U-183とは、第二次世界大戦中にドイツ海軍が建造・運用したIXC/40型Uボートの1隻である。1942年4月1日竣工。通商破壊で5隻(2万6253トン)撃沈の戦果を挙げた。1945年4月23日、ソエラバハ北方のジャワ海にて、米潜水艦ベスゴの雷撃を受けて沈没。
概要
IXC/40型とは、1940年に前級IXC型を再設計・洗練化した小改良タイプである。
IXC型をベースに外殻径を拡大しつつバラストタンクを大型化し、燃料搭載量を更に6トン増加させた事で、航続距離を2万370km→2万1113kmに増大、これにより一度洋上補給すれば200日以上の作戦行動が可能になり、また水上での最大速力が微増するといった恩恵を受けられた。
IXC/40型には急速潜航秒時を速める目的で、前甲板の両側の大部分を切り取るタレットコンバージョンⅡとクイックダイブバックを装備している艦が多いが、現存する写真を見た限り、U-183には装備されなかった模様。改装の手間の割にあまり効果が実感出来なかった事なのでオミットされたのかもしれない。
U-183の艦橋後方に分離型高射砲プラットフォームが備えられている。この艦橋はかなり特殊なものらしく、U-183以外で採用したのはU-84、U-168、U-509くらいだったりする。またU-183、U-510、U-532は神戸港まで来訪した数少ないUボートである。
U-183、U-184、U-185、U-187の4隻には長距離通信用無線アンテナが艦尾に、長さ15mの見張り用マストが左舷後部甲板に装備されていた。しかし役に立たないと判断され後に取り外されている。またU-183は熱帯での活動を想定して建造された特別なUボートで、他のUボートが持たない空冷装置を持ち、ダイムラーベンツ製の補助ディーゼルも搭載していたという。
IXC/40型は160隻が起工、このうち89隻が就役し、残りの71隻はXXI型生産のリソースを確保するため、1943年後期に建造中止となっている。
初代艦長のハインリヒ・シェーファー少佐は日独の軍艦旗を重ねたエンブレムを採用。このエンブレムを使用したのはU-183とU-1224(呂501)の2隻だけである。また二代目艦長フリッツ・シュニーヴィント少佐はU-511を日本に回航した人物で、U-183も日本海軍の支援を受けてインド洋で通商破壊を行うなど、何かと日本と縁があるUボートと言える。
要目は排水量1144トン、全長76.76m、最大幅6.86m、最大速力18.3ノット(水上)/7.3ノット(水中)、安全潜航深度100m、急速潜航秒時35秒、乗員44名。兵装は533mm魚雷発射管6門(艦首4門、艦尾2門)、魚雷22本、10.5cm単装砲1門、37mm単装機関砲1門、20mm連装機関砲2門。
艦歴
起工から訓練完了まで
海軍力増強を図るドイツ海軍の拡張Uボート建造計画により、1940年8月15日、AGヴェーザー社のブレーメン造船所に発注。U-183はブレーメン造船所に発注された15番目のUボートとなる。
建造資材の調達が終わった1941年5月28日、ヤード番号1023の仮称を与えられて起工、1942年1月9日進水し、それからディーゼルエンジン2基と潜航用電動モーター2基の搭載工事を行い、構造の耐久性及び基本システムの公試を海上で実施、そして同年4月1日に無事竣工を果たした。初代艦長にハインリヒ・シェーファー少佐が着任するとともに訓練部隊の第4潜水隊群へ編入される。
シェーファー少佐は潜水艦での実戦経験が無い新米艦長であった。彼は司令塔に日本海軍の軍艦旗とドイツ海軍旗を重ねたエンブレムを右舷側司令塔に描く。
4月1日午前10時よりブレーメン造船所内で試運転を実施。4月28日に出渠したU-183はヴェーザー川を通ってキールへ回航し、4月30日より5月16日まで公試に従事、それが終わるとバルト海方面に向かい、シュテッティンで貨物を揚陸した後、本格的な慣熟訓練・戦闘訓練を開始する。
5月29日から6月12日までヘラ半島で前線を想定した訓練を、6月18日から27日にかけてピラウで第26潜水隊群と魚雷発射訓練を、7月1日から10日までバルト海東部で戦闘訓練を、7月14日、15日にシュテッティンで対空射撃教練を行う。乗組員は海上試験、兵器や機器を扱うための座学、搭載兵装や実地哨戒を用いた戦術シミュレーションといった標準的な訓練を受け、めきめきと練度を高めていった。
一通り訓練を終えて9月4日キール工廠に入渠。外周チューブや機器の交換を行って戦備を整えた。
1回目の戦闘航海(1942年9月~12月)
1942年9月19日15時、U-117やU-118とともにキールを出港、カデカット海峡を通過して、9月21日にドイツ占領下ノルウェー南部クリスチャンサンへ寄港、現地で燃料補給を受ける。しかしこの時にJuコンプレッサーに問題が発覚。修理のためベルゲンに向かう事となったが、ノルウェー沿岸では夜間航行が禁じられているため、エーゲルスンで一晩を明かすべく仮泊、9月23日、ベルゲンに入港して応急修理を行う。
そして9月26日にベルゲンを出撃。アイスランド・フェロー諸島間の海域を突破して北大西洋へ進出する。
