アルステルウーファー(封鎖突破船)とは、第二次世界大戦中にドイツ海軍が運用した封鎖突破船の1隻である。往路は成功して神戸まで辿り着いたが、復路の1943年12月27日、アゾレス諸島北東で航空攻撃を受けて沈没。
ドイツ海軍が徴用した補給船兼封鎖突破船。船名のアルステルウーファーはエルベ川の支流であるアルスター川から取られている。
第二次世界大戦開戦と同時にドイツ海軍に徴用され、仮装巡洋艦に対する補給任務に従事。その後は極東に派遣する封鎖突破船となる。アルステルウーファーの撃沈を狙ったストーンウォール作戦は比較的有名な一方、アルステルウーファーの船歴に関しては資料や記録が非常に少ないという、まさに幻の存在のような船である。1943年3月29日にサン・ナゼールを出港し、6月19日に横浜へ到着。ヨーロッパ発の封鎖突破船としては最後の成功になった。しかし帰路の12月27日にアゾレス諸島北東で執拗な航空攻撃を受けて撃沈された。
封鎖突破船の中では最小ながら異様なほどの重武装が施されており、15cm砲2門、20mm対空機関砲6基、37mm高射機関砲4基、魚雷発射管、レーダー、航空機をひっかけて墜落させるための300mのケーブルが付いたパラシュート付きロケット弾を持っていたとされる。
要目は排水量2729トン、全長100.6m、全幅15.24m、喫水5.1m。封鎖突破船時の乗員は水兵60名と商船員70名。
第二次世界大戦開戦前夜、スウェーデンの首都ストックホルムに拠点を置く海運会社ワレニウス・ウィルヘルムセンは、新たな冷凍船をエリックスバーグ社のヨーデボリ造船所に発注。
1939年3月に起工、4月7日に進水してアルステルウーファー(Alsterufer)と命名、9月16日に竣工を果たした。建造中にハンブルクの海運会社ロブ・M・スローマンに売却されたため、9月17日にヨーデボリを出港、ロストックを経由して、10月18日にハンブルクへ入港した。しかし既に第二次世界大戦が勃発。商用航海を行う機会は遂に一度も無く、冷蔵施設を持つ貴重な船舶だった事から間もなくドイツ海軍に徴用された。
1940年4月18日、海軍所属の冷蔵船としてヴェーゼル演習作戦に参加。4月27日に補給船アルスタートールとともにエルベ川河口を出発し、SボートのS-10やS-12に護衛されながら、ノルウェー南西部スタヴァンゲルに寄港。4月29日にSボート4隻に護衛されながら出港するも大時化に阻まれて目的地まで随伴出来たのはS-19とS-22だけだった。その後はドイツ占領下のオスロにて停泊している姿が写真に残されている。
ヴェーゼル演習作戦が成功に終わると、11月からドイツの造船所で補給用タンカーに改装された。
1941年1月、洋上で活動する味方の仮装巡洋艦への補給任務に従事するためブレストを出撃。
2月5日、通商破壊中の仮装巡洋艦トールと合流。2月14日に解体されたアラドAr 196水上機を補充しようとしたがトール側から拒否され、2月16日に15.5cm砲弾1000発と魚雷をトールに供給した。2月25日、ケルゲレン諸島方面に向かうピングィンと途中まで同行。2月28日、中部大西洋にて独タンカーユーロフェルドを連れたトールと再合流し、砲弾、魚雷、人員、食糧を供給。海が荒れていて高波が絶え間なく襲ってきたため、アルステルウーファーは補給作業にずいぶんと手間取ったという。
3月10日にアトランティスと合流してアラドAr 196水上機の翼とフロート部分のみを予備用部品として供給。3月14日にピングィンへアラドAr 196水上機を、4月11日にオリオンへアラドAr 196水上機を補充。
4月18日、スペインのアンダルシア沖で別の仮装巡洋艦アトランティス、コルモラン、補給船ドレスデンの3隻と合流。スペインは枢軸寄りの中立国だったためアンダルシア沖は仮装巡洋艦に対する補給ポイントに指定されていた。アルステルウーファーは2隻の仮装巡洋艦に弾薬と人員を補給。アトランティスから使用済みのハインケルHe114を引き取り、代わりにアラドAr 196水上機3機を供与した(うち1機は重巡アドミラル・シェーア用だったが譲渡されなかった)。コルモランからは捕虜船員77名を引き取っている。4月24日、補給を終えたコルモランとドレスデンは去っていったが、アトランティスとアルステルウーファーはアンダルシアに留まり、後からやって来た補給艦ノルドマルクから給油を受ける。4月26日にアトランティスとアンダルシア沖を出発。
