催されていたが1970年に北中米カリブ海のメキシコ、2002年にアジアの日本/韓国で開催され、2010年にはアフリカ大陸の南アフリカ共和国で開催された(開催されていないのはオセアニア連盟の国のみ)。
近年は大会の規模の拡大によって開催国誘致の際の汚職や不正、FIFAの利権主義によるテレビ放映権料の莫大な増加など、カネにまつわる問題点が多く挙げられている。
大会の歴史
1930年(第1回大会)
1930 FIFAワールドカップ | |
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開催国 | ウルグアイ |
出場 | 13チーム |
優勝 | ウルグアイ(初) |
準優勝 | アルゼンチン |
3位 | アメリカ |
4位 | ユーゴスラビア |
得点王 | ギジェルモ・スタービレ |
当時のFIFA会長であるジュール・リメの提唱によって開催された記念すべき第1回大会。開催国には独立100年目となるウルグアイが選ばれた。しかし、欧州の国の大半は船での長旅を嫌がって出場を拒否。出場したのはフランス、ベルギー、ユーゴスラビア、ルーマニアの4か国のみとなった。そのため現在のような地区予選は無く、出場13チームを4つのグループに分け、1位通過の4チームで決勝トーナメントを戦う方式となった。
記念すべき大会初ゴールはフランスのリュシアン・ローランが記録している。決勝まで勝ち進んだのは、なぜか1試合多く消化しなければならないグループに入ったアルゼンチンと開催国のウルグアイという南米の2チームだった。2年前のオリンピックでも決勝でぶつかった両者の対戦は、点の取り合いを制したウルグアイが勝利し、初代ワールドカップ王者の栄冠に輝く。初代得点王はアルゼンチンのギジェルモ・スタービレ。大会全体を通して、他国と決勝に残った2チームの実力差は否めなかった。
1934年(第2回大会)
1934 FIFAワールドカップ | |
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開催国 | イタリア |
出場 | 16チーム |
優勝 | イタリア(初) |
準優勝 | チェコスロバキア |
3位 | ドイツ |
4位 | オーストリア |
得点王 | オルドリッヒ・ネイエドリー |
イタリアがホスト国となり、初の欧州開催となったことで出場チーム数は32チームにまで拡大され、今回は英国4協会を除く欧州各国が出場を表明。そのため初めて大陸予選が開催されることとなった。一方、前回優勝のウルグアイは前回欧州勢の相次ぐ出場拒否に抗議する意味で出場を拒否。また、エジプトがアフリカ勢で初めてW杯に出場している。しかし、この大会はイタリア首相ムッソリーニ率いるファシズム党が力を世界に誇示するために利用され、暗い影を落とす大会となった。
全てノックアウト方式でおこなわれた大会は、ムッソリーニの圧力が随所にかかっていたとされ、露骨なまでのイタリア優位の判定が下されていた。特に準決勝のイタリアvsオーストリアを裁いたスウェーデン人の主審は事前にムッソリーニと会ったとされている。決勝は圧倒的なアドバンテージを得たイタリアとチェコスロバキアの対戦となり、負傷を抱えながらチームを牽引した主将ジュゼッペ・メアッツァのアシストからアンジェロ・スキアビオが決勝ゴールを決めたイタリアが延長戦での逆転で優勝を手にし、2大会連続でホスト国が王者となる。
1938年(第3回大会)
1938 FIFAワールドカップ | |
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開催国 | フランス |
出場 | 15チーム |
優勝 | イタリア(2回目) |
準優勝 | ハンガリー |
3位 | ブラジル |
4位 | スウェーデン |
得点王 | レオニダス |
ジュール・リメの功績をたたえ、彼の母国であるフランスで開催されることになったが、2大会続けての欧州開催に反発したアルゼンチンとウルグアイが参加を辞退した。また、オランダ領東インドがアジア勢としては初めて大会に出場している。一方、オーストリアがドイツに併合されたため、出場チーム数が1チーム減り、トーナメント初戦で当たる予定だったスウェーデンが不戦勝となった。
大会でまず目立ったのは南米勢唯一の出場となったブラジルだった。初戦のポーランド戦では壮絶な点の取り合いとなり、「黒いダイヤモンド」という異名を持ったエースのレオニダスがハットトリックの活躍を見せ6-5で勝利。前回王者のイタリアは苦戦を強いられながら、前回同様監督のヴィットリオ・ポッツォと主将のメアッツァがチームを支え、準々決勝では開催国のフランスを打ち破る。準決勝でイタリアとブラジルの対戦となるが、ブラジルはレオニダスを始め主力8人を入れ替えた策が裏目に出てしまい敗れてしまう。
決勝では何とか勝ち上がってきたイタリアと組み合わせに恵まれたハンガリーの対戦となる。6万人の観衆が見守る中、エースのシルヴィオ・ピオラが2ゴールを奪ったイタリアが4-2でハンガリーを下し、ワールドカップ連覇の偉業を成し遂げ、再びジュール・リメ杯をイタリアに持ち帰る。その後、第二次世界大戦が勃発し、ワールドカップは当面開催できなくなった。