しかし、最初に立ちふさがったのは、敵の哨戒機でも艦艇でもなく、大自然の暴威であった。U-183が北大西洋に来た時、猛烈なハリケーンが襲来しており、敵護送船団もUボートも自分の身を守るのが精いっぱいで、相手の事など構ってられず、北大西洋に展開中のUボート20隻の作戦行動は完全に止まってしまう。10月初旬になってようやく天候が回復。これに伴って海の狼たちも息を吹き返した。
BdU(Uボート司令部)はU-183とU-518に、ニューファンドランドからグリーンランド経由でアイスランドに向かう独航船がいるかどうか確認するよう指示を出す。移動中にイギリス軍機から爆撃を受けたが幸い被害は無かった。
北大西洋での通商破壊
10月4日よりウルフパック「ルクス」に参加。合計19隻のUボートが参加し、SC-101船団の迎撃を試みるが、作戦海域は西向きの強風が吹き荒れる悪天候に見舞われ、更に敵飛行艇の出現まで重なったため、追跡すら困難な状況と化してしまう。それでも翌5日午前10時5分、U-382が東行きのSC-101船団を発見、15時34分にはU-619も接触に成功した。一方、U-183はアメリカ海軍VP73飛行隊のカタリナ飛行艇に爆雷4発を投下されて攻撃すらままならなかった。
10月6日の夜明けを以って「ルクス」は解散。西進するHX-209船団をU-254とU-610が攻撃し、撃沈戦果を挙げるも、その代償にU-582、U-619を喪失する被害を出す。
イギリス軍機が西行きの護送船団と通信を交わしているとの情報が入り、10月7日からはウルフパック「パンサー」に加入、U-183はU-518と主要哨戒線の北方に進出して索敵を命じられる。ところが今回も雷撃の機会を得られず10月11日に「パンサー」を離脱。以降ウルフパックには属さず単独で行動する。
カール・デーニッツ提督はU-183とU-518に、カナダ南東部セントローレンス湾へ侵入するよう指示。10月21日、長い航続距離を活かして北大西洋を横断したU-183はニューファンドランド北方沖に到着、ここから南西方向にあるカナダの港湾都市ハリファックスは、カナダ・イギリス本国を結ぶ重要な航路の一部であり、往来する敵船団も豊富という良質な狩り場だった。
命令通りセントローレンス湾に向かうU-183。しかし、いくら進んでもカナダ軍の哨戒機だけがひっきりなしに飛んで来るだけで、獲物となる船舶は全く見つからず、更に10月27日、ベル・アイル・ストレイツ北水道を航行中に機雷原と遭遇、緊急送信機で機雷の存在をBdUに報告した。敵の強力な防御を前に湾内進出を断念。ノバスコシアを南下して通商破壊を再開する。
11月6日、ハリファックス北東沖にて、厳重な護衛を受けた6000トン級タンカーに魚雷2本を発射、その直後に敵駆逐艦が迫ってきたため潜航退避をする。連合軍側に撃沈の記録が残っていないところを見るに魚雷は命中しなかったようだ。続いて11月13日ノバスコシア州セーブル岬南方160海里に到達。
自身が発する過剰な機械音のせいで通商破壊作戦に適さない事が判明。それでも11月29日、ハリファックス北東で果敢に船団攻撃を仕掛け、重なり合った2隻の敵船に向けて4本の魚雷を発射するも、全て外れてしまい失敗。すぐさま敵駆逐艦がすっ飛んできたので潜航退避を強いられる。
12月3日午前9時17分、ノバスコシア州セーブル島南東約320海里にて、ONS-146船団から落伍しつつあった英蒸気船エンパイアダブチンク(6089トン)を捕捉して追跡開始、午前9時43分に放った魚雷2本は外れたが、6分後に放った魚雷3本のうち1本がエンパイアダブチンクへ命中、敵襲を悟った船員は救難信号を発しながら救命艇を降ろそうとする。しかし一向に沈没する気配が無かったため、シェーファー艦長はトドメの魚雷を船尾に撃ち込んだ。
船尾への一撃が致命傷となり、エンパイアダブチンクは船尾を空に掲げながら、逆立ちするようにして急速に沈没、あまりに早い沈没だったせいか船長、船員36名、砲兵11名全員が脱出する前に海底へ没した。こうしてU-183は記念すべき最初の戦果を挙げたのだった。
ロリアン帰投
12月9日、2日後に出港する独タンカーゲルマニアの側面防御のため、U-183、U-460、U-67、U-91に指定海域で待機するよう命じられる。その後、12月11日に補給潜水艦U-460から燃料を、13日に10日分の食糧を受け取るが、北大西洋を襲った猛烈なハリケーンの影響でU-183、U-91、U-758への更なる給油は中止となり、BdUから「現在の位置で可能な限り燃料を節約して静止せよ」と命じられる。
自然の猛威に翻弄されながら待機を続けていると、12月18日、別の補給潜水艦U-463が現れ、燃料とFuMB-1 メトックスを受領。メトックスはビスケー・クロスとも呼ばれるレーダー逆探知機で、航空哨戒が厳しいビスケー湾を突破するには欠かせないものだった。
12月23日フランス最大のUボート基地ロリアンに帰投。翌日シェーファー艦長には二級鉄十字章とUボート戦闘章が贈られた。12月28日より造船所でオーバーホールに着手、その間に人事異動や、見張り用マストの長さを12mに短縮する作業も行われている。
1943年1月14日出渠。ところが、未だ大西洋の気候が荒れ狂っていて、海上作戦がストップしたままだった事から、しばらくロリアンでの待機を強いられる。
2回目の戦闘航海(1943年1月~5月)
