柳(松型駆逐艦)とは、大東亜戦争中に大日本帝國海軍が建造・運用した松型駆逐艦14番艦である。1945年1月18日竣工。8月10日の大湊空襲で航空攻撃を受けて大破擱座した。
艦名の由来はヤナギ目ヤナギ科ヤナギ属の樹木の総称から。柳の名を冠する艦は本艦が二代目で、先代の桃型駆逐艦4番艦柳は、福岡県北九州市若松港の防波堤に利用され、現在も一部が残っている。
柳の木はしな垂れた枝から「柔らかい」「優しい」のイメージを連想させるため、古来より女性的なものと考えられ、柳に関連する妖怪も柳女や柳婆といった女性型が多い。また河川の土手を安定させる目的で水辺に植えられる場合が多く、水難事故の現場に近い事、風に吹かれて枝葉を揺らす姿が恐怖を感じさせる事から、いつしか幽霊と結び付けられ、この世と異界の境の象徴とも言われるようになったとか。
柳の薬効は解熱と鎮痛。葉の裏が白い柳の樹皮に解熱作用がある事実は古代ギリシャ・ローマ時代から知られていたという。後の19世紀に有効成分を合成して解熱鎮痛薬のアスピリンが作られた。
ガダルカナル島争奪戦やそれに伴うソロモン諸島の戦いにより、多くの艦隊型駆逐艦を失った帝國海軍は、安価で大量生産が可能な駆逐艦の必要性を痛感し、これまでの「高性能な艦を長時間かけて建造する」方針を転換。1943年2月頃、軍令部は時間が掛かる夕雲型や秋月型の建造を取りやめ、代わりに戦訓を取り入れ量産性に優れた中型駆逐艦の建造を提案。ここに松型駆逐艦の建造計画がスタートした。とにかく工数を減らして建造期間を短縮する事を念頭に、まず曲線状のシアーを直線状に改め、鋼材を特殊鋼から入手が容易な高張力鋼及び普通鋼へ変更、新技術である電気溶接を導入し、駆逐艦用ではなく鴻型水雷艇の機関を流用など簡略化を図った。
一方で戦訓も取り入れられた。機関のシフト配置により航行不能になりにくくし、主砲を12.7cm高角砲に換装しつつ機銃の増備で対空能力を強化、輸送任務を見越して小発2隻を積載、九三式探信儀と九三式水中聴音器を竣工時から装備して対潜能力の強化も行われている。これにより戦況に即した能力を獲得、速力の低さが弱点なのを除けば戦時急造型とは思えない高性能な艦だった。
要目は排水量1262トン、全長100m、全幅9.35m、最大速力27.8ノット、乗組員211名、出力1万9000馬力。武装は40口径12.7cm連装高角砲1基、同単装高角砲1基、61cm四連装魚雷発射管1基、25mm三連装機銃4基、同単装機銃8基、九四式爆雷投射機2基。電探装備として22号水上電探と13号対空電探を持つ。
改マル五計画において丁型一等駆逐艦第5497号艦の仮称で建造が決定。1944年8月20日、藤永田造船所で起工、8月25日に駆逐艦柳と命名され、11月25日進水、12月3日、艤装員事務所を藤永田造船所内に設置して事務を開始し、そして1945年1月18日に無事竣工を果たした。初代艦長には大熊安之助少佐が着任。竣工と同時に横須賀鎮守府へ編入され、訓練部隊の第11水雷戦隊に部署する。
大熊少佐は駆逐艦五月雨及び初春沈没時の艦長、水雷長の野村治男中尉は戦艦武蔵から、航海長の長山兼敏中尉は戦艦金剛からの転属であり、艦の将校はいずれも乗艦の撃沈を経験していた。柳は彼らのリベンジの場でもあったのだ。柳には士官12名、特務士官1名、准士官5名、下士官66名、兵186名の計270名が乗艦した。戦後、福島町では「柳乗組員は全て沖縄出身」という噂が流れたが、実際は呉鎮守府管下の愛知、三重、大阪、兵庫、鳥取、島根、広島、山口の出身者が多くを占める。大熊艦長は33歳だが、それ以外の乗組員は先任将校も含めて20代ばかりで、伝令配置の兵に至っては18、19歳の者であった。
1月19日、瀬戸内海西部にいる第11水雷戦隊と合流するべく大阪を出港。翌20日13時に呉へ入港するが、自差修正の必要性が生じたので約6日間停泊し、1月26日15時に山口県東部の安下庄泊地まで回航、戦隊との合流を果たす。間もなく第11水雷戦隊は柳、楢、桜に第一基地特別隊の訓練に協力するよう下令した。第一基地特別隊とは大津島を拠点とする人間魚雷・回天の部隊である。楢と桜は呉で整備中だったため柳が一番手となった。
