イレーネ(封鎖突破船)とは、1938年11月22日に竣工したノルウェーの貨物船シルヴァプラーナを、第二次世界大戦中の1941年9月10日、ドイツ海軍が拿捕したものである。1943年4月10日、フィニステレ岬沖で英機雷敷設巡洋艦アドベンチャーの攻撃を受けて沈没。
イレーネの前身は、ノルウェーの首都オスロを拠点とするチュディ&アイツェン海運会社が発注した一般貨物船シルヴァプラーナ(Silvaplana)。船名の由来はスイスのグラウビュンデン州エンガディン近郊にあるサンモリッツの村シルヴァプラーナから。
チュディ&アイツェン海運会社のフェリックス・H・チュディ社長は、シルヴァプラーナを最も気に入っており、そのシルヴァプラーナを拿捕したアトランティスのロッゲ船長も、撃沈ではなく拿捕を選んだ理由の一つに美しさを挙げるなど、非常に美しい船舶だった。イレーネという女性名が付けられた背景とも言えるかもしれない。
貨物積み込み用の大型デリック1台と、小型デリック10台を持ち、大型デリックでは最大で5トン、同時に25個の貨物を吊り上げる事が出来、4つのカーゴスペースに貨物を積載する。機関はコックムス造船所で製造されたMAN社5気筒2ストロークエンジンを採用。毎分110回転で最大速力13.5ノットを実現した。イレーネはアルステルウーファーに次いで2番目に小さな封鎖突破船であった。
諸元は排水量4793トン、全長124.86m、全幅16.94m、出力3300馬力、載荷重量9325トン、最大速力13.5ノット(25km/h)、乗員32名。
1938年2月12日、スウェーデンのマルメにあるコックムス造船所にて、ヤード番号206の仮称を与えられて起工、9月15日進水し、同年11月22日に無事竣工を果たし、チュディ&アイツェン海運会社の所属貨物船となる。1938年末から東南アジア・北米大陸間の太平洋航路に就任。
オランダ領東インド諸島や英植民地シンガポールで生ゴム、コーヒー、紅茶、繊維、スパイス等を積み込み、パナマ運河を通って主にボルモチア、ハリファックス、ニューヨークといった北米の要港へ輸送。頻度は低いがウラジオストク、横浜、香港にも入港していた。
1939年9月3日に第二次世界大戦が勃発。次いで1940年4月20日、ノルウェー本国がドイツ軍の侵攻を受け、チュディ&アイツェン海運会社がドイツの支配下に置かれたため、船主会社がロンドンへ亡命したノルウェー海運貿易使節団に変更となる。この組織は世界中に散らばるノルウェー船舶を管理・統括し、時にはイギリスや連合国のために軍需品の輸送を手伝った。
大西洋ではUボートが輸送船を片端から撃沈していたが、遠く離れた太平洋は平穏そのものであり、シルヴァプラーナは平時と同じように、連合国のための物資輸送を続けていた。
1941年8月6日、ニールス・S・ニールセン船長指揮の下、シルヴァプラーナは英領シンガポールを出港、8月9日から13日にかけてバタビアに寄港した後、8月18日にスラバヤへ寄港し、そして8月23日、南太平洋を通ってニューヨークに向かうべくスラバヤを出港する。当時まだ日本は参戦しておらず、太平洋方面に枢軸国の艦はいない、はずだった。
9月10日早朝、にわか雨が降りしきるクック諸島南西約450海里にて、オランダ貨物船ポリフェムスがシルヴァプラーナに近づいてきた。オランダは同じ連合国に所属する味方だが、不審に思ったニールセン船長はイギリスのラジオ局に不審船から追跡を受けている旨を報告。午前8時にラジオ局がメッセージを受信した。
