伊351とは、大東亜戦争末期に大日本帝國海軍が建造・運用した伊351型/潜補型潜水艦1番艦である。1945年1月28日竣工。十死零生のガソリン輸送に挑み、同年7月15日に米潜ブルーフィッシュの雷撃を受けて沈没。
概要
伊351は、補給に主眼を置いた大型潜水艦で、潜補は補給潜水艦を意味する。元々は飛行艇用の補給潜水艦として設計されていたのだが、開戦に伴い、軍令部が次々に要求性能を変更したため起工が遅れに遅れ、最終的にはガソリン輸送が可能な輸送用潜水艦となった。
基本的には巡潜乙型の設計を踏襲しているものの、補給任務に備えてかなりの変更が加えられた。艦体は二重船殻式で、内殻の直径は5.5m、内殻板数枚を電気溶接してブロックとし、その上からリベット打ちして組み立てている。また補給弾薬庫を設置した弊害で前部兵員室が圧迫されたため、中部兵員室を新設して補い、その下に第3蓄電池室を設けて水中航続距離を増大、更に外殻と内殻の間に収めるタンクスペースを確保するべく、従来の潜水艦と比較して下方が膨らんでいる特徴を持つ。
ガソリン輸送艦には常に誘爆の危険性が付きまとう。このため、司令塔後部にある軽質油タンクは漏油・誘爆の危険性があるので外殻を厚めにして溶接するとともに防弾鋼板で覆って対処、電動機の電気火花でポンプから漏れ出たガソリンに引火しないよう通風機室を設置、軽質油タンク同士が隣り合わせにならない配置にするなど涙ぐましい努力を重ねた。もし命中弾を受ければ即刻誘爆轟沈してしまうため、通常の14cm単装砲は装備せず、代わりに敵を驚かせて潜航の隙を作る目的で8cm連装迫撃砲を装備。海軍では迫撃砲を対潜兵器として使っており、砲弾を真上に打ち上げる事で潜航中の敵潜水艦をも狙え、仮に命中しなくても逃げる隙が生まれる訳である。更に迫撃砲弾は発煙筒のように使用する事も出来、その場合は対潜哨戒機に対する目くらましとなった。この装備は同様の輸送潜水艦である伊373にも搭載されている。
水上機を持たない日本潜水艦の中では最大級の巨体を誇り、伊400型に次いで2番目の大きさ。潜水空母である伊13型よりも(僅か30トンの差だが)大きいのである。第二次世界大戦で使用された潜水艦全体で見ても、伊351は伊400型、フランス潜水艦シュルクーフに次ぐ第3位なので、如何に大きいかが窺い知れる。
艦の心臓部たる機関は戦時急造型の艦本式22号10型ディーゼル2基2軸を採用。22号10型はどちらかと言うと水上艦艇に多く使用されており、潜水艦で装備したのは伊13型と伊351のみ。加えて伊351が保有していたのは無気噴射式単動4衝式と呼ばれる最も低出力なものだった(毎分460回転・1基軸1850馬力)。元々22号10型は中型潜水艦用なので低出力なのは如何ともしがたく、水上速力は23ノットから15.8ノットに大幅ダウンし、水中航行用電動機に使用する二次電池への充電能力が不足するなど様々な問題を抱えている。しかしその一方で4サイクルになったおかげでシュノーケルの搭載が容易となり航続距離も極端に増大。伊351の航続距離は水上14ノットで1万3000海里、水中3ノットで100海里だが、1万3000海里は約2万4000kmなので理論上は地球を半周出来る上、日本と南アフリカ沖との往復が可能。充電能力不足は補助発電機を2基に増やす事で解決した。
艦橋はレーダー探知を防ぐため側壁を傾斜させ、ソナー探知防止目的で必要に応じてL1塗料を塗布。自動懸吊装置と重油漏洩防止装置を持ち、加えて九九式測深儀、九三式二型水中聴音機、22号水上電探、13号対空電探、三式四型改一探信儀、丁型五号三型方位測定器、E27式3型電波探知機、シュノーケル等を装備するという極めて先進的だった。連続潜航時間は100時間と実に4日間の潜航が可能。規格外の大きさゆえ潜水艦にしては居住性に優れ、乗組員も77名しかいないからか、便乗者もベッドで寝る事が出来たという。補給用潜水艦ながら魚雷発射管と魚雷4本を持っているため一応は対艦攻撃も行え、対空兵装も同じ輸送用潜水艦である伊361型と比べて充実していた。
