ブラーケ(Brake)とは、第二次世界大戦中にドイツ海軍が徴用した補給用タンカーである。インド洋で活動するモンスーン戦隊への補給任務に従事した。1944年3月12日、インド洋にて英駆逐艦ローバックの砲撃を受けて沈没。英語読みではブレーキとも。
概要
ドイツ海軍が徴用した元捕鯨船団随伴用タンカー。船名はブレーキをドイツ語読みしたもの。
船歴については資料が少なく、モンスーン戦隊の補給船として活躍していた部分は比較的有名だが、それ以外の期間、特に戦争が始まる前は何をやっていたのかイマイチ把握できない。また竣工日、武装、乗組員に関する記録や写真も殆ど残っていないなどまさに謎多き船。唯一U-183へ補給中と思われる写真のみ現存している。ブラーケの乗組員がヒルフスクロイツァー(仮装巡洋艦勤務の乗組員に与えられるバッジ)を何故か付けていたとの情報もある。無論ブラーケは仮装巡洋艦ではない。ディーゼル駆動で、巡洋艦のような船尾を持っていたとされる。
Brakeはブレーキの意味があるため検索に引っかかりづらく(船の部品としてのブレーキが多く出る)、戦争中に限定しても、1945年3月24日にボーンホルム沖で撃沈された同名のケーブル修復船が存在している影響で混同されやすく、とにかく資料を集めるのが難しい。写真や行動記録が残っているシャルロッテ・シュリーマンとは実に対照的である。
要目は排水量9925トン、全長149.14m、全幅20.12m、最大速力12ノット(22.22km/h)。
船歴
大西洋方面での活動
1935年、ドイツ政府はノルウェーの捕鯨会社依存から脱するべくユニタスドイツ捕鯨協会に圧力をかけ、自前の船団を作るべく捕鯨母船の建造を始めた。1937年、ブラーケは世界最大の捕鯨母船ユニタスの随伴タンカーとしてベジサックのブレマーバルカン造船所で竣工。1937年から38年の冬季と、1938年から39年の冬季の2回の捕鯨シーズンに随伴し、活動中の捕鯨船団に物資、燃料、真水、郵便物を補給。帰路に鯨油と船員たちからの郵便物を積み込んでドイツ本国に送り届けた。
1939年8月19日、カリブ海の島アルバを目指してオランダのロッテルダムを出港。しかし開戦が目前にまで迫っていたため、イギリス海軍の拿捕を避けるためドイツ海軍に徴用されるとともに、中立国スペインのヴィゴ港へ向かうよう指示され、8月29日に到着。現地で9月3日の第二次世界大戦開戦を迎える。同日中にヒューストンから来た石油タンカーノルドアトランティック号がヴィゴに入港。9月5日23時、ヴィゴに初めてUボートが寄港した事、ブラーケとノルドアトランティック号が留まっている事が電報で通達された。9月7日、タンピコから来たアンタークティス号が入港。2隻は燃料を満載していたが燃料を取りに行く前にヴィゴへ来たブラーケはバラスト(空荷)だった。
スペイン国内で活動するドイツ海軍の兵站組織エタペンディエンストの協力を得て、1940年7月から8月にかけてブラーケは闇夜に紛れて来訪する味方のUボートに4500トンの燃料補給を実施。補給を終えたUボートは夜明け前に出港していった。本来中立国での燃料補給は中立違反なのたが、スペインは新枢軸の立場を取っていたため見て見ぬふりをし、様々な便宜を図っていたのだ。ちなみに補給任務の多くはブラーケではなく排水量915トンの小型船ベッセルが担当していた。
1941年3月2日、補給任務を終えたブラーケはヴィゴを出港。3月8日にドイツ占領下フランスのサン・ナゼールへと入港する。新型戦艦ビスマルクと重巡プリンツ・オイゲンによる大西洋での通商破壊作戦「ライン演習作戦」を支援するためサン・ナゼールを出港。ところが何らかの支障が生じたらしく、5月8日に南進中の独タンカーエゲルラントと合流し、給油用ホースを伸ばして送油するとともにUボート用魚雷と余剰物資を移送。ブラーケ船長の助言によりエゲルラントは目立ちすぎるポーランド製75mm砲と上部構造物の一部を海上投棄した。その後、哨戒任務をエゲルラントに引き渡した上で帰投。ここで極東の同盟国日本に派遣するための封鎖突破船に指定され、イギリス軍の空襲に悩まされながら準備を行う。
