戯れにもみえた。死闘にもみえた。
その「勝者」の名は…
テンポイントとは、1973年生まれの日本の競走馬。「流星の貴公子」と呼ばれた名馬である。同時に悲運の名馬としても有名。
見てくれこの脚!
父コントライト 母ワカクモ 母父カバーラップ二世という血統。あんまり昔過ぎて良く分からないが、父系はナスルーラ系である。
母ワカクモの母、クモワカは伝染病に掛かっていると誤診されて殺処分になりかかったところを関係者の尽力で秘密裏に助けられ、裁判の末に繁殖牝馬として復帰したという数奇な運命の持ち主だった。ワカクモは桜花賞に勝ち、母の汚名を晴らす。そして繁殖に上がってから送り出したのがテンポイントだった。このため、テンポイントは「幽霊の孫」とも呼ばれた。
幼少時からあまり体質は強く無かったが、非常に立派な馬体と賢さを持っており、馬主は活躍を祈念し新聞の見出しに使われていた10ポイント活字からとって「テンポイント」と名付けた。見出しになるような活躍をということだ。
栗毛の馬体に形の良い流星。テンポイントは希に見る美しい馬であった。2歳の8月にデビュー。ここを10馬身差のレコードで圧勝し、クラシックに向けて関西期待の一番馬と呼ばれるようになる。
次走も勝ち、当時は牡牝混合だった阪神三歳ステークス(現在の阪神ジュベナイルフィリーズ。当時は牡牝混合戦)に出走。圧倒的一番人気に支持されると、直線後続をちぎって圧勝した。この時、関西テレビの杉本清アナウンサーが「見てくれこの脚!これが関西の期待テンポイントだ!」と叫んだのは有名。この時から杉本アナウンサーはテンポイント贔屓の実況で知られるようになる。
天馬との戦い
年明け、東京四歳ステークス(現在の共同通杯)、スプリングステークスを勝つ。が、太め残りで辛勝。この頃、3歳になってゆっくりデビューしたトウショウボーイが次第に注目を集め始めていた。そして迎えた皐月賞。厩務員のストライキの影響で調子を落としていたテンポイントは、トウショウボーイに5馬身ちぎられる屈辱を味わう。初の敗戦。そしてこの時からテンポイントの前には常にトウショウボーイが立ち塞がる事になるのである。
ダービーは完全に調子落ち。しかもレース中に軽い骨折を発症して7着に惨敗。関西期待の星は地に落ちてしまった。レース後、テンポイントを管理していた小川佐助調教師は、関西に無い坂のあるコースでテンポイントが腰を傷めた事もあり「関西の馬が弱いのはコース直線に坂が無いからだ。トレセンに坂を造ってくれ」と涙ながらに訴えた。この訴えが実り、同年秋にはコースに坂がつけられたという。
秋、快復したテンポイントは、京都大賞典で古馬に混じって3着。杉本アナウンサーは「今日はこれで十分だ」という前代未聞の実況をした。そして本番の菊花賞。トウショウボーイをぴったりマークしたテンポイントは直線で伸びの苦しいトウショウボーイを交わす。「それゆけテンポイント!鞭などいらぬ!押せ!」とこれまたとんでもない杉本アナウンサーの叫びに押されてぐいぐい伸びたテンポイント。これは勝ったか!と思ったのもつかの間、なんか内ラチ一杯をするすると伸びて、テンポイントを差し切った馬がいた。グリーングラス。12番人気の馬だった。衝撃の大波乱だったが、グリーングラスはこの後、テンポイント、トウショウボーイと共に「TTG」と並び称される名馬となる。
この後、有馬記念では3歳二頭で抜け出す競馬になったもののトウショウボーイに完敗。この頃にはテンポイント関係者もトウショウボーイ関係者もお互いを強くライバルと認め合っていた。
翌年春。前哨戦を2連勝して出走した天皇賞春。トウショウボーイが回避したここは力が違い、直線を押し切って初の大レースタイトルを獲得。ところが、続く宝塚記念では不調を伝えられるトウショウボーイに逃げ切られ二着。小川調教師は「トウショウボーイを倒すまでは夜も眠れないと」歯噛みし、海外遠征を断ってまで打倒トウショウボーイのためにテンポイントを鍛えに鍛えた。