1950年(第4回大会)
1950 FIFAワールドカップ | |
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開催国 | ブラジル |
出場 | 13チーム |
優勝 | ウルグアイ(2回目) |
準優勝 | ブラジル |
3位 | スウェーデン |
4位 | スペイン |
得点王 | アデミール |
12年ぶりに開催されることとなった第4回大会は、世界各国が第二次大戦後の復興中という状況の中、唯一開催に手を挙げたブラジルでおこなわれることとなった。今回初めて英国4協会が参加となり、サッカーの母国イングランドが初出場。一方で東西冷戦の影響で東欧諸国が軒並み不参加となり、ブラジルと対立関係にあったアルゼンチンも不参加。また、アジアから出場が決まっていたインドが裸足での試合参加が認められなかったことで出場を辞退。
今大会の特徴は、決勝トーナメントが開催されず、1次リーグの後の2次リーグの順位で優勝を決めるという方式だった。後にも先にも、決勝の無いワールドカップはこの大会だけであった。優勝以外はあり得ないという空気の開催国ブラジルだったが、エースのアデミールが無双し、難なく1次リーグを突破。一方、弱小国だったアメリカがイングランドを破るという大金星を挙げており、世界中を驚かせている。大会連覇中のイタリアだったが、「スペルガの悲劇」と呼ばれた飛行機事故でグランデ・トリノの選手が大勢亡くなった影響から弱体化し、1次リーグで姿を消すこととなる。
ブラジル、ウルグアイ、スペイン、スウェーデンの4チームで争うこととなった2次リーグは、やはりブラジルがスウェーデンに7-1、スペインに6-1と圧勝。そして最終節は事実上の決勝戦となったブラジルとウルグアイの対戦となる。20万人の観衆が集まったマラカナン・スタジアムでは誰もがブラジルの優勝を信じていたが、ここまで9ゴールのアデミールがまさかの不発。1点をリードされながら粘ったウルグアイは、試合終了10分前にアルシデス・ギジャが決勝ゴールを決め、第1回大会以来となる優勝を飾る。
まさかの敗戦で優勝を逃したブラジルの光景に、マラカナンに集まった観衆の中には自殺をする者、ショック死をする者が続出。この惨劇は後に「マラカナンの悲劇」として語り継がれ、このショックを払拭すべくブラジルはユニフォームの色を白から現在ではお馴染みのカナリア色に変えている。
1954年(第5回大会)
1954 FIFAワールドカップ | |
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開催国 | スイス |
出場 | 16チーム |
優勝 | 西ドイツ(初) |
準優勝 | ハンガリー |
3位 | オーストリア |
4位 | ウルグアイ |
得点王 | シャーンドル・コチシュ |
FIFA創立50周年を記念し、FIFA本部のあるスイスで開催されることとなったこの大会。日本が初めてエントリーした大会であるが、アジア予選で敗退し本大会出場はならず。当時、ヨーロッパで最強と呼ばれたのが革新的な戦術を駆使し、「マジックマジャール」と呼ばれたハンガリーであり、大本命と見られたハンガリーをどこが止めるのかに注目が集まった大会となった。また、この大会は初めて世界各国でテレビ中継がされた大会ともなった。そしてこの大会は非常に得点数の多い大会としても知られている。
大会が始まってからもハンガリーの圧倒的な破壊力が目立ち、初出場となった韓国を9-0で葬り、国際舞台への復帰が認められた西ドイツに相手にも8-3と圧勝。フェレンツ・プスカシュ、シャーンドル・コチシュが恐るべき得点力を見せつけていた。一方、大敗した西ドイツも続くトルコ戦に圧勝したことで生き残り、虎視眈々とリベンジのチャンスを窺っていた。
準々決勝でブラジルと対戦したハンガリーだったが、西ドイツ戦で負傷した主将のプスカシュが欠場。その影響もあってかブラジルとの戦いは大荒れとなり、暴力行為によって3選手が退場になる間違った方向に熱い戦いとなる。後に「ベルンの戦い」と称された不名誉な激闘はハンガリーが制するが、試合後もブラジルの選手がハンガリーのロッカールームへ乱入し、場外乱闘を繰り広げる後味の悪い試合となった。
決勝は、グループリーグでも顔を合わせたハンガリーと西ドイツで争われることになる。エースのプスカシュが怪我から復帰したハンガリーはそのプスカシュが早々に先制ゴールを決めるなど2点をリードする。しかし、ここから西ドイツが驚異的な粘りを見せ、ハンガリーの反撃を凌ぎながら同点に追いついてしまう。実は、西ドイツは前回の対戦でハンガリーの戦術を研究し、弱点を分析していた。そして、84分にヘルムート・ラーンがこの試合2ゴール目を決め、西ドイツが33連勝中の最強ハンガリーを破る大番狂わせを演じ、初優勝。ドイツ伝統のゲルマン魂を垣間見せ、ここからドイツサッカーの栄光がスタートする。
1958年(第6回大会)
1958 FIFAワールドカップ | |
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開催国 | スウェーデン |
出場 | 16チーム |
優勝 | ブラジル(初) |
準優勝 | スウェーデン |
