マレー沖海戦とは、大東亜戦争開戦劈頭の1941年12月10日に生起した戦闘である。
概要
マレー半島沖で、新鋭艦プリンス・オブ・ウェールズ率いるイギリス東洋艦隊(Z部隊)と日本軍航空隊が衝突し、2隻の戦艦を撃沈して日本側が完勝した。当時、航空機は過小評価されており、作戦行動中の戦艦を沈めるのは不可能とされてきた。特に相手となったプリンス・オブ・ウェールズは海戦の11ヶ月前に竣工したばかりの新鋭キングジョージ5世級戦艦であり、頭一つ飛びぬけた装甲を有していた。イギリスは勿論、世界中のどの国も戦艦がやられるはずがないと確信していた。
しかし、この海戦で日本軍の九六式陸攻や一式陸攻は英巡洋戦艦レパルスと旗艦プリンス・オブ・ウェールズを撃沈。世界に大きな衝撃を与え、大艦巨砲主義から航空機主義へと刷新する転換点となった。海戦の主役が空母と航空機になったのは、ひとえにこの海戦による所が大きい。
戦闘開始まで
日本側の動き
1941年12月8日午前0時45分、佗田浩少将率いる第18師団第23旅団がマレー半島北東部コタバルに上陸し、現地の英印軍第8旅団と交戦を始めた。攻略目標は半島南端にあるイギリスの重要拠点シンガポールである。電撃的な侵攻によりコタバルの英軍航空基地は退却、制空権及び制海権は日本側が把握していた。
日本軍が東南アジアに侵攻してくる事は既にイギリス軍も予期しており、本国から増援が送られていた。開戦前の12月2日、最新鋭のキングジョージV級戦艦プリンス・オブ・ウェールズとレナウン級巡洋戦艦レパルスを基幹としたZ部隊がシンガポールに到着した。この事を現地のイギリス軍は大々的に宣伝し、日本を威圧した。2隻の戦艦が出現した事は、日本軍にとって大きな衝撃となった。プリンス・オブ・ウェールズは36cm主砲を装備した新鋭艦で、金剛型までの戦艦では攻守ともに歯が立たない。唯一40cm主砲を持つ長門型のみ火力で抵抗できるが、速力では全く勝ち目が無い。切り札の大和型であれば互角に戦えるが、(完成寸前とはいえ)未だ竣工しておらず、仮に完成していたとしても温存されたと思われる。このような化け物だったため、戦艦榛名では悲壮な雰囲気が漂ったと伝わる。
ゆえに日本軍はシンガポールの二大戦艦を脅威と捉え、矢面に立たされる南方部隊に戦力を集中。そのシワ寄せで12月14日に予定していたダバオの攻略が延期になっている。またシンガポールを爆撃しつつ、終日監視を続けた。しかし2隻はドックから動く気配が無く、直ちに出撃する様子は無いと判断した帝國海軍は翌9日15時、金剛型戦艦金剛と榛名を燃料補給で下がらせた。ところが15分後、アナンバス諸島沖に配置していた伊65潜より緊急入電があり、2隻の戦艦を発見したというのである。艦隊指揮を執っていた小沢治三郎少将は直ちに輸送船団にタイランド湾北方への退避を命じ、旗艦鳥海にて陸偵が持ち帰った空撮写真を解析した。すると二大戦艦と思われた艦影は何と大型輸送船だった事が判明。大慌てで迎撃準備を行うが、この頃から天候が悪化。まるで日本の行く末を暗示しているかのように……。特に新鋭艦プリンス・オブ・ウェールズは、東南アジアの作戦に加わっている戦艦金剛と榛名よりも強く、まともにぶつかれば壊滅もありえた。このため一時は重巡7隻と水雷戦隊による悲愴的な夜襲が計画されたほど。さらに悪天候に振り回され、戦力を結集しようにも英戦艦の捕捉すらままならなかった。マレー沖は今や、死神の乗った幽霊船が不気味に徘徊する魔の海域と化していた。
イギリス側の動き
1941年10月25日、イギリス本国から戦艦プリンス・オブ・ウェールズ、巡洋戦艦レパルス、駆逐艦エンカウンター、ジュピターが出港した。目的地は風雲告げる東南アジア…もといイギリス軍の一大拠点シンガポールであった。しかし同伴するはずだった空母インドミタブルは西インド諸島ジャマイカ島沖で座礁してしまい、此度の回航には参加できなかった。インド洋には小型空母ハーミーズがいたが、11月18日に南アフリカのサイモンズタウンへ入港。結果、東南アジアにはエアカバーを提供できる空母がいなくなってしまった。これが運命の分かれ道になってしまうとは、誰が予測出来たであろうか。セイロン島で駆逐艦エレクトラとエクスプレスと合流し、11月29日に出港。そして12月2日午後、大歓声に迎えられてシンガポールに到着した。2隻の戦艦を基幹とするこの艦隊は、「Z部隊」と呼称された。