2月3日正午に安下庄を出発、徳山燃料廠で給油を受けたのち、15時50分に大津島到着、2月8日まで連合訓練や標的艦を務める。同日14時40分に安下庄へと帰投。翌10日午前8時、軽巡酒匂、北上、駆逐艦花月、橘、波風とともに安下庄を出発、およそ5時間に渡って出動諸訓練を実施。駆逐艦の方が都合が良いのか訓練中は酒匂ではなく花月に将旗が掲げられた。
2月23日午後12時50分、呉に入港。しばらく港内に留まる。
3月4日17時30分、柳は酒匂、花月、橘、楡、波風、蔦と呉を出港、道中で航海諸訓練を行いながら進み、翌5日午前0時26分に安下庄へ進出した後、午前8時45分に再び出港して今度は橘と出動諸訓練を行う。3月15日付で柳、椿、桜、楢、欅、橘の6隻で第53駆逐隊が編制される。3月19日の呉軍港空襲時、柳は、呉の南西約50kmの周防大島笠佐島に停泊していて、敵艦上機群と交戦したものの、敵機は艦船襲撃を目的としていなかったらしく、激戦にはならなかったという。3月24日、呉鎮守府局地防備演習参加のため安下庄に回航。3月26日に呉へ入港する。
4月1日、第11水雷戦隊は第二艦隊に編入され、4月6日には第31戦隊ともども戦艦大和率いる第一遊撃部隊の待機部隊に部署、出撃準備を完成させた上で瀬戸内海西部での待機を命じられる。予定では第一遊撃部隊の同伴として沖縄方面に突入するはずであった。作戦に備え、柳は不要物などを全て陸揚げした。
4月7日午前10時2分、旗艦酒匂に率いられて柳ら第11水雷戦隊は呉を出港、八島泊地を経由し、4月9日に安下庄への進出を済ませる。ところが練度不足を憂慮されたのか、あるいは戦力を温存したい意見が通ったのか。第11水雷戦隊は第一遊撃部隊から外されて出撃の機会を失ってしまった。
4月15日、第二艦隊の解隊により作戦行動可能な水上部隊は第11水雷戦隊と第31戦隊のみとなる。同日付で柳は第31戦隊に転属。また第一遊撃部隊の沖縄突入失敗に伴い、4月20日、大本営は大規模な再編を行い、第31戦隊に半壊した第二水雷戦隊の残部を統合、連合艦隊に編入した。4月25日午前7時30分、橘とともに安下庄を出発、途中で大津島に向かう橘と別れ、中津島に回航したのち、翌26日午前11時に光沖へ到着、4月30日まで回天の訓練に協力する。
5月7日、千島列島から兵員を乗せて撤退作戦中の船舶、内地へ石炭等の物資を運ぶ輸送船護衛のため、柳は橘とともに、大湊警備府部隊直卒部隊に編入、速やかに大湊への回航を命じられ、5月9日14時に作戦準備を完成させる。2隻が抜けた穴は修理を終えたばかりの竹と楓で補われた。
5月13日15時に橘と呉を出港。速力14ノットで瀬戸内海西部を西進していく。翌14日、周防灘姫島沖でゴムボートに乗ったアメリカ軍パイロット2名を発見、彼らは米空母ランドルフから発進したSBCヘルダイバー急降下爆撃機のパイロットで、宇佐飛行場を爆撃したのち対空砲火で撃墜され不時着水していたのだ。このゴムボートに向けて2隻は銃撃を開始。
しかし、写真撮影班のF6Fヘルキャット8機が上空を旋回しており、ゴムボートから注意を逸らすべく機銃掃射を仕掛け、柳は戦死者1名と重軽傷者4名を出す。その後、パイロットは重巡アストリアから飛来したキングフィッシャー水上偵察機2機によって救助された。野村水雷長は「乗組員にとって貴重な実戦体験になった」と証言している。
瀬戸内海から日本海側に出るには関門海峡を突破しなければならない。だが、海峡はB-29によって厳重に機雷封鎖されていて、先月突破を試みた海防艦目斗が触雷沈没するなど、無策で突っ込めば撃沈は免れない危険な場所と化していた。このため航行禁止との命が下り、海峡の水路が啓開されるまで部埼にて待機。その間に戦死者や負傷者を陸揚げする。日中の関門海峡では決死の掃海作業が行われていたが、完了しないうちに、夜になるとB-29が飛来して新たな機雷を多数敷設していく。このようなやり取りが連日繰り返された。
