U-183とは、第二次世界大戦中にドイツ海軍が建造・運用したIXC/40型Uボートの1隻である。1942年4月1日竣工。通商破壊により5隻撃沈(2万6253トン)の戦果を挙げた。1945年4月23日、ソエラバハ北方のジャワ海で、米潜水艦ベスゴの雷撃を受けて沈没。
概要
IXC/40型とは、1940年に前級IXC型を再設計した小改良タイプである。
IXC型のベースに外殻径を拡大しつつ、バラストタンクを大型化し、燃料搭載量を更に6トン増加させた事で、航続距離が2万370kmから2万1113kmに増大。水上での最大速力も僅かに増加するなど、一定の性能向上が見られた他、一度洋上補給をすれば200日以上海上で活動する事が出来た。
IXC/40型は160隻が起工、このうち89隻が就役し、残りの71隻はXXI型生産のリソースを確保するため、1943年後期に建造中止となっている。
IXC/40型は急速潜航秒時を速めるために、前甲板の両側の大部分を切り取るタレットコンバージョンⅡとクイックダイブバックを装備している艦が多いが、現存する写真を見た限り、U-183には装備されていなかった模様。
U-183、U-184、U-185、U-187の4隻は長距離通信用無線アンテナを艦尾に搭載していた。しかしあまり役に立たないと分かって後に取り外されている。またU-183は熱帯での活動を想定して建造された特別なUボートであり、他のUボートには無い空冷装置を持ち、ダイムラーベンツ製の補助ディーゼルも搭載。一方で、本国から遠く離れた東南アジアにいたため最後までシュノーケルは装備出来なかった。
二代目艦長のフリッツ・シュニーヴィントはU-511を日本まで回航した人物で、その縁からか司令塔に軍艦旗とドイツ海軍旗を重ねたエンブレムを描いていたという。このエンブレムを使用したのはU-183とU-1224(呂501)の2隻だけである。
要目は排水量1144トン、全長76.76m、最大幅6.86m、最大速力18.3ノット(水上)/7.3ノット(水中)、安全潜航深度100m、急速潜航秒時35秒、乗員44名。兵装は533mm魚雷発射管6門(艦首4門、艦尾2門)、魚雷22本、10.5cm単装砲1門、37mm単装機関砲1門、20mm連装機関砲2門。
日の丸を掲げたUボートの航跡
起工から訓練完了まで
1940年8月15日、AGヴェーザー社のブレーメン造船所に発注。U-183はブレーメン造船所に発注された15番目のUボートであった。1941年5月28日、ヤード番号1023の仮称を与えられて起工、1942年1月9日に進水式を行い、同年4月1日に無事竣工を果たした。初代艦長にはハインリヒ・シェーファー少佐が着任。
竣工と同時に訓練部隊の第4潜水隊群へ編入され、慣熟訓練及び出撃準備を開始。
4月1日午前10時よりブレーメン造船所内で試運転を実施、4月28日、造船所を出渠したU-183はヴェーザー川を通ってキールに回航し、4月30日から5月16日にかけて公試に従事する。それが終わるとバルト海方面へ向かい、シュテッティンで貨物を揚陸。以降はバルト海で実戦に即した訓練に臨む。
5月26日から29日にかけてダンツィヒでU.A.G.のテストを、5月29日から6月12日までヘラ半島で前線を想定した訓練を、6月18日から27日にかけてピラウで第26潜水隊群との魚雷発射訓練を、7月1日から10日にかけてバルト海東部で戦術訓練を、7月14日と15日の両日にシュテッティンで対空教練を行う。
一通り訓練を終えたU-183は9月4日にキール工廠へ入渠。外周チューブや機器の交換を行って最後の戦備を整えた。いよいよ実戦投入の時である。
1回目の戦闘航海