日本軍がコタバルに上陸した12月8日の朝、東洋艦隊司令トーマス・フィリップス中将の耳にも日本軍上陸の報が届いていた。情報は漠然としており仔細は分からなかったが、ともあれ日本船団の攻撃を決意。シンガポールに在泊している艦艇は戦艦2隻、巡洋艦3隻、駆逐艦6隻だったが、即座に出撃できるのは巡洋艦ターバンと駆逐艦ストロングホールド、テネドス、エレクトラ、バンパイア、エクスプレスだけだった。フィリップス中将はターバンとストロングホールドを残し、残りの駆逐艦を伴走者に指定した。出撃に合わせて空軍の支援を要請したが、シンガポールは日本軍の爆撃を受けていたため戦闘機を出し渋った。これを受けてフィリップス中将は「空軍が支援してくれないのなら戦闘機は要らない」と突っぱね、上空支援を受けられないまま同日17時10分に出撃。駆逐艦テネドス、エレクトラ、バンパイア、エクスプレスを伴って速力を17.5ノットに上げた。
Z部隊の攻撃目標は、マレー沖に向かっている日本兵3万5000名を乗せた輸送船団であった。そのための航路としてアナンバス諸島を迂回し、仏印へ真っ直ぐ向かうルートを取った。仏印には日本軍の航空隊が進出していたが、フィリップス中将は日本軍機の性能をイタリア軍と同等(イギリス軍機の60%程度)と見くびっていた。また南海の空は低い雲に覆われ、スコールも発生していたので航空機の活動には不向きだった。その好機を活かし、Z部隊は進撃を続けた。
翌9日、Z部隊は悪天候を上手く利用し、日本軍の偵察機から身を隠し続けた。日本船団への奇襲は上手く行くだろうと幕僚は考えていたが、実は15時15分に伊65潜に発見されていた。伊65潜の視界ぎりぎりの所を発見され、その情報は直ちに南遣艦隊へと通報された(皮肉にも4隻の駆逐艦は発見されなかった)。潜水艦の小出力な短波通信は受信が困難で、南遣艦隊はおろか近くにいたZ部隊ですら受信出来なかった。だが日本本土の通信部隊が受信に成功し、南遣艦隊へ中継した事で重要な情報が現地にも知れ渡った。旗艦鳥海の司令部は伊65潜に確認の電報を打ち、「一番艦は新型戦艦、二番艦はレパルスに間違いなし」との確答を得た。間もなく猛烈なスコールが発生し、伊65潜は触接を失った。やがて巡洋艦鈴谷、熊野、鬼怒から索敵機が発進し、18時30分から19時45分にかけてZ部隊を捕捉。果敢に追い回し、Z部隊の乗組員に「監視されている」と強い不安感を与えた。だが夜の帳が降りた事で、水上機はZ部隊を見失った。幽霊船は巧みに索敵網をすり抜け、音も無く忍び寄っていた。
日没後、フィリップス中将は燃料補給のため伴走者の駆逐艦テネドスを燃料補給のためシンガポールへ向かわせた。執拗な水上機の触接で乗組員の間では不安が広がっていたが、フィリップス中将は臆する事無く絶対的な自信を抱いていた。20時25分、Z部隊は21ノットに増速。このまま突き進めば翌朝にはシンゴラ沖に達して攻撃が出来る。ところが21時20分、駆逐艦エレクトラの見張り員が前方8kmの地点で、1発の吊光弾が投下された事を報告してきた。Z部隊は一斉に回頭し、光源から遠ざかろうとする。この一件でフィリップス中将は作戦の中止を決意。日本軍に所在がバレた以上、奇襲の効果は期待できないからだ。それなら一旦シンガポールへ帰投し、体勢を整えるのが得策と彼は考えた。23時25分、旗艦プリンス・オブ・ウェールズは信号灯でレパルスに連絡し、作戦中止を伝達。シンガポールへの帰路についた。