3位 | フランス |
4位 | 西ドイツ |
得点王 | ジュスト・フォンテーヌ |
サッカー界に歴史を残すスーパースターが出現した大会となった。当時17歳だったブラジルのペレである。地区予選では、イタリア、ウルグアイという優勝経験のある国が敗退するという波乱が起きている。また、初めてイングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドの英国4協会が揃って本大会に出場した大会でもあった。
4-2-4の画期的なシステムで注目されたブラジルは、ソ連との試合で17歳のペレがデビュー。グループリーグを無失点で終え、難なく勝ち進む。一方、初出場となったソ連もイングランドを抑えて2位でグループリーグを突破。フランスは、ジュスト・フォンテーヌが初戦のパラグアイ戦でハットトリックを達成し、グループリーグだけで6ゴールを奪う活躍を見せる。
決勝トーナメントに入ると、いよいよペレが本領を発揮。苦戦を強いられた準々決勝のウェールズ戦でワールドカップ初ゴールとなる決勝ゴールを決める。準決勝ではそのブラジルとフォンテーヌがゴールを量産するフランスが激突。この試合でペレは後半にハットトリックを達成し、フランスを沈めて決勝進出を果たす。とはいえ、フォンテーヌの勢いはこれで終わることはなく、3位決定戦の西ドイツ戦で4ゴールを奪い、大会通算13ゴールというとてつもない記録を残す。このフォンテーヌの1大会での最多得点記録は未だに打ち破られていない不滅の記録となっている。
決勝はブラジルとホスト国のスウェーデンの対戦となる。試合はスウェーデンが主将のニルス・リードホルムのゴールで先制するが、ブラジルもババがすぐさま同点ゴールを決めるなど前半のうちに逆転する。後半に入るとペレが輝きを放ち、この大舞台でも2ゴールを決め、スウェーデンを粉砕。マラカナンの悲劇から8年、国内にプロができて50年が経ち、ついにブラジルが悲願の世界王者の座を手にし、サッカー王国としての地位を築いていく。この大会で一躍スターとなったペレは、後に「サッカーの王様」と称され、ここからサッカー界はペレを中心に動くこととなる。
1962年(第7回大会)
1962 FIFAワールドカップ | |
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開催国 | チリ |
出場 | 16チーム |
優勝 | ブラジル(2回目) |
準優勝 | チェコスロバキア |
3位 | チリ |
4位 | ユーゴスラビア |
得点王 | ガリンシャ ババ レオネル・サンチェス ドラジャン・イェルコビッチ アルベルト・フロリアン ワレンチン・イワノフ |
開催国のチリでは2年前の1960年に大地震が起き、大きな被害を受けたことで開催が危ぶまれていたが、何とかスタジアムの建設を間に合わせ、開催にこぎつけることができた。
この大会は、ラフプレーが目立ち、暴力行為が横行する荒れた大会となっていた。有名なのがグループリーグのチリvsイタリアの試合で、イタリアの退場した選手がピッチに居座り続けたり、チリとイタリアの選手が相手への暴力行為で退場となり、その他にも試合中に殴る蹴るの乱闘が勃発し、ついには警察が動員されるまでの事態となる。結局ホスト国のチリが勝利したが、後に「サンチャゴの戦い」と呼ばれたこの試合は「サッカーの歴史上もっとも醜い試合」として語り継がれる。
暴力の被害はスーパスター・ペレも巻き込まれることとなる。相手からのファウルを辞さないマークに苦しめられていたペレは2試合目のチェコスロバキア戦で負傷し、以降の試合を欠場することになる。このときペレは「フットボールは暴力によって汚された」という言葉を残している。ペレを失ったブラジルだったが、前回の優勝を知るメンバーが多く残っていたこともあり安定した強さを残る。特に天才的なトリッキーなドリブルを武器とするガリンシャがペレに代わってチームに魔法をかけ、牽引していく。
決勝はブラジルとチェコスロバキアの対戦となる。前回同様、早々にリードを許したブラジルだったが、前半のうちに同点に追いつくと、後半にはジトとババがゴールを奪い、逆転。欧州勢を中心に守備的な戦術を採用するチームが多くなった大会だったが、ブラジルが連覇で大会を締めくくることとなった。
1966年(第7回大会)
1966 FIFAワールドカップ | |
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開催国 | イングランド |
出場 | 16チーム |
優勝 | イングランド(初) |
準優勝 | 西ドイツ |
3位 | ポルトガル |
4位 | ソ連 |
得点王 | エウゼビオ |
FA発足から100年が経過したこの年、ワールドカップはついに発祥の地であるイングランドで開催されることとなった。この大会を世界中で視聴した人数は5億人を超えているとされ、この頃にはワールドカップはオリンピックに匹敵するほどの巨大なスポーツイベントに成長していた。