1943年1月30日15時35分、天候が落ち着いてきたのを見計らってロリアンを出撃。連合軍の重要な産油地帯カリブ海で通商破壊を行うべく大西洋を南西方向に進む。
2月3日から計10隻のUボートからなるウルフパック「ハーサーズ」に加入。アイルランド南西に大規模な哨戒線を張り、ジブラルタルより出港してくる敵船団を待ち受ける。U-183は哨戒線の北側で索敵を行った。しかし待ち伏せていても、敵船団は一向に現れず、敵哨戒機だけが頻繁に飛んできて、そのたびに潜航退避を強いられる。どうやら大きく迂回されたらしく、どのUボートも会敵に失敗、何ら戦果を挙げられないまま2月6日20時に「ハーサーズ」は解散となった。U-183、U-107、U-590の3隻はカリブ海方面に向かう。
2月7日、哨戒中と思われる敵機の微弱なエンジン音を探知、距離が大きく開いていたからか敵機はU-183に気付かぬまま飛び去る。2月12日13時25分にアゾレス諸島近海を通過。
2月18日午前10時27分、深海潜航試験と漏油対応訓練を行った際、左舷バラストタンクが故障してしまい、そこから漏れ出た空気が大きな気泡となって海面に浮き上がる。潜水艦の位置が露呈しかねない最悪の事態であったが、幸い敵には見つからず午前11時45分浮上。同日16時20分にマスト4本を備えた敵タンカーを発見。しかし、バラストタンクの故障で艦の浮き沈みが激しく、適切な観測が妨げられた上、また敵タンカーは高速で移動していて、間もなくGHG集音装置が推進音を拾えなくなった。それでも1時間ほど追跡を試みたが成果は全く無かった。
目的地が近づいてきた2月23日、BdUからカリブ海方面の海上交通と護衛に関する情報が提供され、同時に獲物となる船舶が少ない場合は、北東もしくは南西へ自由に移動して良いとの指示も下る。翌日入ってきた続報によると敵輸送船団は訓練を受けていない素人集団との事だった。
カリブ海での通商破壊
3月1日ウィンワード海峡を通過、翌2日キューバ南方を西進してグアンタナモ沖を通過。そして3月5日午前5時30分に作戦エリアへと到着する。
カリブ海はキュラソー島のロイヤルダッチシェル製油所、イギリスが所有するトリニダード島製油所、ベネズエラの油田、オランダ所有のアルバ島製油所等が散在する連合軍の一大産油地であった。また連合軍はベネズエラで産出した燃料をキュラソー経由でイギリス本国に輸送、アメリカ本土と繋がるアルミニウムの輸送路もあるなど、カリブ海一帯は敵のアキレス腱と言えた。
5月6日午前1時50分、スウェーデンの汽船が照明を点けながら航行しているのを発見、シェーファー艦長がBdUに攻撃許可を求めたところ、「ヨーデボリ交通のリストに記載が無い場合は船員を退船させた上で撃沈出来る」との回答があった。だが目を凝らして見ると本当にスウェーデンの国章なのか疑わしくなってきた。確認のため距離300m弱まで肉薄、すると船体側面に「RIO DULSE」の文字を確認、すなわちブエノスアイレスを船籍港とするアルゼンチンの船だと判明。BdUがアルゼンチン船への攻撃を禁じたので雷撃せず素通りさせた。
3月8日21時12分、中高度より急速接近してくる敵機2機を発見・潜航、迅速な潜航が功を奏し、敵はU-183を見失ってそのまま飛び去って行った。ドイツ海軍は知る由も無かったが、イギリス軍は既にメトックスが反応しない10センチ極超短波レーダーを開発。小さな目標を更に遠距離から捕捉出来るようになる。加えて1年前のノイランド作戦で大損害を受けたため、連合軍はより正確な爆撃を可能とする爆撃照準器、トーペックス高性能爆薬といった新技術を矢継ぎ早に投じ、さっそくトリニダード島近海でU-156を仕留めている。もはやカリブ海は良好な狩り場とは言えなかった。
サンアントニオ岬沖で獲物を待ち伏せるも、通りがかる船は全てアルゼンチン籍だったため、海峡を横断して狩り場を別の場所へと移す。
3月11日午前6時7分、キューバのサンアントニオ岬西方約30海里にて敵の汽船を発見、40分後に一度魚雷を発射するも外れ、追跡を続けていると、午前7時48分に2隻目の敵船が出現したため、シェーファー艦長は新たな2隻目に矛先を向ける。
午前7時52分に魚雷2本を発射、うち1本が、バナナ3万1000本とマホガニー丸太を積載したホンジュラス蒸気商船オランチョ(2493トン)の右舷中央部に命中、船員が慌てて救命ボートを降ろし始めるも、沈没の気配が見られなかったので、今度は左舷側より雷撃を行って船体中央部に命中させる。すると一瞬にして大爆発が生じて10分以内に船首より沈没。船外へと脱出した生存者のうち2名が、沈没する際に発生した渦潮に呑まれて溺死、1名が回転中のスクリューに触れて即死し、船長以下40名は何とか生き延びた。
翌12日、U-183は敵の航空哨戒が日中のみ行われている事、アルゼンチンの船を3回目撃した事をBdUに報告。オランチョ撃沈後は南南西に進み、グアテマラ湾、ベリーズ及びホンジュラスの海岸沿い、ケイマン諸島、ジャマイカ、イスパニョーラ島東南を遊弋する。3月28日BdUより「カリブ海を自由に移動しても良い」との指示が下る。
4月8日午前2時に浮上した際、北方距離3000m先の空を敵哨戒機2機が飛行しているのを発見。2機はU-183に気付かぬまま素通りしていった。ここしばらくカリブ海は曇りが続いていて、雲間を飛行する敵機を発見しにくい状況だったため、襲われる前に発見出来た事は、まさに幸運と言うほか無かった。翌9日航空機の護衛を伴った敵船1隻を発見して報告。