5月頃、仮装巡洋艦アトランティス、コルモラン、随伴給油艦ノルドマルクと会同。アトランティスは存分に暴れ回って戦果を挙げまくっていたが、拿捕した敵船を回航するため人員を供出し続けた結果、人手不足に陥ってしまっていた。アルステルウーファーはドイツから輸送してきた7名の通信士、25名の水兵、12名の機関士、2名の信号員、ロデックという水雷士官をアトランティスに移乗。更に分解状態のアラドAr 196水上機2機をアトランティスに、食糧を3隻に補給した。
6月15日、大西洋で補給船バビトンガと合流してアトランティスが撃沈した船の捕虜を引き受け、無事ハンブルクに帰投。
補給任務をこなした後、アルステルウーファーは極東の同盟国日本へ派遣される封鎖突破船に指定、9月26日からサン・ナゼールのロワール造船所で改装工事を受ける。アルステルウーファーは最小の封鎖突破船であったが異例なまでの型破りな重武装が施された。15cm砲2門(前後にそれぞれ1門ずつ)、2cm砲6門、37mm高射機関砲4基、魚雷発射管、レーダーを装備していたとされる。兵装を操作するための海軍兵60名と商船員70名が乗船。船長にはユーゴスラビア出身のドイツ人パウルス・ピアテクが着任した。
しかし、フランスの軍港の中で最もイギリスに近い(イギリスの港からでも400km)サン・ナゼールは毎日のように激しい空襲を受け、1942年3月28日にはイギリス軍のコマンド部隊がノルマンディ・ドックを狙って襲撃してくるなど、決して安全とは言えない場所だった事から、工事が遅延しまくったのは想像に難くない。
1943年3月29日深夜、水雷艇4隻と掃海艇2隻に護衛されながら極秘裏にサン・ナゼールを出撃。約3万km彼方の日本を目指して長い旅に出る。
1943年に入ると封鎖突破船を取り巻く環境は激変していた。ポルトガル領アゾレス諸島に連合軍の航空基地が置かれ、ただでさえ早かった連合軍の暗号解析速度が更に早くなり、12時間程度で解読が可能になっているなど戦況は悪化の一途を辿っていた。実際、3月から4月の間だけでドッガーバンク(味方による誤射だが)、ポートラント、レーゲンスブルク、イレーネ、カリンが大西洋で立て続けに撃沈されていた。
徹底的な無線封鎖を行った事により連合軍に気付かれる事無く大西洋を突破。喜望峰を抜けてインド洋に入ると、日本軍機からの誤射を避けるために鉤十字の旗を舷側と甲板に掲げて識別を容易にしている。5月5日にバタビアへ寄港してモンスーン戦隊向けの魚雷と物資を揚陸、5月29日にシンガポールへ寄港し、そこから日本本土を目指して、6月9日に無事神戸への入港を果たす。
同時期にフランスから6隻の封鎖突破船が日本を目指していたが、到着出来たのはオソルノとアルステルウーファーのたった2隻のみで、アルステルウーファーはヨーロッパ発の封鎖突破船の中では最後の成功であった。乗組員たちは神戸で長旅の疲れを癒す。だが連合軍の跳梁は日に日に激しさを増し、このままでは完全な海上封鎖が完成して帰国困難になる事から、急いで出撃準備が進められた。
10月4日、アルステルウーファーはドイツ国内で不足している希少なマンガン鉱石344トンを積載して神戸を出発。このマンガンを持ち帰る事が出来れば向こう1年分の需要を満たす事が出来る。また2日前にはオソルノも神戸を出港しており、2隻揃ってヨーロッパへの帰国を目指す。この航海では「トレイヴ」というコードネームが与えられていたという。
アルステルウーファーはドイツ本国とのやり取りにエニグマ暗号機を使用していたが、数ヶ月前から連合軍に解読され、アルステルウーファーの動向は神戸を出港した時から敵に掌握されていた。
