ツェルベルス作戦とは、第二次世界大戦中の1942年2月11日から13日にかけて行われたドイツ軍のドーバー海峡突破作戦である。作戦は見事成功し、イギリス海軍の面目は丸潰れとなった。別名チャンネルダッシュ、ケルベロス作戦とも。
概要
ヒトラー総統の奇策
1940年6月にフランスを降伏させたドイツ軍は大西洋に面する軍港ブレストやロリアンを獲得し、Uボート及び水上艦艇の出撃拠点として機能させていた。1941年3月22日午前10時、大西洋で20隻の連合軍商船を葬った巡洋戦艦シャルンホルストとグナイゼナウがブレストに凱旋入港。6月1日にはライン演習作戦の生き残りである重巡プリンツ・オイゲンが入港しており、フランスには3隻の大型艦艇が集う事となった。ドイツ側としてはこの3隻を更なる通商破壊に使用したかったが、ちょうどフランスの軍港はイギリス本国の眼前にあり、当然ながらイギリス軍にも目を付けられる。3隻の大型艦を重要目標に定め、監視体制を築き上げるとともに熾烈な爆撃を仕掛けてきた。
7月1日にまずプリンツ・オイゲンが被弾損傷し、7月24日にはシャルンホルストが2発の命中弾と3発の不発弾を受けた。応急修理で沈没は免れたものの真綿で首を絞められている状態が続く。イギリスの全航空兵力のうち、実に10%が3隻攻撃のためだけに割かれていたのである。加えて陸上レーダーや偵察機によって24時間の監視体制を敷くフラー作戦を発動し、常に動向が見張られていた。
1941年9月17日、海軍のトップであるレーダー提督は東プロイセンのラシュテンプルクにある総統大本営(通称狼の巣)に呼び出された。ヒトラー総統は「イギリス軍が来襲するとすれば、まずノルウェーだ」と自身の考えをレーダー提督に語り、フランスで孤立している3隻の大型艦を何としてもノルウェーに回航すべきだと命じた。実際、ブレストに停泊中の3隻はイギリスの激しい爆撃を受けて損傷、通商破壊活動を中断していた。レーダー提督は「通商破壊のためにも、大西洋に大型艦を残すべきです」と反論したが、「大西洋はUボートに任せておけば良い」とヒトラー総統は全く取り合わなかった。11月に再び呼び出しを受けた時には既にヒトラー総統はノルウェーでの艦船配置図を用意していた。レーダー提督は苦し紛れにプリンツ・オイゲン単独の回航を提示したが、「何故全艦でやらんのだ?」と睨まれ、提督は引き下がるしかなかった。
ヒトラー総統の強い要望を受け、ベルリンの海軍司令部に戻ったレーダー提督は西部方面艦隊司令官ザールヴェヒター大将と連絡を取り、作戦の打ち合わせを開始した。海軍の重鎮はノルウェー回航に難色を示していたが、世界情勢は刻々と変化していた。12月8日に真珠湾攻撃が発生し、アメリカが連合国側として参戦。大西洋で覇権を握れる時代は過ぎ去ったと作戦部長のワグナー少将は考えており、彼はヒトラーの意見に賛同していた。またヒトラー総統の急かす声も激しかった。「3隻を回航できないのであれば、艦砲を陸揚げするから寄越せ」と言ってきたのである。貴重な大型艦艇を米英との戦闘以外で失うわけにはいかないと、海軍の重鎮たちは渋々作戦を練り始めた。
撤退ルートは2つあった。イギリス本国の眼前であるドーバー海峡を突破するルートと、アイルランド方面に向かって北回りに迂回するルートである。前者は最短ルートでドイツ本国へ帰投できるが、7つの海を支配する強大なロイヤルネイビーの庭を突破しなければならなかった。当然海峡内には機雷が敷設され、陸地からは沿岸砲が睨んでいるという厳重っぷりである。レーダー提督を始め海軍の重鎮は前者を実行不可能とし、後者を採用した。しかしヒトラー総統は北回りルートに反対。北に回ってもイギリス海軍の一大拠点スカパ・フローがあり、同時に味方の航空支援も受けられない。つまりどっちを通っても危険なのだ。それなら最短ルートで行くべきだと主張したのである。総統によって、航路はドーバー海峡突破に定められた。