燃料不足が表面化したので、4月16日午後12時6分モナ海峡を通ってカリブ海を脱出、フランスへの帰路に就く。カリブ海を抜けると敵の航空哨戒はぴたりと止まった。4月21日16時、甲板砲の清掃と全ての兵装の試射を実施。
フランスへの帰路
5月1日13時8分、補給任務中のU-117と合流、識別信号を交換したのち燃料25トンの補給を受ける。燃料以外にも、不足しているものがあるU-183であったが、U-117はここへ来るまでにU-509、イタリア潜水艦アルキメデに補給を行っており、これ以上補給出来るものがないので、15時40分に両艦は別れた。
補給後U-183はU-197とともに、北大西洋で活動中のUボートの無線中継任務を始める。Uボートからの報告をU-183が代わりにBdUへ中継する事で、無線を発したUボートの位置を連合軍から秘匿出来るメリットが生まれ、結果的に多くのUボートを守れる訳である。5月3日、U-460と合流して、帰投に必要な燃料及び食糧10トンを補給、加えてU-460軍医長による往診を受けた。
5月13日午後12時58分ビスケー湾にて出迎えの護衛艦艇と合流。そして15時40分、104日間の戦闘航海を終えてロリアンに帰投し、2回目の戦闘航海を無事終える。今回の功績でシェーファー艦長には一級鉄十字章が贈られた。
モンスーン戦隊への異動と東南アジア進出
1943年5月はUボートにとって大きな転換期であった。連合軍の損害が減った一方、Uボートの被害が過去前例に無いほど増大したのである。たったひと月で43隻を喪失した事は、単にUボートの数が減っただけでなく、連合軍の対潜技術向上や若手の士官をも多く喪失した事も意味し、デーニッツ提督は大西洋からUボートを呼び戻さなければならなくなった。
連合軍の巧妙化により、行き詰まりを見せていた大西洋方面とは裏腹に、インド洋方面の対潜技術は遅々として進んでいないとの情報が極東の同盟国日本からもたらされ、日独間の長い交渉の末、1943年春シンガポールとバタビアにドイツ海軍基地を、ペナンにUボート基地の設置が許可された。ちょうど大西洋に代わる新たな狩り場を求めていたドイツ海軍司令部はインド洋に活路を見出す。
早速U-178を日本占領下ペナンに送って出撃拠点を整備し、インド洋を作戦範囲とする第33潜水隊群(通称モンスーン戦隊)を新編、ヨーロッパから航続距離に優れたIXC型9隻とIXD2型2隻を派遣する事になり、U-183も東南アジア行きが決定。
ロリアンには対空兵装を多く載せられる改良型司令塔の数が少なかったため、暫定措置として、後部甲板に円形のプラットフォームを設け、すぐジャムる悪名高い37mm機関砲を撤去、代わりに20mm機関砲を増備し、司令塔とプラットフォームの間に傾斜した橋が架けられた。ペナン行きUボートではU-183、U-168、U-509がこの分離型高射砲プラットフォームを採用している。
一方、見張り用マストを撤去。空襲の危険が高まり、マストを収容する時間が確保出来なくなった事、マストの存在が却って敵機に見つかりやすくしている事が原因とされる。
3回目の戦闘航海(1943年7月~10月)
1943年7月3日20時30分、U-168、U-505とロリアンを出撃、23時20分よりM級掃海艇7隻が外側に占位して護衛が始まった。翌4日午前0時にU-505がディーゼル燃料枯渇で落伍。掃海艇1隻が付き添いとして残留する。敵哨戒機が跋扈するビスケー湾を突破すべく、U-183はU-168とペアを組んで対空能力を底上げを図る。
7月8日、水上航行中にB-24爆撃機の襲撃を受けて潜航退避、至近弾により若干の損害が生じたものの、応急修理を行って急場を凌いだ。
IXC/40型はIXD2型と比較して航続距離が短いため、ケープタウンより手前で補給を受けなければならず、7月22日、カーボベルデ諸島西北西600海里でU-155から給油を、翌23日にU-487から10日分の食糧を補給、インド洋まで長駆出来るだけの物資を確保する。
ケープタウン南西を喜望峰に向かって航行中の8月19日、10月分の暗号表をU-177に渡すようBdUから命令される。同日中に速力15ノットで走る敵貨物船を発見して魚雷3本を扇状に発射、63秒後に2回の衝撃音が聞こえ、6分後に爆発音を探知したが、爆発までの時間の長さを考慮すると、どうやら信管の不具合で命中時に起爆しなかったようだ。8月24日19時25分、U-177との合流地点に到着するが、暗号解析で行動を読まれたらしく、敵飛行艇に待ち伏せされた挙句、U-177も敵機2機に襲われ、退避の許可をBdUに求めたため合流は中止となる。
喜望峰に差し掛かると急激に天候が悪化。この辺りには東西約1600km、南北約320kmに亘る暴風圏ローリングフォーティーズがあり、吹き荒れる風速40mの暴風と逆巻く荒波が、絶え間なく襲ってくる過酷なる世界だった。だが南アフリカ連邦の航空哨戒圏を避けるにはどうしてもこの暴風圏を通らなければならない。8月30日頃ようやく暴風圏を突破してインド洋に進出。
9月1日に敵の貨物船を発見、追跡に移行したが視界不良により見失う。その際、シェーファー艦長が不必要に長い報告を送信したせいで、BdUから咎められる一幕があった。
