サクラスターオーとは、1984年生まれの日本の元競走馬で、1987年の皐月賞と菊花賞を制した二冠馬である。
平井雄二厩舎所属、主戦騎手は小島太騎手→東信二騎手。競走成績は7戦4勝。
主な勝ち鞍
1987年:皐月賞(GI)、菊花賞(GI)、弥生賞(GII)
※当記事は、サクラスターオーの活躍した時代の表記に合わせて、年齢を旧表記(現表記+1歳)で表記します。
出生:最初の悲劇
血統は 父サクラショウリ 母サクラスマイル 母父インターメゾ
父はシンボリルドルフらと同じパーソロンの産駒で、日本ダービーと宝塚記念を制した実績を持つ馬。
母は優秀な牝系として子孫が活躍を続けるスターロツチ系の1頭。重賞成績こそエリザベス女王杯3着が最高なものの29戦4勝の成績を上げ、さらに半兄に「日の丸特攻隊」サクラシンゲキがいるという血統から繁殖牝馬として期待されていた[1]。
当時の内国産種牡馬冷遇の事情から考えると母の相手として父の実績はやや物足りなさを感じるが、名前からも分かる通り、両親ともサクラ軍団ことさくらコマース(当時の代表・全演植氏)の所有馬であった馬であり、オーナー冥利に尽きる配合として選んだのであろう。
しかし、サクラスターオーが生まれてから2ヶ月後、サクラスマイルは腸捻転を発症して放牧中に突如倒れ、そのまま死亡してしまった。牧場スタッフが異変に気付いて駆けつけた時、サクラスターオーは倒れた母の体を懸命に起こそうとしていたそうだ。
まだ乳離れしていなかったサクラスターオーは功労馬生活をしていた4代母のスターロツチを乳母として育ち、牧場長の藤原祥三氏が自らミルクを与えて育てた。そういう経緯もあって、サクラスターオーは早くから乳離れをして牧草を食べるようになったという。
スターロツチはサクラスターオーが牧場を離れ、調教生活を開始すると、自身の最後の役割を終えたかのようにこの世を去った。30歳という大往生であった。
3~4歳 ~弥生賞:サクラスターオー乗り替わり事件
サクラ軍団と言えば境勝太郎調教師との関係が深く、サクラスターオーも当初は境厩舎所属の予定であったが、サクラ軍団の馬によく騎乗してくれていた平井雄二騎手が調教師生活を始めるということで、サクラ軍団代表の全氏から境師に「開業祝いとして自分の馬を平井師に分けてやってほしい」と要請があり、そこで境師は平井師にサクラスターオーを分け与えたため、平井厩舎所属として走ることとなった。
・・・ただ、ここで平井厩舎にサクラスターオーが分け与えられたということは、彼が境厩舎のエースではなかったことを如実に表している(お祝いの馬なので駄馬扱いでもなかったことも表しているが)。事実、この時点で境厩舎のエースと目されていたのは、トウショウボーイとシンザンの血を受け継ぐサクラロータリーという馬だった。
サクラスターオーは3歳10月にデビューし、デビュー戦は2着、その後中1週の2戦目で勝ち上がったが、脚部不安を発症して4カ月の休養を余儀なくされる。その間にサクラロータリーはより甚大な故障を発症して引退していた。境師涙目。
4歳2月の寒梅賞で復帰するが、皐月賞でライバルとなるマティリアルの5着に敗れる。クラシック戦線に浮上するために格上挑戦で弥生賞(GII)に挑戦することになったがここで事件が起きる。
