伊157とは、大日本帝國海軍が建造・運用した海大三型b潜水艦2番艦である。1929年12月24日竣工。大東亜戦争では1隻(3077トン)撃沈の戦果を挙げた。1946年4月1日、五島列島沖で海没処分。
概要
1922年締結のワシントン海軍軍縮条約により、八八艦隊計画を破棄した大日本帝國海軍は、大正十二年(1923年)度計画にて海大型潜水艦12隻の建造を決定。
海大二型までの建造実績に加え、第一次世界大戦後に入手したドイツ海軍のUボートを解析、得られたノウハウを基に海大型初の量産タイプ・海大三型潜水艦が設計されたが、1925年5月20日に海大二型の伊52が竣工、これを実際に運用してみると様々な課題や改良点が浮き彫りとなった。これを受けて帝國海軍は既に起工した4隻を海大三型aとし、残る5隻は小改良を加えた海大三型bとして建造する事に。
海大三型aの設計に巡潜型の設計を取り入れ、更にドイツから潜水艦設計の権威テッヘル博士を招聘して艦首の鋭角化と艦尾の形状を変更、これにより水上抵抗の軽減と凌波性の向上を実現した。また補助発電機室や上部賄所、倉庫、電信室などの区画配置を変更、低圧ブロワーと残水管による排水力強化を図り、上部構造物に直径178mmの耐圧通風管を、魚雷発射管内に送風機を設置して換気冷却能力を向上、トリムポンプも2台に増やしている。兵装そのものは海大三型aから変わっていない。
最も画期的だったのはメートル法を導入した事だった。今までは模範とする米英に倣ってヤードポンド法を使用していたが、海大三型bよりメートル法に統一し、これに伴って設計図のフィートをミリメートルに単位を書き直す改正を実施、特型駆逐艦と並んで日本初のメートル法による設計となる。
海大三型bは伊56、伊57、伊59、伊60、伊63の計5隻が建造され、このうち伊60と伊63が沈没、残りは無事終戦まで生き残った。
要目は排水量1635トン、全長101m、全幅7.9m、最大速力20ノット(水上)/8ノット(水中)、燃料搭載量230トン、安全潜航深度60m、乗員58名。兵装は15式魚雷発射管8門(艦首6門、艦尾2門)、533mm魚雷16本、11年式45口径12cm単装砲1門、留式九二式7.7mm単装機銃1丁。
戦歴
開戦まで
大正12年度艦艇補充計画において建造が決定。1927年7月8日に呉海軍工廠で起工、1928年10月1日に進水し、1929年12月24日に無事竣工を果たした。当初の艦名は伊57であった。竣工と同時に姉妹艦伊56や伊58と第2艦隊第2潜水戦隊第19潜水隊を編成。
海大三型a同様、救難引揚用眼環を装備していたが、あまりにも役に立たなかったからか第19潜水隊司令部より撤去の要請が入り、1930年4月15日、呉工廠にてリービングバンドともども撤去されている。
1931年に行われた戦闘運動報告では、伊57と伊56は補助発電機を運用する関係上、潤滑油の発動筒内侵入防止装置を装備しており、この装置のおかげで2隻は他艦よりも潤滑油の消費量が約30%低減。伊57の成績を見た上層部は「潤滑油侵入防止装置を有せざるものは速やかに装備を要す」と報告した。
1932年1月20日、第19潜水隊の各潜水艦は呉工廠で重油タンク海水管と空気抜管の一部を改造。
1933年6月29日、第19潜水隊は第18潜水隊(伊53、伊54、伊55)とともに佐世保を出港、澎湖諸島や馬公沖での訓練航海を行い、7月5日から13日にかけて台湾南西の高雄へ寄港、再び中国海域で訓練航海を行ったのち、8月21日に東京湾へと帰投。そのまま8月25日の大演習観艦式に参列した。
1934年9月27日、伊57は僚艦8隻と旅順を出港、青島沖で訓練航海を実施して、10月5日に佐世保まで帰投する。
1935年4月1日より主機械起動空気管安全弁装置の搭載工事を開始。11月15日、潜水母艦迅鯨を旗艦とした第1艦隊第1潜水戦隊を新編。第19潜水隊は第1潜水戦隊所属となる。