要目は排水量2650トン、全長111m、全幅10.15m、航空燃料搭載量400トン、最大速力15.8ノット/(水上)6.3ノット(水中)、安全潜航深度90m、乗員77名、連続航海日数60日。兵装は九五式魚雷発射管4門、魚雷4本、14口径8cm連装迫撃砲1基(20発)、25mm三連装機銃3基、25mm単装機銃1丁。その他装備として九九式測深儀、九三式二型水中聴音機、三式四型改一探信儀1組、22号電探、シュノーケルを竣工時から装備。竣工直後に13号対空電探が追加された。
艦歴
建造までの経緯
飛行艇を潜水艦で燃料補給するという構想は1922年の頃から既に存在していたが、この時はワシントン海軍軍縮条約締結によって自然消滅。それから時が流れて1936年、ロンドン海軍軍縮条約脱退や対米関係の悪化でアメリカとの戦争が現実味を帯びる中、帝國海軍は様々な案を机上で戦わせた。その中には飛行艇による攻撃も含まれており、飛行艇の行動範囲を拡大させるべく再び潜水艦での補給に注目が集まった。そして1937年頃に潜水艦を飛行艇の洋上基地にする案が海軍内部から提出される。しかし当時は戦争中ではなかったため、この時は実現に至らなかった。
しかし第二次世界大戦の勃発や仮想敵アメリカの艦隊戦力増強、国際情勢の悪化に伴い、マル五計画でガソリン輸送潜水艦3隻の建造を決定。その後、緊急建造の必要があるとしてマル追計画に移行し、建造数も6隻に増加させて予算から建造費1624万8000円を確保。
1941年9月21日の軍令部機密第471号にて「基本排水量2470トン」「洋上で飛行艇に対してガソリン500kl、500kg爆弾200発、魚雷、200名用の1ヶ月分の食糧、銃弾、清水10トンを補給」「定員以外に15名を収容できる居住設備を持ち、必要であれば搭乗員の交代も可能」「自衛用に艦首53.3cm魚雷発射管2門を装備」といった性能要求が行われた。
開戦後の1942年9月1日に発令された軍令部機密第251号で最終的な要求性能を決め、9月19日の技術会議で艦型を決定するも、戦況の変化によって必要性に疑問が生じて起工が遅れてしまった。
敵の海上封鎖に挑んだ鋼鉄の鯨
紆余曲折を経て1943年5月1日に呉海軍工廠で起工。計画では3隻建造される予定だったが、10月15日に3番艦の建造中止が決まり、2隻のみの建造に縮小される。1944年2月24日に進水するが、中部太平洋やニューギニア方面で反攻に出たアメリカ軍に対処するべく離島への補給任務も視野に入れられ、7月28日の軍令部二機密第45号で性能要求を変更。水中航続力の増加、備砲の撤去、補給物件の減少などが行われ、艦橋も電探防止構造に改めた。
8月25日より艤装員長として田上明次中佐が着任。彼は伊25艦長時代にアメリカ本土爆撃を成功させた傑物だったが、伊176艦長時代に負った傷が原因で慢性的な貧血に苛まれるようになり、現在は呉海軍工廠潜水艦部部員を務めていた。9月7日に艤装員事務所が設置され、10月10日から二代目艤装員長の南部伸清少佐が務めた後、12月11日に伊361の艦長から転出した岡山登少佐が三代目艤装員長に任命。彼は伊26航海長、潜水学校特修科、伊29水雷長、潜水学校甲種学生、呂64艦長、伊361艦長を歴任してきたベテラン艦長である。そして1945年1月28日に竣工を果たす。初代艦長には艤装員長の岡山少佐がそのまま着任、呉鎮守府に編入されるとともに訓練部隊の第6艦隊第11潜水戦隊に部署する。
1945年1月28日に竣工した伊351は無事に引き渡され、岡山艦長指揮のもと呉を出港、伊予灘にて戦隊の指導を受けながら慣熟訓練に従事する。しかし日に日に悪化する戦況は伊351を最前線へといざなう。
ヒ86船団の壊滅により南方航路は半ば閉鎖状態となり、また被害を軽減するため大船団方式から小規模船団を小出しにする方式に改めた影響で内地の燃料不足が深刻化し、一刻も早い伊351の作戦投入が求められたのである。実際、2月7日19時40分に発令された大海機密第071358番電では内地・南方間の航空燃料輸送に参加出来るよう重点的訓練の実施を命じられ、2月9日午前8時発令の軍務局機密第081928番電では能力試験は現戦況を鑑みて当分の間延期とし、訓練に邁進するよう命じられている。
