伊158単語

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伊158とは、大日本帝國海軍が建造・運用した大3A/伊53一等潜水艦4番艦である。1928年5月15日工。大東亜戦争開戦劈頭のマレー沖海戦で英巡洋戦艦レパルス撃した事で有名。通商破壊で4隻(1万9786トン)撃沈、1隻(6735トン)撃破の戦果を挙げた。終戦まで生き残った後、ローズエンド作戦により1946年4月1日五島列島キナイ処分。

概要

工当時の艦名は伊58だが、巡潜改二に同名の艦が存在するため混同を避ける的で伊158と呼ばれる。

前級大2までの運用実績と、第一次世界大戦で入手したドイツ海軍Uボートの技術を組み合わせて設計された帝國海軍初の一等潜水艦/艦隊随伴潜水艦。内殻を厚くして潜航深度を増加しつつハッチを全て二重に変更。艦首を更に前方へ傾けつつ、セイル付け根を一回り太くして内部容積を拡充し、内に作戦揮所を設けている。艦首には防潜網切断器が装備され、また続発した潜水艦事故に備えて救難装置も持っていた。体の大化に伴って航続距離・速ともに低下してしまうが、機の良でどうにか最大速20ノットを確保し、列強各潜水艦える優速を得る。とはいえ実験的な側面が強かったため大3Aの建造は4隻で中止。残りは小良を加えた大3Bへ移行する事になる。

大3Aは伊5354、55、伊58の計4隻が就役。潜水艦は3隻編制なのだが数が足りないため、準同艦の大3Bから伊5657を持ってきて6隻で運用していた。

は全長100.85m、全幅7.98m、排水量1635トン、最大速20ノット(水上)/8ノット(水中)、搭載燃料241.8トン一号ペースト式電池240個搭載、乗組員63名、安全潜航深度60m。武装は一五式魚雷発射管8門(艦首に6門、艦尾に2門)、53cm魚雷16本、45口径12cm単装1門、九二式7.7mm単装機1丁。

戦歴

1922年に締結されたワシントン海軍軍縮条約により、大日本帝國仮想敵アメリカの60しか艦を保有出来なくなってしまった。その一方で潜水艦は制限の対外だったため、どうにかして潜水艦艦不足を補えないかと考えるようになり、沿警備用のえる開発スタート。試作した大1大2の運用実績を得ていよいよ本格的な量産型である大3Aの建造が始まった。

1923年度補助艦艇整備費から建造費を捻出し、1924年12月3日横須賀海軍で起工。横須賀が最初に建造する記念すべき潜水艦となった。192510月3日進水式を迎え、1927年11月10日千葉県山沖で行われた全試で20.99ノットを記録。そして1928年5月15日、関本織之助少佐揮のもと工を果たし、呉鎮守府へ編入される。

1929年4月1日、第2艦隊第2潜戦隊に第19潜隊が新編され、姉妹伊56(後の伊156)とともに部署。1931年12月1日警備隊に転属して予備艦となるが、1932年5月20日に第2潜戦隊へ復帰し、12月1日に現役復帰。

1933年6月29日伊5354、55、伊5657とともに佐世保を出港し、澎で訓練航を行ったのち、7月5日から13日まで高雄へ寄港。その後は中国沿で訓練を行いながら8月21日東京湾へ帰投。そのまま8月25日横浜で行われた大演習観艦式に参列した。1934年9月27日、僚艦8隻とともにで訓練を実施し、10月5日に佐世保に帰投。

1936年7月23日寺島にて仮泊中に猛台風に襲われて座礁。7月31日にようやく離礁に成功し、に回航されて12月まで修理を受けた。

1939年11月15日、第19潜隊は第4潜戦隊へ編入される。

1940年8月26日東京湾南方連合艦隊に模擬襲撃をかけていた時に思わぬ事故が発生。急速潜航する際に艦ハッチを閉め忘れる重大ミスをやらかし、その事に気付いた信号員が沈没を防ぐために外側からハッチを閉めて艦を守ったが、その代償に彼は溺死した。11月15日、第4潜戦隊連合艦隊に所属。