1936年2月4日午前5時3分、仙崎湾外において襲撃教練中、伊57の艦首が潜水母艦迅鯨の左舷に接触する事故が発生。幸い双方とも軽傷で済む(T事件)。翌5日に伊57は呉に回航、迅鯨は佐伯湾に回航された。7月31日、寺島水道に停泊していた第19潜水隊は荒天に襲われ、艦自体に被害は無かったものの、伊57の6m内火艇を亡失してしまっている。
1939年11月15日、第19潜水隊は第1艦隊第4潜水戦隊に転属。
1940年、海大三型bは艦齢延長工事と魚雷発射管の無気泡化改装を受ける。
戦争の足音が近づいてきた1941年10月9日、第4潜水戦隊は呉に入港して戦備作業に着手。11月15日、第4潜水戦隊は南遣艦隊馬来部隊潜水部隊に編入、マレー方面要地攻略作戦の支援を下令される。11月20日、戦隊旗艦の軽巡洋艦鬼怒や僚艦とともに呉を出港、11月26日に前進拠点の海南島三亜港へと進出する。
そして12月1日、伊53、伊54、伊55、伊56、伊58と三亜を出撃、12月7日までに各潜水艦は配備点に就き、トレンガヌ沖の南北に三線の縦深な散開線を形成。これは英領シンガポールに停泊するイギリス東洋艦隊の新型戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスに備えた布陣であった。
大東亜戦争
1941年
1941年12月8日、運命の大東亜戦争開戦を迎える。マレー半島コタバルに陸軍第18師団第23旅団が上陸してインド軍第8旅団と交戦、続いてタイ領シンゴラとパタニーに第25軍司令部と第5師団主力が無血上陸し、戦端が開かれた。予想通りプリンス・オブ・ウェールズは、マレーに奇襲上陸した陸軍部隊を攻撃するべく出撃。翌9日17時10分、伊65より英戦艦発見の報を受けた旗艦鬼怒は伊57と伊58に北上を命令、21時30分には新たな散開線に就くよう命令を下す。これはイギリス艦隊が南下した時に備えての配備であった。
そんな中、新たな配備点へ移動中の伊58が英戦艦2隻を発見、12月10日午前4時30分、伊58の発見電を受けた鬼怒は第19潜水隊に触接を命令するが、午前6時15分、伊58が見失ったのを最後に接触が途絶してしまい、その後のマレー沖海戦で英戦艦2隻は沈没、東南アジアの制海権は日本の手中に帰した。最大の脅威を排したため、12月13日より伊57はアナンバス諸島北方及び東経108度線以東を哨戒して第二次マレー作戦を支援、作戦が概ね成功した12月19日に帰投を命じられ、12月20日、カムラン湾へと帰投して最初の哨戒を終了する。
フィリピンのリンガエン湾に第14師団主力が無事上陸した事で、司令部は12月26日正午より第二期兵力部署への転換を発令。潜水艦作戦の方針は、マレー及びインドネシア近海に潜水艦を配置し、航空部隊や上陸部隊と協力して連合軍を包囲、退路と増援を遮断しつつ同方面の攻略を促進するというものだった。
12月28日にカムラン湾を出撃。ジャワ島スラバヤ沖に向かい、東南アジアからの脱出を図る連合軍商船を狙って通商破壊を開始した。翌29日、大本営海軍部から「イギリスの輸送船団がボンペイを発ち、シンガポールに向かった」との情報があり、第4潜水戦隊は第19潜水隊と呂34に配備の変更を命じる。
1942年
1942年1月7日16時30分、カンゲアン島南東にて浮上した伊57は、バリクパパンからスラバヤに向けて移動中のオランダ海軍の補助タンカーTAN-3(3077トン)を発見、水上砲撃によって撃沈、見事初戦果を挙げる。船員は船を放棄して脱出していった。翌8日からはロンボク海峡北口で遊弋するが獲物を発見出来ず。1月16日にカムラン湾へ帰投。
1月31日にカムランからアナンバス基地へと移動。2月6日、スンダ海峡南口の配備を命じられるが、翌7日に艦内で赤痢が蔓延したため、急遽消毒と乗組員の休養を行う事になり、しばらくカムラン湾での待機を強いられる。
3月1日になってようやくカムラン湾を出港、3月6日、セレベス島スターリング湾に回航。3月10日に第4潜水戦隊が解隊になり第19潜水隊は第5潜水戦隊へ転属した。3月13日、スターリング湾を出港して、3月20日に呉へと帰投、整備を受ける。
5月5日、大海令第18号及び大海指第94号により、ミッドウェー島、アリューシャン列島攻略作戦が発令、5月8日発令の連合艦隊第二期作戦兵力部署で第5潜水戦隊の参加が決定した。
