鞍埼(給糧艦)とは、大東亜戦争中に大日本帝國海軍が運用した給糧艦である。1928年3月27日竣工。1944年11月15日、ルソン西方にて、米潜レイトンの雷撃を受けて沈没。
艦名の由来は宮崎県日南市の日南大島南端の岬「鞍埼鼻」から。前身は北樺太石油株式会社所有の小型貨物船おは丸で、1944年5月10日に特務艦不足を補う目的で帝國海軍が購入した。おは丸の船名は北樺太東海岸の港町オハに由来する。同型艦なし。
北樺太石油とは、日ソ基本条約に基づき、日本が北樺太での石油利権を獲得した1926年3月10日に設立された国策会社である。艦船燃料を求める帝國海軍の影響下で誕生したため、海軍出身者が歴代社長に就任し、燃料は海軍へと納入された。このような背景から、おは丸の船長も海軍嘱託が務めていた。おは丸時代の時点で既に特設運送船のような性質を持っていたと言えよう。
特務艦と言っても武装は8cm高角砲1門のみであり、対空機銃や爆雷すら持たない、下手すればその辺の運送船より劣るような貧弱武装っぷりだが、特務艦なので船団護衛任務に投じられる事が多かった。給糧艦ではあるが艦隊への食糧供給は一度も行われていない。また特務艦への改装で新たに石炭庫と重油庫を搭載している。
要目は排水量2731トン、全長67.18m、全幅10.36m、最大速力13ノット、乗員50名。兵装は40口径三年式8cm高角砲1門、九三式水中聴音機1基。
1927年10月28日、神戸製鋼播磨造船工場で起工、1928年1月27日の進水時におは丸と命名され、3月27日に無事竣工を果たす。12月28日、稚泊連絡船に就役。北海道・北樺太間で作業員や物資の往来に使用された。
北樺太では結氷と波浪で6月下旬から10月末までしか荷役を行えず、この4ヶ月の間に、オハ油田と海岸一帯に貯蔵した低粘度の燃料を日本本土まで輸送。こうして運ばれた燃料のうち9割は海軍へ、残りは日本石油や三井物産などに販売されている。ちなみに後のキスカ島撤退作戦ではオハ油田産の燃料が使用された。
ソビエト連邦成立やシベリア出兵などの影響で、北樺太においても共産主義が広がる懸念があり、おは丸は日本人労働者の共産化に関する内偵任務をしばしば帯びていたという。例えば1934年9月29日、小樽に入港したおは丸の船員に対し、オハでの赤化宣伝状況やソ連の宣伝指令について、聞き取り調査を行っている。同年12月21日、北樺太石油は川崎汽船株式会社と徴船契約が結んだ。
1937年3月7日より一般徴用船として川崎汽船が運用。おは丸の就役に伴って阪神・芝浦航路が廃線となった。ただし、船長は海軍嘱託であり、部内に限り、秦任官(官公庁に務める高等官)扱いとなっている。
11月26日午前4時30分頃、オハ港内で停泊していたおは丸は、天候の急変による大風雪と大時化に襲われ左舷錨鎖が切断、直ちに応急措置を取るも、そのまま押し流されて午前6時に陸岸へ座礁。大泊無電局に救援を求めた。午前11時頃、川崎汽船小樽出張所は付近の鉱業所に座礁の旨を報告し、鉱業所から労働者で編成した救難隊が送られた。午後に入ると潮流の影響で左舷へ9度傾斜、更に五ヵ所の破孔から浸水が始まったため、乗組員は食糧や所持品を携行して陸上に退避、駆け付けた守備隊員4名が避難中の乗組員を発見し、彼らは暖房器具が整った川崎汽船の倉庫へ収容された。
その後、12月6日に防氷艦大泊が救難に出動、だが凍結が原因でオハ港に入れず、12月22日に再度突破を試みたが失敗、やむなく一度小樽まで後退し、越年出来るだけの食糧や用度品を積載してオハに移動、離礁が叶ったのは1940年に入ってからだった。