1942年9月2日朝、サン・ナゼールに停泊していた封鎖突破船パサート(元ノルウェー船ストースタッド)がイギリス軍の空襲を受けて大破、80名が死亡したため、ナントにてパサートの全乗組員と装備を引き取る。9月12日夜にはシュピヘルンに爆弾が命中、この影響でブラーケの出港は急遽取りやめとなった。ちなみにU-907にはブラーケの出港が知らされていた。
9月26日(10月7日説あり)、極東の同盟国日本へ派遣される封鎖突破船として、オットー・ケルシュバッハ船長指揮のもとラ・パリスを出港。時同じくして日本に向かう独伊の封鎖突破船9隻が一斉にボルドーを出発した。当然イギリス軍が黙って見逃すはずがなく、航空偵察と無線通信解析を駆使して封鎖突破船の位置を正確に把握。まず最初にベルグラーノがフィニステレ岬沖で敵機に発見され数回の攻撃を受けてエル・フェロルへの退避を強いられる。またピエトロ・オルセオロ、シュピヘルン、アンネリーゼ・エスバーガーが沿岸航空隊の空襲を受け、このうちシュピヘルンが深刻な被害を受けて反転帰投。
10月初旬頃に仮装巡洋艦シュティーアとの会合が予定されていたが既に沈没していたので中止、代わりに11月14日、大西洋で活動する仮装巡洋艦ミヒェルと合流して送油を行う。無事大西洋を抜けられたのはブラーケ、リオ・グランデ、ビエトロ・オルセオロ、イレーネ、アンネリーゼ・エスバーガー、ヴェーザーランド、カリンの7隻であった。ブラーケは12月23日に無事目的地の神戸へ到着した。
インド洋方面での活動
1943年に入ると、連合軍の警戒技術や暗号解析が急速に進んで封鎖突破船の成功率が著しく低下。ラコティス、ホーエンフリートベルク、レーゲンスブルク、ドッガーバンク、カリン、ポートラント、イレーネが立て続けに撃沈されてしまった。これに伴ってブラーケの帰国は困難になってしまう。そんな中、同年春頃に日本占領下ペナンを拠点にインド洋で通商破壊を行う案が浮上、インド洋では連合軍の対潜技術が遅れていた事もあり、3月28日に基地の設営のためU-178がボルドーを出港した。
6月、帰国不能となって東南アジアに留まっていたブラーケとシャルロッテ・シュリーマンに新設されるモンスーン戦隊への補給任務が命じられ、インド洋を臨む日本占領下ペナン基地に進出。日本製の燃料が供給されるも質の悪さから排気ガスが非常によく出るため、敵艦から十分に離れられた時のみ使用可能だったとか。
6月30日から7月7日にかけて、フランスのロリアン軍港からモンスーン戦隊に配属されるUボートの第一波が出港。Uボートがペナンに進出するにあたって最大の問題だったのが燃料であった。そこでドイツ海軍は南大西洋にXIV型のU-487を、インド洋にブラーケを配備し、東南アジアを目指すUボートへ逐次給油を施す事にした。しかし7月13日に護衛空母コアの艦載機から攻撃を受けてU-487を喪失。代役に選ばれたU-160も撃沈されてしまった。11隻中喜望峰に到達できたのは5隻だった。
7月26日午前11時37分、東南アジアにて呉を目指しているU-511と遭遇し、通過時にモールス信号によるやり取りを行った。8月頃にシャルロッテ・シュリーマンが神戸に回航されたためブラーケが補給任務を交代。
8月26日、大西洋を突破してインド洋に入ったUボートに補給を施すべくペナンを出港。9月8日にはUボート側にもブラーケと合流するよう指示が出されるも、9月11日、イタリアの降伏によってペナンから逃走した通報艦エリトリアに補給ルーチンを乱される危険性を憂慮したドイツ海軍司令部は、モンスーン戦隊とブラーケに南方への退避を命令。悪天候の場合は北東に逃げるよう命じられた。
9月12日、モーリシャス南方450海里の補給ポイントでU-168、U-183、U-188、U-532、U-533と合流。ディーゼル燃料、潤滑油、弾薬、食糧などの補給を各艦約4時間かけて実施した。手すきのUボートが周囲を遊弋して対空警戒を担当する。このうちU-533はクランクシャフトベアリングに問題を抱えていたが、ブラーケの有能な整備士によって1つが修理された。予定ではイタリア潜水艦アンミラリオ・カーニにも補給する予定だったが本国が休戦に応じたため姿を現さなかった。9月14日に補給作業は完了。「アンミラリオ・カーニが裏切ったのでは?」と勘繰ったブラーケは補給作業が終わると足早に海域を離脱している。
