アンドレイ・チカチーロ 単語

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アンドレイチカチーロ

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注意

警        告

本項は実在した人物および事件を解説したものです。できるだけ燥な表現を用い、残酷な表現は省略する方向で作成していますが、その猟奇的な内容によって気分をする恐れがあります。それでもなお読みたいという方のみ、以下の記事をお読みください。

概要

アンドレイ・ロマノビッチ・チカチーロ(1936/10/16 〜 1994/2/14 アンドリェーイ・ラマーナヴィチ・チカチーラ、露:Андрей Романович Чикатило, Andréy Románovich Chikatílo)とは、ソビエト連邦内のウクライナ共和実在した連続殺人犯である。ウクライナ語ではアンドリーイ・ロマーノヴィチ・チュイカティーロ(Андрій Романович Чикатило, Andríy Rómanovych Chykatýlo)。その残忍極まりない犯行内容や、ソ連が崩壊へ向かう最中に事件が表面化したことなどから、東欧圏で活動した連続殺人犯の中ではもっとも高い知名度を有する。

通称「ロストフの切り裂き魔」または「ロストフの屋」(ラストーフスキイ・パトラシーチリ露: Ростовский потрошитель)、「ソビエト切り裂きジャック」(サヴェーツキイ・ジェク=パ、Советский Джек-потрошитель)、「い切り裂き魔」(クラースヌィイ・パ、Красный потрошитель)、「いパルチザン」(ク・パルチザーン、Красный партизан)、「悪夢」(ク・カシュマール、Красный кошмар)、「森林地帯の殺人鬼」(ウビーイツァ・イズ・リサパラスィー、Убийца из лесополосы)、「狂った」(ビェーシヌィイ・ズヴェーリ、Бешеный зверь)、「魔王」(サターナ、Сатана)、「ミスターX」(グラジダニーン・イクス、Гражданин X)など多数。

事件の発覚

1990年、長年にわたりロストフの切り裂き魔を追い続けていた警察KGBは、犯人ロストフ近郊の列車内で被害者を拾っているところまで突き止め、ロストフ発の全車両に捜官を配置するなど、厳重に網をっていた。11月6日の午後1時15分、の農場をパトロールしていたリバコフ巡査部長は、一人の長身男性から出てきて、井戸で手を洗っているところを撃。時期的にキノコ狩りの帰りのように思われたが、どこか様子がおかしい。包帯を巻いて、両手と右に新しいすり傷があり、なぜか背中に木の葉がくっついていた。

不審感を抱いたリバコフは、男に近づいて身分明書の提示をめた。アンドレイ・ロマノビッチ・チカチーロという名前をメモした彼は、その後上に報告した。本当はチカチーロを拘引したかったが、あいにくと相棒が休みだったのである。チカチーロの現れたから少女遺体が発見されたのは一週間後のことだった。

班がチカチーロについて調べていくと、その出張履歴はどれも事件のあった日に彼が現場に行けたことを示していた。またロストフの切り裂き魔は、84年に三かほど事件を起こしていない時期があり、この期間とチカチーロが政府財産横領罪で役していた時期がぴたり符号したのである。捜班は決意を固め、ロストフ州検事に逮捕状の発行を申請した。

逮捕を実行するにあたり4人の任務班に加え、監視班まで動員するものものしい体勢が敷かれたが、その捕り物は予想外にあっけなく終わった。仕事を終えて帰宅の途についていたチカチーロは、警察に囲まれて逮捕を告げられるや、容疑を問い正すことなく両手を差し出したのである。

実際に捕らえたあとで、捜班は改めてその人物像に驚かされていた。結婚して子供や孫もおり、かつては言語学を教えていたという、おとなしそうな50代の知識人。このような男が、50人以上の少年少女を惨殺したというのか。だが彼は、わずかな説得であっさりと「自分がロストフの切り裂き魔である」と認めた。