5月14日、ミッドウェー作戦参加のため呉を出港。道中の5月20日に伊57は伊157に改名。巡潜型には1~50の数字が、海大型には51~100の数字が割り当てられていたのだが、巡潜型が50隻以上建造される事になり、数字が足りなくなったので、生き残っている海大型の艦名に100を付け足して数字の余剰スペースを作った訳である。
5月24日から26日にかけてマーシャル諸島クェゼリン基地に寄港。補給を終えると、フレンチ・フリケード礁北方に設けられた乙散開線への配備に就くべくクェゼリンを出撃。乙散開線には伊157、伊156、伊158、伊159、伊162、伊165、伊166の7隻が就いた。間もなくミッドウェー東方の丙散開線への移動命令が下る。
ところが6月6日に生起したミッドウェー海戦で主力空母3隻が大破炎上。南雲機動部隊は決定的な痛撃を受けてしまう。同日午前9時20分、連合艦隊司令・山本五十六大将は第6艦隊司令の小松輝久中将に対し、退却する南雲機動部隊と米機動部隊との間に潜水艦を配置するよう命じるが、重巡三隈への攻撃状況を鑑み、翌7日14時50分にミッドウェー西方の敵艦隊を攻撃するよう新たな指示が下り、一度は東側へ進出していた第5潜水戦隊は島の北方を通って西側に移動。味方の空母は全て失われて制空権を喪失しているので、昼間は潜航、夜間のみ水上航行を行って慎重に進まなければならなかった。6月9日に西側のR散開線へ到着。
6月10日の日没後から12日まで、第5潜水戦隊の潜水艦3隻には、大破漂流中の空母飛龍の捜索と処分を命じられるも、発見には至らなかった。
6月13日、米機動部隊の大部分がミッドウェー東方に所在するとの情報が入り、第5潜水戦隊はU散開線への移動を命じられる。しかし伊157は会敵に失敗、度重なる移動命令の影響で燃料不足が深刻化してきたため6月15日に第19潜水隊は帰投命令を受ける。6月20日にクェゼリンへ入港して補給を受け、翌21日に出港、6月30日、呉に入港して入渠整備を行った。
7月10日、ミッドウェー海戦の大敗に伴う再編制で第5潜水戦隊は解隊。7月14日、竣工から12年以上が経過して老朽艦と化していた海大三型bは前線任務から外され、第19潜水隊は呉鎮守府所属の警備兼練習潜水艦となる。11月10日に第19潜水隊の司令潜水艦となり、西野耕造中佐が伊157に乗艦。
1943年
1943年5月12日にアメリカ軍がアッツ島へ上陸。北方海域を担当する第5艦隊に有効な反撃手段はなく、守備隊も優勢なアメリカ軍に押され続けて急速に戦況が悪化、これを受けて大本営は、5月18日にアッツ島の放棄を決断、その翌日にアッツ島守備隊は力闘むなしく玉砕した。
5月21日、陸海軍中央協定が結ばれ、アッツとダッチハーバーに挟まれて孤立中のキスカ島から守備隊を撤収させる事が正式に決定。敵に制海権を握られているので潜水艦を使って守備隊約6000名を可及的速やかに撤収させると関係各部署に指示した。翌22日、伊157は呉を出港して横須賀に進出。待機と作戦の打ち合わせを行う。
6月1日に幌筵島片岡湾へ進出。翌日タンカー帝洋丸から伊7、伊21、伊155、伊156とともに燃料補給を受けた。今回の撤収作戦には元々いた北方部隊潜水部隊に加え、内地からかき集めてきた潜水艦が加わり、合計15隻の潜水艦が片岡湾に集結、一時的に第1潜水戦隊の指揮下に置かれた。作戦輸送において各潜水艦は片岡湾とキスカを往来。往路は補給物資を積載、復路は撤収用の人員を収容し、乗艦地はキスカ湾などの5ヵ所、収容作業は敵に見つかりにくい夜間、泊地進入時間などは都度指定、輸送中に敵艦を発見した場合は積極的に攻撃するといった事が事前に決められていた。ちなみに海大型は一度に60名の収容が可能である。
6月4日、食糧と弾薬を積載して片岡湾を出撃。アリューシャン方面は浅瀬が多く、潮流も強いので、一定以上の速力を出しておかないと舵が効かなくなり、座礁や衝突の危険が大幅に上がる。更に北方海域特有の気象現象としてよく濃霧が発生し、ひとたび発生すれば視界は限りなくゼロに近くなる。そして敵艦はその濃霧の中からでも正確に撃ち抜けるレーダーを持っていた。