1942年9月19日15時、シェーファー艦長指揮のもと、U-183はU-117やU-118とともにゆっくりとキールを出港、カデカット海峡を通過し、9月21日にドイツ占領下ノルウェー南部クリスチャンサンへ寄港、燃料補給を受ける。しかしこの時にJuコンプレッサーに問題が発覚。修理を行うべく、エーゲルスンを経由したのち9月23日、ベルゲンに入港してコンプレッサーの応急修理を行った。
そして9月26日にベルゲンを出撃。アイスランド・フェロー諸島間の海域を突破して北大西洋に進出する。
しかし、最初に立ちふさがったのは、敵の哨戒機でも艦艇でもなく、大自然の猛威であった。北大西洋は猛烈な嵐に見舞われており、敵船団もUボートも自分の身を守るのに精いっぱいで、相手の事など構ってられず、北大西洋に展開中のUボート20隻の作戦行動は完全に止まってしまった。10月初旬になってようやく天候が回復。これに伴って海の狼たちも息を吹き返した。10月1日、U-183はロリアンに拠点を置く第2潜水隊群へ転属。
10月4日から6日にかけて、19隻のUボートが加わったウルフパック「ルクス」に参加したが、U-183はアメリカ海軍VP73飛行隊のカタリナ飛行艇に爆雷4発を投下され、上手く戦果を挙げる事が出来なかった。一方、西進するHX-209船団を「ルクス」所属のU-254とU-610が迎撃して撃沈戦果を挙げ、代わりにU-582やU-619を喪失する被害を出している。
10月7日からはウルフパック「パンサー」に加入。10月11日まで参加していたものの、こちらも敵船と巡り合えず空振りに終わった。以降ウルフパックには所属せず単独で狩りを行う。
10月21日、長い航続距離を活かして北大西洋を横断したU-183はニューファンドランド北方沖に到達。ここから南西方向にあるカナダの港湾都市ハリファックスは、カナダ・イギリス本国を結ぶ重要な航路の一部であり、往来する敵船団も豊富という良質な狩り場だった。
11月6日、ハリファックス北東沖で、厳重な護衛を受けた6000トン級のタンカーに2本の魚雷を発射、その直後に敵駆逐艦が迫ってきたため潜航退避する。沈没の記録が残っていない所を見るに、どうやら放った魚雷は早爆するか外れて命中しなかったようだ。11月13日にノバスコシア州セーブル岬南方160海里へ到達。11月29日にもハリファックス北東で果敢に船団攻撃を仕掛け、重なり合った2隻の敵船に向けて4本の魚雷を発射するが、全て外れ、代わりに駆逐艦がすっ飛んできたので潜航退避。翌30日、浅瀬を航行する小規模な輸送船団を発見してBdU(Uボート司令部)に報告。
12月3日午前9時17分、ノバスコシア州セーブル島南東約320海里にて、ONS-146船団の英蒸気船エンパイアダブチンク(6089トン)を捕捉して追跡開始、午前9時43分に放った2本の魚雷は外れたが、6分後に放った3本の魚雷のうち1本がエンパイアダブチンクに命中。敵襲を悟ったエンパイアダブチンクは救難信号を発しながら救命ボートを海に降ろす。しかし一向に沈没する気配が無かったため、シェーファー艦長はトドメの魚雷を船尾に撃ち込んだ。致命の一撃を受けたエンパイアダブチンクは船尾を空に掲げながら、逆立ちするようにして急速に沈没、あまりに早い沈没ゆえに船長、船員36名、砲兵11名全員が脱出する前に海底へと沈んだ。これがU-183の記念すべき最初の戦果であった。
ドイツ占領下フランスへ帰投するには燃料が不足していたため、12月11日に補給潜水艦U-460から燃料を、12月13日に10日分の食糧の補給を受ける。ところが、北大西洋を襲った猛烈なハリケーンの影響でU-183、U-91、U-758への更なる給油は中止となり、BdUから「現在の位置で可能な限り燃料を節約して静止せよ」と命じられる。
自然の猛威に苦しめられながら待機を続けていると、12月18日に別の補給潜水艦U-463が現れ、燃料とメトックス逆探装置を受領。メトックスは航空哨戒が厳しいビスケー湾を突破するのに必要不可欠なものであった。メトックスの力を借り、何とか12月23日にフランス最大のUボート基地ロリアンへ帰投。12月28日より造船所に入渠してオーバーホール。