インド洋で行う通商破壊
9月8日午前3時、インド洋モーリシャス南方450海里にて、U-183、U-188、U-532、U-533の4隻が集結。そこではペナン行きのUボートを支援するべく独給油船ブラーケが待機していた。航路から大きく外れた場所のため連合軍商船が現れる可能性は低かったが、それでもブラーケは識別用として船尾マストと煙突の間に洗濯物を干しているのが見える。U-188艦長リュッテン少佐とシェーファー艦長はメガホンで挨拶を交わす。
U-188はブラーケの右舷側1000mに、U-532は左舷1000mに移動、U-183はその後方で警戒任務に就く。両艦が補給を終えると今度はU-183とU-533が接舷して補給を受ける。各艦約4時間かけてディーゼル燃料、潤滑油、弾薬、食糧などを積み込んでいく。本来ならイタリア潜水艦アミラリオ・カーニも補給を受けるはずが、数日前にイタリアが降伏したためか姿を現さなかった。補給2日目の午後に遅れてU-168がやってきてブラーケと合流。
全艦への補給には最低でも3日かかる見通しだった。ブラーケと補給を受けるUボートは送油ホースで繋がれ、手すきのUボートが周囲を遊弋して対空警戒を実施。毎朝ブラーケの船員がゴムボートを使って焼きたてパン、お菓子、新鮮な野菜をUボート乗組員に配って回り、疲れ切った彼らに活力を与えた。
9月13日午後作業完了。補給を受けた各Uボートは各々定められた作戦海域に向かって北上。同時期、日本海軍の潜水艦もアラビア海で通商破壊を行っていた事から、同士討ちを避けるべくU-183はセイシェルとアフリカ海岸、U-168はボンベイ沖、U-188はオマーン湾、U-532はインド南部と西海岸、U-533はアデン湾に配備されている。
10日間に亘ってモンバサ沖で活動したが、駆逐艦1隻と小型巡視船2隻以外は何も発見出来ず(エニグマ暗号を解読されて護送船団が迂回していた模様)、また、長い航海によって艦体にダメージが出始めたので、BdUにペナンへ向かう事を提案したところ、BdUも日本にU-511を譲渡して、浮いた乗組員をU-183に配備したい思惑があったため許可を出し、通商破壊を途中で切り上げてペナンに直行する。同時に「損傷の度合いに関わらず訪れた攻撃チャンスは全て活かすように」とも命じられた。
英東洋艦隊の捜索網を振り切った後、U-183はペナン沖合いまで進出。同じくペナン近海まで来ているU-188やU-532と合流すべく会同予定地点に向かう。10月29日未明、予定地点で浮上すると、日本軍の記章を付けた水上機と魚雷艇が待機しており、U-183と同じタイミングでU-532も浮上、どうやらU-188が一番乗りだったようだ。3隻は互いの叫び声が聞こえるほど近い距離に固まる。
間もなく日本の船が船首波を立てながらやってきてUボートの誘導を開始、それを魚雷艇と水上機が護衛する。護衛に囲まれているとはいえ、未だ英潜水艦の活動圏内であるため、乗組員は双眼鏡を手に緊張感を持って見張りを行う。
そして10月30日18時頃、119日間の航海と約2万海里を越えてペナン基地に入港。白い服を着た日本海軍の軍楽隊が、ヒトラー総統お気に入りのバーデンヴァイラー行進曲を力強く奏で、次はベートーヴェンの「英雄」を演奏、遠路はるばる来訪したUボートを歓迎してくれた。U-183はモンスーン戦隊に割り当てられたスウェッテンハム桟橋東側に係留。
しかしヨーロッパからペナンに向かった11隻のうち無事到着したのはU-183を含む4隻のみ。現状モンスーン戦隊の戦力はU-183、U-168、U-510、U-532、UIT-24、UIT-25の計6隻に過ぎなかった。
ペナン到着
3日間かけて艦の清掃と魚雷の確認を行い、次いで兵装、機関、艦体、機器の応急修理を実施。燃料はドイツ海軍司令部を通して日本側に要請されるが、納品が遅く、それでいて不確実だったため、かなり前から要請する必要があった。燃料が届けられたらドイツ人乗組員の手で給油を実施。
各Uボートにはマレー人運転手付き米国製乗用車が1台ずつ配車され、フロントガラスには日本海軍の旗が立っていた。ただベルリン海軍本部からの命令により将校には個別の車が支給されなかった。これは士官が乗った車両がレジスタンスに襲われる事態がフランスで多発していたためである。
桟橋は日本海軍の警備下にあり、出入りの際は証明書を提示しなければならなかったものの、警備兵に顔が知られると、次第に顔パスでも通過出来るようになっていったとか。モンスーン戦隊の司令部はイングランド住宅地区の私邸に置かれ、食堂にはドイツ人のコックがいたので、シェーファー艦長以下士官はここで食事をとった。時折、中国のレストランに行ったり、日本海軍の士官に誘われてクラブへ赴き、ビールや酒、ウィスキーを飲む事もあったという。
日本側の厚意で、乗組員たちは腸チフスとコレラの予防接種を受けた。また日本側から「煮沸していない水を飲むな」「現地で食べ物を買うな」「露天の果物を口にするな」といった衛生対策を厳重に守るよう指示され、上陸もしくは帰艦する時はドイツ人軍医が体調をチェック、この検査について、日本軍医療従事者の介入は認められなかった。厳格に定められた衛生対策のおかげでペナンでは疫病が流行っていない。
シンガポール回航