ちなみにこの吊光弾投下の裏には、こんな出来事があった。小沢司令の命令で、サイゴンとツドゥムの航空基地から艦隊の位置も確かめずに陸攻隊が出撃した。やがてガモウ岬南方200kmに艦影を発見し、吊光弾を投下。しかし相手は南遣艦隊旗艦の鳥海だった。同士討ちを避けるため鳥海は「我味方なり」と送信したが、搭乗員は敵の欺瞞だと断じて触接と吊光弾投下をやめない。怒った小沢司令は攻撃中止命令を下し、陸攻隊を引き揚げさせた。実はこの時、鳥海とZ部隊は距離8000mにまで接近していたのである。もしZ部隊が回頭しなかった場合、両者は鉢合わせになる針路であった。鳥海は紙一重で助かったといえる。他にも、半径40km以内を探知できるレーダーがプリンス・オブ・ウェールズに搭載されていたにも関わらず何故か探知されなかった事は日本にとって幸運だったと言えよう。
日付が変わった翌10日午前1時30分頃、シンガポール基地から「クアンタンに日本軍が上陸した」との情報を受ける。フィリップス中将は船団撃滅のためクアンタンに舳先を向けた。だが、これは誤情報だった。しかも悪い事に、変針がきっかけで日本の監視網に引っ掛かってしまう事になる。
両軍の接近
12月10日午前1時22分、伊58潜がイギリス軍の駆逐艦を発見。距離600mという至近距離だったため、伊58潜は慌てて潜航。幸い敵艦に見つかる事は無かった。こっそり英駆逐艦の後をつけてみると、一対の巨大な艦影が姿を現した。なんとプリンス・オブ・ウェールズとレパルスに出くわしたのである。
早速伊58潜は5本の魚雷を発射したが、高速で移動していたので全て外れる。その後、浮上して単身Z部隊を追跡する。位置情報を三度通報し、艦隊の到着を待ったが、午前6時15分に燃料切れとなって断念した。ちなみにZ部隊は雷撃を受けた事も、追跡されていた事にも気付いていなかった。この鈍さは命取りになった。一方、日本艦隊には三回の通報のうち一番重要な二番目が届いていなかった。このため二大戦艦の位置が把握できず、艦隊からかなり離れた南方に所在すると推測。これでは攻撃しようにも遠すぎて出来なかった。近藤中将は潜水艦隊と航空隊に後を託した。
後を託されたのは、サイゴンに展開していた松永貞一少将率いる航空隊であった。午前6時25分、9機の九六式陸攻が基地を出撃。索敵に当たった。午前7時55分、遅れて元山航空隊の九六式陸攻26機が出撃。午前8時14分に鹿屋航空隊の一式陸攻26機が、続いて96式陸攻33機がツドウム基地を発進した。開戦前の研究会では敵戦艦の防御砲火で60%が撃墜されるという結果が弾き出されており、各搭乗員は悲壮の覚悟を持って敵に向かっていった。午前11時13分、昨日単独帰投を命じられた駆逐艦テネドスを発見。攻撃を仕掛けたが、命中しなかった。
一方のZ部隊は夜明け後、クアンタン沖に駆逐艦エクスプレスを派遣。エクスプレスが帰ってくるまで艦隊は待機した。しかし港内に日本船団の姿は無く、誤情報だった事を把握。船団攻撃の機会を逸したため、日本軍が敷設した機雷を東へ大きく迂回しながら帰路についた。
マレー沖海戦
午前11時45分、サイゴンから飛来した帆足正音予備少尉の索敵3番機が2隻の戦艦を発見。対空砲を受けたため敵と確信し、本隊へ通報した。各攻撃隊は直ちに現場へ急行したが鹿屋隊のみ受信できず、正午過ぎに航空基地からの平文でようやく事態を把握した。
まず美幌航空隊の白井中隊8機の九六式陸攻が到着し、午後12時45分より攻撃開始。一番槍の誉れを得た白井隊であったが、この隊は索敵に向かう準備中にZ部隊発見の報を受けて急遽攻撃隊に編入されたため、爆弾の搭載量が通常より少なかった。それでも勇猛果敢に突撃した。Z部隊も白井中隊に気付き、速力を30ノットに上げて一斉に対空砲火を放ってきた。ジグザク運動で逃げようとするレパルスに向けて250kg爆弾8発を投下し、そのうちの1発が命中。黒煙が噴き出した。しかし250kg爆弾では決定打にはなりえず、艦長ウィリアム・テナント大佐の巧みな回避によって魚雷は全て避けられた。レパルスは「至近弾によって軽微な損傷を負った」と旗艦に報告している。8機中5機が被弾し、一番損傷が酷い3番機は編隊から落伍。海軍基地に近いソクトランに不時着した。2番機も損傷で落伍したが、重量物を投げ捨てて単機で基地に帰投した。白井中隊が退却していくのを見てZ部隊はホッとしたが、間もなく次の機影が見えた事で25ノットに増速した。
