U-183単語

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U-183とは、第二次世界大戦中にドイツ海軍が建造・運用したIXC/40Uボートの1隻である。1942年4月1日工。通商破壊で5隻(2万6253トン)撃沈の戦果を挙げた。1945年4月23日、ソエラバハ北方のジャワにて、潜水艦ベスゴの雷撃を受けて沈没

概要

IXC/40とは、1940年に前級IXCを再設計・洗練化した小改良タイプである。

IXCベースに外殻径を拡大しつつバラストタンクを大化し、燃料搭載量を更に6トン増加させた事で、航続距離を2万370km→2万1113kmに増大、これにより一度洋上補給すれば200日以上の作戦行動が可になり、また水上での最大速力が微増するといった恩恵を受けられた。

IXC/40には急速潜航時を速める的で、前甲の両側の大部分を切り取るタレットコンバージョンクイックダイブバックを装備している艦が多いが、現存する写真を見た限り、U-183には装備されなかった模様。改装の手間の割にあまり効果が実感出来なかった事なのでオミットされたのかもしれない。

U-183の艦後方に分離高射砲ラットフォームが備えられている。この艦はかなり特殊なものらしく、U-183以外で採用したのはU-84、U-168、U-509くらいだったりする。またU-183、U-510U-532神戸港まで来訪した数少ないUボートである。

U-183、U-184、U-185、U-187の4隻には長距離通信用アンテナが艦尾に、長さ15mの見り用マストが左舷後部甲に装備されていた。しかし役に立たないと判断され後に取り外されている。またU-183は熱帯での活動を想定して建造された特別なUボートで、他のUボートが持たない冷装置を持ち、ダイムラーベンツ製の補助ディーゼルも搭載していたという。

IXC/40160隻が起工、このうち89隻が就役し、残りの71隻はXXI型生産のリソースを確保するため、1943年後期に建造中止となっている。

初代艦長のハインリヒシェーファー少佐は日独の軍艦旗を重ねたエンブレムを採用。このエンブレムを使用したのはU-183とU-1224(呂501)の2隻だけである。また二代艦長フリッツ・シュニーヴィント少佐U-511日本に回航した人物で、U-183も日本海軍支援を受けてインド洋で通商破壊を行うなど、何かと日本と縁があるUボートと言える。

排水量1144トン、全長76.76m、最大幅6.86m、最大速力18.3ノット(水上)/7.3ノット(水中)、安全潜航深度100m、急速潜航時35、乗員44名。兵装は533mm魚雷発射管6門(艦首4門、艦尾2門)、魚雷22本、10.5cm単装1門、37mm単装機関1門、20mm連装機関2門。

艦歴

起工から訓練完了まで

海軍力増強を図るドイツ海軍の拡Uボート建造計画により、1940年8月15日AGヴェーザー社のブレーメン所に発注。U-183はブレーメン所に発注された15番Uボートとなる。

建造資材の調達が終わった1941年5月28日、ヤード番号1023の仮称を与えられて起工、1942年1月9日し、それからディーゼルエンジン2基と潜航用電動モーター2基の搭載工事を行い、構造の耐久性及び基本システム試を上で実施、そして同年4月1日工を果たした。初代艦長にハインリヒシェーファー少佐が着任するとともに訓練部隊の第4潜隊群へ編入される。

シェーファー少佐潜水艦での実戦経験が新米艦長であった。彼は日本海軍軍艦旗とドイツ海軍旗を重ねたエンブレムを右舷側に描く。

4月1日午前10時よりブレーメン所内で試運転を実施。4月28日に出渠したU-183はヴェーザーを通ってキールへ回航し、4月30日より5月16日まで試に従事、それが終わるとバルト方面に向かい、シュテッティンで貨物を揚陸した後、本格的な慣熟訓練・戦闘訓練を開始する。

5月29日から6月12日までヘラ半島前線を想定した訓練を、6月18日から27日にかけてピラウで第26潜隊群と魚雷発射訓練を、7月1日から10日までバルト東部で戦闘訓練を、7月14日、15日にシュテッティンで対射撃教練を行う。乗組員は試験兵器や機器を扱うための座学、搭載兵装や実地を用いた戦術シミュレーションといった標準的な訓練を受け、めきめきと練度を高めていった。

一通り訓練を終えて9月4日キールに入渠。外周チューブや機器の交換を行って戦備を整えた。

1回目の戦闘航海(1942年9月~12月)

1942年9月19日15時U-117やU-118とともにキールを出港、カデカット峡を通過して、9月21日ドイツ占領下ノルウェー南部クリスチャンサンへ寄港、現地で燃料補給を受ける。しかしこの時にJuコンプレッサーに問題が発覚。修理のためベルゲンに向かう事となったが、ノルウェー沿では間航行が禁じられているため、エーゲルスンで一晩を明かすべく仮泊、9月23日ベルゲンに入港して応急修理を行う。

そして9月26日ベルゲンを出撃。アイスランドフェロー諸島間の域を突破して北大西洋へ進出する。

しかし、最初に立ちふさがったのは、敵の哨戒機でも艦艇でもなく、大自然の暴威であった。U-183が北大西洋に来た時、猛ハリケーンが襲来しており、敵護送団もUボートも自分の身を守るのが精いっぱいで、相手の事など構ってられず、北大西洋に展開中のUボート20隻の作戦行動全に止まってしまう。10月初旬になってようやく回復。これに伴ってたちも息を吹き返した。