ペナンには大規模な修理施設が無いので、本格的な修理を受けるべく11月10日ペナンを出港、マラッカ海峡を通って翌日シンガポールへ到着し、第101工作部の協力で外板の洗浄、外側の損傷の修理、輸送物件の積み下ろし、誤射を防ぐため艦体を日本海軍の潜水艦と同じ色に塗装する等の作業を行った。
日本軍には高度な技術で造られたUボートを整備・修理出来る技術者がいなかった(ドイツでも特別な訓練を受けた人でなければ出来ないほど)。このためドイツ人乗組員自ら整備しなければならず、日差しのきつい昼間を避けつつ午前と夜に分けて作業。これは乗組員の休暇日数の減少を意味した。一応、日本側も潜水艦に乗っていたイタリア人25名を組み込んだ専門グループを結成、これにより若干状況が改善されたものの、修理・物資の積み込み・乗組員の休暇の三工程を2ヶ月以内に行うスケジュールはあまり守られなかった。
物資面では、東南アジアで産出可能な燃料と潤滑油、大して使われず余っている対空機銃弾、日本側が提供する食糧以外は全て不足している状況で、特に魚雷の不足が深刻化しつつあった。修理用部品は基本Uボートか封鎖突破船が運んできた物のみ、中には現地でのコピーに成功した部品、機器もあるが、質はヨーロッパで製造されたものより劣っている。
現地ではドイツ語の雑誌や新聞は手に入らなかったが、日中の特定の時間帯に本国から放送されるラジオニュースを艦内で聴く事で、ヨーロッパの情報をある程度仕入れる事が出来た。
熱帯の気候に慣れていないドイツ人乗組員はマラリア、赤痢、デング熱の罹患率が高かったという。ただし上陸中はダンス、スポーツ、ドイツ映画鑑賞など日本側から提供された娯楽を思う存分に楽しめたので、目立った士気低下は起こらなかった。
11月20日、長期の航海で循環器を患ったシェーファー艦長に代わり、フリッツ・シュニーヴィント中尉が二代目艦長に就任。彼はU-511の日本回航を成功させた若きベテランである。U-183にはU-511の元乗組員が補充された。その後シェーファー少佐はUIT-23艦長に転任するも、虫垂炎によって12月28日午前5時6分シンガポールの海軍病院で死去。享年37歳。
整備作業を終えると食糧、燃料、弾薬、潤滑油を積載。約2週間かけて試運転や潜航試験を行う。1944年1月28日シンガポールを出港、マラッカ海峡を通って1月30日ペナンに回航。左舷側司令塔には識別用のハーケンクロイツが目立つように掲げられていた。
ペナンでは魚雷が不足していた事、また造船所のスペースの都合で同時に5隻しか運用出来ない事から、U-183、U-188、U-532には東南アジア産戦略物資積載の上でヨーロッパに帰国するよう命令が下される。このためキール部分の空いた隙間に錫10トンとタングステン21トンを、艦内の空きスペースに生ゴム9.4トン、キニーネ500kg、アヘン250kgを積載。
4回目の戦闘航海(1944年2月~3月)
1944年2月10日、シュニーヴィント艦長指揮のもとペナンを出港。帰国がてらインド洋・アッドゥ環礁沖で通商破壊を行う。
2月12日、魚雷防御網を備えたリバティ船を発見、2本の魚雷を発射するが、魚雷の不調で二度行った雷撃は全て失敗してしまい取り逃がす。U-183が使用している魚雷は1年以上前に封鎖突破船が運んできた古いもので、高温多湿の環境に長期間曝されて劣化が進んでいたのだ。
2月29日、コロンボからマドラスに向けて、一般貨物700トンを輸送中の英自動車運送船パルマ(5419トン)を発見、15時30分、セイロン南方約400海里で魚雷4本を発射し、このうち2本がパルマに命中して撃沈。船員4名と砲手3名が戦死した。パルマを仕留めて浮上した際、別の英タンカーに姿を目撃されたようで、潜水艦警報を意味するSSS信号が放たれた。
3月2日より日本海軍がサ第一号作戦を開始。インド洋に重巡青葉、利根、筑摩をバンカ泊地から出撃させ、インドネシア南西ココス諸島沖で単横陣を組み通商破壊を行う。したがってインド洋では日独による合同通商破壊作戦が同時に行われていた訳である。
モルディブ諸島アッドゥ環礁ガン島には英東洋艦隊の秘密燃料基地があった。U-183はガン海峡に張り巡らされた魚雷防御網を掻い潜り、3月9日午前9時、その隙間から魚雷1本を発射、ビリンギリ島沖で燃料貯蓄船として運用中の英タンカーブリティッシュロイヤリティ(6993トン)の右舷船尾に命中した。機関室が完全に破壊され、7号、8号、9号タンクが浸水して右舷側へ大きく傾斜し、火災を起こしながら大破着底せしめた。その直後、レーダー探知により英巡視船が駆け付けてきたので、レーダーデコイ「アフロディーテ」を使って離脱した。
浅瀬だったため完全には沈まず、間もなく復旧作業が行われて燃料貯蓄船に復帰。とはいえ、損傷は深刻だったようで、終戦後の1946年1月15日、全損判定が下されてイギリス軍艦が砲撃処分を行っている。またブリティッシュロイヤリティは過去にも日本海軍の潜水艦伊20から甲標的攻撃を受けて着底していた。
インド洋を出る前に独給油船ブラーケより燃料補給を受ける予定だったが、3月12日、U-168への補給中に英東洋艦隊に捕捉されて自沈、この影響で給油完了したU-188を除く全艦がペナンに引き返さざるを得なくなる。ペナンへの帰投命令を受けたU-183はセイロン南西で帰路に就く。