3月3日15時15分から呉軍港内にて軽質油補給装置の試験運用を実施。3月8日に呉を出港、徳山燃料廠で実際に軽質油を使って試験を行い、3月10日に何事も無く完了。同日15時に徳山を出発して19時30分に安岐埼へ回航。その後は駆逐艦との連合訓練に参加し、水深16mから九六式魚雷1本を発射する予定だったが駆逐艦の行動が合わず取り止めとなり、代わりに3月14日午前、柱島泊地から安下庄に移動する駆逐艦浜風の対潜訓練の相手を務めた。
3月19日早朝、呉軍港が敵艦上機の攻撃を受けて在泊艦艇に大きな被害が及んだが、伊351は伊予灘にいたため難を逃れた。3月26日、八島泊地に停泊中の第11水雷戦隊の艦艇を敵艦に見立てた襲撃訓練を実施。次第に呉や瀬戸内海方面にも敵機が頻繁に出現するようになり、3月27日夜と30日に飛来したB-29が関門海峡と瀬戸内海西部に機雷を敷設、3月31日には広島湾にも機雷が敷設された事で呉への出入りが難しくなった。
4月4日、慣熟訓練を終えて一人前となった伊351は実戦部隊の第15潜水隊へ転属。4月7日15時に伊予灘から倉橋島本浦泊地へ移動し、空くのを待ってから呉工廠に入渠。輸送任務に向けた準備を開始する。1945年に入った時点で帝國陸海軍は太平洋の離島をほぼ全て失っており、もはや本来の補給任務を行えないとして、代わりに物資の集積地となっているシンガポールに航空燃料を取りに行く危険な任務に臨む。呉軍港には作戦用の貯蔵燃料が2000トン程度しかない枯渇寸前の状態だったが、幸い伊351を含む潜水艦はディーゼルエンジンで駆動するため水上艦と比べて燃料消費が少なく、何とか出撃は可能と言えた。
4月30日14時13分、連合艦隊電令作第643号に従ってガソリン輸送に出発する旨を関係各所に通達。5月9日をシンガポールへの到着予定日とした。
1回目の輸送
5月1日、見送りを受けながら潜水艦岸壁を離れて出港。伊351には現地の守備隊向けの衣類や弾薬、航空部品が積み込まれていた。しかし片道約5000km――シンガポールまでの道のりは非常に危険なものだった。米潜水艦の巣窟と化している豊後水道を避けて関門海峡側から外洋に進出するのだが、こちらも機雷封鎖されているため危険度は大差無く、四苦八苦しながら九州側の陸地ギリギリを沿って翌2日午前7時に機雷原を通過。味方の援護を受けやすい大陸接岸航路を選択し、中国大陸に沿って南下する。
制海権も制空権も無い道中、どこから敵が現れても不思議ではなく、敵哨戒機や機雷が行く手を阻む道無き道を進む伊351。既にヒ船団は運航停止となっているため、この広い洋上において味方の船舶はどこにも存在しない。
米潜が遊弋する台湾海峡、機雷原があるインドシナ沖、米潜水艦20隻が常時配備されている南シナ海とボルネオ島近海を次々に突破。いよいよシンガポールが見えてきたその時、最後の壁が立ちはだかる。シンガポールへの進入路にある6つの機雷原とジョホール海峡に投下された55個の機雷群である。これらは3、4ヵ月前にB-29が敷設した機雷で、掃海が遅々として進んでおらず、そっくりそのまま残されていた。去る5月4日には第二弥栄丸が触雷沈没している。幸運にも伊351は触雷せずに無事突破に成功。青い海と緑色に生い茂る南洋植物が久々の来客を出迎える。
5月15日17時10分、ついにシンガポールへ辿り着き、セレター軍港の岸壁に接岸して積み荷を揚陸。続いて5月17日から20日にかけて入渠整備を行い、バラストを交換するとともに13万2000ガロン(50万リットル)の航空燃料を積載する。この50万リットルは25mプール+αの量である。シンガポールもカルカッタ近郊から飛来するB-29の盲爆を受けていたが、連合軍が奪還後に使用するという事で海軍施設は爆撃対象外となっており、整備が可能だった。ところが伊351の動向はメルボルンに拠点を置く連合軍の無線傍受部隊FRUMEL(フルメル)に読まれており、シンガポールで乾ドックに入渠しているところまで特定された上、この後も執拗な情報追跡を受ける羽目になる。