10月1日ロリアンに拠点を置く第2潜隊群へ転属。

BdU(Uボート部)はU-183とU-518に、ニューファンドランドからグリーンランド経由でアイスランドに向かう独航がいるかどうか確認するよう示を出す。移動中にイギリス軍機から爆撃を受けたが幸い被害かった。

北大西洋での通商破壊

10月4日よりウルフパック「ルクス」に参加。合計19隻のUボートが参加し、SC-101団の迎撃を試みるが、作戦域は西向きの強が吹き荒れる悪に見舞われ、更に敵飛行艇の出現まで重なったため、追跡すら困難な状況と化してしまう。それでも翌5日午前10時5分、U-382が東行きのSC-101団を発見、15時34分にはU-619も接触に成功した。一方、U-183はアメリカ海軍VP73飛行隊のカタリナ飛行艇爆雷4発を投下されて攻撃すらままならなかった。

10月6日明けを以って「ルクス」は解散。西進するHX-209団をU-254とU-610が攻撃し、撃沈戦果を挙げるも、その代償にU-582、U-619を喪失する被害を出す。

イギリス軍機が西行きの護送団と通信を交わしているとの情報が入り、10月7日からはウルフパック「パンサー」に加入、U-183はU-518と線の北方に進出して索敵を命じられる。ところが今回も雷撃の機会を得られず10月11日に「パンサー」を離脱。以降ウルフパックには属さず単独で行動する。

カール・デーニッツ提督はU-183とU-518に、カナダ南東部セントロレンス湾へ侵入するよう示。10月21日、長い航続距離を活かして北大西洋を横断したU-183はニューファンドランド北方に到着、ここから南西方向にあるカナダの港湾都市ハリファックスは、カナダイギリスを結ぶ重要な航路の一部であり、往来する敵団も豊富という良質な狩り場だった。

通りセントロレンス湾に向かうU-183。しかし、いくら進んでもカナダ軍の哨戒機だけがひっきりなしに飛んで来るだけで、獲物となる船舶は全く見つからず、更に10月27日ベルアイルストレイツ北を航行中に機雷原と遭遇、緊急送信機で機雷の存在をBdUに報告した。敵の強力な防御を前に湾内進出を断念。ノバスシアを南下して通商破壊を再開する。

11月6日ハリファックス北東にて、厳重な護衛を受けた6000トン級タンカー魚雷2本を発射、その直後に敵駆逐艦が迫ってきたため潜航退避をする。連合軍側に撃沈の記録が残っていないところを見るに魚雷は命中しなかったようだ。続いて11月13日バスシアセーブ南方160里に到達。

自身が発する過剰な機械音のせいで通商破壊作戦に適さない事が判明。それでも11月29日ハリファックス北東で果敢に団攻撃を仕掛け、重なり合った2隻の敵に向けて4本の魚雷を発射するも、全て外れてしまい失敗。すぐさま敵駆逐艦がすっ飛んできたので潜航退避を強いられる。

12月1日BdUより帰投命を受けた。

12月3日午前9時17分、ノバスシアセーブ南東約320里にて、ONS-146団から落しつつあった蒸気エンパイダブチンク(6089トン)を捕捉して追跡開始、午前9時43分に放った魚雷2本は外れたが、6分後に放った魚雷3本のうち1本がエンパイダブチンクへ命中、敵襲を悟った員は救難信号を発しながら救命艇を降ろそうとする。しかし一向に沈没する気配がかったため、シェーファー艦長はトドメの魚雷尾に撃ち込んだ。

尾への一撃が致命傷となり、エンパイダブチンクは尾をに掲げながら、逆立ちするようにして急速に沈没、あまりに沈没だったせいか船長員36名、砲兵11名全員が脱出する前に海底した。こうしてU-183は記念すべき最初の戦果を挙げたのだった。

ロリアン帰投

12月9日、2日後に出港する独タンカーゲルマニアの側面防御のため、U-183、U-460、U-67、U-91に域で待機するよう命じられる。その後、12月11日に補給潜水艦U-460から燃料を、13日に10日分の食糧を受け取るが、北大西洋を襲った猛ハリケーンでU-183、U-91、U-758への更なる給油は中止となり、BdUから「現在の位置で可な限り燃料を節約して静止せよ」と命じられる。

自然の猛威に翻弄されながら待機を続けていると、12月18日、別の補給潜水艦U-463が現れ、燃料とFuMB-1 メトックスを受領。メトックスはビスケー・クロスとも呼ばれるレーダー逆探知機で、航空が厳しいビスケー湾を突破するには欠かせないものだった。

12月23日フランス最大のUボート基地ロリアンに帰投。翌日シェーファー艦長には二級十字章とUボート戦闘章が贈られた。12月28日より造所でオーバーホールに着手、その間に人事異動や、見り用マストの長さを12mに短縮する作業も行われている。

1943年1月14日出渠。ところが、未だ大西洋の気が荒れ狂っていて、作戦ストップしたままだった事から、しばらくロリアンでの待機を強いられる。

2回目の戦闘航海(1943年1月~5月)