3月19日午前11時50分、スマトラ島北方で待ち伏せていた英潜水艦ストイックに襲撃され、放たれた魚雷4本が白線を引きながら迫ってきたが幸い全て回避に成功。翌20日20時に護衛艦艇と合流し、3月21日ペナンに帰投した。
5回目の戦闘航海(1944年5月~7月)
1944年5月3日ペナンを出港。ところが出港直後にスラストベアリングの損傷が発覚して反転、5月5日ペナンに戻って応急修理を受ける。どうやら低品質の潤滑油を使用した事でベアリングの摩耗が増大したようだった。更に5月13日、出撃に向けて潜水作業をしていた主任機関士エーリッヒ・アーデルスハイマーが事故死してしまう。数々の不運がU-183の帰国に暗雲をもたらしていく。
何とか修理を終えて5月17日に再度ペナンを出港、今度はインド洋とチャゴス諸島沖を狩り場に定める。
U-183が大西洋を離れている間、同方面の連合軍は対潜技術を大幅に向上させ、U-183の兵装はすっかり旧式化していた。したがって大西洋を突破するには新鋭のレーダーが必要だった。BdUは5月24日、U-843と合流して、レーダー逆探知装置FuMB-07 ナクソス、FuMB-09 ワンゼ、FuMB-10 ボルクムを受領するよう命令が下る。一方、合流地点に指定された海域は、日本からの情報によると敵空母や艦艇が通過する可能性があるようで、合流地点が正式に決まったのは5月27日の事だった(記録が無い所から察するに合流に失敗した模様)。
6月5日20時23分、アッドゥ環礁南南東約300海里の地点で、コロンボ発フリーマントル行きの英蒸気船ヘレン・モラー(5259トン)に魚雷2本を発射、ヘレン・モラーは油断していたのか対潜警戒用のジグザグ運動を取っておらず、瞬く間に1本が左舷後部に命中。爆発でハッチカバーが吹き飛ばされ、船体が損傷して前部が30度持ち上がり、前部マストがブリッジに倒れて操舵室を圧し潰す。しばらく経つと船体が真っ二つに裂けて船尾も持ち上がり、水上に露出したスクリューが高速回転しているのが見える。
20時35分ヘレン・モラーは沈没。救命艇を降ろすのに手間取ったせいでチャールズ・ブレデリック・ポール船長、船員2名、砲手1名が死亡した。生存者69名は救命艇を漕いで夜の闇へと消えていった。
6月21日時点のU-183のバッテリー残量は30%しか残っていなかった。ペナンの熱帯気候はバッテリーにも悪影響を及ぼしていたが、完全に修理するには日本まで回航しなければならず、だましだましの応急修理でやりくりしてきたツケが遂に来た訳である。見かねたBdUはペナンへの帰投命令を出し、もし状況が厳しい場合には、気象条件に応じてU-537と合流・給油を行うよう命じた。翌22日ペナンよりU-537の現在位置が通達される。
シュニーヴィント艦長は合流を決断、6月24日、ロリアンからペナンに向かっているU-537と合流して送油、代わりに新しい暗号表、ボルクム、ナクソスを受領し、翌日ヨーロッパに帰国中のU-1062と合流、新しい暗号表を手渡した後、再びU-537と会同して今度はU-1062用のボルクム、ナクソスを受領する。続いてU-1062との合流地点に向かうも、コンプレッサーの損傷でU-1062がペナンへ帰投する事になったため合流中止。
バッテリー修理のため神戸に向かうU-183
整備を受けるべく8月中にシンガポールへ回航、セレター軍港の第101工作部で入渠整備を行う。しかし、バッテリーの交換はシンガポールでは出来ず、東南アジアで唯一交換可能なスラバヤも機雷封鎖で入港が困難となったので、いよいよ日本本土まで回航しなければならなくなった。目的地はドイツの潜水艦基地がある神戸。ここまで行けばバッテリーの交換が可能だった。
10月6日にU-168がスラバヤ北西で蘭潜水艦ズワードヴィッシュの雷撃を受けて沈没。東南アジア近海で連合軍潜水艦が活発に行動している事を受け、BdUは10月13日、モンスーン戦隊のUボートに「敵潜の港内侵入や、基地間移動の危険を減らすべく、あらゆる対策を講じよ」「出港前に敵艦の位置、手順、攻撃手段などの正確な情報を日本側から得るべし」「沿岸航路や頻繁に利用される水路は避け、最短ルートで入港せよ。固定の集合場所は使用するな」「水上航行する際は高速ジグザグ運動を怠るな」といった対策を周知した。
10月16日シンガポールを出港。この頃になると東南アジア方面の戦況も一層悪化、アメリカ軍が虎視眈々とフィリピン奪還を狙い、台湾東方沖にまで米機動部隊が進出、道中の海域には米潜水艦が跳梁跋扈して日本の補給線を断ち切ろうとするなど、まさに危険な道のりであったが、10月30日、無事に神戸まで辿り着く事が出来た。そして長期間の入渠整備を行う。11月25日、U-183の第一当直士官アルフレッド・マイヤー中尉がUIT-25(元イタリア潜水艦ルイージ・トレッリ)の艦長に転任。
本国から遠く離れた極東で活動している都合上、磁気コンパスフェアリングを始めU-183の機器は旧式のものが多く占め、今や必須となったシュノーケルすら持っていない有り様であった。
1945年1月、アメリカ軍は暗号解析や無線傍受を駆使し、Uボート2隻が神戸でバッテリーの交換を受けている事を突き止めた。当初の予定では、1月中にバタビアへと帰投するはずだったが、ディーゼル機関の欠陥修理とキールバラストの交換に手間取り、出港予定日が翌月に繰り下げとなる。1月11日にシュニーヴィント艦長はこれまでの功績を称えられてドイツ十字章金賞が授与される。
