U-183単語

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U-183とは、第二次世界大戦中にドイツ海軍が建造・運用したIXC/40Uボートの1隻である。1942年4月1日工。通商破壊により5隻撃沈(2万6253トン)の戦果を挙げた。1945年4月23日、ソエラバハ北方のジャワで、潜水艦ベスゴの雷撃を受けて沈没

概要

IXC/40とは、1940年に前級IXCを再設計した小改良タイプである。

IXCベースに外殻径を拡大しつつ、バラストタンクを大化し、燃料搭載量を更に6トン増加させた事で、航続距離が2万370kmから2万1113kmに増大。水上での最大速力も僅かに増加するなど、一定の性向上が見られた他、一度洋上補給をすれば200日以上海上で活動する事が出来た。

IXC/40160隻が起工、このうち89隻が就役し、残りの71隻はXXI型生産のリソースを確保するため、1943年後期に建造中止となっている。

IXC/40は急速潜航時を速めるために、前甲の両側の大部分を切り取るタレットコンバージョンクイックダイブバックを装備している艦が多いが、現存する写真を見た限り、U-183には装備されていなかった模様。

U-183、U-184、U-185、U-187の4隻は長距離通信用アンテナを艦尾に搭載していた。しかしあまり役に立たないと分かって後に取り外されている。またU-183は熱帯での活動を想定して建造された特別なUボートであり、他のUボートには冷装置を持ち、ダイムラーベンツ製の補助ディーゼルも搭載。一方で、本から遠く離れた東南アジアにいたため最後までシュノーケルは装備出来なかった。

二代艦長のフリッツ・シュニーヴィントはU-511日本まで回航した人物で、その縁からか軍艦旗とドイツ海軍旗を重ねたエンブレムを描いていたという。このエンブレムを使用したのはU-183とU-1224(呂501)の2隻だけである。

排水量1144トン、全長76.76m、最大幅6.86m、最大速力18.3ノット(水上)/7.3ノット(水中)、安全潜航深度100m、急速潜航時35、乗員44名。兵装は533mm魚雷発射管6門(艦首4門、艦尾2門)、魚雷22本、10.5cm単装1門、37mm単装機関1門、20mm連装機関2門。

日の丸を掲げたUボートの航跡

起工から訓練完了まで

1940年8月15日AGヴェーザー社のブレーメン所に発注。U-183はブレーメン所に発注された15番Uボートであった。1941年5月28日、ヤード番号1023の仮称を与えられて起工、1942年1月9日進水式を行い、同年4月1日工を果たした。初代艦長にはハインリヒ・シェーファー少佐が着任。

工と同時に訓練部隊の第4潜隊群へ編入され、慣熟訓練及び出撃準備を開始。

4月1日午前10時よりブレーメン所内で試運転を実施、4月28日、造所を出渠したU-183はヴェーザーを通ってキールに回航し、4月30日から5月16日にかけて試に従事する。それが終わるとバルト方面へ向かい、シュテッティンで貨物を揚陸。以降はバルトで実戦に即した訓練に臨む。

5月26日から29日にかけてダンツィヒでU.A.G.のテストを、5月29日から6月12日までヘラ半島前線を想定した訓練を、6月18日から27日にかけてピラウで第26潜隊群との魚雷発射訓練を、7月1日から10日にかけてバルト東部で戦術訓練を、7月14日と15日の両日にシュテッティンで対教練を行う。

一通り訓練を終えたU-183は9月4日キールへ入渠。外周チューブや機器の交換を行って最後の戦備を整えた。いよいよ実戦投入の時である。

1回目の戦闘航海

1942年9月19日15時シェーファー艦長揮のもと、U-183はU-117やU-118とともにゆっくりキールを出港、カデカット峡を通過し、9月21日ドイツ占領下ノルウェー南部クリスチャンサンへ寄港、燃料補給を受ける。しかしこの時にJuコンプレッサーに問題が発覚。修理を行うべく、エーゲルスンを経由したのち9月23日ベルゲンに入港してコンプレッサーの応急修理を行った。