なんと、全氏から「(小島)太をスターオーの鞍上から降ろせ」という要請が来たのだ。全氏と小島騎手といえば日本の競馬界でも異例と言える専属騎手契約を締結し義理の父子ともいえる深い関係だったのだが、小島騎手が他のオーナーに色目を使ったことで当時全氏と小島騎手の間で対立が深まっていた。その結果がこの要請なのだが、何しろその要請が来たのが弥生賞の出馬投票の前日であったため、調教師になったばかりの平井師は「ちょw」と大慌てとなった。境師に相談した結果、新たな鞍上として推薦されたのが、境勝太郎厩舎所属だった東信二騎手であった。
境勝太郎調教師の立場としては、自厩舎所属の東にまともな騎乗機会を与えることができていなかったのがとにかく積年の課題であった。なにしろ境厩舎の馬のほとんどは全氏の持ち馬であり、それらの馬は自動的に小島騎手の騎乗馬となる以上、東騎手は小島騎手が都合で乗れないときの代打しか出番が来ない。東騎手が能力で劣るならともかく、境調教師から見ても小島騎手の評価は「(自主規制)」だったため[2]、なおのこと申し訳なく思っていたという。なので境調教師が他厩舎の馬のことであるにもかかわらず、ここで自厩舎の東騎手を推したのは当然ともいえる流れであった。しかも今回は事情が事情だけに、東騎手は単なる代役ではなく、以後サクラスターオーの主戦騎手として固定される(全氏と小島騎手はこの後すぐに和解したのだが、スターオーに関しては変化はなかった)。
なおスターオーを任されるのと同時期に、東騎手はこのいびつな境遇から脱すべく、境厩舎を離れてフリーになっているが、騎乗機会に恵まれない状況はその後もついて回ったようである。
こうして迎えた弥生賞では単勝18.9倍の6番人気であったが、サクラスターオーは東騎手の元、鋭い末脚を見せて快勝した。勝ちタイムも2分2秒1と優秀であり、一躍皐月賞の有力馬となった。
4歳 ~皐月賞:亡き育ての親に捧ぐ勝利
弥生賞でのサクラスターオーの勝利に、生産牧場の牧場長、藤原祥三氏も喜んだ。自身がミルクを与えるなど苦労して育てたサクラスターオーは思い入れが強く、「今後どれだけ活躍してくれるのかな」と期待していたという。
しかし、藤原氏は弥生賞の1週間後に脳梗塞(脳血栓)で倒れ、57歳の若さで還らぬ人となった。藤原氏がサクラスターオーのGIレースでの活躍を目にする機会はなかったのである(´;ω;`)
そんな中迎えた皐月賞。サクラスターオーは2番人気で、1番人気は寒梅賞でサクラスターオーを下し、スプリングS(GII)を直線ごぼう抜きだけで圧勝したマティリアルである。レースは1000m通過が59.5と早めのペースで進んだ。サクラスターオーとマティリアルはどちらも道中は後ろの方から競馬をするタイプの馬でこのペースは歓迎だが、マティリアルの方はスタートの失敗が祟ってか、それとも調子が落ちていたのか、馬群を抜け出すのに苦労していた。それを尻目に馬群の外に持ち出したサクラスターオーはそのまま馬群を突き放し、見事「最も速い馬」を決めるとされる皐月賞の栄冠を勝ち取り、亡き育ての親に勝利を捧げたのである。
4歳 ~菊花賞:菊の季節に桜が満開!