1月27日までに日本側と現地ドイツ軍部隊との間で交渉が成立。U-183はフィリピン南部の接近路を哨戒してアメリカ軍の上陸用舟艇を攻撃、同時に日本軍潜水艦が北部接近路で哨戒を行うという日独合同作戦が計画された。しかしBdUはこの計画に反対。U-183は接近路ではなく侵攻路に接近すべきだと主張した。
U-183が停泊している神戸も大小様々な空襲を受けるようになり、2月4日、69機のB-29が172.8トンの焼夷弾を投下して市街地を無差別盲爆、2月6日には灘区と湊東区に爆弾110発と焼夷弾14発を投下、その影響で2月9日の出港が延期となる。
タンジュンプリオクでの出撃準備
2月22日にようやく神戸を出港。U-183が神戸で修理を受けている間、連合軍の猛攻に耐え切れなくなったモンスーン戦隊がペナンより撤退、後方のバタビア、その外港タンジュンプリオクに新たな拠点を設けていた。3月9日タンジュンプリオクへ入港。
連合軍による機雷敷設が相次いでいるからか、航路は厳しく定められ、入港の際はまずエダム島左側約2海里を通過、続いてライデン島東側を赤いブイを目印にしながら通り、2隻の沈没船が屍を晒す防波堤を抜けて、ようやく潜水艦用桟橋へ辿り着く。敵の度重なる空襲によりバタビア基地は半壊。港内を行き交うはずのランチや小型船舶は全く見られず、港内の小さな乾ドックは特設監視艇が占拠していた。
モンスーン戦隊司令ヴィルヘルム・ドメス中佐はU-183を本国行きの最終便と見なし、ペナンより引き揚げてきたドイツ人基地要員を乗せ、日本軍から渡された僅かな予備燃料を全て注ぎ、ディーゼルエンジンの修理に着手。一人でも多く乗せられるよう戦略物資は何も積載していなかったと伝わる。
バタビア停泊中は当直士官を除いて乗組員全員が地上で居住。港は有刺鉄線で守られ、日本陸軍の兵士50~60名が常駐、要所には銃剣を持った日本兵が一人ずつ配備され、一日に一回、日本陸軍の将校が視察に訪れた。Uボートにあてがわれた桟橋の入り口には竹で造られたバリケードがあり、2~3名のインドネシア人が警備、ドイツ人乗組員が出入りする際は身分証明書の提示が求められるも、何度も出入りしているうちに顔パスへと変わっていった。休暇を得た乗組員はソエカボエミのリゾートで羽を伸ばした。
連合軍は日独間で交わされた無線を傍受、それによると「U-183は4月12日スラバヤを出港してニューギニアに向かう」「作戦海域には4月29日到着予定」と書かれていた模様。
最期
1945年4月21日夕刻、U-183は静かにバタビアを出港、蘭潜水艦O-19が敷設した機雷を突破し、ジャワ海を東進していく。日本軍の誤射を防ぐため砲塔には軍艦旗が掲げられていた。シュニーヴィント艦長がU-511を日本に回航していた時、日本の潜水艦とは大きく異なる艦型だったせいで海防艦択捉に砲撃された事があり、この苦い経験に基づく行動だったと思われる。
出港後しばらくはシュニーヴィント艦長も司令塔に登って見張りを担当。ドイツ海軍上層部の指示で、日本軍哨戒基地に届ける燃料をバラストタンクに積載しており、このせいで潜航が出来ない状態だったため、少しでも見張り要員を増やす必要があったのだ。加えてU-183は左右それぞれ50度の角度で強いジグザグ運動を実施。
日本軍は同士討ちを避ける目的で、U-183の出港日時、航路、海峡の通過時間等を関係各所に通達していたが、連合軍には筒抜けであり、かえって迎撃を容易なものにしてしまう。さっそくアメリカ軍は付近を哨戒中の米潜水艦ベスゴ(SS-321)に撃沈の命令を出す。
4月23日朝、ジャワ海で潜航試験中のベスゴが浮上した時、帆船らしき艦影を発見、同時にスクリュー音も探知された事で攻撃態勢に入る。
13時20分、シュニーヴィント艦長は経験豊富な見張り員6名と、交代要員の首席操舵手カール・ヴィエスニフスキー准尉を残して艦内に移動。ヴィエスニフスキーは敵機の襲撃を警戒して空に双眼鏡を向けていた。それから1時間後の14時27分、司令塔の左舷側に約5mの火柱が上がった。ソエラバハ北方のジャワ海で、U-183を待ち伏せていたベスゴが魚雷6本を扇状に放ち、このうち1本が左舷中央部に命中したのである。たちまち艦に激震が走り、司令塔に立っていた見張り員たちは苦悶の表情を浮かべながら力なく倒れ、床の穴から艦内に転落、ヴィエスニフスキーのみ海に投げ出された。海水が司令塔のハッチを突き破って艦内に流入。呑み込んだ海水の重さで4秒以内に沈没してしまう。
生き残ったのはヴィエスニフスキーだけだった。とはいえ彼も足、鎖骨、肋骨の一部を骨折し、歯を3本失う重傷を負っていた。彼は海面に広がる油膜の中心で、他の仲間が現れるのを待っていたものの、誰一人として現れず、10分後に浮上したベスゴによって救助される。それからベスゴは約1時間に亘って捜索を行うが生存者は発見されなかった。乗組員54名戦死。捕虜になったヴィエスニフスキーは戦後の1946年1月8日ドイツのクックスハーフェンに帰国した。
U-183は米潜水艦に撃沈された2番目のUボートで、モンスーン戦隊が最後に失ったUボートでもある。
関連項目
親記事
子記事
- なし
兄弟記事
- 0
- 0pt