世界のサッカーは前回以上に守備戦術が発達し、より組織的になった反面、前回同様暴力的なラフプレーが目につく大会となった。サッカー界最大のスターであったブラジルのペレはまたもやラフプレーの被害者となり初戦のブルガリア戦で負傷を負ってしまう。ペレを欠いたブラジルは続くハンガリー戦に敗れると、第3戦のポルトガル戦にも敗れ、よもやのグループステージ敗退となってしまう。また、大会前は全く注目されていなかった北朝鮮が優勝候補の一角とされたイタリアを破るという大会史上最大の大番狂わせを演じ、アジア勢初のベスト8進出を果たす。まさかの敗戦となったイタリアの選手たちは帰国後、空港でファンからトマトを投げつけられている。
準々決勝でも北朝鮮の快進撃は続き、ポルトガルを相手に前半で3点のリードを奪う。ところが、ポルトガルは「黒豹」と呼ばれた欧州最高のストライカー・エウゼビオが大爆発。この試合で4ゴールを決める大活躍によって歴史に残る大逆転勝利を成し遂げる。イングランドとアルゼンチンの試合では、イングランドのジェフ・ハーストのゴールが決まるが、このゴールがオフサイドだと主張するアルゼンチンが猛抗議。退場となったアルゼンチンの主将アントニオ・ラッティンは収まりが付かず、警察にピッチから引きずり出される事態となった。この出来事で冷静さを欠いたアルゼンチンはラフプレーばかりが目立ち、イングランドが初のベスト4進出を果たす。
準決勝でイングランドはエウゼビオを擁するポルトガルと対戦。直前に会場が変更となり物議を醸した試合は、イングランドが主将ボビー・チャールトンの2ゴールでリード。ポルトガルもエウゼビオが一矢を報いるが及ばず、母国イングランドが決勝へと進む。一方、西ドイツは若き日の皇帝フランツ・ベッケンバウアーが黒蜘蛛と呼ばれたソ連のGKレフ・ヤシンから決勝ゴールを奪い、ファイナルへと進む。
聖地ウェンブリーに10万人近いファンが集まったホスト国・イングランドと西ドイツの決勝は、一進一退の死闘となり、試合終了1分前に西ドイツが同点に追いついたことで初めて延長戦で優勝を決めることになる。その延長前半にイングランドのハーストが放ったシュートはクロスバーを直撃し、ゴールライン上に落ち、主審はイングランドのゴールを認めるジャッジを下す。当然、西ドイツは猛抗議をするが覆らず、その後ハーストがダメ押しのゴールを決めたイングランドが初優勝を飾り、エリザベス女王からトロフィを渡される。
疑惑の判定となった延長戦でのハーストの勝ち越しゴールだが、その後何年にも渡って論争が続けられることになる。現代のテクノロジーで当時の映像を解析した結果、ゴールラインを超えていなかったことが明らかとなり、「世紀の大誤審」として語り継がれることとなった。
1970年(第8回大会)
1970 FIFAワールドカップ | |
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開催国 | メキシコ |
出場 | 16チーム |
優勝 | ブラジル(3回目) |
準優勝 | イタリア |
3位 | 西ドイツ |
4位 | ウルグアイ |
得点王 | ゲルト・ミュラー |
これまで欧州と南米で開催されてきたワールドカップは、初めて中米のメキシコで開催されることになった。当時のメキシコは政情が不安定であり、史上初の高地での開催ということで不安要素が多かったが、実際は後に語り継がれる名勝負を数々生み出した大会となった。また、初めてカラーでテレビ放送がされた大会でもあった。
大会最大の注目はやはりブラジルだった。4度目の出場となったペレを筆頭にジャイルジーニョ、リベリーノ、トスタンといった名手が揃い、史上最強のチームの呼び声もあるチームは、前回王者イングランドと同居することとなったグループリーグを3戦全勝で難なく突破する。西ドイツは、「爆撃機」と呼ばれるゲルト・ミュラーが6ゴールを決め、こちらも3連勝でベスト8に進出。イタリア、ウルグアイ、スウェーデンという強豪が揃ったグループ2では、タレントの揃ったイタリアが苦戦しながらも首位で通過。
決勝トーナメントに入ってもブラジルは頭一つ抜けた強さを見せつけ、準々決勝でペルーを、準決勝ではウルグアイをそれぞれ撃破し、順当に決勝へと勝ち進む。トーナメントもう一つの山は激戦が繰り広げられ、イングランドと西ドイツという前回大会の決勝のカードが準々決勝で実現。延長までもつれ込んだ試合は、ミュラーの決勝ゴールが決まり、西ドイツが前回のリベンジを果たす。得点力不足に苦しんでいたイタリアは、準々決勝でルイジ・リーヴァが2ゴールを決めて開催国のメキシコを撃破。
イタリアと西ドイツの準決勝は、まさにワールドカップの歴史に残る名勝負となる。西ドイツはベッケンバウアーが試合中に肩を脱臼するが、テーピングを巻いて出場を続ける。その不屈の闘志が伝わったのか、後半終了間際に同点ゴールが生まれ、試合は延長戦へ。延長戦に入ると、両チームがそれぞれゴールを奪い合うという一進一退の死闘となるが、最後はジャンニ・リベラが4点目を決めたイタリアが決勝へと駒を進める。敗れた西ドイツだが、肩を脱臼しながら120分戦い続けたベッケンバウアーの姿は伝説となる。
決勝は華麗な攻撃スタイルのブラジルとカテナチオのイタリアという対極のスタイルを持つ両雄の対決となった。西ドイツ戦の死闘で疲労困憊のイタリアに対し、ブラジルの強力な攻撃陣が容赦なく襲い掛かり、試合は一方的な展開となる。自らのヘディングシュートで先制ゴールを決めたペレは、その後もジャイルジーニョとカルロス・アルベルトのゴールをアシスト。世界中を魅了するパフォーマンスを披露したブラジルが史上初となる3度目の優勝を飾り、ジュール・リメ杯を永久保持することとなる。