待ち切れなくなった柳と橘は5月19日午後12時30分に部埼を出発、1時間後に関門海峡を強行突破し、本州北岸沿いを慎重に航行しながら、5月21日16時に目的地の大湊まで到着した。ところが柳が到着した頃、大湊警備府に送られるはずの敵潜の被害報告が途絶えてしまったため、無駄な索敵行動を抑えるべく大湊港での待機を命じられ、乗組員は各地の戦闘情報に耳を傾けながら気を揉む事しか出来なかった。
竜飛崎方面で敵潜による船舶の被害報告が入り、対潜掃討のため6月10日23時に日本海へと出撃。北奥尻島・南入道崎間の海域を哨戒する。この間に乗船を撃沈されて漂流中の生存者を救助。翌11日午前4時、占守島で爆撃を受けて損傷した海防艦八丈の舞鶴回航支援のため、橘と大湊を出港、津軽海峡西口の対潜掃討を行いながら八丈と合流し、6月13日16時に舞鶴まで無事送り届けた。
この頃、米潜水艦9隻が対馬海峡の機雷原を突破して日本海に侵入。通商破壊で13隻の商船と伊122が犠牲となってしまう。米潜の侵入に気付いた帝國海軍は舞鶴鎮守府、大湊警備府、海上護衛総司令部から対潜掃討部隊を投入して潜水艦狩りを実施。これに伴って柳と橘は津軽防備部隊に編入、日本海での大規模掃討作戦に加わる。
6月14日午後、北海道の積丹岬近海で対潜哨戒中、米潜水艦グレヴァルから雷撃を受けるも回避に成功、グレヴァルに対し激しい爆雷攻撃を加えた。その後、同方面を航行していた味方輸送船の護衛にあたり、6月17日21時30分に大湊へ帰投。橘と改めて作戦を練り直す。
6月22日午前10時に大湊を出港、17時30分に柳は福島町沖へ停泊。日本海に侵入した米潜水艦は津軽海峡を通って太平洋に脱出すると思われ、柳は福島町沖に停泊して竜飛崎、橘は函館沖に停泊して大澗崎に対して水中聴音と水中探信を行い、離脱を図る敵潜の捕捉撃滅を試みる。これと並行して13号対空電探や22号水上電探による索敵、肉眼による見張り員の監視も実施し、橘及び大湊警備府との連絡も絶やさなかった。ちなみにこのような配置となったのは、大熊艦長が後輩の林艦長に「少しでも安全な場所を」と譲ったからである。厳重な対潜警戒を行ったにも関わらず、6月25日夜に米潜水艦8隻は津軽海峡を通って脱出した(ボーンフィッシュのみ撃沈に成功)。
福島町の住民とは良好な関係が築かれた。村長が大熊艦長に協力を申し入れ、それを受けてか、安全な時間帯に乗組員が何班かに分かれて入浴上陸、あるいは洗濯のための上陸を行い、そのたびに住民たちから親切にしてもらったという。航続距離の関係で今まで東北や北海道方面にはB-29が飛来しなかった。しかし6月26日未明に初めて津軽海峡での出現が認められ、6月29日には津軽と大湊を偵察するかのように掠めていくなど緊張が高まり、また警戒警報発令の頻度も増えていった。
7月1日午前10時45分、補給と打ち合わせのため福島町を出港。橘と一緒に14時50分大湊へ寄港して2日間の補給を受ける。それが終わると大湊警備府の指示で日本海の対潜掃討任務に従事する。7月4日、警備府より味方船舶の被害と敵潜出現の報を受け、14時53分に福島沖を緊急出動、橘と一緒に日本海方面に向かい、江差沖、大島、小島の広範囲を索敵。翌5日はその南方を索敵したが敵情を得られず、18時40分に福島錨地へ帰投。
7月8日、再び船舶被害発生の報を受けて午後12時5分に出撃。船舶が被害を受けた海域を中心に掃討を行い室蘭付近まで進出した。橘と連絡を取り合いつつ夜間まで索敵を行うも敵潜の発見には至らず、翌9日正午に索敵を切り上げ、17時に福島へと帰投。
政府は青函連絡船が維持出来るのは概ね2ヶ月と判断。7月11日から緊急輸送体制へと移行した。
7月14日午前4時40分、大湊警備府から「敵機動部隊0450より0550、F6F三群6機40機15機、八戸、三沢、大湊、北海道地区に分かれて銃爆撃中」との通信が入り、10分後、夜が明けたばかりの空に空襲警報が鳴り響いた。近海の米第38任務部隊から飛び立った敵機の大群約100機が北上してきたのである。