日没直後、彼我の距離が4500mまで縮まったところで、ドイツの所属を示すハーケンクロイツの戦闘旗が掲げられ、隠していた大砲を向けながら、発光信号で「電信を止めなければ発砲する」と脅迫。ポリフェムスの正体はドイツ海軍の仮装巡洋艦アトランティスだったのである。安全と思われた太平洋のど真ん中で奇襲される格好となったニールセン船長だったが、彼は実に冷静沈着だった。アトランティスからの停船命令に従うふりをしつつ無線士にQQQ信号(強襲艦の襲撃を受けた事を意味する)を打たせたのだ。
太平洋には、同じ連合国のオーストラリアやニュージーランドがいるし、名目上は中立国だが連合に肩入れしているアメリカもいる。どこかがQQQ信号を受信すれば助けに来てくれるかもしれない――そんな淡い希望をアトランティスの妨害電波が完膚無きにまで打ち砕いた。この事にシルヴァプラーナは戦意を喪失。アトランティスのロッゲ船長はこの新しくて立派な船を手に入れたいと考え、発砲せずにシルヴァプラーナを拿捕する。
ちなみにシルヴァプラーナが放った信号は妨害電波を掻い潜っており、オーストラリアとラロトンガ島の連合軍無線局が傍受、太平洋で仮装巡洋艦が活動している事を把握し、22時25分にシルヴァプラーナへ応答を求めたが返信はもう無かった。
シルヴァプラーナは5000トンのサゴ、2200トンの天然ゴム、約540トンの錫、約45トンのコーヒー、45トンのチーク材、スパイス、ワックス、バニラなど資源に乏しいドイツからすれば喉から手が出るほど欲しい物資を満載していた。どうにかしてドイツ本国、あるいはドイツ占領下フランスまで連れて帰りたいが、連合軍にマークされているアトランティスに随伴させれば、戦闘の余波で撃沈されてしまう危険性がある。それを裏付けるかのようにアトランティスの無線装置が連合軍の活発な通信を傍受。シルヴァプラーナが最後に放った通信により、太平洋に潜むアトランティスを連合軍が血眼になって捜索しているようだった。
とりあえず、この場から離れた方が良いと判断したロッゲ船長は、ツバイ島でシルヴァプラーナからバラスト用の生ゴムを移載したのち散開を命じ、2隻は別々の方角に向けて全速退避、逃走中にアトランティスは南西1万5440mの地点を次の合流地点に指定した。
9月20日から21日にかけて仮装巡洋艦コメートや独補給船ミュンスターランド、拿捕されたオランダ商船コタ・ノパン(後にカリン(封鎖突破船))と合流し、協議の結果、シルヴァプラーナを単独でフランス回航させる事に決まった。
9月27日、ロッゲ船長は6番目の拿捕船として、アトランティス最後の戦果となる22隻目の犠牲船として、15名の回航部隊(指揮官:ツア・ゼー・ディットマン中尉)をシルヴァプラーナに乗船させ、単身太平洋を出発。太平洋を横断してチリ南端ホーン岬へ差し掛かった際、激しい嵐に見舞われ、沈没こそ避けられたもののエンジンが損傷して予定に大幅な遅延が発生、それでも何とか南大西洋側まで抜ける事が出来た。イギリス海軍の海上封鎖を掻い潜りながらボルドーを目指す。
ドイツ海軍司令部もシルヴァプラーナが貴重な物資を運んでいると理解しており、11月2日、アメリカ東海岸で哨戒中のU-109に「シルヴァプラーナと、その積み荷である天然ゴム、サゴヤシ、皮革、スパイス、コーヒー、紅茶を保護・護衛せよ」と特別指令を発令、中立船舶が使用するアントン航路にてシルヴァプラーナと合流した。速力10ノット、U-109はシルヴァプラーナの後方約1000mに続航する形で警護し、親枢軸中立国のスペインに向かう。この時シルヴァプラーナはヴロツワフという偽装名を使用していた。
11月15日までに2隻はエスタカ岬へ到達。ここでU-109はシルヴァプラーナに安全なスペインの領海内を進むよう命じて一旦護衛より離脱。自身は国際問題にならないようヒホンからビルバオにかけて領海外ぎりぎりのところを通った。サンタンデール近郊でシルヴァプラーナは航海灯を点け、ビアリッツまで護衛する掃海艇4隻と合流、イル・ド・クロワ島でU-109と再合流するよう指示を受ける。