5月21日にシンガポールを出港して内地へ向かう。大陸接岸航路を使うため帰路も機雷原や米潜の狩り場を通り抜けなければならなかった。
5月31日、FRUMELは「シンガポールから佐世保に向かって航行中の伊351は6月2日に北緯31度東経126度の地点を通る」と発表、付近を遊弋中の米潜水艦に通達されたが、敵襲を受ける事は無かった。呉への帰路である関門海峡や豊後水道は厳重に機雷封鎖され、通行不能となっていたため帰港先を佐世保に変更。しかし、その佐世保も既に機雷が投下されており、湾内にて漁船の第三玄栄丸が触雷損傷するなど決して安全ではなかった。それらの障害を潜り抜けて6月13日13時に佐世保へ帰投する。
伊351が危険を冒して持ち帰った航空燃料は神風特別攻撃隊の訓練に使用。シンガポールからの輸送成功は1945年3月13日に生還したヒ96船団以来であり、実に約3ヶ月ぶりの快挙であった。この功績により第6艦隊司令の醍醐中将は連合艦隊司令小沢治三郎中将から特別表彰を受けている。
岡山艦長は軍令部へ報告を行うべく汽車で上京、家内の実家に立ち寄った後に佐世保へと戻った。
次なる輸送の準備
5月8日、地球の裏側で戦っていた同盟国ドイツが降伏した。これに伴ってシンガポールやスラバヤで停泊中のモンスーン戦隊のUボートが宙に浮いた存在となり、現地の海軍部隊が接収。戦えなくなったドイツ人乗組員に代わって艦を動かす人員が必要となったため第6艦隊に日本人乗組員の配置を求めた。
ちょうど伊351が次のガソリン輸送で再度シンガポールに向かう予定だったので、U-181とU-862に配属する士官や軍医を便乗させる事とした。また、帝國海軍上層部は暗号が敵に解析されている懸念を示し、シンガポールにいる第10方面艦隊向けの新たな暗号表を積み荷に含める。
6月14日、FRUMELは再び暗号を解析し、「伊351は暗号表と対空弾薬をシンガポールに輸送、6月19日に佐世保を出発予定」と発表。
佐世保軍港では空襲に備えて軍需品を山の中に分散配置する作業で忙殺されていた。しかし伊351が所属する第6艦隊は司令部が呉にあるため、乗組員には何ら命令が下されず、多忙な雰囲気に支配される鎮守府や軍港内においてのんびりと過ごしていた。やがて伊351でも出撃の準備が始まり、時折鳴り響く空襲警報に注意しながら酒保から日用品、甘味料、酒類を運び込み、暗号表60箱と便乗者9名を乗艦させる。士官室を始めとした全ての区画の通路にはベッドの最上段にまで届くほど食糧が詰め込まれており無数の麻袋や缶詰めの箱が移動を妨げたとか。
6月20日、便乗組が一時的に伊351乗り組みを命じられる。同日、佐世保鎮守府の先任参謀桑原大佐は岡山艦長の教官だった縁で官費を使って伊351乗員と便乗組が旅館で祝宴を開き、武運長久を祈った。
2回目の輸送
6月22日14時、佐世保工廠岸壁を離れて出港。二度目のシンガポール輸送に従事する。この日、呉軍港の地上施設が激しい爆撃を受け、工事進捗率90%だった姉妹艦伊352が撃沈されてしまっている。
制空権及び制海権無き海を突破する事から便乗者も司令塔や発令所に立って可能な限り艦務を手伝った。前回同様大陸接岸航路を取り、昼間は潜航、夜間は水上航行を行い最大限の警戒をしながら進む。一方、FRUMELは伊351の動きを監視し続け、6月25日正午には北緯28度20分の中国大陸沖にいると割り出された。