10月18日にバンコク南部のクションに寄港。10日間かけてタングステンと生ゴムを積載した。11月10日にバタビアへ寄港して燃料補給を受けた後、インド洋方面に向かう。ここからアルステルウーファーは難所を突破するため無線封鎖を実施。また、連合軍の輸送船団2つと出くわさないよう10日間ほどの洋上待機をしている。一時はアルステルウーファーを見失った連合軍だったが、南アフリカ南端のテッラ・デル・フエゴを通過した時、敵の沿岸監視員がアルステルウーファーを発見、連合軍に位置を知られる事となり、イギリス空軍第19沿岸航空隊がビスケー湾に至るまでの航路を監視。
12月20日、アルステルウーファーはアメリカ大陸とジブラルタルを結ぶ敵船団の航路を横切った。近くには護衛空母ブロックアイランドと護衛駆逐艦4隻からなる第21.16任務部隊、西行きのGUS2-3船団、東行きのUGS-27船団、CU-9船団、SC-149船団がいるという非常に危うい状態だったが、敵に見つかる事無く突破。一方、ピアテク船長は乗組員の規律を不安視していた。乗組員が酔っ払った状態で最も危険なビスケー湾を突破する羽目になるのを防ぐため、またクリスマス前に入港するため、船に積まれた6000本のビールを飲んではならないと彼は命じていたのだ。
12月25日、U-305が「トレイヴ(アルステルウーファー)を発見した」と報告、この無線通信を解析した連合軍はストーンウォール作戦を発動。航空機による偵察を強化するとともに英軽巡洋艦グラスゴーとガンビアを出撃させて航路上に待ち伏せさせる。
1943年12月27日朝、曇天のアゾレス諸島北東で、レスリー・ハーバーストック中尉のサンダーランド飛行艇に発見され追跡を受ける。目的地のブレスト軍港に急ぐアルステルウーファーだが、ここはドイツ空軍のユンカースJu88ですら行動範囲圏外の海域であり、味方からの支援は期待出来ない。
午前9時45分、サンダーランドは高度910mから500ポンド爆弾2発と250ポンド爆弾2発を投下し、アルステルウーファーの甲板上を通過して高々と水柱が築かれる。更に機銃掃射を加え、高度300mからレーダーによる爆雷投下を行ったが、有効打は出なかった。ハーバーストック中尉は理想の進入コースを取っており、そのまま爆弾を投下すればアルステルウーファーに命中弾を与えられたはずだった。ところが爆弾には遅延信管が付いていないため航空機と爆弾が同じ速度の状態で投下すれば真下で起爆してしまう。この時の事を彼は「遅延信管を付けなかった愚かな兵器局を呪った」と忌々しげに呟いている。
ハーバーストック中尉は追跡を続けつつ周囲のサンダーランドを招き寄せる。午前11時35分、2機目のサンダーランドが機銃掃射を加えながら500ポンド爆弾2発を投下、続いて3機目のサンダーランドが500ポンド爆弾を全弾投下してアルステルウーファーを盲爆する。激しい爆撃に曝されたアルステルウーファーは無線封鎖を破ってドイツ海軍司令部に救援要請。正午頃、航空機と駆逐艦による援護が約束され、より援護を受けやすいボルドーへ逃げ込むよう指示が出された。
ドイツ軍は窮地に陥っているアルステルウーファーを救援するべくベルナウ作戦を発動。コニャック・シャートベルナール飛行場から十分な航続距離を持ったコンドルFw200が発進し、ボルドーからは第8駆逐艦戦隊のナルヴィク級駆逐艦5隻と第4水雷艇小隊所属の魚雷艇4隻が出撃。アルステルウーファーとの連絡を確立して現在位置を掴んだ。
敵機の猛攻は続き、午後12時40分にTNスタック中尉のサンダーランドが出現して高度1200mから爆弾を投下。これをアルステルウーファーは回避する。13時45分、4時間に渡って追跡を行っていたハーバーストック中尉機が攻撃の許可を求めた後、250ポンド爆弾2発と500ポンド爆弾2発を投下したがこれも回避。反撃の対空砲火でハーバーストック中尉機に損傷を与え、シリー島まで後退させた。14時43分に交代監視要員のB-24リベレーターが出現。