1942年1月12日、ラシュテンプルクにある総統本営にて作戦会議。作戦の指揮はオットー・ツィリアクス中将が執る事になった。ヒトラー総統は「イギリスのレーダーに対する過信と臨機応変の弱さを突けば、ドーバー海峡を突破できる」と主張し、絶対の自信を見せた。海峡突破作戦の秘匿名はツェルベルス(ケルベロスのドイツ語読み)と名付けられた。脱出する艦艇群を支援するため、海軍はフランス沿岸のドイツ空軍に支援を要請。これを受けて約250機の航空機が投入され、制空権を確保するべくドナーカイル(雷鳴)作戦を発動。海空の軍が共同で作戦を行う希有な例となった。出撃日は潮流が好ましい2月7日から15日の間に指定され、この中で最も出撃に適した2月12日が選ばれた。時間帯はイギリスの目から隠れるために夜間とされたが、昼間に難所ドーバー海峡に差し掛かるというデメリットも含んでいた。会議の最後にヒトラー総統はこう締めくくった。「ブレスト艦隊は外科医の執刀を受けなければ死ぬと決まったガン患者みたいなものだ。たとえ大手術になろうとも思い切ってやれば助かるかもしれん。ならば手術をやろうではないか!」と。
ツェルベルス作戦は極秘とされ、全容を知るのは艦長や戦隊司令クラスの高級将校のみであった。ブレストの大型艦はあたかも南の熱帯地帯へ向かうかのように偽装され、トロピカルヘルメットを多数積載した。偽の噂は目論見どおり広がり、フランス人の港湾労働者も疑わなかった。
ドーバー海峡を突破せよ
2月11日夜、作戦決行前夜。シャルンホルスト、グナイゼナウ、プリンツ・オイゲンの3隻はブレスト軍港の入り口に移動。護衛として7隻の駆逐艦が伴走する。いよいよ明日には絶望の海へと漕ぎ出す……そんな時に空襲警報が鳴り響いた。イギリス軍による空襲である。大型艦は慌てて港の奥へ逃げ込み、難を逃れた。そして23時、3隻はゆっくりとブレストを出発。空襲のため湾内は人工煙幕に覆われていたが、難しい操艦を見事こなして港外に出る。以降、完全な無線封鎖が敷かれた。沈黙の艦隊は32ノットの高速で、ドーバー海峡への突撃を開始した。この絶望の旅路を導く旗艦はシャルンホルストである。
対するイギリス軍はブレストに取り残された3隻の脱出を読んでおり、そのための準備を済ませていた。ビスケイ湾には監視用の英潜水艦シーライオンが待機していたが、潮流で外洋まで流されてしまった。その不在の隙を突いて、ドイツ艦隊はビスケイ湾を突破。レーダーを搭載したハドソン偵察機が哨戒していたが、これらもドイツ艦隊を捕捉する事が出来なかった。24時、司令官のツィリアクス中将から訓示があり、ここで初めてドーバー海峡突破の内容が乗組員に知らされた。
2月12日
翌12日午前5時30分、オルダーニ島沖を通過。味方の水雷艇部隊が護衛に参加。さらにメッサーシュミットMe109夜間戦闘機が飛来し、敵が来るであろう艦隊の左側を旋回。夜明けから午前8時50分まで掩護してくれた。この頃からドイツ軍は妨害電波を放ち、イギリス軍の無電を妨害。作戦前から定期的に妨害電波を放っていたためイギリス軍は不審に思わなかったという。しかしイギリスのレーダーが機影(メッサーシュミット)を複数探知し、2機のスピットファイアが確認に向かった。