おかげで、秋を迎えてテンポイントは本格化。もともと伸びやかだった馬体に筋肉が付き、栗毛は光り輝かんばかりだった。迎えた京都大賞典。63kgという斤量を背負いながら他の馬を8馬身差置き去りの圧勝。現在の様に天皇賞に何度も出走出来たり、ジャパンカップがあればと残念になるような強さだった。仕方なく次もオープン戦を使い、いよいよ、トウショウボーイとの決戦の舞台。第22回有馬記念に出走する。トウショウボーイはこのレースで引退。テンポイントも翌年には海外遠征のプランがあった。最後の対決。どちらも負けられない一戦であった。
伝説の第22回有馬記念
スタートすると、ポンと飛び出したトウショウボーイに押してテンポイントが並びかける。驚いた事に二頭が暴走とも思えるようなペースで、並んでレースを引っ張り始めた。宝塚記念でテンポイントはトウショウボーイの後ろに控えて負けており、その轍は踏むまいという決意だった。向こう正面に入ると二頭がガンガン他の馬を引き離してしまう。もはやレースの勝ち負けは眼中に無く、二頭の勝敗が付けばいいというレース振りである。
そのまま二頭は直線へ。他の馬は追走に脚を使いすぎて手ごたえが無い。ただ一頭グリーングラスだけが二頭へ割って入るべくスパートを掛けている。しかし、夕日に照らされた4コーナーでテンポイントがトウショウボーイに並びかけると、二頭は壮絶な追い比べを開始する。
外からテンポイントがグイッと交わすも、内からトウショウボーイが差し返す。もう一度テンポイントがねじ伏せに掛かるも、トウショウボーイも粘りに粘って抜かせない。しかし坂を上ったところで一馬身抜け出すテンポイント。トウショウボーイは諦めず懸命に抜き返そうとする。正に死力を尽くした激走。その時、外から懸命にグリーングラスが詰め寄ってきた。解説者だった大川慶次郎氏は思わず「武士の情けだ(二頭だけに勝負をつけさせてくれ)グリーングラス!」と叫んだそうだ。
内からじりじりと差し返しに掛かったトウショウボーイ。持ち前の根性で粘るテンポイント。トウショウボーイが再び3分の4馬身に迫ったところがゴールだった。
最後の対決で遂にテンポイントはトウショウボーイを破ったのである。ライバル同士が余すところ無く力を出し切って戦ったこの第22回有馬記念は伝説となり、現在でも名勝負と言えば必ず上がるレースとなっている。負けたトウショウボーイの武邦彦騎手も「トウショウボーイも力を出し切ったのだから悔いは無い」と言ったそうだ。そんな気持ちの良い勝負は滅多にあるものではない。
悲運の貴公子
これで名実共に日本一の競走馬となったテンポイントは海外遠征を発表する。しかし、この時、関係者の下には「海外に行く前に一度姿が見たい」という関西のファンからの願いが多数寄せられていたのである。それほどテンポイントはファンに愛されていた。その声に応えて、テンポイントは日経新春杯に出走する。レースの日、京都競馬場には小雪が舞っていた。
66.5kgという酷量を背負って、テンポイントは快調に飛ばす。3コーナ過ぎまでは楽勝ムードだった。ところがここで突如テンポイントはスピードを落とす。実況していた杉本アナウンサーの悲鳴が上がった。テンポイントが左後ろ足を引き摺っている。故障発生。
テンポイントが負った骨折は折れた骨が皮膚を突き破るほどで、競走馬にとって絶望的な負傷であった。普通は当然安楽死の処分となるところだった。しかし、事故直後からJRAには「テンポイントを助けてくれ!」という悲鳴のような歎願が数千件も寄せられる事態となり、JRAと馬主は手術を決断。33名もの獣医師が手術を行った。しかしながら、このような大手術は前例が無く、骨をボルトで止める手術は成功したと見られていたが、実は重さに耐えられずにボルトが曲がるという失敗だった事が後で判明する。
テンポイントは日に日に痩せ、患部は腐り、左後脚をかばった右後脚は蹄葉炎を発症。遂に治療は断念され、テンポイントは床に寝かされた。