開戦直前の1941年11月28日、今度は帝國海軍が雑用船として徴用。佐世保鎮守府所管・第三艦隊所属となる。第三艦隊はフィリピン攻略作戦を担当する比島部隊を編制。パラオにて開戦の時を待った。
1941年12月8日に大東亜戦争が開戦。東南アジアでの進攻作戦を阻む最大の障壁とされた、英東洋艦隊の新型戦艦プリンス・オブ・ウェールズとレパルスをマレー沖海戦で撃沈し、第14軍主力のリンガエン湾上陸が成功した事で、司令部は12月26日正午に第二兵力部署への転換を命令、これにより比島部隊の一部は蘭印作戦へ投入された。
12月24日、三空陸偵1機がセレベス島北部メナドの事前偵察を実施。メナドは1500名程度のオランダ軍守備隊がいるだけの、小さな中継基地に過ぎなかったが、たまたまランゴアン飛行場に駐機していたグレン・マーチン双発爆撃機B-10型を新型のB-24爆撃機と誤認した事で、メナド方面の敵戦力を過大評価。急遽大戦力によるメナド攻略作戦が立案された。
1942年1月5日、第二護衛隊はアンボン攻略の前準備のため、メナド市街方面に展開しているであろう連合軍主力を釘付けにする目的で、メナド攻略を企図した第二護衛隊命令第一号を発令。この時、おは丸は第三艦隊指揮下の第六設営班に所属しており、神功丸とともに独立した行動を取る。翌6日午前中までに第二護衛隊と攻略部隊はマグナガ湾への集結を完了。同日午後に入港してきた重巡足柄で最後の作戦打ち合わせを行った。
1月9日午前1時、おは丸が所属する第一梯団(5隻)がマグナカ湾を出撃。船団速力は9ノット。天候は晴天、海上は極めて平穏、連合軍の航空攻撃も散発的であり、道中何事もなく1月11日午前1時10分にメナド港へ到着、南北から攻略部隊を上陸させる。日本軍の上陸を知った連合軍は重油タンクや重要施設に放火。早々に退却していった。が、日の出を迎えると連合軍機が入れ代わり立ち代わりに襲来。午前6時35分、敵重爆撃機6機がメナドに来襲、うち2機が後続船のおは丸へ投弾してきたが、幸いにも被害は無かった。
その後おは丸は神功丸、天城山丸、長和丸、彰化丸と第六設営班をメナドに揚陸させる。第六設営隊は航空基地及び探鉱施設の設営任務を担っていた。
1月12日、メナド攻略成功と判断した第二護衛隊は補給の実施、次期作戦準備、爾後の行動要領及び泊地警戒要領を次々に発令し、ケンダリーとアンボンの攻略に備えた準備を始めた。
3月10日付で第三艦隊は第二南遣艦隊に改称。占領した蘭印方面の治安維持任務を担った。ボルネオ島東岸の油田地帯バリクパパンは日本軍が奪取していたが、連合軍が退却する時に製油所が破壊されており、第百一海軍燃料廠長・和住篤太郎少将が渡辺伊三郎大佐に「速やかに製油技術者を移送されたし」と要請。3月28日におは丸は渡辺大佐率いる三菱石油技術者グループをマカッサルからバリクパパンへ移送した。彼らの手で製油所は復旧され、日本の燃料事情を支える大きな柱となった。
7月3日に徴用解除。北樺太石油へ戻され、以降は海軍の指揮下に入って本土近海での輸送任務に就く。
1943年1月17日午前10時、第7117船団に伍したおは丸は、第32号駆潜艇の護衛を受けて東京湾富津を出発、翌18日に第32号駆潜艇が離脱するも、無事に門司まで回航した。