午前10時24分、スピットファイアがドイツ艦隊の上空に到達。この時、ドイツ艦隊は味方掃海艇4隻による掃海完了を待っており、動きが鈍くなっていた。しかし、上空に待ち構えていたMe109が迎撃し、追い回される羽目になった。悪い事にスピットファイアは律儀に無線封鎖命令を守り、位置情報を通報しなかった。そのため位置情報がもたらされたのは午前11時9分の基地に帰ってからであり、イギリス軍は早期迎撃のチャンスを自ら手放した。まさにヒトラー総統の読みどおり、イギリス人は臨機応変に弱かったのである。
この報告を受けてイギリス空軍は愕然とした。何故、今まで気づけなかったのだと。とにかくすぐさま攻撃を仕掛けるべく、マンストン基地のユージン・エズモンド中佐率いる第825飛行隊(ソードフィッシュ)に出撃を命令。攻撃に向かわせたが、5個中隊のうち1個中隊しか集結できず、しかも護衛の戦闘機は僅か10機しか用意できなかった。そんな脆弱な戦力で無理に攻撃を仕掛けたため対空砲火とMe109の餌食となり、エズモンド中佐を含む6機全てが未帰還となった(18名中13名死亡)。ちなみに彼らが命と引き換えに放った魚雷は全て命中せず、第一戦はイギリスの敗北に終わった。シャルンホルスト艦長のホフマン大佐から「ああ、可哀相に…あれでは自殺行為だ」と同情されるほどだった。ちなみにエズモンド中佐の遺体は1ヶ月半後にテムズ川河口に漂着している。
難所のドーバー海峡
正午頃、ドイツ艦隊はカレー手前のグリ・ネ岬沖に到達。ドーバー海峡突破を支援すべく各方面からの応援が到着し、11隻の駆逐艦が前衛を担当。グリ・ネ岬からは水雷艇部隊と魚雷艇部隊が護衛に加わった。そして難所と言われるドーバー海峡に差し掛かった。ところがイギリス軍の攻撃は皆無だった。不気味なほど静かで、空は晴れ渡っている。難なく突破できるとそう思った瞬間、突如プリンツ・オイゲン左後方に水柱が築かれた。ドーバー城に展開していた第12沿岸重砲隊からの砲撃だった。強力な威力を前に、ツィリアックス中将は血の気が失せたという。陸上から一斉砲撃が行われたが、幸い命中弾は無かった。更に沿岸警備隊の魚雷艇が出現し、いよいよ本格的な戦闘が生起した。同士討ちを避けるため、魚雷艇到着と同時に沿岸砲台は砲撃を停止。13時21分に射程圏外へと出て行った。肉薄しようとする魚雷艇をMe109と駆逐艦が阻み、全ての雷撃を失敗させて撃退。両軍とも被害は出なかった。同時期、スピットファイアの一隊がドイツ艦隊を発見し、ドーバーに通報。しかし何故か大型艦がいる点は見落とされ、ドイツ艦隊の過小評価を招いた。
14時30分頃、ドイツ艦隊はドーバー海峡の最も狭い場所を通過。だがここでシャルンホルストが触雷し、艦隊から落伍してしまう。あわれシャルンホルストは神に見放された…と思いきや、15時5分に機関が再始動。応急修理に成功し、艦隊に復帰できた。一方、未だにドイツ艦隊を撃破できずにいるイギリス軍は、航路上にマーク・ピジー大佐率いる駆逐艦6隻を配置。雷撃戦を以って撃滅する作戦を立てていた。ところが上空より飛来したハドソン軽爆撃機やボーフォートが敵と誤認し、あろう事か襲い掛かってきたのである。そのせいで攻撃の機会を失い、ドイツ艦隊は悠々と通過してしまった。その後、ボーフォート2機の襲撃を受け、910mの距離からプリンツ・オイゲンが雷撃されたが回避に成功。ピジー大佐は再び先回りし、15時45分に攻撃を仕掛けた。旧式駆逐艦が多いため雷撃による撃破を狙うが、全て外れる。そこへ飛来したボーフォートが英駆逐隊を敵と誤認し、味方駆逐艦3隻に攻撃を加えて同士討ちを再開。更にグナイゼナウとプリンツ・オイゲンから反撃を受けて駆逐艦ウースターが大破。またしても突破を許してしまう。