1943年1月14日出渠。だが、未だに大西洋の気候が荒れ狂っていて、海上の作戦がストップしたままだった事から、しばらくロリアンでの待機を強いられる。
2回目の戦闘航海
1943年1月30日15時35分、天候が落ち着いたのを見計らってロリアンを出撃。連合国の重要な産油地帯であるカリブ海で通商破壊を行うべく大西洋を南西方向に進む。
2月3日から計10隻のUボートが加わったウルフパック「ハーサーズ」に参加。アイルランド南西に大規模な哨戒線を張って、ジブラルタルより出港してくる敵船団を待ち受けたが、大きく迂回されたようでどのUボートも会敵に失敗、何ら戦果を挙げられないまま解散となった。2月7日、パトロール中と思われる敵哨戒機の微弱なエンジン音を探知。大きく距離が開いていたからか敵機はU-183に気付かず飛び去った。
「ハーサーズ」解散後、U-183、U-107、U-590の3隻はカリブ海方面に向かう。
2月18日午前10時27分、深海潜航試験と漏油対応訓練を行った際、左舷バラストタンクが故障してしまい、そこから漏れ出た空気が大きな水泡となって海面に浮きあがった。潜水艦の所在が露呈する最悪の失態であったが、幸い敵に見つからず午前11時45分に浮上。同日16時20分、マスト4本を備えた敵のタンカーを発見して急速潜航、潜望鏡による観察を行うも、タンカーは非常に高速で移動しており、間もなくGHG集音装置がスクリュー音を拾えなくなった。それでも1時間ほど追跡を試みたが会敵に失敗して取り逃す。
目的地が近づいてきた2月23日、BdUからカリブ海方面の海上交通と護衛に関する情報が提供され、同時に獲物となる船舶が少ない場合は、北東もしくは南西へ自由に移動して良いとの指示も下った。翌日入ってきた続報によると敵輸送船団は訓練を受けていない素人集団との事だった。
3月5日午前5時30分に作戦エリアへ到着。翌6日午前1時50分、スウェーデンの汽船が照明を点けながら航行しているのを発見、シェーファー艦長がBdUに攻撃許可を求めたところ、「ヨーデボリ交通のリストに記載が無い場合は船員を退船させた上で撃沈出来る」との回答があった。ところが目を凝らして見ると本当にスウェーデンの国章なのか疑わしくなってきた。確認のため距離300mまで肉薄、すると船体側面に「RIO DULSE」の文字を確認、すなわちブエノスアイレスを船籍港とするアルゼンチンの船だと判明する。BdUがアルゼンチン船への攻撃を禁じたので雷撃せず素通りさせた。
3月8日21時12分、急速接近してくる敵機2機を発見して急速潜航。迅速な潜航が功を奏したのか敵機はU-183を見失ってそのまま飛び去っていった。
3月11日午前6時7分、キューバのサンアントニオ岬西方約30海里で敵の汽船を発見。40分後に一度魚雷を発射するも外れ、追跡を続けていると、午前7時48分に2隻目の船舶が出現したため、シェーファー艦長は新たに出現した2隻目に矛先を向ける。午前7時52分に魚雷2本を発射、このうち1本がバナナ3万1000本とマホガニー丸太を積載したホンジュラスの蒸気商船オランチョ(2493トン)の右舷中央部に命中する。被雷を知った船員が慌てて救命ボートを降ろし始めるもオランチョに沈む気配が無く、午前8時11分、今度は左舷側から雷撃を行って船体中央部に命中。一瞬にして大爆発が生じて10分以内に船首より沈没していった。船外へと脱出した生存者のうち2名が沈没する際に生じた渦潮に呑まれて溺死、1名が回転中のスクリューに触れて即死し、船長と40名の船員は何とか生き延びた。