16時7分、ピアテク船長と乗組員は味方の救援が到着するのをひたすら待っていた。だがアルステルウーファーの右舷側約800m、雲の切れ目から現れたのは、第311航空隊のB-24爆撃機6機だった。確実な識別を行うべくミラーカメラを持ったB-24が接近してきたところ、アルステルウーファーの重砲や機銃が一斉に火を噴き、パラシュートとケーブルが付いたロケット弾も発射、それと同時に敵機から逃れるため針路180度へ急回頭する。反撃した事で相手がドイツ船だと確信した第311航空隊はすぐさま250ポンドと500ポンド爆弾を投下。続いてアルステルウーファーの防御火器を無力化するため300発の機銃弾を撃ち込んだ。また胴体に装備されたロケット弾を発射し、5発が喫水線上の船尾に命中。船体を貫通して大きなダメージを受ける。損傷を負ってもアルステルウーファーの対空射撃は衰えず、記録のため写真撮影を試みたB-24は容赦のない射撃に曝され、やっとの思いで16枚の撮影に成功した。
更に左舷の雲間からB-24が飛び出してくるのを乗組員が発見、即座に高射砲やロケット弾による迎撃を行うも、煙突後方の船尾甲板へ500ポンド爆弾が命中。薄い装甲を突き破って内部で炸裂した。この時、チェスをして心を落ち着かせようとしていた士官2名が爆発に巻き込まれて戦死している。無論アルステルウーファーもタダでやられた訳ではなく、16時15分、反撃の対空射撃でB-24の右側タンクに命中弾を与え、喜ぶ間もなく退却に追いやっている。
しかしアルステルウーファーが受けた被害は甚大だった。衣服、寝具、マットレス、ドラム缶などが猛烈に燃え始め、また弾薬庫の隔壁が破損していた事から誘爆の危険性があったが、甲板の消火用ホースも破壊されて鎮火すらままならない。船尾に取り付けられていた後部砲は取り付け部分がねじれてもう役に立たない状態である。機関室では主燃料供給パイプが修復不能なほどに破壊されていた。緩んで弾け飛んだボルトが三等機関士の頭上にあった照明を粉々に破壊、命の危険からかその三等機関士は錯乱状態に陥り、他の機関士もパニック状態になってしまうが、機関長の制止によって士気の崩壊は避けられた。爆発の被害はアンテナにも及び、電信技師が決死の応急作業に追われている。
その後、B-24から投下された爆弾2発のうち1発が船体に命中。被弾によりアルステルウーファーは左舷へ傾き、時折爆発を起こしながら黒煙を噴き出し、船上で踊り狂う炎は後部マストと同じ高さに達するなど、末期的状況に差し掛かった。満身創痍のアルステルウーファーにトドメを刺すべく、1回目はイギリス空軍機2機、2回目はハリファックス重爆撃機4機による攻撃を実施。だがアルステルウーファーは対空射撃で攻撃を失敗に追いやり、最期の意地を見せた。
船全体が炎に包まれたのを見てピアテク船長は船の放棄を指示。自沈用の爆弾は起爆しなかったが既に沈没しかかっているアルステルウーファーにはもう不要なものだった。乗組員72名は4隻の救命ボートに分乗して脱出。アルステルウーファーの弾薬庫から赤と緑の爆発が断続的に起こり、甲板上ではロケット弾が誘爆、船橋内部からは爆発のものと思われる非常に明るい光が漏れ出ていた。敵の第86飛行隊が到着した頃にはもう転覆しかけていたという。こうして力闘及ばず4時間後に沈没。電信技師のアンテナ修理が間に合い、沈没する寸前に位置情報の送信が出来た事が不幸中の幸いだった。
ピアテク船長はスペインに向かうよう指示するが、その前にカナダ軍のコルベットが彼らを救助。救助された72名全員が捕虜となる。船長はB-24を片言の英語で「私の船に対して巧みかつ断固とした攻撃を加えた狡猾で年老いたキツネ」と憎々しげに評した。一方、乗組員は激しい対空砲火の中でも平然と飛ぶB-24に驚いていた。
12月28日朝、アルステルウーファーの沈没を知ったドイツ駆逐隊は救援を諦めてビスケー湾へ戻ろうとした。ところがアメリカ軍のB-24に発見され、イギリス海軍は軽巡洋艦グラスゴーとエンタープライズを急派、ビスケー湾海戦が生起する。この海戦でZ27、T25、T26を撃沈されてドイツ駆逐隊は敗退した。
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最終更新:2025/12/06(土) 08:00
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