生い立ち

チカチーロは1936年ウクライナ社会主義ソビエト共和北東部のヤブロチュノエに生まれ、ノボチェルスクで育った。第二次大戦中に自ら命乞いをして捕虜になったと噂され、ナチ収容所から解放されたあと、スパイ疑惑をかけられてシベリア送りとなり消息を絶った。さらにスターリンによってウクライナカザフスタン等の農作物が計画的に強制収奪されたことで発生した人工的大飢饉ホロドモール)により、チカチーロが生まれた年に4歳のステパーン隣人に殺され、そのが喰われたとか市場で売りに出されたとかいう話もあるが、相は分からない。またタチアーナはが不在の時にアンナが身籠った子であり、本当の父親ウクライナを一時占領したドイツ兵であるとも言われていたが、これも相は不明である。

チカチーロの知は高かったが、生まれつき弱視であり、学校に入ってから黒板の字が読めず苦労した。また幼い頃は身体的にも優れておらず、乳首が長かったことを「オカマ」とからかわれ続け、によれば「いつも言いがかりをつけられて追い回されていた。野菜に隠れたまま、怖くて外に出ることもできなかった」ということだったが、青年期に入ってからは成長により人並み以上の体格となった。

18歳の頃、を訪ねてきた13歳の同級生に欲情して襲い掛かってしまうが、自分の性器射精こそすれ、めったに勃起しない障碍を備えていることに気づき、それを彼女に罵倒されてしいトラウマとなる。また19歳の時には17歳少女仲となり色々な民間療法を試してはみるが、結局のところ勃起障碍は治癒せず、1年半ほどで破局する。また、兵役が終わり故郷に戻った際は若い未亡人と懇意になるがやはり勃起には至らず、しかも彼女友達に相談したために彼の障碍村中に知られてしまい、羞恥のあまり首をろうとするが母親らに止められて失敗、彼は追われるように故郷を飛び出した。

このような性的脆弱を埋めるべく、得意の勉学を通じて己の向上を図ったチカチーロだったが、モスクワ大学への入学に失敗。それでも工業専門学校を経てモスクワの西500マイルの所にあるロストフ=ナ=ドヌの電話工となり、後に共産党に入党してそれなりのステータスを得る。30歳からは大学の通信課程により働きながらも苦学して35歳ロシア文学学位を取得した。ロストフに戻り炭鉱ノボシャハチンスクの寄宿学校文学教師となったが、生来の上がり症ができず、彼の担任クラス学級崩壊を起こした。

また28歳の時にの婚期を案じた紹介により25歳の妻フェオドシアを迎え、回数は少ないながらもどうにか夫婦の営みを果たし、長女リュドミーラと長男ユーリイをもうける。それでも性的コンプレックスが埋まることはなく、馬鹿にされるのを恐れて妻と関係しない日々が10年以上も続き、夫婦関係は冷え切っていった。

1973年ごろから欲求不満を持て余したチカチーロは、授業中に性器を弄っているのを生徒に見つかってからかわれたり、学校生徒たちへ男女関わらず性的ないたずらを犯すようになる。女子トイレを覗いたり、勉強を見るという口実でボディタッチするばかりでなく、寮の寝室へび込んで着換えを観察したり、寝ている児童にボディタッチをしながら自慰に耽った。これと学級崩壊が問題となって退職を余儀なくされたチカチーロは、ロストフの地方商業専門学校教師、鉱山技術学校の寄宿舎鑑などに転職していく。地位も収入もガタ落ちとなり、家族からは冷たいで見られ、すべての自信を失ってしまう。だがこういった転職後も、チカチーロは以前と同じように少年少女セクハラや性的虐待を繰り返し続けた。

淫楽殺人鬼

1978年12月22日、チカチーロは初めて殺人を犯した。現場はロストフ州シャハティメゼボイ被害者は9歳の少女エレーナ・ザコトワ(レーノチカ、レーナ等とする資料もあるが、いずれもエレーナの称形である)だった。学校から帰宅途中の彼女と、言葉巧みに同行したチカチーロの内面は、性的欲望に支配されていた。「抑えることなど不可能だった。荒れ狂う欲望がすべてを支配していた。少女を納屋に引きずり込むことにした」とはチカチーロ自身の供述である。

しく抵抗する少女に筆舌に尽くしがたい苛暴力を加えるうち、チカチーロの体に異変が起こった。ここ数年、性的に全く機していなかった性器がみるみる充血したあげく、一切何にも触れぬまま射精に至ったのである。