1943年1月30日15時35分、が落ち着いてきたのを見計らってロリアンを出撃。連合軍の重要な産地帯カリブ通商破壊を行うべく大西洋を南西方向に進む。

2月3日から計10隻のUボートからなるウルフパック「ハーサーズ」に加入。アイルランド南西に大規模な線をり、ジブラルタルより出港してくる敵団を待ち受ける。U-183は線の北側で索敵を行った。しかし待ちせていても、敵団は一向に現れず、敵哨戒機だけが頻繁に飛んできて、そのたびに潜航退避を強いられる。どうやら大きく回されたらしく、どのUボートも会敵に失敗、何ら戦果を挙げられないまま2月6日20時に「ハーサーズ」は解散となった。U-183、U-107、U-590の3隻はカリブ方面に向かう。

2月7日中と思われる敵機の微弱なエンジン音を探知、距離が大きく開いていたからか敵機はU-183に気付かぬまま飛び去る。2月12日13時25分にアゾレス通過

2月18日午前10時27分、深海潜航試験と漏対応訓練を行った際、左舷バラストタンクが故障してしまい、そこから漏れ出た空気が大きな気泡となって面に浮き上がる。潜水艦の位置が露呈しかねない最悪の事態であったが、幸い敵には見つからず午前11時45分浮上。同日16時20分にマスト4本を備えた敵タンカーを発見。しかし、バラストタンクの故障で艦の浮き沈みがしく、適切な観測が妨げられた上、また敵タンカーは高速で移動していて、間もなくGHG集音装置が推進音を拾えなくなった。それでも1時間ほど追跡を試みたが成果は全くかった。

的地が近づいてきた2月23日BdUからカリブ方面の交通と護衛に関する情報提供され、同時に獲物となる船舶が少ない場合は、北東もしくは南西へ自由に移動して良いとの示も下る。翌日入ってきた続報によると敵輸送団は訓練を受けていない素人集団との事だった。

カリブ海での通商破壊

3月1日ウィンワード峡を通過、翌2日キューバ南方を西進してグアンタナモ通過。そして3月5日午前5時30分に作戦エリアへと到着する。

カリブキュラソーロイヤルダッチシェル所、イギリスが所有するトリニダー所、ベネズエラ田、オランダ所有のアルバ所等が散在する連合軍の一大産地であった。また連合軍はベネズエラで産出した燃料をキュラソー経由でイギリスに輸送、アメリカ本土と繋がるアルミニウムの輸送路もあるなど、カリブ一帯は敵のアキレス腱と言えた。

5月6日午前1時50分、スウェーデンの汽照明を点けながら航行しているのを発見、シェーファー艦長がBdUに攻撃許可めたところ、「ヨーデボリ交通リストに記載がい場合は員を退させた上で撃沈出来る」との回答があった。だがを凝らして見ると本当にスウェーデン章なのか疑わしくなってきた。確認のため距離300m弱まで薄、すると体側面に「RIO DULSE」の文字を確認、すなわちブエノスアイレス籍港とするアルゼンチンだと判明。BdUがアルゼンチンへの攻撃を禁じたので雷撃せず素通りさせた。

3月8日21時12分、中高度より急速接近してくる敵機2機を発見・潜航、速な潜航が功を奏し、敵はU-183を見失ってそのまま飛び去って行った。ドイツ海軍は知る由もかったが、イギリス軍は既にメトックスが反応しない10センチ超短波レーダー開発。小さな標を更に遠距離から捕捉出来るようになる。加えて1年前のノイラン作戦で大損を受けたため、連合軍はより正確な爆撃を可とする爆撃照準器、トーペックス高性爆薬といった新技術を矢継ぎに投じ、さっそくトリニダーU-156を仕留めている。もはやカリブは良好な狩り場とは言えなかった。

サンアントニオで獲物を待ちせるも、通りがかるは全てアルゼンチン籍だったため、峡を横断して狩り場を別の場所へと移す。

3月11日午前6時7分、キューバサンアントニオ西方約30里にて敵の汽を発見、40分後に一度魚雷を発射するも外れ、追跡を続けていると、午前7時48分に2隻の敵が出現したため、シェーファー艦長は新たな2隻に矛先を向ける。

午前7時52分に魚雷2本を発射、うち1本が、バナナ3万1000本とマホガニー丸太を積載したホンジュラス蒸気商ランチ(2493トン)の右舷中央部に命中、員が慌てて救命ボートを降ろし始めるも、沈没の気配が見られなかったので、今度は左舷側より雷撃を行って体中央部に命中させる。すると一にして大爆発が生じて10分以内に首より沈没外へと脱出した生存者のうち2名が、沈没する際に発生した渦潮まれて溺死、1名が回転中のスクリューに触れて即死し、船長以下40名は何とか生き延びた。

翌12日、U-183は敵の航空日中のみ行われている事、アルゼンチンを3回撃した事をBdUに報告。オランチョ撃沈後は南南西に進み、グアテマラ湾、ベリーズ及びホンジュラス海岸沿い、ケイマン諸ジャマイカイスパニョーラ東南を遊する。3月28日BdUより「カリブ自由に移動しても良い」との示が下る。

4月8日午前2時に浮上した際、北方距離3000m先のを敵哨戒機2機が飛行しているのを発見。2機はU-183に気付かぬまま素通りしていった。ここしばらくカリブ曇りが続いていて、間を飛行する敵機を発見しにくい状況だったため、襲われる前に発見出来た事は、まさに幸運と言うほかかった。翌9日航機の護衛を伴った敵1隻を発見して報告。