ブラジルに3度のワールドカップ優勝をもたらし、伝説的なプレイヤーとなったペレにとってこれが最後のワールドカップとなった。また監督を務めたマリオ・ザガロは、1958年、1962年と選手として優勝を経験。史上初の選手・監督両方でワールドカップを制した人物となる。永久保持となったジュール・リメ杯だが、その後盗難被害に遭い、犯人は逮捕されたものの現在も行方不明のままとなっている。
1974年(第9回大会)
1974 FIFAワールドカップ | |
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開催国 | 西ドイツ |
出場 | 16チーム |
優勝 | 西ドイツ(2回目) |
準優勝 | オランダ |
3位 | ポーランド |
4位 | ブラジル |
得点王 | グジェゴシ・ラトー |
この大会から現在使用されているワールドカップトロフィが登場し、大会は新たな時代へと突入することになった。そしてペレの時代が幕を閉じ、西ドイツのフランツ・ベッケンバウアーとオランダのヨハン・クライフという2人のスーパースターがサッカー界の中心として活躍していた。また、初のオセアニア勢としてオーストラリアが初出場した大会ともなった。
当時、革新的なポジションにこだわらない全員攻撃・全員守備を掲げたオランダの「トータル・フットボール」が旋風を起こし、スタイリッシュなサッカーで世界中を魅了する。一方、西ドイツもDFが自由にポジションを変え、攻撃にも絡むリベロを採用した戦術を披露する。また、2年前のオリンピックで金メダルを獲得したポーランドも評判通りの強さを見せ、前回準優勝のイタリアを敗退に追い込み、2次リーグへと駒を進める。
ペレが代表を引退したブラジルは新たな10番リベリーノを中心に2次リーグまで進んでくるが、オランダとの対戦では力の差を露呈。個人技のブラジルに対し、オランダはクライフ、ヨハン・ニースケンスの二大エースが試合を決め、8得点0失点という驚異的な成績で決勝へ進出する。ホスト国の西ドイツもゲルト・ミュラーの決勝ゴールで台風の目となっていたポーランドを破り、決勝へと進出。
ミュンヘンでおこなわれた西ドイツとオランダの決勝はとんでもないスタートとなる。オランダはキックオフから西ドイツに全くボールを触らせないままクライフがPKを獲得する。これをニースケンスが決め、オランダが先制。出鼻を挫かれた西ドイツだったが、前半のうちにPKを獲得し同点に追いつくと、前半43分にミュラーがゴールを決め、逆転する。ここから西ドイツはベルティ・フォクツがクライフをマンマークによって封じ込め、オランダの組織の機能を狂わせる。守ってはGKゼップ・マイヤーが好セーブを連発。ベッケンバウアーを中心に規律の取れたプレーを見せた西ドイツが勝利し、20年ぶりの優勝を飾る。
準優勝に終わったオランダだったが、大会で見せた「トータル・フットボール」はサッカー界に大きな変革をもたらすきっかけとなり、サッカーの潮流が個から組織へと移り変わるきっかけを作ることとなった。現代サッカーの源流はこのときのオランダ(もっと言えばアヤックス)と言っても過言ではない。
1978年(第10回大会)
1978 FIFAワールドカップ | |
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開催国 | アルゼンチン |
出場 | 16チーム |
優勝 | アルゼンチン(初) |
準優勝 | オランダ |
3位 | ブラジル |
4位 | イタリア |
得点王 | マリオ・ケンペス |
10回目のワールドカップは、当時軍事政権下にあったアルゼンチンで開催されることとなり、この決定に議論が巻き起こった。軍主導で運営される大会をオランダのヨハン・クライフは危惧し、出場を辞退する。西ドイツのベッケンバウアーも代表をすでに引退していたため、前回を盛り上げた2大スターが揃って不在となり、やや華やかさに欠いた大会となったことは否めない。
政府から優勝を至上命題とされていたアルゼンチンは、ホルヘ・メノッティ監督の改革によってこれまでのダーティーで時代遅れとなっていたスタイルを払拭し、攻撃サッカーへと変貌していた。メノッティが発掘した若い選手が多く起用されたチームは苦戦を強いられながらも2位で1次リーグを通過する。大会の台風の目となったのはペルーだった。初戦でスコットランドを破るサプライズを起こすと、第2戦では前回準優勝のオランダ相手にドローに持ち込む。第3戦のイラン戦には快勝し、1位でグループを突破。
2次リーグに入るとアルゼンチンは闘牛士と呼ばれたエースのマリオ・ケンペスが爆発。ポーランド戦で2ゴールを決めると、決勝進出のために大量得点が必要となったペルー戦でも2ゴールを奪い、6-0での大勝によって決勝進出を果たす。ただ、この試合は軍事政権がペルーを買収した八百長の疑いがかけられている。欧州勢が固まったもう一つのグループは西ドイツ、イタリアを抑えたオランダが首位で通過。