ビアリッツとロリアンとの間ではドイツの対潜グループが活動している上、近くには味方のUボートもいるため、シルヴァプラーナへの誤射を避けるべく、承認された進入航路であるグリーン航路に沿ってビスケー湾を進む。ロリアン行きのU-109は途中で護衛任務を終えて離脱していった。
そして11月27日にボルドーへ入港。奇跡にも近いフランス回航を見事成功させた。貨物船の乗組員(ノルウェー人26名、スウェーデン人4名、ポーランド人1名、デンマーク人1名)はマルラグ・ウント・ミラーグ・ノルドで抑留を受ける。
12月、海軍に徴用されてドイツ占領下にあるチャンネル諸島への輸送任務に従事。
シルヴァプラーナはフェリックス・H・チュディ社長が最も気に入っていた船であり、ドイツに拿捕されたと知った際には非常に悲しんだという。以降シルヴァプラーナの名を冠した船はいないが、この美しい船を悼むため、数年後チュディ&アイツェン海運会社は就役した全ての船に、シルヴァプラーナを意味する「SI」の接頭辞を付けた。また、オーストラリアのタスマニア州ローンセストン市の日刊紙「The Examiner」は1941年11月12日付の新聞でシルヴァプラーナの到着が遅れていると報じ、イギリスでは拿捕の件が報道されている。
IRENE
1942年1月1日、ドイツ海軍司令部はシルヴァプラーナを極東の同盟国日本へ派遣するための封鎖突破船に改装するよう命令、2月21日にコードネーム「イレーネ」を与えた。Ireneは古代ギリシャ語の平和を語源とする、ヨーロッパにおける女性名である。英語ではアイリーン、フランス語ではイレーヌ、ドイツ語・イタリア語・スペイン語・ポルトガル語ではイレーネと訳される。
船長にはベテランのハンス・リヒャルト・ヴェントが着任。彼は帆船パトヴァの元船長だった。
4月6日よりロワール川河畔のナントにある造船所に入渠し、船尾に10.5cm砲1門、船橋付近に20mm Flak 30砲2門を搭載。連合国の船舶は船尾に10.5cm砲を装備しており、誤認を誘う目的でイレーネも装備、そしてわざと偽装しなかった。4月9日、ドイツの占領下に無いスウェーデン人を除く、元乗組員全員が釈放され、母国への帰国が許され、5月13日にハンブルクの海運会社F・ライスズへ管理を移管、軍旗ではなく商船旗を掲げるようになった。しかし5月に行われたイギリス空軍のナント空襲の影響で工事が遅れ、出渠したのは9月頃だったという。
10月3日、イレーネは第3及び第5水雷艇戦隊所属の水雷艇8隻に護衛されて、ジロンド河口を出撃、ビスケー湾内で水雷艇と別れた後、日本の勢力圏を目指す41番目の封鎖突破船として長い旅の一歩を踏み出す。
イレーネ以外にもリオ・グランデ、ベルグラーノ、ピエトロ・オルセオロ、ブラーケ、ブルゲンラント、ヴェーザーラント、カリン、アンネリーゼ・エッセバーガーなど、独伊の封鎖突破船9隻が一斉にヨーロッパを出発し、日本を目指していた。当然イギリス海軍本部がこれを見逃すはずがなく、航空偵察と暗号解析により、ボルドーとエル・フェロル沖の封鎖突破船の動向を把握、各所に迎撃戦力を配備して大西洋から出る前に仕留めようとする。
10月11日、イレーネもイギリス空軍機に発見・報告され、地中海方面より抽出された英潜水艦ユニークが迎撃に向かう。幸運な事に10月13日、ラ・ロシェル西方でユニークが行方不明になったため難を逃れた。しかし翌14日に再び敵機に発見され、軽巡洋艦カリュブディス、スループ艦イーグレット、バンフの3隻が差し向けられたものの、カリュブディスは燃料の問題で日没までしか捜索を行えず、スループ2隻もイレーネを取り逃がした。
米英海軍の厳しい哨戒を掻い潜ったイレーネ、リオ・グランデ、ピエトロ・オルセオロ、ブラーケ、カリン、ヴェーザーラントの6隻が大西洋を無事突破。喜望峰とインド洋を抜け、11月28日に日本占領下バタビアへ寄港し、12月20日、目的地の神戸港まで辿り着いた。