燃料不足が表面化したので、4月16日午後12時6分モナ峡を通ってカリブを脱出、フランスへの帰路に就く。カリブを抜けると敵の航空はぴたりと止まった。4月21日16時、甲の清掃と全ての兵装の試射を実施。

フランスへの帰路

5月1日13時8分、補給任務中のU-117と合流、識別信号を交換したのち燃料25トンの補給を受ける。燃料以外にも、不足しているものがあるU-183であったが、U-117はここへ来るまでにU-509、イタリア潜水艦アルキメデに補給を行っており、これ以上補給出来るものがないので、15時40分に両艦は別れた。

補給後U-183はU-197とともに、北大西洋で活動中のUボート線中継任務を始める。Uボートからの報告をU-183が代わりにBdUへ中継する事で、線を発したUボートの位置を連合軍から秘匿出来るメリットが生まれ、結果的に多くのUボートを守れる訳である。5月3日U-460と合流して、帰投に必要な燃料及び食糧10トンを補給、加えてU-460軍医長による往診を受けた。

5月13日午後12時58分ビスケー湾にて出迎えの護衛艦艇と合流。そして15時40分、104日間の戦闘を終えてロリアンに帰投し、2回戦闘事終える。今回の功績でシェーファー艦長には一級十字章が贈られた。

モンスーン戦隊への異動と東南アジア進出

1943年5月Uボートにとって大きな転換期であった。連合軍の損が減った一方、Uボート被害過去前例にいほど増大したのである。たったひとで43隻を喪失した事は、単にUボートの数が減っただけでなく、連合軍の対潜技術向上や若手の士官をも多く喪失した事も意味し、デーニッツ提督大西洋からUボートを呼び戻さなければならなくなった。

連合軍の巧妙化により、行き詰まりを見せていた大西洋方面とは裏に、インド洋方面の対潜技術は遅々として進んでいないとの情報が極東の同盟日本からもたらされ、日独間の長い交渉の末、1943年シンガポールとバタビアにドイツ海軍基地を、ペナンUボート基地の設置が許可された。ちょうど大西洋に代わる新たな狩り場をめていたドイツ海軍部はインド洋に活路を見出す。

U-178日本占領下ペナンに送って出撃拠点を整備し、インド洋を作戦範囲とする第33潜隊群(通称モンスーン戦隊)を新編、ヨーロッパから航続距離に優れたIXC9隻とIXD22隻を派遣する事になり、U-183も東南アジア行きが決定。

ロリアンには対兵装を多く載せられる改良の数が少なかったため、暫定措置として、後部甲に円形のプラットフォームを設け、すぐジャムる悪名高い37mm機関を撤去、代わりに20mm機関を増備し、とプラットフォームの間に傾斜したが架けられた。ペナン行きUボートではU-183、U-168、U-509がこの分離高射砲ラットフォームを採用している。

一方、見り用マストを撤去。襲の危険が高まり、マストを収容する時間が確保出来なくなった事、マストの存在が却って敵機に見つかりやすくしている事が原因とされる。

3回目の戦闘航海(1943年7月~10月)

1943年7月3日20時30分、U-168、U-505とロリアンを出撃、23時20分よりM級掃海艇7隻が外側に占位して護衛が始まった。翌4日午前0時にU-505がディーゼル燃料枯渇で落掃海艇1隻が付き添いとして残留する。敵哨戒機跋扈するビスケー湾を突破すべく、U-183はU-168とペアを組んで対力を底上げを図る。

7月8日水上航行中にB-24爆撃機の襲撃を受けて潜航退避、至近弾により若干の損が生じたものの、応急修理を行って急場をいだ。

IXC/40IXD2較して航続距離が短いため、ケープタウンより手前で補給を受けなければならず、7月22日カーボベルデ西北西600里でU-155から給油を、翌23日にU-487から10日分の食糧を補給、インド洋まで長駆出来るだけの物資を確保する。

ケープタウン南西を喜望峰に向かって航行中の8月19日10月分の暗号表をU-177に渡すようBdUから命される。同日中に速力15ノットで走る敵貨物船を発見して魚雷3本を扇状に発射、63後に2回の衝撃音が聞こえ、6分後に爆発音を探知したが、爆発までの時間の長さを考慮すると、どうやら信管の不具合で命中時に起爆しなかったようだ。8月24日19時25分、U-177との合流地点に到着するが、暗号解析で行動を読まれたらしく、敵飛行艇に待ちせされた挙句、U-177も敵機2機に襲われ、退避の許可BdUにめたため合流は中止となる。

喜望峰に差し掛かると急が悪化。この辺りには東西約1600km、南北約320kmにる暴ローリングフォーティーズがあり、吹き荒れる風速40mの暴と逆巻く荒波が、絶え間なく襲ってくる過酷なる世界だった。だが南アフリカ連邦航空圏を避けるにはどうしてもこの暴圏を通らなければならない。8月30日頃ようやく暴圏を突破してインド洋に進出。

9月1日に敵の貨物船を発見、追跡に移行したが視界不良により見失う。その際、シェーファー艦長が不必要に長い報告を送信したせいで、BdUから咎められる一幕があった。

インド洋で行う通商破壊

9月8日午前3時インドモーリシャス南方450里にて、U-183、U-188U-532、U-533の4隻が集結。そこではペナン行きのUボート支援するべく独給油ブラーケが待機していた。航路から大きく外れた場所のため連合軍商が現れる可性は低かったが、それでもブラーケは識別用としてマストと煙突の間に洗濯物を干しているのが見える。U-188艦長リュッテン少佐シェーファー艦長はメガホン挨拶を交わす。