そして9月26日ベルゲンを出撃。アイスランドフェロー諸島間の域を突破して北大西洋に進出する。

しかし、最初に立ちふさがったのは、敵の哨戒機でも艦艇でもなく、大自然の猛威であった。北大西洋は猛に見舞われており、敵団もUボートも自分の身を守るのに精いっぱいで、相手の事など構ってられず、北大西洋に展開中のUボート20隻の作戦行動全に止まってしまった。10月初旬になってようやく回復。これに伴ってたちも息を吹き返した。10月1日、U-183はロリアンに拠点を置く第2潜隊群へ転属。

10月4日から6日にかけて、19隻のUボートが加わったウルフパック「ルクス」に参加したが、U-183はアメリカ海軍VP73飛行隊のカタリナ飛行艇爆雷4発を投下され、上手く戦果を挙げる事が出来なかった。一方、西進するHX-209団を「ルクス」所属のU-254とU-610が迎撃して撃沈戦果を挙げ、代わりにU-582やU-619を喪失する被害を出している。

10月7日からはウルフパック「パンサー」に加入。10月11日まで参加していたものの、こちらも敵と巡り合えず空振りに終わった。以降ウルフパックには所属せず単独で狩りを行う。

10月21日、長い航続距離を活かして北大西洋を横断したU-183はニューファンドランド北方に到達。ここから南西方向にあるカナダの港湾都市ハリファックスは、カナダイギリスを結ぶ重要な航路の一部であり、往来する敵団も豊富という良質な狩り場だった。

11月6日ハリファックス北東で、厳重な護衛を受けた6000トン級のタンカーに2本の魚雷を発射、その直後に敵駆逐艦が迫ってきたため潜航退避する。沈没記録が残っていない所を見るに、どうやら放った魚雷爆するか外れて命中しなかったようだ。11月13日にノバスシアセーブ南方160里へ到達。11月29日にもハリファックス北東で果敢に団攻撃を仕掛け、重なり合った2隻の敵に向けて4本の魚雷を発射するが、全て外れ、代わりに駆逐艦がすっ飛んできたので潜航退避。翌30日、浅瀬を航行する小規模な輸送団を発見してBdU(Uボート部)に報告。

12月1日BdUより帰投命を受けた。

12月3日午前9時17分、ノバスシアセーブ南東約320里にて、ONS-146団の蒸気エンパイダブチンク(6089トン)を捕捉して追跡開始、午前9時43分に放った2本の魚雷は外れたが、6分後に放った3本の魚雷のうち1本がエンパイダブチンクに命中。敵襲を悟ったエンパイダブチンクは救難信号を発しながら救命ボートに降ろす。しかし一向に沈没する気配がかったため、シェーファー艦長はトドメの魚雷尾に撃ち込んだ。致命の一撃を受けたエンパイダブチンクは尾をに掲げながら、逆立ちするようにして急速に沈没、あまりに沈没ゆえに船長員36名、砲兵11名全員が脱出する前に海底へと沈んだ。これがU-183の記念すべき最初の戦果であった。

ドイツ占領下フランスへ帰投するには燃料が不足していたため、12月11日に補給潜水艦U-460から燃料を、12月13日に10日分の食糧の補給を受ける。ところが、北大西洋を襲った猛ハリケーンでU-183、U-91、U-758への更なる給油は中止となり、BdUから「現在の位置で可な限り燃料を節約して静止せよ」と命じられる。

自然の猛威に苦しめられながら待機を続けていると、12月18日に別の補給潜水艦U-463が現れ、燃料とメトックス逆探装置を受領。メトックスは航空が厳しいビスケー湾を突破するのに必要不可欠なものであった。メトックスの力を借り、何とか12月23日フランス最大のUボート基地ロリアンへ帰投。12月28日より造所に入渠してオーバーホール