翌12日、U-183は敵の航空哨戒は日中にのみ行われている事、アルゼンチンの船を3回に渡って目撃した事をBdUに報告し、3月23日にも敵機は夜間レーダーを使用せず日中のみの航空哨戒に留めていると報告した。だが決して油断してはならない。連合軍はメトックスでは探知出来ない新型レーダーや、より正確な爆撃を可能とする爆撃照準器、トーペックス高性能爆薬といった新技術を矢継ぎ早に投じており、去る3月8日にU-156がその犠牲となっているのだから。3月28日、BdUよりカリブ海を自由に移動しても良いとの指示が下る。4月9日に航空機の護衛を伴った1隻の敵船を発見・報告したのち燃料不足が表面化してきたため、4月16日午後12時6分にモナ海峡を通ってカリブ海から脱出。帰路に就く。カリブ海を抜けると敵の航空哨戒はピッタリ止まった。4月21日16時に甲板砲の清掃と全ての兵装の試射を実施。
5月1日13時1分にU-117と合流して25トンの送油を受ける。これでは不十分だったため5月3日にU-460と合流して帰投に必要な燃料及び食糧10トン分を補給、U-460軍医長による往診を受けた。
5月13日15時40分、104日間の航海を終えてロリアンへ帰投。
3回目の戦闘航海
連合軍の対潜技術向上により行き詰まりを見せていた大西洋方面とは対照的に、インド洋方面の対潜技術は遅々として進んでいない事が極東の同盟国日本からもたらされた。長い交渉の末、1943年春に日本からシンガポールとバタビアにドイツ海軍の基地を、ペナンにUボート基地の設置が許可され、ちょうど大西洋に代わる新たな狩り場を求めていたドイツ海軍司令部はインド洋に活路を見出す。早速U-178を日本占領下ペナン基地に送ってUボートの出撃拠点を整備するとともにモンスーン戦隊を編成。ヨーロッパから9隻のIXC型と2隻のIXD2型の増援部隊を送る事となり、U-183も東南アジア行きが決まった。識別のためか司令塔には旭日旗とドイツ海軍旗を重ねたエンブレムを塗装している。
7月3日20時30分にU-168、U-505、U-514、U-533とともにロリアンを出港。23時20分よりM級掃海艇7隻の護衛を受けながらビスケー湾へと進出し、東南アジアへの長い旅路の一歩を踏み出す。ところが出港から間もない7月8日、水上航行中にB-24爆撃機の襲撃を受けて潜航退避。至近弾により若干の被害が生じたものの応急修理で急場を凌いだ。如何に航続距離が長いIXC/40型と言えど数回の補給が必要で、まず7月22日にカーボベルデ諸島西北西600海里でU-155から給油を受け、翌23日にU-487から10日分の食糧を受領。
ケープタウン南西を喜望峰に向けて航行していた8月19日、10月分の暗号表をU-177に渡すようBdUから命令が下る。同日中に速力15ノットで走る敵の貨物船を発見して魚雷3本を発射、63秒後に2回の衝撃音が聞こえ、6分後に爆発音を探知。どうやら信管の不具合で命中時に起爆しなかったようだ。8月24日19時25分にU-177との合流地点に到着。だが暗号解析で行動を読まれたらしく合流地点の上空には敵の飛行艇が旋回して待ち伏せていた上、U-177も敵機2機に襲われて退避の許可をBdUに求めたため合流中止。
9月1日に大荒れの天候下で敵貨物船を発見して追跡に移ったが見失う。その際にシェーファー艦長が不必要に長い報告を送信したのでBdUから咎められている。9月10日、インド洋にてペナン基地へ向かっているUボートを支援中の独給油船ブラーケと合流、燃料と食糧の補給を受けたのちモンバサ沖で通商破壊を開始する。10日間モンバサ沖で活動していたが、駆逐艦1隻と小型巡視船2隻以外は何も目撃出来ず、また長きに渡る航海で船体にダメージが出始めたためシェーファー艦長はペナンに向かう事をBdUに提案。BdUも日本へU-511を譲渡して宙に浮いた乗組員をU-183に配属させたい思惑があったため提案を許可、高速でペナンに向かうよう命令。同時に損傷の度合いに関わらず訪れた攻撃チャンスは全て活かすようにとも命じた。