U-188ブラーケの右舷側1000mに、U-532は左舷1000mに移動、U-183はその後方で警任務に就く。両艦が補給を終えると今度はU-183とU-533が接舷して補給を受ける。各艦約4時間かけてディーゼル燃料、潤滑弾薬、食糧などを積み込んでいく。本来ならイタリア潜水艦アミラリオ・カーニも補給を受けるはずが、数日前にイタリアが降したためか姿を現さなかった。補給2日の午後に遅れてU-168がやってきてブラーケと合流。

全艦への補給には最低でも3日かかる見通しだった。ブラーケと補給を受けるUボートは送ホースで繋がれ、手すきのUボートが周囲を遊して対を実施。毎ブラーケ員がゴムボートを使って焼きたてパンお菓子、新鮮な野菜Uボート乗組員に配って回り、疲れ切った彼らに活力を与えた。

9月13日午後作業了。補給を受けた各Uボートは各々定められた作戦域に向かって北上。同時期、日本海軍潜水艦アラビア通商破壊を行っていた事から、同士討ちを避けるべくU-183セイシェルアフリカ海岸U-168はボンベイU-188オマーン湾、U-532インド南部西海、U-533はアデン湾に配備されている。

10日間にってモンバサで活動したが、駆逐艦1隻と小巡視船2隻以外は何も発見出来ず(エニグマ暗号解読されて護送団が回していた模様)、また、長い航によって艦体にダメージが出始めたので、BdUにペナンへ向かう事を提案したところ、BdUも日本U-511を譲渡して、浮いた乗組員をU-183に配備したい思惑があったため許可を出し、通商破壊を途中で切り上げてペナンに直行する。同時に「損傷の度合いに関わらず訪れた攻撃チャンスは全て活かすように」とも命じられた。

東洋艦隊の捜索網を振り切った後、U-183はペナン合いまで進出。同じくペナンまで来ているU-188U-532と合流すべく会同予定地点に向かう。10月29日未明、予定地点で浮上すると、日本軍の記章を付けた水上機魚雷艇が待機しており、U-183と同じタイミングU-532も浮上、どうやらU-188が一番乗りだったようだ。3隻は互いの叫びが聞こえるほど近い距離に固まる。

間もなく日本首波を立てながらやってきてUボートの誘導を開始、それを魚雷艇水上機が護衛する。護衛に囲まれているとはいえ、未だ潜水艦の活動圏内であるため、乗組員は双眼鏡を手に緊感を持って見りを行う。

そして10月30日18時頃、119日間の航と約2万里を越えてペナン基地に入港。を着た日本海軍の軍楽隊が、ヒトラー総統お気に入りのバーデンヴァイラー行進曲を力強く奏で、次はベートーヴェンの「英雄」を演奏、遠路はるばる来訪したUボートを歓迎してくれた。U-183はモンスーン戦隊に割り当てられたスウェッテンハム東側に係留

しかしヨーロッパからペナンに向かった11隻のうち事到着したのはU-183を含む4隻のみ。現状モンスーン戦隊の戦力はU-183、U-168、U-510U-532UIT-24、UIT-25の計6隻に過ぎなかった。

ペナン到着

3日間かけて艦の清掃と魚雷の確認を行い、次いで兵装、機関、艦体、機器の応急修理を実施。燃料はドイツ海軍部を通して日本側に要請されるが、納品が遅く、それでいて不確実だったため、かなり前から要請する必要があった。燃料が届けられたらドイツ人乗組員の手で給油を実施。

Uボートにはマレー人運転手付き米国乗用車が1台ずつ配され、フロントガラスには日本海軍の旗が立っていた。ただベルリン海軍本部からの命により将校には個別のが支給されなかった。これは士官が乗った車両レジスタンスに襲われる事態がフランスで多発していたためである。

日本海軍の警備下にあり、出入りの際は明書を提示しなければならなかったものの、警備兵に顔が知られると、次第に顔パスでも通過出来るようになっていったとか。モンスーン戦隊部はイングランド住宅地区の私邸に置かれ、食堂にはドイツ人のコックがいたので、シェーファー艦長以下士官はここで食事をとった。時折、中国レストランに行ったり、日本海軍の士官に誘われてクラブへ赴き、ビールウィスキーを飲む事もあったという。

日本側の厚意で、乗組員たちは腸チフスコレラ予防接種を受けた。また日本側から「煮沸していないを飲むな」「現地で食べ物を買うな」「露果物を口にするな」といった衛生対策を厳重に守るよう示され、上陸もしくは帰艦する時はドイツ人軍医が体調をチェック、この検について、日本軍医療従事者の介入は認められなかった。厳格に定められた衛生対策のおかげでペナンでは疫病が流行っていない。

シンガポール回航

ナンには大規模な修理施設がいので、本格的な修理を受けるべく11月10日ナンを出港、マラッカ峡を通って翌日シンガポールへ到着し、第101工作部の協力で外の洗浄、外側の損傷の修理、輸送物件の積み下ろし、誤射を防ぐため艦体を日本海軍潜水艦と同じ色に塗装する等の作業を行った。