1943年1月14日出渠。だが、未だに大西洋の気が荒れ狂っていて、上の作戦ストップしたままだった事から、しばらくロリアンでの待機を強いられる。

2回目の戦闘航海

1943年1月30日15時35分、が落ち着いたのを見計らってロリアンを出撃。連合の重要な産地帯であるカリブ通商破壊を行うべく大西洋を南西方向に進む。

2月3日から計10隻のUボートが加わったウルフパック「ハーサーズ」に参加。アイルランド南西に大規模な線をって、ジブラルタルより出港してくる敵団を待ち受けたが、大きく回されたようでどのUボートも会敵に失敗、何ら戦果を挙げられないまま解散となった。2月7日、パトロール中と思われる敵哨戒機の微弱なエンジン音を探知。大きく距離が開いていたからか敵機はU-183に気付かず飛び去った。

「ハーサーズ」解散後、U-183、U-107、U-590の3隻はカリブ方面に向かう。

2月18日午前10時27分、深海潜航試験と漏対応訓練を行った際、左舷バラストタンクが故障してしまい、そこから漏れ出た空気が大きな泡となって面に浮きあがった。潜水艦所在が露呈する最悪の失態であったが、幸い敵に見つからず午前11時45分に浮上。同日16時20分、マスト4本を備えた敵のタンカーを発見して急速潜航、潜望による観察を行うも、タンカーは非常に高速で移動しており、間もなくGHG集音装置がスクリュー音を拾えなくなった。それでも1時間ほど追跡を試みたが会敵に失敗して取り逃す。

的地が近づいてきた2月23日BdUからカリブ方面の交通と護衛に関する情報提供され、同時に獲物となる船舶が少ない場合は、北東もしくは南西へ自由に移動して良いとの示も下った。翌日入ってきた続報によると敵輸送団は訓練を受けていない素人集団との事だった。

3月5日午前5時30分に作戦エリアへ到着。翌6日午前1時50分、スウェーデンの汽照明を点けながら航行しているのを発見、シェーファー艦長がBdUに攻撃許可めたところ、「ヨーデボリ交通リストに記載がい場合は員を退させた上で撃沈出来る」との回答があった。ところがを凝らして見ると本当にスウェーデン章なのか疑わしくなってきた。確認のため距離300mまで薄、すると体側面に「RIO DULSE」の文字を確認、すなわちブエノスアイレス籍港とするアルゼンチンだと判明する。BdUがアルゼンチンへの攻撃を禁じたので雷撃せず素通りさせた。

3月8日21時12分、急速接近してくる敵機2機を発見して急速潜航。速な潜航が功を奏したのか敵機はU-183を見失ってそのまま飛び去っていった。

3月11日午前6時7分、キューバサンアントニオ西方約30里で敵の汽を発見。40分後に一度魚雷を発射するも外れ、追跡を続けていると、午前7時48分に2隻船舶が出現したため、シェーファー艦長は新たに出現した2隻に矛先を向ける。午前7時52分に魚雷2本を発射、このうち1本がバナナ3万1000本とマホガニー丸太を積載したホンジュラスの蒸気商ランチ(2493トン)の右舷中央部に命中する。被雷を知った員が慌てて救命ボートを降ろし始めるもオランチョに沈む気配がく、午前8時11分、今度は左舷側から雷撃を行って体中央部に命中。一にして大爆発が生じて10分以内に首より沈没していった。外へと脱出した生存者のうち2名が沈没する際に生じた渦潮まれて溺死、1名が回転中のスクリューに触れて即死し、船長と40名の員は何とか生き延びた。

翌12日、U-183は敵の航空日中にのみ行われている事、アルゼンチンを3回に渡って撃した事をBdUに報告し、3月23日にも敵機はレーダーを使用せず日中のみの航空に留めていると報告した。だが決して油断してはならない。連合軍はメトックスでは探知出来ない新レーダーや、より正確な爆撃を可とする爆撃照準器、トーペックス高性爆薬といった新技術を矢継ぎに投じており、去る3月8日U-156がその犠牲となっているのだから。3月28日BdUよりカリブ自由に移動しても良いとの示が下る。4月9日航空機の護衛を伴った1隻の敵を発見・報告したのち燃料不足が表面化してきたため、4月16日午後12時6分にモナ峡を通ってカリブから脱出。帰路に就く。カリブを抜けると敵の航空はピッタリ止まった。4月21日16時に甲の清掃と全ての兵装の試射を実施。