1943年1月4日に神戸を出発。船内には爆発事故で沈没した油槽船ウッカーマルクの生存者約50名が便乗していた。2月2日から4日にかけてシンガポールへ寄港。現地で戦争遂行に必要不可欠な天然ゴム、キニーネ、タングステン、錫など合計6000トン以上を積載する。
そしてヨーロッパに帰国するべくシンガポールを出発、英東洋艦隊による捕捉、あるいは日本潜水艦からの誤射を防ぐためインド洋南部を通り、3月初旬頃に喜望峰を通過して南大西洋へ入った。だが連合軍は暗号解析により数隻の封鎖突破船がヨーロッパに帰国中である事を把握。ビスケー湾やデンマーク海峡の航空及び海上警戒を強めていた。
3月30日、イレーネの航路上付近にいたU-174はイレーネとの合流を命じられ、4月5日深夜より合流予定地点で待機を開始。加えて同士討ちを避けるべく単独航行中の船舶に対する攻撃が厳禁された。翌6日にU-174とイレーネは予定通り合流。イレーネは定期報告書をU-174に提出、また「ホーグ・シルバー・スター」あるいは「グランデフェルド」に偽装している事、ドイツ本国までの38日間、航海に耐えられるだけの食糧がある事を伝えた。U-174からは海図、レーダー警戒装置を受領、装置の操作要員として2名がイレーネに移乗している。1週間前デンマーク海峡の突破を図ったレーゲンスブルクが英軽巡グラスゴーに撃沈された事を知り、イレーネは行き先をドイツからフランスに変更。
レーゲンスブルクの喪失はドイツ海軍に大きな衝撃を与えた。イレーネだけは何としてでも生還させようと、4隻のUボート(U-128、U-176、U-262、U-376)を護衛に派遣、中立国スペインのヴィゴ港まで護送しようと試みる。イレーネもまた敵に発見されるのを防ぐため完全な無線封鎖を実施し、その甲斐あって赤道を北上。北大西洋に足を踏み入れた。
ところが4月9日午後、運悪くヴィゴ西方約375海里でイギリス沿岸警備隊機に発見されてしまう。哨戒機からの報告を受け、イギリス海軍はジブラルタルを通じて、ヒマラヤ迎撃のため待機していた英機雷敷設巡洋艦アドベンチャーを刺客に差し向ける。同日、ドイツ海軍司令部よりヴィゴへ寄港するよう指示が下った。
また、イレーネとヒマラヤの位置を探るため、偵察飛行を行っていたFw200コンドルがアドベンチャー級巡洋艦1隻を発見しているが、この情報はイレーネに伝わらず、これが原因で最悪の事態へと繋がってしまう事に。
1943年4月10日朝、ヴィゴ西方約275海里の地点でアドベンチャーがイレーネの視界内に出現。船首を狙って2発の威嚇射撃を加えてきた。もはや逃げられないと悟ったドイツ人乗組員は、拿捕を防ぐべく自ら船に火を放ち、バルブを開いて自沈処理を施すと、船内から連鎖的に爆発が起きて船体断裂、やがて弾薬に誘爆して沈み始めた。激しい炎に包まれながら17時31分にイレーネは沈没。乗組員たちは整然と救命ボートに乗り込み、アドベンチャーが157名全員を救助。彼らはイギリスとカナダの捕虜収容所に送られた。
イレーネの行方が掴めなくなったドイツ海軍司令部は、護衛に割り当てるはずだったUボート4隻に疑わしい海域を2日間に渡って捜索させたところ、イレーネの痕跡が何も残っていなかった事から撃沈されたと判断、4月12日に捜索を中止した。
5月18日、イギリス海軍本部はイレーネとレーゲンスブルクの自沈を公式に発表。
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最終更新:2025/12/18(木) 23:00
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