日本軍には高度な技術で造られたUボートを整備・修理出来る技術者がいなかった(ドイツでも特別な訓練を受けた人でなければ出来ないほど)。このためドイツ人乗組員自ら整備しなければならず、日差しのきつい間を避けつつ午前とに分けて作業。これは乗組員の休暇日数の減少を意味した。一応、日本側も潜水艦に乗っていたイタリア人25名を組み込んだ専門グループを結成、これにより若干状況が改善されたものの、修理・物資の積み込み・乗組員の休暇の三工程を2ヶ以内に行うスケジュールはあまり守られなかった。

物資面では、東南アジアで産出可な燃料と潤滑、大して使われず余っている対弾、日本側が提供する食糧以外は全て不足している状況で、特に魚雷の不足が深刻化しつつあった。修理用部品は基本Uボートか封鎖突破が運んできた物のみ、中には現地でのコピーに成功した部品、機器もあるが、質はヨーロッパで製造されたものより劣っている。

現地ではドイツ語雑誌新聞は手に入らなかったが、日中特定の時間帯に本から放送されるラジオニュースを艦内で聴く事で、ヨーロッパ情報をある程度仕入れる事が出来た。

熱帯の気に慣れていないドイツ人乗組員はマラリア赤痢デング熱患率が高かったという。ただし上陸中ダンススポーツドイツ映画鑑賞など日本側から提供された娯楽を思う存分に楽しめたので、立った士気低下は起こらなかった。

11月20日、長期の航で循環器を患ったシェーファー艦長に代わり、フリッツ・シュニーヴィント中尉が二代艦長に就任。彼はU-511日本回航を成功させた若きベテランである。U-183にはU-511の元乗組員が補充された。その後シェーファー少佐UIT-23艦長に転任するも、垂炎によって12月28日午前5時6分シンガポール海軍病院死去享年37歳。

整備作業を終えると食糧、燃料、弾薬、潤滑を積載。約2週間かけて試運転や潜航試験を行う。1944年1月28日シンガポールを出港、マラッカ峡を通って1月30日ナンに回航。左舷側には識別用のハーケンクロイツ立つように掲げられていた。

ナンでは魚雷が不足していた事、また造所のスペースの都合で同時に5隻しか運用出来ない事から、U-183、U-188U-532には東南アジア戦略物資積載の上でヨーロッパに帰するよう命が下される。このためキール部分のいた隙間に10トンタングステン21トンを、艦内のスペースに生ゴム9.4トンキニーネ500kg、アヘン250kgを積載。

4回目の戦闘航海(1944年2月~3月)

1944年2月10日、シュニーヴィント艦長揮のもとペナンを出港。帰がてらインド洋・アッドゥ環礁通商破壊を行う。

2月12日魚雷防御網を備えたリバティ船を発見、2本の魚雷を発射するが、魚雷の不調で二度行った雷撃は全て失敗してしまい取り逃がす。U-183が使用している魚雷は1年以上前に封鎖突破が運んできた古いもので、高温多湿の環境に長期間曝されて劣化が進んでいたのだ。

2月29日コロンボからマドラスに向けて、一般貨物700トンを輸送中の自動車運送パルマ(5419トン)を発見、15時30分、セイロン南方約400里で魚雷4本を発射し、このうち2本がパルマに命中して撃沈。員4名と手3名が戦死した。パルマを仕留めて浮上した際、別のタンカーに姿を撃されたようで、潜水艦警報を意味するSSS信号が放たれた。

3月2日より日本海軍がサ第一号作戦を開始。インド洋に重巡青葉利根筑摩バンカ泊地から出撃させ、インドネシア南西ココスで単横を組み通商破壊を行う。したがってインド洋では日独による合同通商破壊作戦が同時に行われていた訳である。

モルディブアッドゥ環礁ガンには東洋艦隊の秘密燃料基地があった。U-183はガン峡にり巡らされた魚雷防御網を掻い潜り、3月9日午前9時、その隙間から魚雷1本を発射、ビリンギリで燃料貯蓄として運用中のタンカーブリティッシュロイリティ(6993トン)の右舷尾に命中した。機関室が全に破壊され、7号、8号、9号タンクが浸して右舷側へ大きく傾斜し、火災を起こしながら大破着底せしめた。その直後、レーダー探知により巡視船が駆け付けてきたので、レーダーデコイアフロディーテ」を使って離脱した。

浅瀬だったため全には沈まず、間もなく復旧作業が行われて燃料貯蓄に復帰。とはいえ、損傷は深刻だったようで、終戦後の1946年1月15日、全損判定が下されてイギリス軍艦撃処分を行っている。またブリティッシュロイリティ過去にも日本海軍潜水艦20から甲標的攻撃を受けて着底していた。

インド洋を出る前に独給油ブラーケより燃料補給を受ける予定だったが、3月12日U-168への補給中に東洋艦隊に捕捉されて自沈、この給油了したU-188を除く全艦がペナンに引き返さざるを得なくなる。ペナンへの帰投命を受けたU-183はセイロン南西で帰路に就く。

3月19日午前11時50分、スマト北方で待ちせていた潜水艦ストイックに襲撃され、放たれた魚雷4本が白線を引きながら迫ってきたが幸い全て回避に成功。翌20日20時護衛艦艇と合流し、3月21日ナンに帰投した。