ホスト国・アルゼンチンと2大会連続ファイナルに残ったオランダの組み合わせとなった決勝は、ケンペスが紙吹雪が舞う中でゴールを決め、アルゼンチンが先制。だが、クライフが去り前回より力を落としたオランダもニースケンスを中心に押し込み、後半に同点に追いつく。延長戦に入ると、ケンペスが中央突破からまたもゴールをこじ開け、アルゼンチンが勝ち越し。ケンペスはその後、ダニエル・ベルトーニのダメ押しゴールもアシストし、アルゼンチンが初優勝を果たす。
最近の大会
太字は大会個別記事へのリンク。
同様に、優勝・準優勝国欄から各国代表の記事へ飛べる。
年 | 開催地 | 優勝 | 準優勝 | ゴールデンブーツ (最多得点) |
ゴールデンボール (MVP) |
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1982 | スペイン | イタリア | 西ドイツ | パオロ・ロッシ | パオロ・ロッシ |
1986 | メキシコ | アルゼンチン | 西ドイツ | ゲーリー・リネカー | ディエゴ・マラドーナ |
1990 | イタリア | 西ドイツ | アルゼンチン | サルバトーレ・スキラッチ | サルバトーレ・スキラッチ |
1994 | アメリカ | ブラジル | イタリア | フリスト・ストイチコフ 他 | ロマーリオ |
1998 | フランス | フランス | ブラジル | ダヴォル・シュケル | ロナウド |
2002 | 日本 韓国 |
ブラジル | ドイツ | ロナウド | オリバー・カーン |
2006 | ドイツ | イタリア | フランス | ミロスラフ・クローゼ | ジネディーヌ・ジダン |
2010 | 南アフリカ | スペイン | オランダ | トーマス・ミュラー | ディエゴ・フォルラン |
2014 | ブラジル | ドイツ | アルゼンチン | ハメス・ロドリゲス | リオネル・メッシ |
2018 | ロシア | フランス | クロアチア | ハリー・ケイン | ルカ・モドリッチ |
2022 | カタール | アルゼンチン | フランス | キリアン・エムバペ | リオネル・メッシ |
2026 | カナダ メキシコ アメリカ |
記録
歴代優勝回数
順位 | 国名 | 優勝 | 優勝年 | 準優勝 | ベスト4 |
---|---|---|---|---|---|
1位 | ブラジル | 5 | 1958,1962,1970,1994,2002 | 2 | 4 |
2位 | ドイツ | 4 | 1954,1974,1990,2014 | 4 | 5 |
2位 | イタリア | 4 | 1934,1938,1982,2006 | 2 | 2 |
4位 | アルゼンチン | 3 | 1978,1986,2022 | 3 | 0 |
5位 | フランス | 2 | 1998,2018 | 1 | 3 |
5位 | ウルグアイ | 2 | 1930,1950 | 0 | 3 |
7位 | イングランド | 1 | 1966 | 0 | 2 |
7位 | スペイン | 1 | 2010 | 0 | 1 |
国別出場回数
順位 | 国名 | 出場回数 | 最高成績 |
---|---|---|---|
1位 | ブラジル | 22 | 優勝 |
2位 | ドイツ | 20 | 優勝 |
3位 | イタリア | 18 | 優勝 |
3位 | アルゼンチン | 18 | 優勝 |
5位 | メキシコ | 17 | ベスト8 |
6位 | フランス | 16 | 優勝 |
6位 | イングランド | 16 | 優勝 |
6位 | スペイン | 16 | 優勝 |
9位 | ウルグアイ | 14 | 優勝 |
9位 | ベルギー | 14 | ベスト4 |
選手別出場大会数
順位 | 国名 | 出場回数 | 出場した大会 |
---|---|---|---|
1位 | アントニオ・カルバハル | 5 | 1950,1954,1958,1962,1966 |
ローター・マテウス | 1982,1986,1990,1994,1998 | ||
ジャンルイジ・ブッフォン | 1998,2002,2006,2010,2014 | ||
ラファエル・マルケス | 2002,2006,2010,2014,2018 | ||
リオネル・メッシ | 2006,2010,2014,2018,2022 | ||
クリスティアーノ・ロナウド | 2006,2010,2014,2018,2022 | ||
ギジェルモ・オチョア | 2006,2010,2014,2018,2022 |
出場試合数
順位 | 選手名 | 試合数 | 出場した大会 |
---|---|---|---|
1位 | リオネル・メッシ | 26 | 2006,2010,2014,2018,2022 |
2位 | ローター・マテウス | 25 | 1982,1986,1990,1994,1998 |
3位 | ミロスラフ・クローゼ | 24 | 2002,2006,2010,2014 |
4位 | パオロ・マルディーニ | 23 | 1990,1994,1998,2002 |
5位 | クリスティアーノ・ロナウド | 22 | 2006,2010,2014,2018,2022 |