次に元山航空隊の雷撃機17機が到着し、太陽を背に9機がプリンス・オブ・ウェールズに、8機がレパルスに向かった。遠方で高度を下げていた事から、水雷の専門家ハーランド大佐は「敵は雷撃を仕掛けてくるようです」と的確な助言を行った。しかしフィリップス中将は「そんな事はあるまい。第一、敵機に雷撃機はいないじゃないか」と突っぱね、対空砲を撃たずに静観。これが悪手だった。あっと言う間に元山航空隊が内懐へ入り込み、苦しい回避運動を強いられる。遅れて対空砲火を展開し日本機を驚かせたが、後の祭りだった。陸攻は砲火の脅威が及ばない射線の下にもぐりこんで肉薄。レパルスへ更に2発の魚雷が命中し傾斜させたが、すぐに復元。それ以外の爆弾は回避された。一方、プリンス・オブ・ウェールズには8本の魚雷が左右から放たれ、うちに2本が艦尾に直撃。10度傾斜し、艦内では電力を喪失。操舵や砲塔の旋回が困難になる。悪い事に、被雷の際に左軸のスクリューが破損し、ベアリングを破壊。そこから2400トンの浸水が発生した。雷撃後、三番機が被弾して海面に墜落、搭乗員全員が戦死した。
一瞬、日本の攻撃が止まった。レパルスでは「勇ましいじゃないか、ジャップは」「見た事も無い、見事な攻撃だ」と呟き、自分達の評価が間違っていた事を認識した。集中攻撃を受けたプリンス・オブ・ウェールズは重傷を負っていたが、レパルスは軽傷で駆逐艦3隻も健在だった。レパルスはプリンス・オブ・ウェールズに近づき、信号で呼びかけたが何の応答も無かった。異常を感じ取ったテナント艦長は無線封鎖を破り、シンガポールへ敵機の爆撃を受けている事と位置情報を伝える緊急電を打った。その後、プリンス・オブ・ウェールズのマストに黒球2つが描かれた信号旗が掲げられた。これは「我、行動の自由を失えり」を意味していた。
13時50分、鹿屋航空隊の一式陸攻26機が到着し、プリンス・オブ・ウェールズの右舷側から攻撃を開始した。このうち6機が信じられない勇気を発揮して約500mまで肉薄し、5本の魚雷を命中させた。間髪いれず三個中隊の雷撃機が一斉にレパルスへ襲い掛かり、右舷2本、左舷に5本の水柱が築かれた。20ノットの速力で気丈に回避し続けていたレパルスも、遂に最期の時がやってきた。航行不能に陥り、船体が急傾斜。そして14時3分に沈没していった。生存者は796名であった。
一方のプリンス・オブ・ウェールズは新鋭艦だけあって未だ持ちこたえていた。最後にツドウム基地を飛び立った武田中隊8機と大平中隊9機が上空に到着し、手負いのプリンス・オブ・ウェールズに襲い掛かった。既に6ノットにまで低下していたが、左45度へ回頭して何とか回避しようと試みる。14時13分、高度3000mから250kg爆弾8発が投下され、2発が艦尾付近で炸裂。満身創痍のプリンス・オブ・ウェールズは最新鋭艦の意地を見せ、残余の40mm対空砲二門で必死に抵抗。武田中隊8機中5機に損傷を与え、武田中隊長も「さすがは英海軍の戦艦の最期」と賞賛した。しかし多勢に無勢、抵抗むなしく船体が傾斜を始めていた。駆逐艦エキスプレスが横付けし、生存者の移乗が始まる。フィリップス中将は、退艦を願う部下の意見を「ノーサンキュー」と退け、自ら艦に留まった。14時50分、弾薬庫引火による大爆発によって新鋭艦プリンス・オブ・ウェールズは撃沈。生存者1258名が救助された。日本側の損害は陸攻3機喪失と27機損傷のみで、まさに完勝だった。まだイギリス軍の駆逐艦3隻が生き残っていたが、2隻の戦艦が沈んだ時点で日本軍は攻撃を停止。救助活動を行う英駆逐艦の上を旋回するだけに留めた。一番最初に発見の報を打った帆足少尉の索敵機はプリンス・オブ・ウェールズ沈没の現場に居合わせ、言い知れぬ衝撃を受けた。沈没地点の上空で旋回を続けていると、15時15分に低空を飛行する小型機の編隊が目に映った。シンガポールから第453中隊のバッファロー戦闘機11機が到着したのである。バッファローが撃沈された戦艦に気を取られているうちに帆足少尉機は戦場を離脱。追跡を受けたものの、南東に広がる層積雲に隠れて振り切った。19時20分にサイゴン基地へ帰投した。