5回目の戦闘航海(1944年5月~7月)

1944年5月3日ナンを出港。ところが出港直後にスラストベアリングの損傷が発覚して反転5月5日ナンに戻って応急修理を受ける。どうやら低品質の潤滑を使用した事でベアリングの摩耗が増大したようだった。更に5月13日、出撃に向けて潜作業をしていた主任機関エーリッヒ・アーデルスハイマーが事故死してしまう。数々の不運がU-183の帰に暗をもたらしていく。

何とか修理を終えて5月17日に再度ペナンを出港、今度はインド洋とチャゴス諸狩り場に定める。

U-183が大西洋を離れている間、同方面の連合軍は対潜技術を大幅に向上させ、U-183の兵装はすっかり旧式化していた。したがって大西洋を突破するには新鋭のレーダーが必要だった。BdUは5月24日U-843と合流して、レーダー逆探知装置FuMB-07 ナクソス、FuMB-09 ワンゼ、FuMB-10 ボルクムを受領するよう命が下る。一方、合流地点に定された域は、日本からの情報によると敵空母や艦艇が通過する可性があるようで、合流地点が正式に決まったのは5月27日の事だった(記録い所から察するに合流に失敗した模様)。

6月5日20時23分、アッドゥ環礁南南東約300里の地点で、コロンボ発フリーマントル行きの蒸気ヘレンモラー(5259トン)に魚雷2本を発射、ヘレンモラー油断していたのか対潜警用のジグザグ運動を取っておらず、く間に1本が左舷後部に命中。爆発でハッチカバーが吹き飛ばされ、体が損傷して前部が30度持ち上がり、前部マストがブリッジに倒れて操室を圧し潰す。しばらく経つと体がっ二つに裂けて尾も持ち上がり、水上に露出したスクリューが高速回転しているのが見える。

20時35分ヘレンモラー沈没。救命艇を降ろすのに手間取ったせいでチャールズ・ブレデリックポール船長員2名、手1名が死亡した。生存者69名は救命艇を漕いでの闇へと消えていった。

6月7日、高速貨物船に対して雷撃を行うも不成功に終わる。

6月21日時点のU-183のバッテリー残量は30しか残っていなかった。ペナンの熱帯気バッテリーにも悪を及ぼしていたが、全に修理するには日本まで回航しなければならず、だましだましの応急修理でやりくりしてきたツケが遂に来た訳である。見かねたBdUはペナンへの帰投命を出し、もし状況が厳しい場合には、気条件に応じてU-537と合流・給油を行うよう命じた。翌22日ペナンよりU-537現在位置が通達される。

シュニーヴィント艦長は合流を決断、6月24日ロリアンからペナンに向かっているU-537と合流して送、代わりに新しい暗号表、ボルクム、ナクソスを受領し、翌日ヨーロッパに帰中のU-1062と合流、新しい暗号表を手渡した後、再びU-537と会同して今度はU-1062用のボルクム、ナクソスを受領する。続いてU-1062との合流地点に向かうも、コンプレッサーの損傷でU-1062がペナンへ帰投する事になったため合流中止。

7月7日にU-183はペナンへ帰投した。

バッテリー修理のため神戸に向かうU-183

整備を受けるべく8月中にシンガポールへ回航、セレター軍港の第101工作部で入渠整備を行う。しかし、バッテリーの交換はシンガポールでは出来ず、東南アジア一交換可なスラバヤも機雷封鎖で入港が困難となったので、いよいよ日本本土まで回航しなければならなくなった。的地はドイツ潜水艦基地がある神戸。ここまで行けばバッテリーの交換が可だった。

10月1日、正式にモンスーン戦隊へと異動。

10月6日U-168がスラバヤ北西で潜水艦ワードヴィッシュの雷撃を受けて沈没東南アジア連合潜水艦が活発に行動している事を受け、BdUは10月13日モンスーン戦隊Uボートに「敵潜の港内侵入や、基地間移動の危険を減らすべく、あらゆる対策を講じよ」「出港前に敵艦の位置、手順、攻撃手段などの正確な情報日本側から得るべし」「沿航路や頻繁に利用される路は避け、最短ルートで入港せよ。固定の集合場所は使用するな」「水上航行する際は高速ジグザグ運動を怠るな」といった対策を周知した。

10月16日シンガポールを出港。この頃になると東南アジア方面の戦況も一層悪化、アメリカ軍が虎視々とフィリピン奪還を狙い、台湾東方にまで機動部隊が進出、中の域には潜水艦跳梁跋扈して日本の補給線を断ち切ろうとするなど、まさに危険なのりであったが、10月30日事に神戸まで辿り着く事が出来た。そして長期間の入渠整備を行う。11月25日、U-183の第一当直士官アルフレッド・マイヤー中尉UIT-25(元イタリア潜水艦ルイージ・トレッリ)の艦長に転任。

から遠く離れた極東で活動している都合上、磁気コンパスフェアリングを始めU-183の機器は旧式のものが多く占め、今や必須となったシュノーケルすら持っていない有り様であった。

1945年1月アメリカ軍暗号解析や線傍受を駆使し、Uボート2隻が神戸バッテリーの交換を受けている事を突き止めた。当初の予定では、1月中にバタビアへと帰投するはずだったが、ディーゼル機関の欠陥修理キールバラストの交換に手間取り、出港予定日が翌に繰り下げとなる。1月11日にシュニーヴィント艦長はこれまでの功績を称えられてドイツ十字章金賞が授与される。

