平海(軽巡洋艦)とは、中華民国海軍が建造・運用した寧海級巡洋艦2番艦である。1936年6月18日竣工。支那事変中に日本軍が鹵獲して軍艦八十島となる。1944年11月25日、サンタクルス沖で航空攻撃を受けて沈没。
平海(Ping Hai)は直訳すると「友好的な海」という意味。
第一次世界大戦後、中華民国海軍が保有する艦艇は旧式で占められていた。相次ぐ内戦でインフラが破壊された上、陸軍にばかり予算が投じられたため、艦艇の刷新が出来ずにいたのだ。そこで中国国民党を率いる蒋介石総統は海軍の近代化を企図。大日本帝國に2隻の小型巡洋艦(後の寧海級)を発注した。
1番艦の寧海は日本の播磨造船所で、2番艦の平海は上海の江南造船廠で建造される事に。
設計は艦政本部の設計主任である藤本喜久雄造船少将が担当。彼は最上型重巡洋艦や初春型駆逐艦を手掛けた実績ある人物だった。中華民国海軍は主に揚子江や沿岸部での警備活動を主眼に置いていたため、排水量2200トンという大型駆逐艦並みの船体に重武装を施し、喫水を浅くして河川での活動に適した設計にするなど、巡洋艦というよりかは小型海防戦艦に近い運用思想を持つ。また艦橋の形状と集合煙突に古鷹型重巡洋艦の類似性が見える。寧海級の火力は夕張型以上とされ、それでいて建艦費用は半分程度と中華民国にとって決して悪い買い物ではなかった。
中国の燃料事情を考慮して機関は石炭専焼式を採用。播磨造船所で行われた公試では黒煙を吐き出しながら進む平海の写真が残されている。
しかし日本艦特有の欠点である重武装ゆえのトップヘビーも健在。友鶴事件の発生でトップヘビー危険性に気付いた中国の専門家は、平海の前部三脚マストを細くして独立させ、射撃指揮所を前部マスト上から艦橋上に移し、水上機運用設備を省き、小さい後部上構上に短い後部三脚マストを設けるなどの改良を行っている。
中華民国海軍が平海を運用したのは僅か1年3ヶ月程度で、残りの6年ほどは日本で過ごしているため、中国の艦でありながら日本での活動期間の方が長い。ちなみに改名後の八十島は帝國海軍に編入された最後の軽巡洋艦だったりする(最後に就役したのは軽巡酒匂だが、酒匂の軍艦籍編入は八十島より5ヵ月早い)。
要目は排水量2448トン、全長106.7m、全幅11.95m、喫水4m、最大速力23.2ノット、乗員361名。兵装は50口径14cm連装砲3基、8.8cm単装高角砲3基、57mm単装砲4基、マキシム8mm機銃8丁、53.3cm水上連装魚雷発射管2基。
1928年、中華民国は北伐を完了して国内における確固たる地位を確立。しかし南北対立に関して列強各国は中立を貫いたため、南北政府ともにマトモな援助を受けられず、勝者たる中華民国ですら型落ちの兵器で占められていた。ひとまず内戦の終了で諸外国に兵器の発注が出来るようになったので、蒋介石総統は今後15年で60万トンの艦船を建造すると宣言、米英の大手造船会社の関心を買ったが、西側諸国は価格と支払方法の件で中華民国に強い不信感を抱いており、一括払いを要求してきた。だが内戦が終わったばかりで国土が荒廃している中華民国に一括払いなど出来るはずがない。交渉は暗礁に乗り上げた。
そんな中、援助を申し出たのが大日本帝國だった。日本では中国海軍を再建して日中共同で仮想敵アメリカに対抗しようとする考えがあったのだ。渡りに船という事で、1929年より中華民国と日本は新型艦建造について交渉を開始、1930年末に2隻の小型巡洋艦建造で契約に至った。
1931年7月9日に上海の江南造船廠で起工。材料は日本から輸入したものを使用、図面は日本側から提供され、建造には播磨造船の技術者も寄与しているなど、半分日本の血を引いているようなものだった。しかし中国では反日感情が非常に高まっており、満州事変、第一次上海事変と立て続けに問題が発生、日中間の関係悪化に伴って工事も遅延し、日本側から副砲の提供を拒否されるなど次第に協力を受けられなくなってきた。それでも蒋介石総統と犬養毅首相の個人的な親交のおかげで工事は続行、得られなくなった副砲はドイツ使節団の協力で入手したクルップ社のボフォース40mm対空砲と機関銃で代用している。
1934年3月12日に友鶴事件が発生。重武装を施してトップヘビーになっていた水雷艇友鶴が荒天で転覆したのである。これを受けて副砲を半減、水上機と格納庫を撤去、艦橋を小型化し、推進軸を3軸から2軸に減らすといった対策を行った。