12月10日16時、大本営は戦勝を発表。マレー沖海戦は終結した。
その後
ツドウム基地では指揮所の近くにテントを張り、戦死者に黙祷を捧げた。その後、祝勝会が行われ、万歳三唱をしたのち冷酒で乾杯した。
この海戦により東南アジアから米英の戦艦が消滅し、連合軍の水上戦力は著しく減退。以降イギリスは駆逐艦による小規模襲撃にシフトせざるを得なくなり、在フィリピンのアメリカ軍艦艇は損害を恐れて事前に脱出。南方のジャワ島に閉じこもった事で制海権はほぼ日本側に収まった。その後の12月18日、9機の中攻機が海戦のあった海域に飛来。高度300mまで下げると、レパルスが沈没した地点に向けて花束を投下し、戦死した両軍の兵士を弔った。このあたりの海水はとても透き通っており、空からでも沈没した戦艦を見る事が出来た。
進出が遅れたおかげで九死に一生を得た空母インドミタブルは、道中のインド洋に留まった。
影響
- 軍令部長からの電話報告で、チャーチル首相は二大戦艦が撃沈された事を知った。彼は今次大戦最大の衝撃を受け、ベッドの上で身悶えた。インド洋及び西太平洋から米英の主力艦艇が一掃された事で、しばし呆然したとも。特にプリンス・オブ・ウェールズはチャーチル首相のお気に入りで、戦後の回顧録では「戦争の全期間を通じて、これ以上のショックを受けた事は無かった」と綴っている。まさかの敗報にショックを受けたイギリス海軍では、主力艦の喪失を恐れるようになったという。また、イギリス国内のメディアは「ダンケルク敗北以来の最悪のニュース」と報道した。
- 山本五十六長官は攻撃隊発進の報を受けた時、「運良くレパルスは沈められても、プリンス・オブ・ウェールズは無理だろう」と判断。一方、三和航空参謀は「2隻とも撃沈」と主張。山本長官は外れたらビール10ダース、航空参謀は1ダースを奢る賭けをした。結果、2隻撃沈。戦果を聞いた山本長官はニンマリと笑い、「10ダースでも50ダースでも出すよ」と言ったという。
- マレー沖海戦の快勝は同盟国ドイツにも届き、刺激を受けたヒトラー総統は工事が中断していたグラーフ・ツェッペリンの建造再開を指示。ドイツ海軍のレーダー提督も航空機によってあっさり主力艦が葬られると悟り、イギリス同様主力艦の喪失を恐れるようになった。この時、水面下でツェルベルス作戦が企図されていたが、大型艦を守るためにドイツ空軍への航空支援要請を行った。日本軍が完勝した事で、タイ王国が対日協力に踏み切ったとされる。
- 1942年8月に行われたジュビリー作戦ではドイツ空軍の行動範囲内で上陸を行う事になったため、イギリス海軍のダドリー・パウンド卿は駆逐艦しか護衛に付けなかった。これはマレー沖海戦で主力艦を失ったトラウマに起因している。しかしこの判断が裏目に出て、惨敗を招いてしまった。
- 松竹がこの海戦を題材にした「不沈艦撃沈」を製作し、1944年に封切りされた。
- 世界は大艦巨砲主義の終焉を悟り、これからの海戦は空母と航空機が主役になると直感。常識を変えた。西太平洋に沈んだトーマス・フィリップス中将を悼む小沢治三郎中将は「いずれ我々にも同じ運命が来る」と呟いたという。機動部隊創設の父である彼の予言は、皮肉にも的中してしまうのだった。
- 反英のアイルランドでは、この快報を聞いたアイルランド人が日本大使館を取り囲んで宴会を開いた。
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関連項目
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