5月1日13時1分にU-117と合流して25トンの送を受ける。これでは不十分だったため5月3日U-460と合流して帰投に必要な燃料及び食糧10トン分を補給、U-460軍医長による往診を受けた。

5月13日15時40分、104日間の航を終えてロリアンへ帰投。

3回目の戦闘航海

連合軍の対潜技術向上により行き詰まりを見せていた大西洋方面とは対照的に、インド洋方面の対潜技術は遅々として進んでいない事が極東の同盟日本からもたらされた。長い交渉の末、1943年日本からシンガポールとバタビアにドイツ海軍の基地を、ペナンUボート基地の設置が許可され、ちょうど大西洋に代わる新たな狩り場をめていたドイツ海軍部はインド洋に活路を見出す。U-178日本占領下ペナン基地に送ってUボートの出撃拠点を整備するとともにモンスーン戦隊を編成。ヨーロッパから9隻のIXCと2隻のIXD2の増援部隊を送る事となり、U-183も東南アジア行きが決まった。識別のためかには旭日旗ドイツ海軍旗を重ねたエンブレム塗装している。

7月3日20時30分にU-168、U-505、U-514、U-533とともにロリアンを出港。23時20分よりM級掃海艇7隻の護衛を受けながらビスケー湾へと進出し、東南アジアへの長い旅路の一歩を踏み出す。ところが出港から間もない7月8日水上航行中にB-24爆撃機の襲撃を受けて潜航退避。至近弾により若干被害が生じたものの応急修理で急場をいだ。如何に航続距離が長いIXC/40と言えど数回の補給が必要で、まず7月22日カーボベルデ西北西600里でU-155から給油を受け、翌23日にU-487から10日分の食糧を受領。

ケープタウン南西を喜望峰に向けて航行していた8月19日10月分の暗号表をU-177に渡すようBdUから命が下る。同日中に速力15ノットで走る敵の貨物船を発見して魚雷3本を発射、63後に2回の衝撃音が聞こえ、6分後に爆発音を探知。どうやら信管の不具合で命中時に起爆しなかったようだ。8月24日19時25分にU-177との合流地点に到着。だが暗号解析で行動を読まれたらしく合流地点の上には敵の飛行艇が旋回して待ちせていた上、U-177も敵機2機に襲われて退避の許可BdUにめたため合流中止。

9月1日に大荒れの下で敵貨物船を発見して追跡に移ったが見失う。その際にシェーファー艦長が不必要に長い報告を送信したのでBdUから咎められている。9月10日インド洋にてペナン基地へ向かっているUボート支援中の独給油ブラーケと合流、燃料と食糧の補給を受けたのちモンバサ通商破壊を開始する。10日間モンバサで活動していたが、駆逐艦1隻と小巡視船2隻以外は何も撃出来ず、また長きに渡る航体にダメージが出始めたためシェーファー艦長はペナンに向かう事をBdUに提案。BdUも日本U-511を譲渡して宙に浮いた乗組員をU-183に配属させたい思惑があったため提案を許可、高速でペナンに向かうよう命。同時に損傷の度合いに関わらず訪れた攻撃チャンスは全て活かすようにとも命じた。

10月30日119日間の航と約2万里を越えてペナン基地へ入港。3日間かけて艦の清掃と魚雷の確認を行った後、兵装、機関、艦体、機器の応急修理を実施した。

ヨーロッパからペナンに向かった11隻中、事に到着出来たのはU-183を含む僅か4隻のみで、U-200、U-509、U-514、U-506、U-533、U-847沈没、U-516がフランスに引き返した。したがって極東方面の戦力はU-183、U-168、U-510U-532、降したイタリアから接収したUIT-24、UIT-25の計6隻に過ぎなかった。一方、インド洋に進出したUボート日本潜水艦の協力もあって21隻(12万1625トン)撃沈という大戦果を叩き出し、ドイツ海軍上層部の興味を誘っている。