1935年10月8日に進水して平海と命名。内戦によるインフラ破壊で艤装工事が行えないので、船体のみを完成させた後、10月30日より播磨造船で艤装工事を行い、1936年6月18日に無事竣工を果たした。蒋介石総統は工事関係者に感謝状を贈ったという。こうして平海は中華民国海軍に引き渡されて相生から上海に回航。寧海に代わって中国第1艦隊の旗艦となる。中華民国初の近代巡洋艦たる寧海級は宣伝ポスターに掲載され、その存在感を示した。
だが日中共同で造られた平海は、無情にも「親」同士の戦争に巻き込まれていくのだった。
1937年7月7日に盧溝橋事件が、8月13日に第二次上海事変が勃発し、日中は宣戦布告無き戦争状態へと突入してしまう。8月22日、平海は対空砲火で龍驤艦載機を撃墜する戦果を挙げる。
蒋介石総統は首都南京を守るべく、上海と南京の中間に位置する江陰要塞へ姉妹艦寧海、老朽巡洋艦鷹瑞、砲艦1隻を派遣。これらの艦艇は日本側の航空作戦を阻害していた上、特に近代装備を持つ平海と寧海の2隻は、揚子江下流で活動する小型艦にとって大きな脅威となりうる事から、中国方面の作戦を担当する帝國海軍第3艦隊司令部は、速やかに中国艦隊を撃滅しなければならないと考えた。9月20日19時、第2及び第5航空部隊に江陰要塞の敵艦隊攻撃を命令。当初の予定では9月21日攻撃だったが天候不良で一日延期している。
9月22日午前、九二式艦攻12機と九五式艦戦6機による第一次攻撃隊が江陰に出現、激しい対空砲火をかいくぐりながら二度に渡って平海と寧海に水平爆撃を行い、平海は直撃弾2発と至近弾1発を受ける。この日は日没を迎えるまでに3回の航空攻撃があった。翌23日の第四次航空攻撃で平海は爆弾3発を被弾、寧海と揚子江を遡江して上流への退避を開始するも、そこへ第五次航空攻撃が行われ、直撃弾3発を喰らった事で黒煙と蒸気を吐き出しながら鎮江上流の江岸に擱座。ついに船体は放棄された。一連の航空攻撃で寧海も大傾斜しながら大破着底、中華民国海軍の有力艦艇は軒並み撃滅され、帝國海軍の作戦を阻む水上戦力は事実上消滅した。
南京陥落後の12月5日、日本海軍が平海の残骸を拿捕。予定では汪兆銘政権下で運用するはずだったが、揚子江は淡水なので海水よりも損傷が少なく、再利用が可能と判断、日本軍が接収する運びとなる。
1938年前半に平海と寧海は浮揚、ひとまず上海へ回航して応急修理を行ったのち、佐世保に曳航する。寧海級を特設巡洋艦に改装する案があったが、外洋航行すらマトモに出来ない2隻の改装は不要不急とされ、7月11日、海防練習艦に艦種変更するとともに見島に改名、佐世保海兵団の居住用ハルクとして佐世保港内に係留される。
大東亜戦争開戦後の1942年5月27日、急激に増加しつつある新兵教育に対応するためか、平海は宿泊艦だけでなく、各種補習生及び特技兵、第2海兵団所属四等機関兵の艦務実習に充てられており、いよいよ艦が足りなくなってきたので、廃駆逐艦柳が実習兼宿泊艦として引っ張り出されている。
1944年1月4日、平海を呉に回航するよう命令が下る。米潜水艦の跳梁、悪化し続ける戦況、護衛艦不足などの状態を鑑み、帝國海軍は平海と寧海を海防艦に改装しようと考えた訳である。
2月3日、練習巡洋艦香椎に曳航されて佐世保を出発、翌4日に呉へと到着して、外洋航行に耐えられるだけの大規模改装工事を受ける。復原性を確保するべく大きな艦上構造物は一新、主砲を三年式14cm連装砲に換装、大型前楼を撤去し、高角砲と対潜装備を追加して戦況に即した艦に仕上がった。また一等輸送艦や通常の海防艦と比較して船体が大きく、デリックも装備していたため、航空基地の移動や大発動艇を使った輸送に向いている事が判明している。6月1日に八十島と改名。
そして6月10日に工事完了。呉鎮守府へ編入されると同時に松村総一郎少佐が艦長に就任する。
改装工事完了から間もない6月15日、アメリカ軍がマリアナ諸島サイパンへの上陸を開始、これを迎撃するべくタウイタウイ泊地から小沢機動部隊を出撃させるとともに、大本営は鹿児島で待機中の陸軍2個師団をサイパンに輸送する伊号作戦を画策した。ところがマリアナ沖海戦の敗北とサイパンでの戦況悪化に伴って、作戦の実行が困難となり、サイパン行きの兵力は硫黄島へ送られる事に。また6月26日には大陸命第1038号を以って硫黄島兵団の戦闘序列が発令。より硫黄島輸送が重要化した。八十島は策源地の横須賀に回航、輸送船団の護衛任務に従事する。