皐月賞の快勝っぷりに、ダービーもサクラスターオー優位と見られていたが、ここでサクラスターオーは繋靱帯炎を発症、「最も幸運な馬」を決める日本ダービーは出走断念を余儀なくされた。
その間のプール調教では心肺能力の高さを見せつけていたが、肝心の脚はなかなか良くならず、美浦の厩舎に戻ってきたのは菊花賞トライアルが始まる9月も半ばにさしかかったころであった。
脚の腫れはなかなか引かず、そんな間に菊花賞トライアルは全て終わってしまった。そのころからようやく快方には向かってきたものの、オーナー全氏はぶっつけでの菊花賞出走は否定的であった。しかしこれまでスポットライトとは無縁であった平井師のクラシックへのこだわりは強く、なんとか出走させたいと思っていた。
出否の決まらぬまま迎えた、菊花賞の1週前調教。結局全氏の出した結論は「この日の調教内容で決める。少しでも不安があったら回避する」である。
この日の調教を任された東騎手、彼から出た言葉は・・・「これなら大丈夫です!」
こうして不安を抱えながらも菊花賞の舞台、京都へ向かったサクラスターオー、万が一のために馬運車を用意し、獣医の許可も直前調教でようやくおりるという、いつ出走取り消しとなってもおかしくない程の綱渡りの菊花賞出走となった。
上記のような状況ではサクラスターオーが二冠馬となる予想など立てられるはずもなく、2番手以下が混戦模様だったにもかかわらず、菊花賞でのサクラスターオーは単勝14.9倍の9番人気にとどまった。二冠の期待をかけられていたのはセントライト記念(GII)を快勝して順調に駒を進めてきた圧倒的1番人気の日本ダービー馬・メリーナイス(単勝2.2倍)の方であった。
しかし、菊花賞が始まると、メリーナイスの方が休み明けの馬の如く終始掛かりっぱなしになり、そのまま自滅(9着)した。かたやサクラスターオーは掛かることなく、王道の競馬で3コーナーから抜群の手ごたえで進出して直線半ばで先頭に立つと、後続のゴールドシチーらの追撃をしのぎ、「菊の季節に桜が満開!!菊の季節に桜!サクラスターオーです!」という杉本清アナウンサーの名実況と共に菊花賞を制し、「最も強い馬」の称号を勝ち取ったのである。
4歳 ~有馬記念、そして
菊花賞がかなり無理を押しての出走であったため、当初は年内休養を予定していた。しかし有馬記念のファン投票でぶっちぎりの1位となる、他にスターホースが不在などといった理由で、JRAの方からも有馬記念出走を要請されたという。調教の様子は悪かったが、もともと調教駆けしない馬らしく、脚の状態もみるみる良くなっていったため、有馬記念出走を決めた。
有馬記念はいきなり波乱から始まった。ダービー馬メリーナイスがスタート直後にいきなり落馬したのである。馬券的な悲鳴は上がったが空馬になったままとことこ走るメリーナイスはどこか笑いを誘うものであった。そうこの時点では・・・
そして勝負どころの2周目の4コーナー、サクラスターオーは内に空いた進路を進もうとした。しかしその瞬間、「バキッ」という音とともにバランスを崩し、失速していった。今度こそ、観衆から本物の悲鳴が上がった。
サクラスターオーに下された診断は「左前脚繋靭帯不全断裂、第1指関節脱臼」。競走馬の脱臼は粉砕骨折と並ぶ致命傷で、通常なら(GI馬とか、そういうことは関係なく)間違いなく予後不良、安楽死となる所であったが、サクラスターオーの下にかけつけたオーナーの全氏は「何とか生かしてくれ、費用はいくらでも出す」と懇願したという。
全氏は1950年代から馬主をしており、同じく致命傷を負い、延命処置が施されたテンポイントの末路を知らないはずがない。それでもこの懇願をした理由について、全氏は、「スターオーは、私の息子も同然なんです」と語っている。
こうしてサクラスターオーの延命処置が始まった。しかし、徐々にではあるが衰弱していった。テンポイント同様ボルトを埋め込む手術も施されたが、症状は改善せず、衰弱を止めることもできず、ついには起き上がろうとした際に新たな脱臼を発症したため、1988年5月12日に安楽死の処置を取られた。
あまりに多くの悲しみに彩られた名馬、サクラスターオー。オグリキャップ以前の馬であることからあまり知られていない馬であるが、競馬を知る者としては、一度は触れておいてほしい名馬だと思う。
そしてあの有馬記念の出来事で完全に埋もれてしまったが、メジロ軍団悲願の有馬制覇を成し遂げたメジロデュレンの事も。
天に舞え。
ドリームレース「有馬記念」。誰もが出場したいと願うレース。
待ちに待ったファンファーレ。関係者は「勝利」への期待に胸をおどらせる。
しかし、場内に鳴り響くアナウンスの声、「故障発生、故障発生!」
サクラスターオー復活にかけたレース。
まだ走り続けたいと首をふり競走馬の使命をたぎらせる。
……生と死にさまよい、強靭な生命力、強靭な魂は「生」へと歩みよる。
闘病にかけた日々。皆、天をあおいで復活を願い続けた。
5か月の長い日々、治療に立ち向かう姿は「生きる」証だ。
目は闘志に輝いている。「生きろスターオー」。
しかし、5月12日、ついにスターオーは天に召された。
スターオー、天の大地を踏みしめ今、走れ!