チカチーロは語る。「しばらくしてに返ると、少女はすでに死んでいた。死体衣服でくるんで近くのへ投げ込んだ。それは忘れがたい強な体験で、戦慄と性的絶頂感は言葉で言い表せない。それからというもの、少女を引き裂く妄想にとりつかれてしまった」

この経験を契機として、チカチーロは連続殺人鬼へと変貌していく。彼のような性的衝動による殺人犯を、快楽殺人の中でもっとも残酷で想像を絶する「淫楽殺人ラストマーダー)」と呼ぶ。ラストlust)とは制御不可能で、情とは関係な「色欲」のことを言い、またキリスト教で言うところの七つの大罪の一つでもある。

淫楽殺人犯には性的不能者が多く、その満たされない性欲を被害者断末魔によって得る。殺の高揚とともに、彼らの性器は一切の接触なく絶頂に達する点が特徴だが、この不可解な生理メカニズムを解説すると、自分でも試してみようなどと考える輩が出かねないため、ここでは割愛する。ともかく、そうした特性から被害者に性的暴行が加えられることは少ない。代わりに、彼らの体は極めて無惨に破壊される。

ほかの淫楽殺人犯としては、「ヨークシャー・リッパー」ことピーター・サトクリフ、「フランスの切り裂き魔」ジョセフパチール、イタリアビンセントベルゼニらが知られる。有名なジャック・ザ・リッパーも淫楽殺人犯であった可性が摘されている。多くが性的不能者であるが、中にはセックス自慰も罪深いと宗教的に自らを抑圧したウィリアム・ハイレンズバイセクシャル数の性的倒錯を抱えていたアルバートフィッシュのように、男性が正常な例もある。殺よりも出血に奮した、という「デュッセルドルフ吸血鬼」ペーター・キュルテンは淫楽殺人犯の類例と言えそうだ。

100万人に1人の男

エレーナの事件から3年後、チカチーロはさらに職を追われて鉄道工場の資材調達責任者に転じていた。この転職自体が計画的だったともいわれる。なぜなら資材調達を理由に、ソ連広大土を縦横に巡れるためだ。そうして各地で殺人行脚を続けるうち、チカチーロは犠牲者の舌と性器をひどく破壊、食するパターンを示すようになり、時には死体のまわりで「赤軍のパルチザンだ!」と狂喜乱舞した。

対する警察は、チカチーロの犯行がソ連全土に及んだことや、犠牲者が男女問わなかったことから同一犯と考えず、最終的にKGBが介入するまで統一した捜を行わなかった。これが犠牲者の増えた理由の一つだったが、まったく逮捕の機会がなかったわけではない。チカチーロはとにかく運がよかった。例えば最初のエレーナの事件では、同様の前科を持つ別の男が容疑者として逮捕され、苛な民警の取り調べにより殺人を「自供」、事件の5年後に銃殺刑に処されて「解決」している。

1984年9月、ノボシャフチンスク郊外遺体の置かれた茂みのそばで、血だらけのナイフを持ったまま発見されたチカチーロは、不審人物として拘留されたが数日後に釈放となった。その理由は彼の血液型と、殺現場の精液からABO式で判別された血液型が一致しなかったためである。当時の医学では、血液精液は必ず同じと信じられていた。この概念が覆されたのは1990年のこと。100万人に1人の割合で、血液精液が一致しない人間が生まれると分かったのだ。

チカチーロはその100万分の1人だった。精液AB型だったが、チカチーロの本来の血液型A型である)

逮捕後にチカチーロが供述した犯行は55件に及んだ。犠牲者は8歳から16歳少年少女と成人女性で、家出人や知的障碍者なども含まれていたためか、立しきれない犯行が数件あり、結果チカチーロは53件(52件とする資料もある)の殺人で立件された。実際の被害者数はさらに多かった可性が高い。

チカチーロの犯行が常に性欲任せで衝動的にも関わらず、一度も撃されなかった理由は、時代的にソビエト連邦が崩壊していくなか、欧文化などが流入し、その享楽的な生き方をめる少年少女が増えたことにある。ロスト地方においても、家出人や職を失いホームレスとなった若者売春婦まがいの女性がよく見られるようになっていた。ビデオを見せてやる、お菓子をやるなどと言って彼らを騙し、人気のない場所へ連れ込むのは容易かったのである。もちろん、共産党員の教師という肩書が幼い子供を扱う際に有利に働いたことは言うまでもない。