6月10日、アダック島近海からアトカ島南方に向かい、1日間だけ索敵哨戒を行ったのち、6月12日よりタナガ水道へ向かう。ところが6月16日、濃霧の中を浮上南下中、アムチトカ付近で座礁してしまう。艦を軽くするべく機密図書の焼却、魚雷6本、燃料74トン、潤滑油12トン、主蓄電池113基を投棄し、何とか離礁に成功したものの、損傷で潜航が不可能になったため作戦輸送を断念、浮上航行しながら帰路に就く。
6月17日21時30分、キスカに到着予定の伊24が消息不明になり、また各潜水艦の艦長より「霧の中から砲撃された」との報告がたびたび入ったため、第1潜水戦隊は伊157にキスカ島付近の敵情を報告するよう命令、敵情が判然とするまでは作戦輸送を一時取りやめた。6月20日に何とか幌筵まで後退。間もなく内地での修理が決まり、帝洋丸から燃料補給を受けて翌21日に幌筵を出発、6月26日、呉へと到着して修理を受けた。6月28日、呉鎮守府部隊に復帰。
一連の作戦輸送で伊7、伊9、伊24を喪失。撤収させられたのは約6000名中僅か872名であり、輸送に成功した物資は兵器及び弾薬が125トン、糧食106トンの計231トンに過ぎなかった。伊7の喪失を以って潜水艦による撤収作戦は中止となる。
12月1日、潜水母艦迅鯨、第18潜水隊、第19潜水隊、第33潜水隊、呂500(元U-511)で呉潜水戦隊を編成、潜水学校の警備艦兼練習潜水艦に指定され、第19潜水隊は所在海域の防衛と乗組員の養成任務に励む。12月中、伊157は呉工廠にて、同盟国ドイツより譲渡された呂500を参考に、青みがかった灰色の迷彩塗装に塗り替える。
1944年
1944年1月5日、伊予灘で潜水学校の塗装試験第一段階に参加。日本近海での迷彩効果、水上艦艇や航空機に対する迷彩の有効性、潜水艦の針路や速力を誤認させる能力、塗装の耐久性などが調べられた。2月25日に中村省三中佐が艦長に着任。
以降、瀬戸内海西部にて味方空母や第2航空戦隊を標的にした連合訓練、あるいは襲撃教練に従事。時には第11水雷戦隊の新造艦のために対潜標的を務める事もあった。
伊157は潜水艦版13号対空電探と試製聴音機装置の実験艦に選ばれ、第19潜水隊より一時離脱、7月4日から25日にかけて搭載工事を行い、7月26日から8月2日まで呂49と実験に協力する。8月30日、こがね丸と実用頭部五型九五式魚雷の発射試験に従事。
11月10日、岩国分校練習教務に協力。伊121、伊155、伊156と第11水雷戦隊や第1航空戦隊に対する襲撃教練を実施した。
12月2日から21日にかけて伊156と再び13号対空電探の実用化実験を実施。漁船に取り付けた高さ10mの探知目標を5km先から捕捉する事に成功した。実用性が有用されたので、残存艦船の大部分に13号電探が装備されていったという。12月28日、第41駆逐隊の水中測的訓練に協力。
1945年
迫り来る本土決戦に備え、練習潜水艦として余生を送っていた旧式海大型6隻も、いよいよ前線任務に駆り出される事となり、1945年1月28日、29日に第19潜水隊は甲戦備を実施。米機動部隊や敵爆撃機の跳梁が激しい現状を受け、2月17日から21日まで宿毛湾に進出して敵の来襲に備えた。
3月5日、艦政本部より伊157の回天母艦化工事の訓令が下り、3月10日に呉を出港、3月12日に舞鶴へ入港し、工廠にて甲板砲、弾薬庫、水密庫薬筐を撤去、前後甲板にそれぞれ回天1基を搭載するための設備を設置して、回天母艦に改装された。悪化し続ける戦況は老朽艦の伊157をも危険な回天任務に追いやるのだった。
4月20日、竣工時より所属してきた第19潜水隊が解隊。呂50以外の所属艦が全滅していた第6艦隊第34潜水隊に編入され、整備完了次第舞鶴付近にて約10日間の単独訓練を行い、終了後は5月23日に大津島へ回航、10日間にわたって回天と連合訓練を行った。6月2日に呉へ回航。以降は大津島から九州沿岸の基地に回天を輸送する任務を3回こなした。