モンスーン戦隊

本格的な整備を受けるため11月10日にペナンを出港、マラッカ峡を通って翌日シンガポールに入港する。ここで外の洗浄、外側の損傷の修理、輸送物件の積み下ろし、誤射を防ぐため艦体を日本海軍潜水艦と同じ色に塗装するなどの作業を実施。日差しがきつい間を避けて作業は午前とに分けて整備を行った。その間に乗組員は2週間の休暇が与えられて羽を伸ばす。

日本軍には高度な技術で造られたUボートを整備・修理出来る技術者がおらず(ドイツでも特別な訓練を受けた人でなければ出来なかった)、ドイツ人乗組員自身が整備作業をしなければならなかったため、入港中であっても休暇は少なかった。一応、日本側も潜水艦に乗っていたイタリア人25名を組み込んだ専門グループを結成して若干状況が改善されたものの、修理・物資の積み込み・乗組員の休暇を2ヶ以内に行うというスケジュールはあまり守られなかった。加えて熱帯の気に慣れていないドイツ人乗組員はマラリア患率が高かったという。ただ上陸中ダンススポーツドイツ映画鑑賞など日本側から提供された娯楽を思う存分楽しめたので立った士気の低下がいのが一の救いだった。

物資面では、東南アジアで産出される燃料と潤滑、あまり使われず余っている対弾、日本側から提供される食糧以外は全て不足している状況で、特に魚雷の不足が深刻化しつつあった。修理用部品は基本Uボートが封鎖突破が運んできたもののみ、中には現地でのコピーに成功した部品や機器もあるが、質はヨーロッパで製造されたものより劣っている。

長い航からなる緊で病床にしたシェーファー艦長に代わり、11月20日U-511日本回航を成功させてドイツ十字章金章を受勲したフリッツ・シュネーヴィント中尉が二代艦長に就任。U-183には元U-511乗組員が補充された。12月6日シェーファー少佐UIT-23艦長へ転任するが、垂炎を患って12月28日シンガポール海軍病院死去。整備作業を終えると食糧、燃料、弾薬、潤滑を積載。約2週間かけて試運転や潜航試験を実施する。

1944年1月28日シンガポールを出港し、1月30日にペナンへ戻った。

4回目の戦闘航海

ナン基地では、造所のスペースの都合上5隻しかUボートを収容出来ず、同時に魚雷不足が深刻化していたためU-183、U-188U-532東南アジア産の戦略物資を積載してヨーロッパへ帰するよう命じられる。

1944年2月10日ゴムタングステンキニーネアヘンなどの戦略物資を積載してシュネーヴィント艦長揮のもとペナンを出撃。インド洋並びにアッドゥ環礁通商破壊に従事する。2月12日魚雷防御網を備えたリバティ船を発見して2本の魚雷を発射。ところが魚雷の不調で二度行った雷撃は全て失敗してしまった。2月22日イギリスの汽が雷跡を発見したとの通信をBdUが傍受。U-183か日本潜水艦による攻撃と判断する。

2月29日コロンボからマドラスに向けて一般貨物700トンを輸送中のパルマ(5419トン)を発見。15時30分、セイロン南方約400里でU-183は魚雷4本を発射し、このうち2本がパルマに命中して撃沈。員4名と手3名が戦死、船長員41名、手4名は救助されてコロンボに上陸している。ちなみにパルマ1941年7月20日にもU-95から雷撃されていた。U-183は気付いていなかったが、パルマを仕留めて浮上した時に別のイギリスタンカーがU-183を撃していたようで、潜水艦警報を意味するSSS信号が放たれた。

3月1日時点でインド洋ではU-183、U-168、U-178U-188、U-510U-532の6隻がインド洋で活動し、湾通商破壊を行っていたU-188が最も戦果を挙げ、U-168、U-178U-532もそれぞれ戦果を挙げていた。しかし、東南アジア特有の熱帯気魚雷の状態を悪くして不発率を高めており、モンスーン戦隊の戦果を低調なものにしてしまう。今U-183たちが使用している魚雷も1年以上前に封鎖突破が運んできたもので精を欠いていた。