1月27日までに日本側と現地ドイツ軍部隊との間で交渉が成立。U-183はフィリピン南部の接近路をしてアメリカ軍の上陸用舟艇を攻撃、同時に日本軍潜水艦が北部接近路でを行うという日独合同作戦が計画された。しかしBdUはこの計画に反対。U-183は接近路ではなく侵攻路に接近すべきだとした。

U-183が停泊している神戸も大小様々な襲を受けるようになり、2月4日、69機のB-29が172.8トンの焼夷弾を投下して地を差別盲爆、2月6日には区と東区爆弾110発と焼夷弾14発を投下、その2月9日の出港が延期となる。

タンジュンプリオクでの出撃準備

2月22日にようやく神戸を出港。U-183が神戸修理を受けている間、連合軍の猛攻に耐え切れなくなったモンスーン戦隊がペナンより撤退、後方のバタビア、その外港タンジュンリオクに新たな拠点を設けていた。3月9日タンジュンリオクへ入港。

連合軍による機雷敷設が相次いでいるからか、航路は厳しく定められ、入港の際はまずエダ左側約2里を通過、続いてライデン東側をブイ印にしながら通り、2隻の沈没が屍をす防波を抜けて、ようやく潜水艦用桟へ辿り着く。敵の度重なる襲によりバタビア基地は半壊。港内を行き交うはずのランチや小船舶は全く見られず、港内の小さなドックは特設監視艇が占拠していた。

モンスーン戦隊ヴィルヘルム・ドメス中佐はU-183を本行きの最終便と見なし、ペナンより引き揚げてきたドイツ人基地要員を乗せ、日本軍から渡された僅かな予備燃料を全て注ぎ、ディーゼルエンジン修理に着手。一人でも多く乗せられるよう戦略物資は何も積載していなかったと伝わる。

バタビア停泊中は当直士官を除いて乗組員全員が地上で居住。港は有刺線で守られ、日本陸軍兵士50~60名が常駐、要所には銃剣を持った日本兵が一人ずつ配備され、一日に一回、日本陸軍の将校が視察に訪れた。Uボートにあてがわれた桟の入り口にはで造られたバリケードがあり、2~3名のインドネシア人が警備、ドイツ人乗組員が出入りする際は身分明書の提示がめられるも、何度も出入りしているうちに顔パスへと変わっていった。休暇を得た乗組員はソエカボエミのリゾートで羽を伸ばした。

連合軍は日独間で交わされた線を傍受、それによると「U-183は4月12日スラバヤを出港してニューギニアに向かう」「作戦域には4月29日到着予定」と書かれていた模様。

最期

1945年4月21日夕刻、U-183は静かにバタビアを出港、潜水艦O-19が敷設した機雷を突破し、ジャワ東進していく。日本軍誤射を防ぐためには軍艦旗が掲げられていた。シュニーヴィント艦長がU-511日本に回航していた時、日本潜水艦とは大きく異なる艦だったせいで海防艦択捉に撃された事があり、この苦い経験に基づく行動だったと思われる。

出港後しばらくはシュニーヴィント艦長もに登って見りを担当。ドイツ海軍上層部の示で、日本軍基地に届ける燃料をバラストタンクに積載しており、このせいで潜航が出来ない状態だったため、少しでも見り要員を増やす必要があったのだ。加えてU-183は左右それぞれ50度の度で強いジグザグ運動を実施。

日本軍は同士討ちを避ける的で、U-183の出港日時、航路、峡の通過時間等を関係各所に通達していたが、連合軍には筒抜けであり、かえって迎撃を容易なものにしてしまう。さっそくアメリカ軍は付近を中の潜水艦ベスゴ(SS-321)に撃沈の命を出す。

4月23日、ジャワで潜航試験中のベスゴが浮上した時、帆船らしき艦を発見、同時にスクリュー音も探知された事で攻撃態勢に入る。

13時20分、シュニーヴィント艦長は経験豊富な見り員6名と、交代要員の首席操カール・ヴィエスニフスキー准尉を残して艦内に移動。ヴィエスニフスキーは敵機の襲撃を警して双眼鏡を向けていた。それから1時間後の14時27分、の左舷側に約5mの火柱が上がった。ソエラバハ北方のジャワで、U-183を待ちせていたベスゴが魚雷6本を扇状に放ち、このうち1本が左舷中央部に命中したのである。たちまち艦に震が走り、に立っていた見り員たちは苦の表情を浮かべながら力なく倒れ、床のから艦内に転落、ヴィエスニフスキーのみに投げ出された。のハッチを突き破って艦内に流入。み込んだの重さで4以内に沈没してしまう。

生き残ったのはヴィエスニフスキーだけだった。とはいえ彼も足、鎖骨の一部を骨折し、を3本失う重傷を負っていた。彼は面に広がる膜の中心で、他の仲間が現れるのを待っていたものの、一人として現れず、10分後に浮上したベスゴによって救助される。それからベスゴは約1時間にって捜索を行うが生存者は発見されなかった。乗組員54名戦死。捕虜になったヴィエスニフスキー戦後1946年1月8日ドイツクックハーフェンに帰した。

U-183は潜水艦に撃沈された2番Uボートで、モンスーン戦隊が最後に失ったUボートでもある。

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