6月26日17時25分、台湾海峡北部を潜航中の米潜水艦デンテューダ(SS-335)は伊351のものと思われる高速スクリュー音を探知。2分後に行った潜望鏡観測により推定速力約16ノットで水上航行中の伊号潜水艦と判断し、17時30分に艦尾発射管から4本のMark18魚雷を発射するも、全て外れる。伊351は雷撃された事に気付いていない様子だった。伊351は敵潜を警戒して3分間隔でジグザグ運動をしていたため、18時13分に浮上して水上航行による追跡に切り替える。デンテューダはSTレーダーを使って追跡を続けるも、20時31分、3型電波探知機がレーダーの波長を捉えて追跡に気付いたのか、伊351が西方への偽装航路を取り始めた。これにより一時は振り切られるが、23時10分に約9000m先の伊351を発見して接触を回復。それから2分後に潜航して雷撃の機会を窺うデンテューダ。ところが、潜航の隙を突かれて逃げられてしまい、23時30分に台湾海峡内で接触を失う。その後の捜索もむなしくデンテューダは伊351を発見出来ず取り逃がした。米太平洋艦隊の司令官は「デンテューダが雷撃したのは伊351である」と結論付けている。
夜間に水上航行していると時折レーダーを持った哨戒機がすっ飛んで来るためそのつど急速潜航してやり過ごす。また海峡内では潮流の影響で潜航していても艦が左右に揺さぶられ、一日中眠れない事も多かったとか。ピリピリとした警戒態勢が続く中、艦内では岡山艦長の人柄もあってか和気あいあいの雰囲気が流れており便乗者と当直以外の士官が交流していた。シンガポール入港を前日に控えた7月5日に13号対空電探が故障するトラブルに見舞われたものの特に異常なし。マラヤ奪還作戦の妨げにならないよう連合軍は機雷の敷設を止めていたため前回と同じ進入路でも問題は無かった。
7月6日、シンガポールのセレター軍港に到着。岸壁に着岸した後、便乗者は迎えの車に乗り移って退艦し、地上にある艦隊司令部へと出頭していった。伊351は7月7日から10日にかけて入渠整備、航空燃料13万2100ガロンと内地帰投する第13航空艦隊の対潜哨戒機搭乗員42名を積載する。
7月11日にシンガポールを出港。ところが、巧みに包囲網をすり抜ける伊351を今度こそ仕留めようと、アメリカ軍は南シナ海に7隻の潜水艦を忍ばせており、伊351は佐世保を目指す途上で消息不明となる。
最期
1945年7月14日23時56分、ボルネオ島北西、南シナ海を北東に向けて14ノットで之字運動していた伊351は、近隣海域で待ち伏せていた米潜水艦ブロワー(SS-325)にレーダー探知される。
翌15日午前0時30分、伊351から放たれる13号対空電探の波長をキャッチしたブロワーは急速潜航、午前2時15分に距離910mからMark18魚雷4本を2回に分けて2本ずつ発射。このうち最初の2本は伊351に命中したが不発、残りの2本は外れた。艦体に魚雷が当たった事を示す「ズドン」という音が伊351にもブロワーにも届くほどの大きさで2回響き、敵襲に気付いた伊351は急速潜航を行って退避。
すかさずブロワーは艦尾発射管に装填されている魚雷を使って逃走する伊351を再度攻撃しようとしたが、近くで3回の爆発音が轟くとともに艦が揺さぶられ、また聴音手が高速スクリュー音を探知した事で日本の護衛艦艇が現れたと判断、思わぬ潜航を強いられて伊351を取り逃がす。やむなくブロワーは近くを哨戒している僚艦ブルーフィッシュ(SS-222)に位置情報を送った。
午前3時14分、ナトゥナ島東北東190kmを12ノットで水上航行中の伊351をブルーフィッシュがレーダーで捕捉し、追跡を開始する。午前4時11分、狙いを定めたブルーフィッシュは距離1690mから4本の魚雷を発射、うち2本が中央部と艦尾に命中してガソリンに誘爆、艦体を真っ二つに折って艦尾から沈んでいった。乗組員と便乗者合わせて110名が死亡。
朝、被雷時の爆風で海に投げ出されていた3名の見張り員がブルーフィッシュに救助された。艦内で尋問を行った結果、沈没した潜水艦が伊351である事、雷跡を発見した時は10ノットで航行していた事が判明した。伊351を撃沈した日、アメリカ軍のウルトラ電は「7月15日朝、ブルーフィッシュがボルネオ島沖で潜水艦を撃沈したと思われる。その潜水艦はおそらく航空用ガソリンやその他戦略物資を積んでシンガポールから日本へ帰投中の伊351と認められる」と発した。
1945年7月31日、帝國海軍は南シナ海で亡失と判断。9月15日に除籍した。
関連項目
- 0
- 0pt