6位 | ウーベ・ゼーラー | 21 | 1958,1962,1966,1970 |
6位 | ヴワディスワフ・ジュムダ | 21 | 1974,1978,1982,1986 |
6位 | ディエゴ・マラドーナ | 21 | 1982,1986,1990,1994 |
9位 | グジェゴシ・ラトー | 20 | 1974,1978,1982 |
9位 | カフー | 20 | 1994,1998,2002,2006 |
9位 | フィリップ・ラーム | 20 | 2006,2010,2014 |
9位 | バスティアン・シュバインシュタイガー | 20 | 2006,2010,2014 |
最年少出場
選手名 | 年齢 | 達成した大会 | 達成した試合 |
---|---|---|---|
ノーマン・ホワイトサイド | 17歳41日 | 1982年大会 | グループリーグ 北アイルランドvsユーゴスラビア |
最年長出場
選手名 | 年齢 | 達成した大会 | 達成した試合 |
---|---|---|---|
エサム・エル=ハダリ | 45歳161日 | 2018年大会 | グループリーグ エジプトvsサウジアラビア |
通算得点数
順位 | 選手名 | 得点数 | 出場した大会 |
---|---|---|---|
1位 | ミロスラフ・クローゼ | 16 | 2002,2006,2010,2014 |
2位 | ロナウド | 15 | 1994,1998,2002,2006 |
3位 | ゲルト・ミュラー | 14 | 1970,1974 |
4位 | ジュスト・フォンテーヌ | 13 | 1958 |
4位 | リオネル・メッシ | 13 | 2006,2010,2014,2018,2022 |
6位 | ペレ | 12 | 1958,1962,1966,1970 |
6位 | キリアン・エムバペ | 12 | 2018,2022 |
8位 | シャーンドル・コチシュ | 11 | 1954 |
8位 | ユルゲン・クリンスマン | 11 | 1990,1994,1998 |
10位 | ヘルムート・ラーン | 10 | 1954,1958 |
10位 | テオフィロ・クビジャス | 10 | 1970,1978,1982 |
10位 | グジェゴシ・ラトー | 10 | 1974,1978,1982 |
10位 | ゲーリー・リネカー | 10 | 1986,1990 |
10位 | ガブリエル・バティストゥータ | 10 | 1994,1998,2002 |
10位 | トーマス・ミュラー | 10 | 2010,2014,2018 |
一大会得点数
順位 | 選手名 | 得点数 | 記録した大会 |
---|---|---|---|
1位 | ジュスト・フォンテーヌ | 13 | 1958 |
2位 | シャーンドル・コチシュ | 11 | 1954 |
3位 | ゲルト・ミュラー | 10 | 1970 |
4位 | アデミール | 9 | 1950 |
4位 | エウゼビオ | 9 | 1966 |
6位 | ギジェルモ・スタービレ | 8 | 1930 |
6位 | レオニダス | 8 | 1938 |
6位 | ロナウド | 8 | 2002 |
6位 | キリアン・エムバペ | 8 | 2022 |
10位 | グジェゴシ・ラトー | 7 | 1974 |
10位 | リオネル・メッシ | 7 | 2022 |
一試合得点数
順位 | 選手名 | 得点数 | 記録した試合 |
---|---|---|---|
1位 | オレグ・サレンコ | 5 | 1994年大会グループリーグ ロシアvsカメルーン |
2位 | エルンスト・ヴィリモフスキ | 4 | 1938年大会1回戦 ポーランドvsブラジル |
アデミール | 1950年大会2次リーグ ブラジルvsスウェーデン | ||
シャーンドル・コチシュ | 1954年大会グループリーグ ハンガリーvs西ドイツ | ||
ジュスト・フォンテーヌ | 1958年大会3位決定戦 フランスvs西ドイツ | ||
エウゼビオ | 1966年大会準々決勝 ポルトガルvs北朝鮮 | ||
エミリオ・ブトラゲーニョ | 1986年大会ラウンド16 スペインvsデンマーク |
最年少得点
選手名 | 年齢 | 達成した大会 | 達成した試合 |
---|---|---|---|
ペレ | 17歳239日 | 1958年大会 | 準々決勝 ブラジルvsフランス |
最年長得点
選手名 | 年齢 | 達成した大会 | 達成した試合 |
---|---|---|---|
ロジェ・ミラ | 42歳39日 | 1994年大会 | グループリーグ カメルーンvsロシア |
日本代表の成績
開催年 | 開催国 | 成績 | 勝 | 分 | 敗 | 得点 | 失点 | 代表監督 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1930 | 不参加 | |||||||
1934 | 不参加 | |||||||
1950 | 不参加 | |||||||
1954 | 予選敗退 | |||||||
1958 | 不参加 | |||||||