戦争の足音が近づいてきた1941年10月9日、第4潜戦隊へ入港して戦備を進める。10月31日に艦長として北村惣七少佐が着任。11月15日、第4潜戦隊は南遣艦隊へ部署。マレー方面の要地攻略作戦支援を命じられた。11月20日、旗艦の軽巡洋艦鬼怒や僚艦とともに広島湾を出港し、11月26日に前進拠点の海南島三亜港に到着。12月1日伊5657とともに先を切る形で三亜を出港し、57、伊62、伊64、伊66とマレー半島東方線に配備。ここで運命の開戦を迎える。

大東亜戦争

1941年

1941年12月8日大東亜戦争勃発とともにマレー作戦が開始され、トレンガ線を形成。

12月9日15時15分、伊58北方中の伊65がカモで英戦艦2隻発見の緊急電を打った。この通信が第4潜戦隊へ届いたのは17時10分以降で、初動が遅れながらも敵艦隊を発見するべく揮下の潜水艦に配備の変更を命じた。新たな配備点へ向けて移動していた伊58は翌10日午前1時22分、クアンタ東方120kmで右20度600mの至近距離に英新戦艦プリンス・オブ・ウェールズ巡洋戦艦レパルスを発見。直ちに急速潜航をして潜望観測を行う。やがて敵艦隊は反転して針路180度としたため絶好の撃機会が訪れ、北村艦長は先頭を走るプリンス・オブ・ウェールズ撃しようとしたが、発射管が詰まって失敗。やむなく後方を走るレパルスに狙いを変え、午前1時45分に魚雷5本を発射(本来は6本発射する予定だったが1本魚雷発射管が詰まった)。全て外れてしまうも、これが日本潜水艦による戦艦への最初の攻撃となった。ちなみに英戦艦撃された事に気付いていなかった。

浮上した伊58は敵艦隊を追跡し、午前3時41分に「、地点フモロ45にてレパルスに対し魚雷を発射せしも命中せず。敵針路180度、敵速22ノット、0341」、午前4時25分に「敵は煙を吐きつつ40度方向5に逃走す。これに触接中、0425」、午前6時15分に「、触接を失す。0615」と三度に渡って敵情を報告。しかし実際に受信できたのは軽巡川内のみで旗艦鳥海へ中継されたものの、最も重要である2番の通信が届いていなかったため、南方部隊本隊を率いる近藤竹中将は「敵艦隊はシンガポールに退避中」と考えて艦隊による攻撃を断念。潜水艦航空隊に攻撃を託すのだった。

やがて潜水艦の追跡も中止となって航空隊のみが敵艦隊を攻撃し、マレー沖海戦が生起。この戦により最大の脅威とされたプリンス・オブ・ウェールズレパルスが撃沈され、東南アジアの制権は一気に日本側が握った。伊58は結果的に重要な役割を果たしたと言える。12月20日にカムラン湾へ帰投して補給を受ける。

12月28日55や伊56とともにカムラン湾を出港。通商破壊を行うべくジャワ島スラバヤ方面に向かう。

1942年

1942年1月3日午前1時45分、バウエア北西でスラバヤからパレスチナ砂糖を輸送していた元ドイツシュタブルトの貨物ラングキアーズ(7395トン)に魚雷1本を撃ち込み、機関室に命中させて航行不能に追いやる。浮上した伊58弾を叩き込んでラングキアーズを撃沈。最初の戦果を得た。生き残った員79名は救命艇3隻に分乗して上に脱出。そのうちの3名を甲上に引き上げ、片言の英語北村艦長が尋問する。ラングギアーズの出港地、的地、貨物、連合軍の暗号表などを問いただし、もし回答を拒んだ場合は罰を与えるとして小銃日本刀をちらつかせた。彼らは持っていた情報を洗いざらい喋ったが、暗号表だけは持っておらず北村艦長が激怒するも、とりあえず尋問が終了したため傷でへ戻された。

1月5日水上航行中の伊58は突如として籍不明の潜水艦から撃を受ける。幸い側面をかすめただけで被害かった。1月9日バウエア西方のジャワキャムフィティ(2274トン)に撃を加えたのち、撃で撃沈。1月16日にカムラン湾へ帰投した。