3月31日21時10分、玄海島南南西約110海里にて、石原産業海運所有の貨物船南進丸と衝突事故を起こし、おは丸は船首左舷を損傷、南進丸は救難作業の甲斐なく沈没し、海に投げ出された船客及び乗員を救助した。4月1日、帝國海軍は佐世保鎮守府に衝突地点へ救難船1隻を急派するよう指示を下し、翌2日午前4時、特設捕獲網艇黄河丸が現場に到着。4月6日に交代の特設砲艦第二日正丸が現れ、次の命令が出るまで救難及び警戒に従事した。
7月18日におは丸は第11次海軍指定船となる。船長は自身を含む乗組員全員の名簿を海軍省に提出し、全員が軍属の認定を受けた。指定船になると、往航の費用と損害発生時の補償が約束されたが、戦時中には殆ど補償されず、戦争終了後に支払うとして後回しになっていた。また、北樺太への食糧や生活物資を輸送していた用船が金華山沖で撃沈された事で、事業継続困難に陥った北樺太石油は8月1日に事業停止、間もなく留守番の社員約100名を残して北樺太から撤退している。
8月25日15時、第3号掃海艇の護衛を伴って小樽を出港、翌26日午前10時30分に第3号掃海艇が離脱したのち、船団も解散し、おは丸は単独で樺太方面に向かった。ソ連と中立条約を結んでいる関係上、ソ連領海に立ち入る事が多いおは丸には武装が施されなかった模様。
トラック島空襲で各種特設艦船や軍隊輸送船など34隻(約19万3500トン)を、続くパラオ大空襲で特務艦明石、佐多、大瀬、石廊、神風丸を含む艦船18隻(7万7144トン)を一度に失い、特務艦不足が顕著になってきた。そこで1944年4月27日、帝國海軍は舞鶴に停泊中のおは丸を購入、翌28日15時に港内にて授受が行われた。そして5月10日に特務艦鞍埼と命名。舞鶴鎮守府所属、在役特務艦、連合艦隊所属給糧艦と定められ、特務艦昇格に伴って、5月16日、正規軍人の小島武雄予備大尉が艦長に着任する。
5月20日から8月31日にかけて舞鶴工廠で特務艦になるための工事を実施。新たに三年式8cm高角砲1門と九三式水中聴音機1基を搭載した。入渠中の7月1日、主計兵曹や主計兵3名が臨時配置され、7月14日付で南西方面艦隊へ転属、8月20日、小島大尉が第33号掃海艇の艇長に内定し、根本音松大尉が二代目艦長に就任。
大本営は本土と南方資源地帯を繋ぐフィリピンを死守すべく捷号作戦決戦準備を発令。サイパンがアメリカ軍の上陸を受けた時、フィリピンには2個師団と4個旅団しか配備されていなかったため、戦力をフィリピン方面に結集させようと多数の船舶を輸送に投入していた。9月3日舞鶴を出港し、9月20日に台湾南西部の要港高雄へ進出。
9月26日14時、マニラ行きのタマ27船団(11隻)とともに高雄を出港、駆逐艦春風、第6号、第9号、第16号海防艦、第56号駆潜艇が護衛に付く。鞍埼は8cm高角砲1門しか持っていないにも関わらず特務艦という事で護衛艦艇に数えられていた。翌27日午前10時30分より第38号と第39号掃海艇が一時護衛に加入。それから1時間も経たないうちに敵機が襲来し、第39号掃海艇の左舷90度方向に着弾を示す水柱が高々と築かれた。9月28日16時50分、掃海艇2隻が船団より離脱、バスコ方面に向かっていった。米潜水艦の襲撃を避けるべくサブタン海峡、アパリ、ラポック湾、サンフェルナンドを経由する。
9月30日午前6時に船団はサンフェルナンドを出発。その直後に米潜水艦との接触があり、同日18時にサンフェルナンドへ引き返した。しばらく現地で待機したのち、10月2日に再度サンフェルナンドを出発、マニラの北西方向に位置する次の経由地マシンロックを目指す。