10月30日、119日間の航海と約2万海里を越えてペナン基地へ入港。3日間かけて艦の清掃と魚雷の確認を行った後、兵装、機関、艦体、機器の応急修理を実施した。
ヨーロッパからペナンに向かった11隻中、無事に到着出来たのはU-183を含む僅か4隻のみで、U-200、U-509、U-514、U-506、U-533、U-847が沈没、U-516がフランスに引き返した。したがって極東方面の戦力はU-183、U-168、U-510、U-532、降伏したイタリアから接収したUIT-24、UIT-25の計6隻に過ぎなかった。一方、インド洋に進出したUボートは日本潜水艦の協力もあって21隻(12万1625トン)撃沈という大戦果を叩き出し、ドイツ海軍上層部の興味を誘っている。
モンスーン戦隊
本格的な整備を受けるため11月10日にペナンを出港、マラッカ海峡を通って翌日シンガポールに入港する。ここで外板の洗浄、外側の損傷の修理、輸送物件の積み下ろし、誤射を防ぐため艦体を日本海軍の潜水艦と同じ色に塗装するなどの作業を実施。日差しがきつい昼間を避けて作業は午前と夜に分けて整備を行った。その間に乗組員は2週間の休暇が与えられて羽を伸ばす。
日本軍には高度な技術で造られたUボートを整備・修理出来る技術者がおらず(ドイツでも特別な訓練を受けた人でなければ出来なかった)、ドイツ人乗組員自身が整備作業をしなければならなかったため、入港中であっても休暇は少なかった。一応、日本側も潜水艦に乗っていたイタリア人25名を組み込んだ専門グループを結成して若干状況が改善されたものの、修理・物資の積み込み・乗組員の休暇を2ヶ月以内に行うというスケジュールはあまり守られなかった。加えて熱帯の気候に慣れていないドイツ人乗組員はマラリアの罹患率が高かったという。ただ上陸中はダンス、スポーツ、ドイツ映画鑑賞など日本側から提供された娯楽を思う存分楽しめたので目立った士気の低下が無いのが唯一の救いだった。
物資面では、東南アジアで産出される燃料と潤滑油、あまり使われず余っている対空機銃弾、日本側から提供される食糧以外は全て不足している状況で、特に魚雷の不足が深刻化しつつあった。修理用部品は基本Uボートが封鎖突破船が運んできたもののみ、中には現地でのコピーに成功した部品や機器もあるが、質はヨーロッパで製造されたものより劣っている。
長い航海からなる緊張で病床に伏したシェーファー艦長に代わり、11月20日、U-511の日本回航を成功させてドイツ十字章金章を受勲したフリッツ・シュネーヴィント中尉が二代目艦長に就任。U-183には元U-511乗組員が補充された。12月6日、シェーファー少佐はUIT-23艦長へ転任するが、虫垂炎を患って12月28日にシンガポールの海軍病院で死去。整備作業を終えると食糧、燃料、弾薬、潤滑油を積載。約2週間かけて試運転や潜航試験を実施する。
1944年1月28日にシンガポールを出港し、1月30日にペナンへ戻った。
4回目の戦闘航海
ペナン基地では、造船所のスペースの都合上5隻しかUボートを収容出来ず、同時に魚雷不足が深刻化していたためU-183、U-188、U-532は東南アジア産の戦略物資を積載してヨーロッパへ帰国するよう命じられる。
1944年2月10日、錫、ゴム、タングステン、キニーネ、アヘンなどの戦略物資を積載してシュネーヴィント艦長指揮のもとペナンを出撃。インド洋並びにアッドゥ環礁沖で通商破壊に従事する。2月12日、魚雷防御網を備えたリバティ船を発見して2本の魚雷を発射。ところが魚雷の不調で二度行った雷撃は全て失敗してしまった。2月22日、イギリスの汽船が雷跡を発見したとの通信をBdUが傍受。U-183か日本の潜水艦による攻撃と判断する。