北海道松前部福島沖にいた柳の電探室は、警報が出る少し前の午前3時30分、「敵大編隊らしきものが東南東海域を北上中」と報告、艦長と航海長はこの情報を大湊に通報していた。実際に警報が出てから間もなくして、敵大編隊群が北上してくるのを目視で確認。直ちに戦闘配置に就くが敵編隊は室蘭や函館方面に飛び去って行った。その後、橘からの「我轟沈す。0653」の電文を受信、函館沖で先ほどの敵編隊にやられたのだ。
柳はまだ戦闘前だったが、いずれ攻撃が始まるのは目に見えていたので、福島町に被害が及ばぬよう、戦闘になったら捨錨して出港出来る準備を進める。そんな中、東方の海上から青函連絡船の第三青函丸が現れた。敵機は鉄道列車さえも標的にしており、そのような状況下で何と無謀な、と艦橋内で第三青函丸の身を案じていたところ、北方より現れた敵機の群れに襲われてしまう。距離が遠すぎて柳は助けに行く事が出来ない。間もなく第三青函丸は白煙に包まれて見えなくなった(後に撃沈されたと判明)。第三青函丸を仕留めた敵機は三厩方面に向かい、沖合いに浮かんでいた、漁船らしき小さな機帆船まで標的にし、あっと言う間に撃沈した。
緊張が高まる艦内では、対空戦闘に備えて全員が鉄兜を着用、第三種軍装の上に弾丸破片対策用のコートを着用した他、簡単な応急手当を自力で行えるよう腰に止血棒を下げ、高角砲や機銃発射時の空気圧で鼓膜が損傷するのを防ぐための耳栓を装備。
そして午前6時56分、ついに柳にも爪牙が剥けられ、敵空母エセックスの艦上機が襲ってきた。直ちに「捨錨!」「前進一杯!」「面舵にあて!」「射ち方始め!」と矢継ぎ早に号令が下され、急降下してくる敵艦上機に向けて高角砲が火を噴く。柳の右舷側に爆弾が投下されるも海底に突き刺さったのか水柱は立たなかった。激しい攻撃を受けながら柳は回避がしやすい南方に広い海域へ移動。
およそ50機もの敵機が柳の正面、左右、艦尾から殺到し、容赦のない機銃掃射を浴びせてきたため、まず左見張り員の浅田兵曹が撃ち抜かれて戦死、艦橋にも機銃弾が飛び込んで通信士の大腿部を撃ち抜いた。また操舵系統の油圧装置が機銃弾でやられたのか舵が故障してしまう。大熊艦長の指示で手動の応急操舵に切り替えて回避運動を続けた。野村水雷長曰く、レイテ沖海戦で武蔵を撃沈した米軍機と違って、柳を攻撃した敵パイロットの戦意と技量は格段に劣っていたとの事。
午前7時16分、艦内に大きな衝撃が襲った。後部砲塔にロケット弾が直撃し、艦尾がまくれ上がり、推進器を吹き飛ばされてしまったのだ。これではもう回避運動すらままならない。しかし敵機は柳を撃沈したと見なし、攻撃を停止して全機引き揚げていった。戦闘の終結に伴い艦内は静まり返る。一連の対空戦闘により3機撃墜、3機撃墜不確実の戦果を挙げ、戦死者21名と重傷者40名を出した。
急ぎ故障個所のチェックを行ってみると、操舵不能、右舷傾斜、電源故障により電信が通じず、計器類は全て狂ってしまうなど深刻な状態であり、航海士は六分儀を使って現在位置を割り出さなければならなかった。海上には衝撃で吹き飛ばされたであろう兵があちこちで漂っている。それを見つけた先任将校が「助けに行くぞ!しっかりして待っておれ!」と大声で叫び、救助のカッターや運貨艇を降ろそうとするも、艦の傾斜が激しい上、機銃掃射で穴だらけになっていて使用に耐えない。結局誰一人として助けられなかった。
艦内にも負傷者が多数いて、艦もろくに動かないため、しばらく漂流を強いられていたところ、福島連絡基地より大型運貨艇が救援に現れ、運貨艇からの手旗信号で橘の轟沈を知らされた。死傷者を運貨艇に移して一旦福島連絡基地に移送、間もなく漁船4隻を連れて戻って来た運貨艇に曳航され、午後12時30分、海岸に近い場所へと到着、残りの重傷者を陸に移す。