10月4日午前6時30分、マシンロックを出発した直後、タマ27船団から大瓶丸とさんぢえご丸が分離するが、午前8時55分、パラウイ岬西方5kmの地点にて、米潜水艦フラッシャーの雷撃を受け、兵員を満載した大瓶丸が撃沈されてしまう。陸兵76名と乗員34名が戦死。残りは同日夜にマニラへ入港した。
策源地のマニラはアメリカ軍の執拗な空襲を受け続けており、10月8日に立春丸が撃沈、10月17日朝にはレイテ湾口スルアン島にアメリカ軍が上陸し、これに呼応して米機動部隊が18日と19日の両日、ルソン島北部からマニラ湾にかけて大規模空襲を実施、マニラ湾内で浦戸丸、利川丸、白耳義丸が、ルソン島沖で第135号と第136号輸送艦が立て続けに撃沈される。フィリピン方面の戦況は急速に悪化しつつあった。
帝國海軍はフィリピン周辺の船舶を疎開させようとし、マニラに集結中の船団から雑多な12隻を集めてマタ30船団を臨時編制。駆逐艦春風、呉竹、竹、第20号駆潜艇、鞍埼に護衛を命じた。加えてアメリカ軍のフィリピン上陸に備え、日本軍は同地の連合軍捕虜の本土移送を活発化させており、船団に加入した2A型戦時標準船阿里山丸には1781名の捕虜が乗せられていた。
しかしフィリピン近海、南シナ海、豊後水道までの広範囲には多数の米潜水艦が配置され、開戦以来最も濃密な布陣を敷いていたのだった。そうとは知らずに鞍埼は米と肉類を積載して出港準備を整える。
10月21日午前2時、マタ30船団と護衛艦艇はマニラを脱出。船団速力は8ノット。輸送船は三列の隊列を組み、周囲を囲むように護衛艦艇が展開、先頭には春風が占位する。臨時編制のため陸海軍の船舶が入り混じり、空荷の船もあれば、資源、あるいは捕虜を満載した船もあり、各々まるで違う状況を抱えていた。また護衛艦艇も呉竹と春風は第1海上護衛隊、竹は第31戦隊、第20号駆潜艇は第31特別根拠地隊と所属がバラバラで、寄せ集めと言わざるを得なかった。
昼頃になると、北東向きの強風が吹き始めて時化が発生、次第に隊列が乱れ船団は二つに分裂していく。
10月23日正午頃、船団の最後尾を行く特設運送船君川丸が潜望鏡らしきものを発見、他の加入船に警戒を促す。だが15時38分、ルソン西方に配備されていた米潜ソーフィッシュが悪天候の中を進むマタ30船団の煙を発見、周囲に展開していた僚艦6隻に位置情報を通報し、それら6隻も船団を捕捉、無線電話で連絡を取り合いながら一斉に攻撃を仕掛けてきた。爆雷すら持たない鞍埼に米潜水艦を止める術は無かった。
17時28分、ルソン島ボヘアドール岬西北西にて、ソーフィッシュから放たれた魚雷5本のうち1本が君川丸の左舷後部に命中して沈没。船団の最優秀船がいきなり撃沈される格好となった。同日夜、第1海上護衛隊は二式飛行艇を対潜掃討に派遣。
翌24日午前0時50分に第一眞盛丸へ魚雷が命中するも幸い不発で済む。午前1時、君川丸と並ぶ最優秀船だった黒龍丸の右舷に魚雷2本が命中、下手人はスヌークもしくはアイスフィッシュとされる。被雷から30分後にスクリューをゆっくりと回しながら転覆。便乗者324名が行方不明になった。天候が悪化の一途を辿る中、午前1時30分、ドラムの攻撃圏内にマタ30船団が入り、浮上状態で艦尾発射管から魚雷4本を発射するも、全て外れて被害は出なかった。午前3時15分、スヌークが魚雷6本を発射し、うち3本が陸軍油槽船菊水丸に命中、積み荷の燃料に誘爆・炎上したのち沈没する。間髪入れず「1000トン級護衛艦」に魚雷4本を発射、だが命中した様子は無かった。