1962 | 予選敗退 | |||||||
1966 | 不参加 | |||||||
1970 | 予選敗退 | |||||||
1974 | 予選敗退 | |||||||
1978 | 予選敗退 | |||||||
1982 | 予選敗退 | |||||||
1986 | 予選敗退 | |||||||
1990 | 予選敗退 | |||||||
1994 | 予選敗退 | |||||||
1998 | グループステージ敗退 | 0 | 0 | 3 | 1 | 4 | 岡田武史 | |
2002 | ベスト16 | 2 | 1 | 1 | 5 | 3 | フィリップ・トルシエ | |
2006 | グループステージ敗退 | 0 | 1 | 2 | 2 | 7 | ジーコ | |
2010 | ベスト16 | 2 | 1 | 1 | 4 | 2 | 岡田武史 | |
2014 | グループステージ敗退 | 0 | 1 | 2 | 2 | 6 | アルベルト・ザッケローニ | |
2018 | ベスト16 | 1 | 1 | 2 | 6 | 7 | 西野朗 | |
2022 | ベスト16 | 2 | 1 | 1 | 5 | 3 | 森保一 |
本大会での通算得点数
順位 | 選手名 | 得点数 | 出場した大会 |
---|---|---|---|
1位 | 本田圭佑 | 4 | 2010,2014,2018 |
2位 | 稲本潤一 | 2 | 2002,2006,2010 |
2位 | 岡崎慎司 | 2 | 2010,2014,2018 |
2位 | 乾貴士 | 2 | 2018 |
2位 | 堂安律 | 2 | 2022 |
6位 | 中山雅史 | 1 | 1998,2002 |
6位 | 鈴木隆行 | 1 | 2002 |
6位 | 森島寛晃 | 1 | 1998,2002 |
6位 | 中田英寿 | 1 | 1998,2002,2006 |
6位 | 中村俊輔 | 1 | 2006,2010 |
6位 | 玉田圭司 | 1 | 2006,2010 |
6位 | 遠藤保仁 | 1 | 2006,2010,2014 |
6位 | 香川真司 | 1 | 2014,2018 |
6位 | 大迫勇也 | 1 | 2014,2018 |
6位 | 原口元気 | 1 | 2018 |
6位 | 浅野拓磨 | 1 | 2022 |
6位 | 田中碧 | 1 | 2022 |
6位 | 前田大然 | 1 | 2022 |
ジンクス
- ペレの優勝予想は外れる
- 直近のバロンドール受賞者は活躍できない
- 直前のコンフェデの優勝国は優勝できない
- 各国リーグの得点王は得点できない
- 地区予選の結果はあてにならない、第1ステージの結果はあてにならない
次回大会・今後
次回の2026年大会は北米3か国のカナダ/メキシコ/アメリカ合衆国での開催が決定している。
開催国ともなれば、世界中の注目を一身に集め、観光客をはじめとする様々かつ大きな経済効果が期待されるため、どの国も誘致に熱心である。もちろん日本も例外ではなく、2018年および2022年大会の誘致を真剣に考えていた。
現在のところ、同一国で2回開催した事例は、メキシコ、イタリア、フランス、ドイツ、ブラジルの5カ国。このうち、ドイツの1回目は、西ドイツ大会であったため別国での開催とも言える。2014年大会を開催したブラジルは、1950年に1度開催しているため、事実上5カ国目の事例となった。2度目の招致がもっとも短かったのはメキシコで、1970年に1度目のW杯を経験した16年後、1986年大会を再び招致している(もっともこの時は、開催が決まっていたコロンビアが経済危機により権利を返上し、開催したばかりでインフラが整っていたメキシコがピンチヒッターを務めたものである)。残りの国は、2回目までに少なくとも60年前後の開きがある。そのため、日本と韓国とか、招致するの早すぎじゃね?とかいうことはあまり気にしなくていい。もっとも、ホスト国としての能力が同じならば、他の国と比べて著しく不利になるのは当然だが。
ちなみに、実はメキシコは2022年大会にも名乗りを上げ、前代未聞の3度開催を実現しようとしていたが、自重した。なお、メキシコは単独は取り下げたもののカナダおよびアメリカとの共催という形での再開催を実現している。
関連動画
関連項目
各大会別のFIFAワールドカップ
- 1982 FIFAワールドカップ
- 1986 FIFAワールドカップ
- 1990 FIFAワールドカップ
- 1994 FIFAワールドカップ
- 1998 FIFAワールドカップ
- 2002 FIFAワールドカップ
- 2006 FIFAワールドカップ
- 2010 FIFAワールドカップ
- 2014 FIFAワールドカップ
- 2018 FIFAワールドカップ
- 2022 FIFAワールドカップ
- 2026 FIFAワールドカップ
- FIFA U-20ワールドカップ
- FIFA U-17ワールドカップ
- FIFA女子ワールドカップ
- FIFAクラブワールドカップ
親記事
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