戦死者や負傷者は福島漁港の桟橋に集められた。そこでは多くの住民がリヤカーを用意して待っており、「死なしてなるものか」を合言葉に、丁重かつ迅速に、法界寺へと移送してくれた。その献身は柳艦内からも窺い知る事が出来、野村水雷長は感謝の気持ちでいっぱいになりながら涙を流していたという。戦死者は法界寺で弔われ、負傷者は矢野旅館に収容、町内の医師や、婦人会の方々の協力を得て、適切な治療を受けられた。
一連の対空戦闘を橘の艦長林利房少佐は「象に立ち向かうカマキリ2匹(橘、柳)の戦いだった」と戦後語った。
7月15日に第53駆逐隊は解隊。楢の触雷中破、司令駆逐艦桜の触雷沈没、橘の沈没、そして柳の大破で解隊の処置が取られたのだろうと鎌田航海士は述懐している。また同日付で柳は大湊警備府警備駆逐艦となる。翌16日、機関長立ち合いの下、住民の協力で火葬した遺骨を前部砲術科倉庫に安置。戦死者全ての遺体が回収された訳ではなく被弾の際の爆風で体が四散した者、海上に吹き飛ばされて行方不明になった者は当然遺体が無かった。その夜、強風に煽られて艦首が砂浜に乗り上げてしまう一幕があったものの、発電装置の復旧に伴い、電探での索敵も再開された。ちなみに戦闘前に投棄した錨は目印を付けていたにも関わらず最後まで見つからなかったとか。
7月18日、大湊から来た救難船淀橋が到着。負傷者全員を無事移送した。翌19日に座礁した柳の救難作業を開始、満潮を待ってから艦首を引き下ろし、13時より曳航を始めたが、海峡の海流のせいで6.5ノット程度の速力しか出せず、大湊港外に到着したのは7月21日午前1時で、翌日午前8時に内港宇浮標に前後係留替えを行った。
損傷の大きさから大湊船渠での修理は不可能と判断。もはや沈没扱いとされ、全乗組員は次の配置への転勤命令を待つばかりとなっていた。まず最初に機関長と主計長が転勤となる。
8月9日午前6時、柳、装甲巡洋艦常磐、特設運送船浮島丸など20隻の艦船が停泊する大湊に空襲警報が発令。第38任務部隊が本州北部、北海道、朝鮮半島の船舶及び飛行場に攻撃を仕掛けてきたのだ。13時15分、第38任務部隊から飛び立った空母艦載機が大湊湾への攻撃を開始、柳は動けない状態ながらも全高角砲、全対空機銃で応戦し、この日の空襲は何とか無傷で乗り切った。
だが翌10日早朝、今度は第3艦隊の高速空母機動部隊とイギリスの第37任務部隊が攻撃を仕掛け、本州北部の飛行場や鉄道、船舶を攻撃、空襲は前日より激しいものになり、延べ500機が数次に渡って大湊停泊中の艦船を攻撃。柳は戦闘爆撃機2機を撃墜したが、至近弾で重傷者1名(後に戦死)と軽傷者1名を出し、激しい浸水を受け、沈没を避けるべく自ら葦崎東方海岸に擱坐する。
8月15日午前8時に軍艦旗を掲揚。大熊艦長は大湊警備府の護衛参謀へ異動となり乗組員に挨拶した。使用可能な兵器や器具を周辺の陸上部隊、艦艇に譲渡するべく取り外し作業をしていた正午頃、終戦を伝える玉音放送が流れ、先任将校の機敏な対応で午後より各科兵器等の揚陸、復員に備えて呉行きの兵員輸送列車の手配が行われた。同日、復員により排水作業が出来なくなるため、柳の右隣に常磐も擱座している。
8月18日に復員兵の第二次列車輸送を実施、残った人員で艦内神社の撤去式を斎行した。そして翌19日の第三次列車で全員が引き揚げる事に。最後の一団が列車で去る時、柳の船体に向けて、航海長以下全員が帽振れをして別れを告げたという。11月20日除籍。
しばらく残骸は放置されていたものの、1946年10月から1947年4月1日にかけて大湊船渠で解体された。
1952年12月、むつ市の常楽寺に柳と常磐の慰霊塔が建立され、現在も慰霊祭が挙行されている。1991年5月3日には函館のトンネルメモリアルパークに「駆逐艦柳平和記念塔」が、中塚橋の月崎側海岸に「駆逐艦柳応戦展望の地」という指示標柱が建立、こちらも毎年7月14日に慰霊祭を行っている。
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最終更新:2025/12/07(日) 02:00
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