その後、補給を受けたUボートはインド洋で通商破壊を開始。同時期に日本軍潜水艦もアラビア海で作戦を行っていたため、同士討ちを避けるべくU-168はボンベイ沖、U-183はセイシェルとアフリカ海岸、U-188はオマーン湾、U-532はインド南部と西海岸、U-533はアデン湾に配備され、計6隻撃沈(3万3843トン)と2隻撃破の戦果を挙げる。10月16日にアデン湾でブリストル・ブレニムに撃沈されたU-533を除いて4隻が無事ペナンに入港した。
1944年1月18日、1月21日、2月1日に訓練航海中のUIT-24(元コマンダンテ・カッペリーニ)へ潤滑油を補給。
2月11日、モーリシャス東方900海里でシャルロッテ・シュリーマンがイギリス艦隊に撃沈される。この凶報はシンガポールに停泊中のブラーケにも届いた。シャルロッテが補給するはずだったU-168、U-188、U-532、UIT-24が燃料不足に陥って帰国困難となってしまったため、急ぎペナンに回航して燃料を満載。2月26日に緊急出港した。
だがイギリス艦隊はエニグマ暗号機、無線傍受、方向探知機を駆使してブラーケの出港を察知。3月5日よりカバー作戦を発動し、モーリシャスから護衛空母バトラー、巡洋艦ニューカッスル、サフォーク、駆逐艦ローバック、クアドラントからなる捜索部隊を出動。東南東に向けて進撃する。翌6日14時40分、中規模のハリケーンの通過で悪天候に見舞われ、バトラー所属のソードフィッシュが海に墜落。パイロットはローバックに救助された。
3月10日14時15分、UIT-24は司令部よりブラーケとの合流地点を指定される。
3月11日午前6時56分、ヨーロッパに帰国するU-188、U-168、U-532とモーリシャス南東1000海里で合流。翌12日午前1時35分にU-188への送油が完了した。しかし悪天候に阻まれて給油作業が捗らなくなり、午前9時17分に作業を一時中断、波風が穏やかな場所を求めて南西方向へと移動する。
最期
1944年3月12日午前10時56分、U-168へ補給している最中に、周辺海域を7日間に渡って連日哨戒していた英護衛空母バトラーのソードフィッシュに発見されてしまう。敵機出現に伴って周囲のUボートは一斉に急速潜航する。ソードフィッシュが駆逐艦ローバックを呼びに行っている間、バトラーから発進した別のソードフィッシュがブラーケとU-168に襲い掛かり、ロケット弾攻撃を受ける。
午前11時23分、通報を受けた駆逐艦ローバックが分派。17分後に軽巡ニューカッカルも分派されてローバックの援護に回る。午前11時11分、ブラーケの視界内にローバックが出現し、午前11時26分から砲撃と魚雷による攻撃を開始。近くにUボートがいたためローバックは接近出来ず命中率は低かった。
午後12時12分、魚雷3本を喰らってブラーケは撃沈された(拿捕隊が近づいてきたため自沈した説もある)。U-188は「午後12時19分から13時50分までの間に148回の砲撃音と14回の大爆発が聞こえた」と報告している。
敵機の脅威が去った日没後、U-168、U-188、U-532の3隻がブラーケの生存者を救助。23時58分、ヨーロッパに帰国するU-188とU-532は収容した生存者をU-168に引き渡したため、U-168の艦内には198名が乗艦している事になり潜航に支障が生じるほどだったが、何とかバタビアへ帰投した。
ブラーケの喪失はモンスーン戦隊に大きな悪影響を及ぼした。補給船の全滅した事で今後はUボート同士で給油しなければならず、やむなくより小型な水上船ボゴタとキトを投入している。またブラーケから給油を受けるはずだったUIT-24は補給が受けられなくなり、直前に送油を受けていたU-532から燃料を貰う事で急場を凌いだもののU-532は帰国を断念、結局UIT-24も反転帰投した。
シャルロッテとブラーケの喪失でエニグマ暗号が安全ではないと悟ったドイツ海軍は、暗号パターンを変更・強化。これにより連合軍の暗号解析に悪影響が生じたため、更なる強化を未然に防ぐべく、解析結果に基づく行動を取らないようになった。
関連項目
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