2月29日、コロンボからマドラスに向けて一般貨物700トンを輸送中の英商船パルマ(5419トン)を発見。15時30分、セイロン南方約400海里でU-183は魚雷4本を発射し、このうち2本がパルマに命中して撃沈。船員4名と砲手3名が戦死、船長と船員41名、砲手4名は救助されてコロンボに上陸している。ちなみにパルマは1941年7月20日にもU-95から雷撃されていた。U-183は気付いていなかったが、パルマを仕留めて浮上した時に別のイギリスタンカーがU-183を目撃していたようで、潜水艦警報を意味するSSS信号が放たれた。
3月1日時点でインド洋ではU-183、U-168、U-178、U-188、U-510、U-532の6隻がインド洋で活動し、湾岸沖で通商破壊を行っていたU-188が最も戦果を挙げ、U-168、U-178、U-532もそれぞれ戦果を挙げていた。しかし、東南アジア特有の熱帯気候が魚雷の状態を悪くして不発率を高めており、モンスーン戦隊の戦果を低調なものにしてしまう。今U-183たちが使用している魚雷も1年以上前に封鎖突破船が運んできたもので精彩を欠いていた。
3月9日午前9時、モルディブのアッドゥ環礁にて魚雷防御網の隙間から雷撃し、ビリンギリ島沖で燃料貯蓄船として運用されていた英商船ブリティッシュロイヤリティ(6993トン)の右舷船尾に命中。機関室を完全に破壊し、7号、8号、9号タンクを浸水させて右舷側へ大きく傾斜させ、火災を起こしながら大破着底。このブリティッシュロイヤリティは過去にも日本海軍の伊20から甲標的攻撃を受けて着底しており、今回で二度目の沈没となる。その後イギリス軍はブリティッシュロイヤリティを浮揚して再び燃料貯蔵船として運用している。間もなくU-183をレーダー探知した英巡視船アフロディーテが向かってきたが無事離脱に成功した。
ところが途中で給油を施すはずだったブラーケが撃沈された影響で燃料不足に陥り、U-532から燃料を受けられたU-188を除いて全艦がペナンに引き返さざるを得なくなった。3月12日、ペナンへの帰投命令を受領して帰路に就く。3月19日午前11時50分、スマトラ島北方で英潜水艦ストイックから雷撃を受ける。幸い放たれた魚雷4本は全て命中しなかった。翌20日20時に護衛艦艇が合流し、3月21日にペナンへ帰投。
5回目の戦闘航海
5月3日にインド洋へ向けてペナンを出撃するU-183であったが、間もなくスラストベアリングの損傷が発覚して反転し、5月5日にペナンへと戻った。どうやら低品質の潤滑油を使用した事でベアリングの摩耗が増大したようである。5月13日、次の出撃に向けて潜水作業をしていた主任機関士エーリッヒ・アーデルスハイマーが事故死してしまうアクシデントが発生。
何とか修理を終えて5月17日に再度出撃。インド洋とチャゴス環礁沖を狩り場に定めて遊弋する。5月24日、U-843と合流して逆探装置ボルクム、ナクソス、ワンゼを受領するよう命令が下る。一方、合流地点に指定された海域では日本からの情報によると敵の空母や艦艇が通過しているようで、合流地点が正式に決まったのは5月27日の事だった(記録が無い所から察するに合流に失敗したようだ)。
6月5日20時23分、単独でコロンボからフリーマントルへ向かっていた英蒸気船ヘレン・モラー(5259トン)に魚雷2本を発射。油断していたのかヘレン・モラーはジグザグ運動を取っておらず、うち1本が左舷に命中して船体が真っ二つに裂け、12分後に沈没。6月7日に高速貨物船を発見して雷撃を行うも不成功に終わる。6月21日時点のU-183のバッテリー残量は僅か30%であり、BdUはペナンへの帰投命令を出すと同時に、状況が厳しい場合は気象条件に応じてU-537と合流・補給を行うよう命じた。翌日ペナンからU-537の現在位置が通達される。シュネーヴィント艦長は合流を決断したようで、6月24日、ペナンへ向かっているU-537に給油を施す傍ら、新しい暗号表とボルクム、ナクソスを受領。翌25日、ペナンからヨーロッパに帰国中のU-1062と合流して暗号表を譲渡。再度U-537と合流してU-1062用のボルクムとナクソスを受け取り、U-1062に引き渡す命令を受ける。ところがコンプレッサーの損傷でU-1062がペナンに戻る事となったため合流中止。7月7日にペナンに帰投した。整備を受ける目的で8月中にシンガポールへ移動。