2月7日、カムラン湾を出撃してジャワ島方面に向かい、2月20日ロンボク峡を通過してジャワ南方に進出。良港チラチャップから脱出してくる敵船舶を狙って通商破壊を開始する。2月22日、チラチャップとパダンの間で貨客ピジナッカー・ホンヂック(2982トン)を撃。続いて魚雷を発射してピジナッカー・ホンヂックを仕留め、船長を尋問したのち解放した。

2月25日午前10時15分、スンダ南方パースに向かって脱出中のエロ(7135トン)を発見。数発の弾を発射した後、付近に2隻の駆逐艦を伴った給油艦が通りかかったため一時潜航退避。午前11時30分に2本の魚雷をボエロに命中させて沈没させるが、沈没速度が遅かったため乗員70名全員が脱出に成功している。2月28日、スンダ峡南口から16kmの地点で英貨物ブリティッシュ・ジャッジに魚雷を発射して撃破。3月8日スターリング湾へ帰投した。

3月9日ジャワ島オランダ軍が降した事で作戦事終了。その翌日に第4潜戦隊は解隊したため第19潜隊は第5潜戦隊へ転属し、本土で本格的な整備を受けるべく3月13日スターリング湾を出港。3月20日へ入港した。

5月14日、ミッドウェー作戦に参加するためを出港し、前進基地のマーシャル諸島クェゼリン基地へと向かう。中の5月20日に艦名を伊158名。5月24日にクェゼリンへ入港して補給を受けるが、翌日に第6艦隊部より散開線へ急行するよう命じられ、のんびりする暇も5月26日に出港。6月4日伊156157、伊159伊162伊165伊166とともにミッドウェー近の散開線へ配備了。

6月5日午前9時20分、3隻の空母が被弾炎上した事で山本五十六大将は電作を発し、第5潜戦隊に散開線の西への移動を命空母を失って退却する連合艦隊と追撃してくるであろう敵艦隊の間に潜水艦を挟み込んで足止めするのが的だった。日中は潜航しながら3ノットで、間は水上航行しながら14ノットの速で移動し、6月9日に伊158は新たな配備点に到着。6月13日、第6艦隊はミッドウェー東方に敵機動部隊の大部分が潜んでいるとの情報を得て散開線を東へ移動させる事になり、から東進を開始。しかし一度も会敵する事く、航続距離の問題からクェゼリンへの帰路につき、6月19日に入港。3日後に同を発ち、6月30日へと帰投した。

7月10日、第5潜戦隊は解隊となり第19潜隊は呉鎮守府部隊に転属。以降は伊156157、伊159ともども学校練習艦となる。

1943~1945年

1943年3月16日水上艦艇用の補足電探験艦となる。12月1日に第19潜隊は戦隊へ異動。ドイツから譲渡された呂500(元U-511)のカムフラージュ塗装を参考に伊158もライトグレー塗装

1944年1月5日伊予にてカムフラージュ塗装方向からの視認性、航空機からの視認性、潜水艦の速と針路を誤らせる塗装耐久性を見定める実験が行われた。4月20日に第34潜隊へ転属。

1945年3月17日三菱重工神戸所にて入渠していた伊158はB-29爆撃に巻き込まれて軽微な損傷を負う。修理と並行して回天の搭載工事を受け、艦の前後に1基ずつ装備できるようになった。4月20日に出渠した後、155伊156157、伊162とともに第6艦隊第34潜隊に転属。瀬戸内海西部にある各訓練基地から九州及び四国の沿陸上基地へ回天を輸送する任務に従事する。6月5日から7日にかけて基地に寄港して輸送任務に従事後6月29日大津へ回航。回天1基の輸送任務に従事する。しかし大潜水艦の喪失により練習潜水艦回天作戦に投じられるようになり、7月には回天の発射訓練を開始。出撃を間近に控えていたがその前に8月15日終戦を迎える。

9月2日にて伊36伊47157、伊159とともにアメリカ軍に投降。11月30日に除籍された。年末頃、残余の潜水艦は佐世保への集結を命じられる。

最期

1946年3月、佐世保に回航された伊158は使用可機械類を全て撤去され、ロバート・H・グリフィン提督が艦内を視察。4月1日、潜水母艦ネレウス航されて佐世保を出港。ローズエンド作戦により五島列島で撃沈処分となった。

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