6月12日、「決戦作戦に於ける海軍作戦計画大綱」が提示され、潜水艦部隊には全力を挙げて敵輸送船団を泊地の外方で捕捉、攻撃する方針が定められる。本土では訓練用燃料すら事欠くほど燃料不足が深刻化しており、ディーゼル駆動する潜水艦は比較的動く事が出来たが、それでも非常に厳しかったため、6月25日に呉を出港、大連まで燃料を取りに行き、燃料を満載して7月2日に呉へと戻った。
7月9日、伊157と伊159は整備完了次第呉を出港、平生もしくは大浦に回航して、第2特攻戦隊所定による瀬戸内海西部の回天基地に対し、回天4~6基を輸送するよう命じられる。7月に入ると回天母艦となりうる大型潜水艦の不足から旧式海大型の伊157、伊156、伊158、伊159、伊162も本土決戦を見据えた訓練を開始、7月13日、光沖で駆逐艦梨を標的にした回天の発射訓練を実施する。
この時、伊157には三式水中探信儀と、アメリカ海軍の魚雷データコンピュータに似た新型射撃管制システムを試験的に搭載されており、ソナー方位に基づいた水中攻撃を可能としていたという。
8月5日朝、呉に停泊していた伊157から中村艦長、航海長の秋田大尉、軍医長の3名が広島市へ英気を養いに行った。翌6日午前8時頃、課業始め5分前となり、下士官が前甲板に整列し始めた頃、空襲警報が発令。直ちに配置に就く。1機のB-29が広島上空を飛んでいて、呉からは遠ざかりつつあったので警報はすぐに解除。その直後、広島方面に火薬庫の爆発を思わせる大爆発と閃光がほとばしった。
正午頃、「広島が全滅したらしい」との情報があり、機関長、水雷長、砲術長、手すきの准士官で協議したところ、まだ艦長たちが帰ってきていない事から捜索の必要があると判断、13時に広島出身の水兵と砲術長が広島市内へ捜索に向かうも、街中が焼け野原となっていて全く消息が掴めず、8月7日午前8時過ぎに帰艦した。入れ替わりに今度は機関長が捜索に向かったが何ら情報は得られず。
8月8日16時頃、陸軍の宇品基地隊から二等兵曹が来艦、「伊157潜の艦長、航海長、軍医長を称する人たちを救助してあるが心当たりがありますか」と尋ねて来たので、砲術長が「大ありだ」と大喜びし、礼を言うと同時に事情を聞く。6日の朝、市の郊外で防空壕の作業をしていると突然爆発が起き、広島が壊滅状態に陥ったため、隊伍を組みながら宇品へ移動していると、広島・宇品間の路上で倒れている3人を発見、うち1人が「伊157潜の艦長、航海長、軍医長だが助けてくれ」と言うので救助、宇品基地に収容したとの事だった。
8月9日、水雷長が第六艦隊司令部のトラックを借用して宇品基地より3人を引き取る。彼らは呉海軍病院に入院となった。夜には砲術長も見舞いに訪れている。3人は全身にわたって重度の火傷を負って息も絶え絶えな状態であり、まず8月11日夜に中村艦長が死亡、翌12日に航海長が死亡してしまった。代わりの艦長として荒木浅吉大尉が着任。
8月15日、第15潜水隊に転属するが出撃の機会なく無傷で終戦を迎える。終戦時に残存していた潜水艦は58隻。このうち無傷が54隻、大破1隻、中破1隻、小破2隻であった。
戦後
玉音放送が流れた後も、潜水艦は出撃準備を整えようとし、呉では第6艦隊旗艦・筑紫丸や潜水艦基地隊支援のもと、夜通しの物資積み込み作業が行われていた。醍醐中将も出撃には前向きで「中央を説得して必ず出撃許可をもらってくる」と積極的に交渉。しかしついに最後まで出撃許可は下りず、戦いは終わってしまう。
9月、進駐してきた連合軍に降伏し、11月30日に海軍省解体に伴って除籍となった。生き残った潜水艦は佐世保へ集結するよう命じられ、佐世保にて全ての武装を撤去。
1946年4月1日、ローズエンド作戦に従って海没処分が決まり、潜水母艦ネレウスに曳航されて佐世保を出港、13時18分、五島列島福江島東方沖で艦内に設置されたC-2爆弾が起爆し、13時25分に沈没していった。この日は24隻の潜水艦が撃沈処分されているが伊157は最初に処分された潜水艦であった。
関連項目
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