10月1日、正式にモンスーン戦隊へ転属。バッテリーの交換はシンガポールでは出来ず、交換可能な工廠を持つスラバヤは機雷封鎖で入港が困難になっていたため、日本本土での修理が決定。10月16日にシンガポールを出港し、10月30日に神戸へ入港。長期間の入渠整備を行う。
アメリカ軍の追跡
戦況が破滅的局面を迎えた1945年1月、アメリカ軍は暗号解析や無線傍受によりUボート2隻が神戸でバッテリーの交換を受けている事を突き止めた。U-183が停泊中の神戸も1月3日を境に大小様々な空襲を受けるようになり、2月4日にはB-29爆撃機69機が172.8トンの焼夷弾を投下して市街地を無差別盲爆、その影響を受けて2月9日の出港が延期。またU-183の乗組員だったアルフレッド・マイヤーが、同じく神戸港に停泊中のUIT-25(元イタリア潜水艦ルイージ・トレッリ)艦長へ転任している。2月22日になってU-183はようやく神戸を出港した。
バタビア進出後はニューギニア・ミンダナオ間、もしくはニューブリテン・パラオ間で通商破壊を行うはずだったが、航行中の3月5日に中止となり、3月9日にバタビアへと入港。ディーゼルエンジンを修理してヨーロッパに帰国するための準備を始める。
最期
1945年4月21日夕刻、U-183は静かにバタビアを出発。日本軍の誤射を避けるため砲塔には旭日旗が掲げられていた。というのもシュネーヴィント艦長がU-511を日本へ回航していた時、日本の潜水艦とは大きく異なる艦型が原因で海防艦択捉に砲撃された事が過去にあったのだ。出港後しばらくはシュネーヴィント艦長自ら見張りを担当していた。暗号解析でU-183の出港を知ったアメリカ軍は付近を哨戒していた米潜水艦ベスゴ(SS-321)に撃沈の命令を出す。
4月23日朝、ジャワ海で潜航試験中のベスゴが浮上した時、帆船らしき艦影を発見。同時にスクリュー音も探知された事でベスゴは攻撃体勢に入った。13時20分、狙われているとは露知らず、シュネーヴィント艦長は経験豊富な見張り員6名と交代要員の操舵手を残して艦内へ入った。その直後、司令塔の左舷側に約5mの火柱が上がった。ソエラバハ北方のジャワ海にてU-183を待ち伏せていた米潜水艦ベスゴが扇状に魚雷6本を発射し、うち1本が左舷中央部に命中したのである。たちまち艦に激震が走り、艦橋に立っていた見張り員たちは苦悶の表情を浮かべて倒れた。海水が司令塔のハッチを突き破って艦内に流入した事で急速に沈没。生き残ったのは首席操舵手のカール・ヴィエスニフスキーだけだった(足、鎖骨、肋骨の一部を骨折し、歯を3本失う重傷ではあったが)。彼は海面に広がる油膜の中心で仲間が現れるのを待ったが誰も姿を見せず、U-183の沈没から10分後に浮上したベスゴによって救助される。それから約1時間に渡ってベスゴが生存者の捜索を行ったものの誰一人として発見されなかった。U-183の残骸は戦死者60名と一緒に65mの海底に横たわった。捕虜となったヴィエスニフスキーは後の1946年1月にドイツへ帰国。
U-183は米潜水艦に撃沈された2隻目のUボートで、モンスーン戦隊が失った最後のUボートとなった。総戦果は5隻撃沈(2万6253トン)。2013年11月20日、インドネシアのダイバーがU-183もしくはU-168のものと思われる残骸が発見された。国立考古学センターの海底考古学者シナトリア・アディティアタマ氏はU-168ではないかと回答している。
関連項目
- 0
- 0pt