ドイツ本国の港へ駆け込め
夕方が近づくにつれ天候が悪化、ドイツ艦隊の手助けとなった。焦燥したイギリス空軍は、セントエバル隊を始めとするアブロマンチェスター、ハリファックス、ショートスターリング重爆撃機242機を発進させたが、悪天候に阻まれて大半が発見できず。16時15分、オランダの海岸で39機がドイツ艦隊を発見して投弾したが、命中弾なし。逆に15機が撃墜され、20機が損傷した。数々の攻撃を振り切り、ドイツ艦隊はついにイギリス軍機の行動範囲外へと脱出した。もはや攻撃の手が届かないイギリス軍は、最後の嫌がらせとして航路上に機雷をばら撒いた。19時55分、西フリージア諸島沖で今度はグナイゼナウが触雷。しかし今回は大した被害にはならなかった。ところがシャルンホルストに二度目の受難が訪れる。21時34分、グナイゼナウが触雷した所で再び機雷に触れてしまったのである。しかも二度目はかなりの損傷で、大破してしまう。それでも何とか這ってヴィルヘルムスハーフェンへと向かった。
2月13日午前7時、プリンツ・オイゲンとグナイゼナウがキール運河の入り口に到着。瀕死のシャルンホルストも早朝にヴィルヘルムスハーフェンへ入港し、命からがら助かった。こうして3隻の有力艦は1隻も撃沈される事無く、ドーバー海峡を突破。ツェルベルス作戦は成功に終わった。ツィリアックス中将はパリのザールヴェヒター大将に成功を伝える電文を打った。
イギリス側は6隻の駆逐艦、3隻の護衛駆逐艦、32隻の魚雷艇、450機の航空機を投入。損害は駆逐艦1隻大破、航空機42機喪失、約230名が戦死した。対するドイツ側の被害は航空機17機(22機とも)と漁船1隻喪失に留まり、13名の乗員と23名のパイロットを失った。
その後
ドイツ軍にドーバー海峡を突破された事は、イギリス全体に大きなショックを与えた。国内外から非難が殺到し、国民は海軍に激怒し、その海軍では責任を追及する査問会や調査委員会が設置された。有力紙タイムズ誌ですら冷静さを失い、2月14日の紙面に「ドイツのツィリアックス海軍中将はメジナ・シドニア伯(1588年にスペイン無敵艦隊を率いた司令官)が失敗した場所で成功した。敵艦隊は、我々が誇らしげにイギリス海峡と呼んでいる場所を突破できないとする海軍の伝説は終わった」と綴って政府の失態を厳しく非難。チャーチル首相も怒りの感情を隠そうとしなかった。この屈辱的敗北は、ドイツ海軍の有力艦が大西洋から撤退したという戦略的勝利を塗り潰すには十分すぎた。そこへ追い討ちと言わんばかりに、日本軍がシンガポール要塞を陥落させた報が飛び込み、イギリスは白目を剥いて倒れる羽目になる。イギリス軍は砕け散った面目を取り戻そうと、ドイツ艦隊に攻撃を仕掛けて生き残ったパイロットや戦死したエズモンド中佐にビクトリア勲章を授与したが、苦し紛れの無意味な行動だとして白眼視された。
ちなみにドーバー海峡の突破は今回限りではなく、何度か行われている。例えば1943年3月5日に第8駆逐戦隊(Z23、Z24、Z32、Z37)がドイツ側より突破を試みており、沿岸砲や高速魚雷艇の迎撃を受けたが無傷で突破している。Z37のみル・アーブルで座礁したものの、全艦無事にブレストへ到着した。
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関連項目
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