1978年3月5日。死亡。死亡時、堂々500kg近かった馬体は300kgを切るぐらいにまで痩せ「大きな犬」くらいにしか見えなくなっていた。
テンポイントの葬儀の席で、馬主の高田久成氏は「私はテンポイントを苦しめてしまった」と泣いたという。競走馬の安楽死はとかく経済動物であるサラブレッドを象徴するように言われる。しかし、サラブレッドは長時間横になる事が出来ず(床ずれを起こしてしまうため)常に立っていなければならず、しかも一本の足を庇って他の脚に負担を掛けると、蹄を骨が突き破る蹄葉炎という症状を起こして蹄が腐ってしまう。脚を酷く骨折してしまうと、それを治すまで馬を寝かす事も立ち続けさせる事も出来ないのである。このため、ある程度以上の骨折をしてしまった場合はどうしても助からない。そのような場合はテンポイントの様にならないために、安楽死処分をすることが人がしてあげられる最善の処置なのである。
テンポイントの事故後、ハンデ戦の斤量は見直され、今では66.5kgのような酷量は見られなくなる。そして、テンポイントの闘病は貴重な症例となり、そのおかげで当時ではとても助からなかったような馬たちが、骨折から復帰してターフに戻れるようになっている。ヤマニングローバルのように脚にボルトを入れたまま現役を全うした馬もいる。
闘病時、テンポイントには5万羽の千羽鶴が届けられ、頑張れという横断幕や差し入れのニンジンなどが届けられた。死亡時にはTVニュース、新聞で大きく扱われ、故郷の吉田牧場に造られた墓には現在でも現役時代のファンから最近映像で彼を知った新たなファンまで、墓参の列が途切れる事が無いという。テンポイントは僅かGⅠ級競争2勝馬ながら顕彰馬に選出されている。これは最初の顕彰馬にトウショウボーイが選ばれているのを見て「なぜテンポイントが顕彰されないのか!」と轟々たる非難が寄せられたからだそうだ。
その短くも鮮烈な輝きを放った競争生活と悲しい死。テンポイントの物語は伝説として、あるいは神話として、日本競馬が続く限り語り継がれる事だろう。
血統表
コントライト 1968 鹿毛 |
Never Say Die 1951 栗毛 |
Nasrullah | Nearco |
Mumtaz Begum | |||
Singing Grass | War Admiral | ||
Boreale | |||
Penitence 1961 黒鹿毛 |
Petition | Fair Trial | |
Art Paper | |||
Bootless | The Cobbler | ||
Careless Nora | |||
ワカクモ 1963 鹿毛 FNo.3 |
カバーラツプ二世 1952 黒鹿毛 |
Cover Up | Alibhai |
Bei Amour | |||
Batty Martin | Hollyrood | ||
Rhoda F. | |||
丘高 1948 鹿毛 |
セフト | Tetratema | |
Voleuse | |||
月丘 | Sir Gallahad III | ||
星若 |
日本の戦前から戦後まもなくにかけて競争名と繁殖名が別になることがあったが
繁殖名「丘高」がクモワカです。
関連動画
杉本清アナウンサー実況の有馬記念は、海外遠征を予定していたために関西TVが製作していたテンポイントの特別番組用で、特別に実況したものである。放送席は貸してもらえず、観客席で録音したそうだ。
関連商品
関連コミュニティ
テンポイントに関するニコニコミュニティを紹介してください。
関連項目
- 5
- 0pt
https://dic.nicovideo.jp/t/a/%E3%83%86%E3%83%B3%E3%83%9D%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%88