スヌークより戦闘状況の報告を受け取ったドラムは、新たな攻撃位置に就こうと執拗に追跡するが、船団の周囲を高速で走り回る護衛艦艇に阻まれ、適切な位置へ就けずにいた。午前5時頃、再度スヌークが雷撃を仕掛け、大型輸送船に対して5本の魚雷を発射。うち2本が命中して沈没したと報告(該当船無し)。
午前6時5分にルソン島マイライラ岬北西沖でアイスフィッシュが雷撃、天晨丸の左舷に2本が命中して、船体を真っ二つに折りながら沈没した。第三東洋丸が撃沈の一部始終を目撃したものの視界不良につき船名までは判然としなかったという。午前7時58分、ようやく攻撃位置につけたドラムの雷撃によって貨物船信貴山丸が3本被雷。90秒後に沈没していった。
午前10時55分、船団の指揮を執っていた一番船大天丸がシードラゴンの雷撃を受ける。空荷ゆえに船体が浮かび上がって5ノットしか出せない状態ながら最初の2本は回避。だが、1本が右舷機関部後部に被雷、水柱が立つのを見た船団は左右に散開し、各々爆雷を威嚇投射しながら逃げ惑う。午前11時1分に護衛艦艇が反撃に転じて爆雷8発を投下、シードラゴンは潜航して攻撃をやり過ごした。正午頃に大天丸は力尽きて沈没。午後12時14分、千鳥型水雷艇と思しき艦艇と中型輸送船2隻に向けて魚雷4本を発射、3回の爆発音を聞き取った。
午後12時25分、第一眞盛丸がスヌークの雷撃を受けて沈没。生存者約100名は營口丸に救助された。營口丸は遭難者救助のため洋上停止しており、護衛艦艇が營口丸の周囲を警戒していたが、その甲斐なく、14時4分、シードラゴンが放った魚雷が左舷船首に命中、船体前半部を海中に沈めながら航行不能に陥る。16時30分、鞍埼と竹は漂流中の營口丸及び第一眞盛丸の生存者を救助し、鞍埼は57名を収容した。間もなく春風から營口丸の曳航指示が届くも、2隻は荒れ狂う海で曳航するのは困難と判断、朝を待ってから牽引しようと考えた。しかし23時50分頃に沈没してしまったので実行には移されなかった。
17時30分、ボヘアドール岬北西沖でシャークの雷撃により阿里山丸が沈没するが、直後に春風と竹から爆雷攻撃を受け、おそらく春風の爆雷が致命傷となってシャークもまた撃沈される。阿里山丸にはアメリカ軍捕虜1782名が乗船していて、生き残ったのは僅か9名だけだった。
10月26日朝、第三東洋丸、気象観測船凌風丸、陸軍砲艇映海丸と鞍埼、竹のみが高雄に入港した。マタ30船団は12隻中9隻が撃沈、総トン数にして96%を失う悲惨な結果となってしまった。第1海上護衛隊は春風、呉竹、第20号駆潜艇には輸送船4隻(約7000名)の遭難者を救助するよう指示、更に第38号、第102号哨戒艇、第25号海防艦が救難に派遣された。
10月29日、南西方面艦隊司令・三川軍一中将は「レイテ増援輸送実施計画」を発令、ルソン所在の戦力をレイテ島の補給港オルモックに緊急輸送する多号作戦が開始される。これにより今まで以上にマニラへ戦力と物資をかき集める必要が出てきた。10月31日、門司からマニラに向かっているモマ06船団11隻が高雄に入港、惨劇を生き延びたのも束の間、次はこのモマ06船団をマニラまで護送する事に。
米潜水艦の跳梁は留まるところを知らず、1944年10月は戦争の全期間を通じて、米潜水艦による日本船撃沈のピークであり、このひと月だけで32万2265トンが撃沈、このうち約3分の1はタンカーだった。
11月1日18時に駆逐艦呉竹、第1号、第3号、第7号海防艦、第27号掃海艇、第41号駆潜艇とともに、門司から来たモマ06船団を護衛して高雄を出港。翌2日23時、バシー海峡サブタン島沖で、哨戒中の米潜ポンフレットは南下してくるモマ06船団を発見、5分後、ポンフレットは震洋50隻や陸兵1325名を載せたあとらす丸、はんぶるく丸に向けて魚雷を発射、それぞれに1本ずつ命中し、はんぶるく丸は船体の上半分が浮いたままの状態となり、あとらす丸も航行不能へと追いやられる。