愛とロマンをのせ天国のターフを走り抜け!
エピソード等
- 悲劇の有馬記念の勝者、メジロデュレンはサクラスターオーが進もうとした進路を取ることによって勝者となった。それは東騎手の騎手としての判断が間違っていなかったことを示しているが、東騎手はこの有馬記念の事を思い出すたびに「なぜあそこを通ろうとしたのか・・・」と後悔の念を口にするという。
- サクラスターオーの死後2週間後に行われた日本ダービーでは、サクラチヨノオーがメジロアルダンに対して奇跡的な差し返しで劇的な逆転勝利を飾りダービー馬となった。この時オーナーの全氏は「スターオーの霊が後押ししてくれたのかな・・・」と語っている。
- 死後から8年後の天皇賞(春)を制したのは、両前足骨折の重傷から復活したサクラローレルである。そのとき杉本清アナウンサーは「また桜だ!また桜が満開になる京都競馬場!桜が満開だ!サクラローレル!」とサクラスターオーを意識した実況を発している。
- サクラスターオーが勝った皐月賞で2着に入ったゴールドシチーは種牡馬となれず乗馬として調教を開始した直後に骨折、安楽死となり、3着のマティリアルは不振に陥った後、京王杯AH(GIII)で復活の優勝を遂げると同時に足を骨折してやはり安楽死となった。クラシックで活躍した馬の安楽死が続出したこの世代は悲劇の世代と称されることがある。一方で、「最も幸運な馬」に輝いたメリーナイスは天寿を全うしたといえる年齢(現表記で25歳)まで生きており、クラシックレースのそれぞれの称号を意識せずにはいられない世代となった。
血統表
*サクラショウリ 1975 鹿毛 |
パーソロン 1960 鹿毛 |
Milesian | My Babu |
Oatflake | |||
Paleo | Pharis | ||
Calonice | |||
シリネラ 1968 芦毛 |
*フォルティノ | Grey Sovereign | |
Ranavalo | |||
Shirini | Tehran | ||
Confection | |||
サクラスマイル 1978 鹿毛 FNo.11-c |
*インターメゾ 1966 黒鹿毛 |
Hornbeam | Hyperion |
Thicket | |||
Plaza | Persian Gulf | ||
Wild Success | |||
アンジェリカ 1970 黒鹿毛 |
*ネヴァービート | Never Say Die | |
Bride Elect | |||
スターハイネス | *ユアハイネス | ||
スターロツチ | |||
競走馬の4代血統表 |
クロス:Nasrullah 5×5×5(9.38%)、Avena=Choclo 5×5(6.25%)
伯父のサクラシンゲキ・叔父のサクラユタカオー以外の近親についてはスターロツチの記事を参照。
関連動画
関連コミュニティ
関連項目
外部リンク
脚注
- *後に半弟のサクラユタカオーも天皇賞(秋)を勝ち、種牡馬としても大活躍している。
- *小島騎手の名誉のために書き添えておくと、サクラの馬を何頭も勝たせており、境師もサクラチヨノオーのダービーなどは騎手のおかげで勝ったと認めている。ただ致命的やらかしも多く、「勝てないならシンガリ負けの方が潔い」という独特の美意識もあって、派手に勝つがそれ以上に派手に負ける騎手であった。「見てるだけなら楽しいかもしれないが、調教師の立場としてはたまったもんじゃない」とは境師の弁である。
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