目的地の硫黄島には揚陸施設が無く、通常の輸送船の場合、父島に物資を集約したのち機帆船などに移し替え、そこから220km先の硫黄島に運ぶという面倒なプロセスを挟まなければならなかった。このため物資輸送の行き先は硫黄島だが実質父島が終着点となっていた。
7月2日18時、八十島は海防艦天草、隠岐、第20号掃海艇、特設掃海艇第7昭和丸、第9号特設駆潜艇とともに第3702船団を護衛して横須賀を出港。しかし道中の7月4日、硫黄島と父島が米機動部隊の空襲を受けたとの報が入り、横須賀へ反転帰投。船団はそのまま解散となる。7月5日、再編制された第3706船団を護衛して横須賀を出港。護衛は八十島、隠岐、特設駆潜艇第2関丸、第52号駆潜艇の4隻だった。連日続いた硫黄島への空襲はピタリと止まり、米機動部隊の捕捉を狙った東号作戦でも発見出来なかった事から、小笠原諸島沖から米機動部隊は去ったと思われ、実際船団は何ら妨害を受けず、途中八丈島を経由して7月7日午前7時に父島へ到着。今度は護衛任務を完遂した。
8月30日午前11時、船団を護衛して横浜を出発、東京湾と外洋の境目である館山沖で仮泊し、翌31日午前4時に出発するが、第38.4任務群が空襲と艦砲射撃で小笠原諸島を攻撃しているとの報告が入り、すぐさま船団は反転帰投、横須賀にて解散した。敵の攻撃は9月4日まで続いた。
9月6日、八十島、海防艦八丈、第4号、第12号は2隻からなる第3905船団を護衛して横須賀を出発。だが、9月9日16時頃、小笠原諸島北西を航行中、配備点へ向かう途上だった米潜水艦バングに捕捉され、一斉に発射された魚雷が常磐山丸と昌隆丸に命中、積み荷の弾薬に誘爆して2隻とも轟沈させられてしまう。護衛の海防艦がバングの潜望鏡を発見して爆雷を投下。これに対しバングは水深180mにまで強引に潜航、起爆深度以上に潜った事で16発の爆雷が頭上で炸裂し、小破程度の損傷で済んだ。潜水艦は上からの衝撃には強いのである。船団を壊滅させられながらも八十島たちは目的地の母島に移動。
9月10日16時、父島発の第4901A船団3隻を護衛して出港。翌11日午前4時、父島沖で今度は米潜水艦フィンバックの襲撃を受け、八十島が追跡に移ったが振り切られ、二度の水上砲撃によって陸軍輸送船八祥丸と第2博運丸を撃沈される。残りは同日中に横須賀まで辿り着いた。
9月25日に連合艦隊第1輸送戦隊が新編。優秀な旗艦設備を持つ八十島は前々から戦隊旗艦が内定していたため、二等巡洋艦(軽巡洋艦)へ艦種変更、巡洋艦になった事で軍艦へと格上げになる。ちなみに姉妹艦の五百島(元寧海)は第1輸送戦隊旗艦、八十島は第2輸送戦隊旗艦になるはずだったが、五百島は直前の9月19日に米潜の雷撃で撃沈され、巡洋艦になったのは八十島だけだった。
10月15日から11月15日にかけて佐世保工廠で戦隊旗艦になるための改装工事を実施。指揮下の第113号、第142号、第161号輸送艦が陸軍戦車輸送のため先発したので後を追って佐世保を出港、高雄にて3隻と合流して11月22日に出港、オルモック緊急輸送が行われているフィリピン方面へと向かう。
11月24日午後、サマール沖海戦と米潜水艦の雷撃で大破し、ルソン島サンタクルス湾に退避中の重巡熊野と合流、熊野から負傷者収容の要請を受け、夕刻頃、十数人の重傷者を内火艇で艦内に収容する。マニラ到着後に現地の海軍病院へ移送してあげるためである。八十島には最近まで熊野に乗っていた士官が1名おり、変わり果てた熊野を見て驚きを隠せなかったという。輸送隊と会話を交わした熊野乗員によると、彼らは「1週間もしたら、待ち焦がれているレイテの陸軍に戦車を揚げてやるのだ」と張り切っていたとか。
1944年11月25日早朝、八十島と二等輸送艦3隻はサンタクルスを出港してマニラに向かう。しかし午前7時40分より米機動部隊がマニラ、クラーク、バタンガス、サンタクルス、サンフェルナンドなどのルソン島要地に航空攻撃を仕掛け、サンフェルナンド沖で八十島の下にも米空母タイコンテロガとラングレー等から飛来した敵艦上機約30機が襲来。対空砲火で応戦する様子が熊野からも窺い知れた。魚雷1本を艦尾に喰らって八十島は撃沈、奮戦むなしく輸送艦3隻も撃沈され、午前10時頃に敵機が引き揚げていった。
八十島撃沈に伴い第1輸送戦隊の旗艦は駆逐艦竹に引き継がれた。生存者101名は現地の海軍陸戦隊に編入、フィリピンにおける地上戦で多くの戦死者を出した。1945年1月10日除籍。
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