11月3日午前1時に船団はサブタン水道へ退避。はんぶるく丸は護衛艦艇の手で砲撃処分された。この日、高雄停泊中の駆逐艦春風の下に「バシー海峡にてモマ06船団が壊滅、なおも多数出没する敵潜を掃討せよ」との命令が下り、半舷上陸を取りやめて緊急出動している。
11月4日、呉竹はあとらす丸を曳航するも、13時30分頃にイヴホス島で座礁してしまったため、第1海上護衛隊司令部は鞍埼、呉竹、第11号海防艦、第20号掃海艇にあとらす丸の状態を調査するよう指示、同時に積み荷や兵士の移送作業を実施した。また高雄より水雷艇鷺が派遣されている。14時、現場に到着した春風は対潜掃討を開始、しかし早速雷撃を受ける手荒い歓迎を受け、夕刻にはセイルフィッシュが放った魚雷4本のうち1本が左舷に命中、艦尾切断の大損害を受けて第38号哨戒艇に曳航されていった。
11月6日午前2時53分、鞍埼たちは船団を護衛してサブタンを出発、応援に来た第17号掃海艇がモマ06船団の前方に占位して前路掃討を担った。
11月8日午前6時55分、第17号掃海艇が10km先で浮上中の米潜水艦ガンネルを発見、だが雷撃を阻止するまでには至らず、午前7時58分、ボナリオ岬西南西でガンネルが魚雷を発射し、被雷した鷺は中央より船体を切断して前部が沈没、後部は炎上したまま漂流を強いられる。そして午前8時48分に後部も沈没。第17号は生存者を救助したのち、午前9時40分から14時20分まで対潜掃討、その間に船団はサンタクルーズ湾へ一時退避する。
そして11月10日午前9時25分までにモマ06船団はマニラ湾内への移動を済ませた。
フィリピン東方海域では未だ米機動部隊が遊弋。加えて11月11日にはスルアン南東に敵輸送船団の出現が確認された。11月13日朝に敵機襲来の公算大と判断した南西方面艦隊は、マニラに留まる船舶に避退命令を出す。退避船舶のうち、高雄行きの南京丸と第五雲海丸でマタ32船団を編制、護衛兵力として第12海防隊の海防艦3隻、駆逐艦呉竹、鞍埼が付けられた。
11月12日18時、鞍埼はマタ32船団を護衛してマニラを出港、ルソン島西方を北上しながら高雄を目指す。ちなみに翌日午後、懸念通り敵艦上機がマニラ湾を空襲し、駆逐艦曙、秋霜、初春、沖波、軽巡木曾、給油艦隠戸、輸送船9隻が一挙に撃沈されている。まさに間一髪であった。
11月14日17時30分、ルソン西岸約150海里沖を北上中、鞍埼が敵電波を探知したため船団は之字運動を開始、偽装航路を取りつつ対潜警戒を厳にする。間もなく日没を迎えて辺りは宵闇に包まれた。しかし既に船団は米潜レイとレイトンから追跡を受けており、22時18分、ボリナオ岬沖で第7号海防艦がレイの雷撃により撃沈、巨大な火柱が上がるのを認めた第3号海防艦は迎撃に向かい、鞍埼、第五雲海丸、南京丸は第1号海防艦に先導されて退避した。が、その先に潜んでいたレイトンに襲われ、7分後に第五雲海丸も撃沈される。
1944年11月15日午前0時25分、ルソン西方にて、レイトンは「7500トン級の貨物船」を狙って魚雷4本を発射、うち2本が鞍埼に命中して沈没。根本音松艦長以下91名は呉竹に救助された。
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