裁判とその後

1992年4月ロストフ=ナ=ドヌで行われた判は、「ロストフの切り裂き魔」と名付けられたロシア史上最悪の殺人犯を一見ようとする傍聴者によって埋め尽くされた。数時間にわたって起訴状を読み上げた判事は、チカチーロの残虐すぎる犯行内容から、感情を抑えるのにたびたび苦労した。

判によって事実を知らされた犠牲者の家族らは、法廷内でも意識を失った。ある母親は怒りのあまり、被告に近づこうとすらした。裁判長はこういった民衆の怒りに備え、皮にも犯人であるチカチーロを守る格子を法廷内に設置せざるを得なかった。例えば、姉妹を殺されたある男性が大きな金属の塊をチカチーロの格子に投げつけ、警備員が取り押さえようとすると他の遺族たちが男性必死う、といった一幕もあった。

チカチーロには法廷に入るたび怒号と罵が浴びせられたが、彼はそのようなを一顧だせず、裁判長や検事に尋ねられるとはっきりと、薄笑いすら浮かべた礼な態度で、微の感情も見せずに答えた。時にはテレビ中継されていることを意識した、演説めいた応答もあったという。以下はチカチーロによる心情の吐露である。

仕事柄、地方電車バスに乗ることが多い。そこには浮浪者が大勢たむろしている。金さえあれば一日中飲んだくれている役立たずどもだ。らは便所汽車の中で気で性行為に及ぶ。それを見るたび自分の屈辱を思い出す。どうしてのは勃たないんだ。こいつらのように堕落したらが性を楽しんでいるというのに。らの仲間になるのは簡単だが、らはまで堕落させてしまう。らは現金を欲しがる。食い物をくれという。ウォッカを飲ませろという。その代償はらの体だ。あんならは殺してもかまわない

1992年10月14日、チカチーロに問答用の死刑判決が下されたが、遺族らは納得しなかった。「正義はなされても、その実現は不可能だ。そいつを私たちに引き渡せ。そうすりゃ私たちが子供たちにされたように、バラバラに引き裂いてやる!」とマスコミに訴えかけた。

ボチルカスク刑務所に収監されたチカチーロは上告したが、1993年最高裁判所はこれを棄却、死刑が確定した。更に、エリツィン大統領にも恩赦を願い出たが、当然ながら1994年1月にはこれも却下され、同年2月14日に務所内の防音室にて、右からのたった1発の弾によって刑に処された。大量殺人鬼にしては驚くほどあっけない最後であった。享年57歳。

後年への影響

チカチーロを語る際に、多く付きまとうのが「共産主義社会でも連続殺人鬼が発生する」という話題である。これはソ連が「連続殺人資本主義の弊であり、共産圏では発生し得ない」としていたことによる。チカチーロはソ連の体制崩壊とともに、そのを木っ端みじんに打ち砕く存在だった。

この話題は、語る者が右か左かという問題ではなく「個人の狂気によって行われる犯罪は、社会体制などで防げるものではない」ということを意味している。彼らシリアルキラーをほんの数人でも詳しく調べれば、その犯行要因は環境ないし、個人の(精神的、体的)資質であることが明らかになるだろう。中には内に発生した腫瘍が間接的原因となって殺人鬼に変貌した、という事例(チャールズ・ホイットマン)もある。酷な言い方になるが、殺人鬼も「発生するときは発生してしまう」のである。

チカチーロは数ある連続殺人犯の中でも存在感のある方だが、表面化したのが90年代と近年のため、まだ二次創作映像化などのネタとなった回数は少ない。映画では「ロシア52人殺人犯/チカチーロ」、小説では「チャイルド44」、ほかには格闘漫画刃牙シリーズの「最死刑囚編」に登場したスペックなどである(チカチーロも6フィートの長身だったが、もちろんスペックのようにたくましくはない)。

死刑囚の中でもとりわけ残スペックと、最強ヤクザ花山薫による、格闘というよりほぼ殺し合いに等しい戦いは、刃牙シリーズの中でも格段にバイオレンス度の高い一戦となっている。

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