3月9日午前9時モルディブのアッドゥ環礁にて魚雷防御網の隙間から雷撃し、ビリンギリで燃料貯蓄として運用されていたブリティッシュロイリティ(6993トン)の右舷尾に命中。機関室を全に破壊し、7号、8号、9号タンクを浸させて右舷側へ大きく傾斜させ、火災を起こしながら大破着底。このブリティッシュロイリティ過去にも日本海軍20から甲標的攻撃を受けて着底しており、今回で二度沈没となる。その後イギリス軍はブリティッシュロイリティを浮揚して再び燃料貯蔵として運用している。間もなくU-183をレーダー探知した巡視船アフロディーテが向かってきたが事離脱に成功した。

ところが途中で給油を施すはずだったブラーケが撃沈されたで燃料不足に陥り、U-532から燃料を受けられたU-188を除いて全艦がペナンに引き返さざるを得なくなった。3月12日、ペナンへの帰投命を受領して帰路に就く。3月19日午前11時50分、スマト北方潜水艦ストイックから雷撃を受ける。幸い放たれた魚雷4本は全て命中しなかった。翌20日20時護衛艦艇が合流し、3月21日にペナンへ帰投。

5回目の戦闘航海

5月3日インド洋へ向けてペナンを出撃するU-183であったが、間もなくスラストベアリングの損傷が発覚して反転し、5月5日にペナンへと戻った。どうやら低品質の潤滑を使用した事でベアリングの摩耗が増大したようである。5月13日、次の出撃に向けて潜作業をしていた主任機関エーリッヒ・アーデルスハイマーが事故死してしまうアクシデントが発生。

何とか修理を終えて5月17日に再度出撃。インド洋とチャゴス環礁狩り場に定めて遊する。5月24日、U-843と合流して逆探装置ボルクム、ナクソス、ワンゼを受領するよう命が下る。一方、合流地点に定された域では日本からの情報によると敵の空母や艦艇が通過しているようで、合流地点が正式に決まったのは5月27日の事だった(記録い所から察するに合流に失敗したようだ)。

6月5日20時23分、単独でコロンボからフリーマントルへ向かっていた蒸気ヘレンモラー(5259トン)に魚雷2本を発射。油断していたのかヘレンモラージグザグ運動を取っておらず、うち1本が左舷に命中して体がっ二つに裂け、12分後に沈没6月7日に高速貨物船を発見して雷撃を行うも不成功に終わる。6月21日時点のU-183のバッテリー残量は僅か30であり、BdUはペナンへの帰投命を出すと同時に、状況が厳しい場合は気条件に応じてU-537と合流・補給を行うよう命じた。翌日ペナンからU-537現在位置が通達される。シュネーヴィント艦長は合流を決断したようで、6月24日、ペナンへ向かっているU-537給油を施す傍ら、新しい暗号表とボルクム、ナクソスを受領。翌25日、ペナンからヨーロッパに帰中のU-1062と合流して暗号表を譲渡。再度U-537と合流してU-1062用のボルクムとナクソスを受け取り、U-1062に引き渡す命を受ける。ところがコンプレッサーの損傷でU-1062がペナンに戻る事となったため合流中止。7月7日にペナンに帰投した。整備を受ける的で8月中にシンガポールへ移動。

10月1日、正式にモンスーン戦隊へ転属。バッテリーの交換はシンガポールでは出来ず、交換可な工を持つスラバヤは機雷封鎖で入港が困難になっていたため、日本本土での修理が決定。10月16日シンガポールを出港し、10月30日神戸へ入港。長期間の入渠整備を行う。

アメリカ軍の追跡

戦況が破滅的局面を迎えた1945年1月アメリカ軍暗号解析や線傍受によりUボート2隻が神戸バッテリーの交換を受けている事を突き止めた。U-183が停泊中の神戸1月3日に大小様々な襲を受けるようになり、2月4日にはB-29爆撃機69機が172.8トンの焼夷弾を投下して地を差別盲爆、そのを受けて2月9日の出港が延期。またU-183の乗組員だったアルフレッド・マイヤーが、同じく神戸港に停泊中のUIT-25(元イタリア潜水艦ルイージ・トレッリ)艦長へ転任している。2月22日になってU-183はようやく神戸を出港した。

バタビア進出後はニューギニア・ミンダナオ間、もしくはニューブリテンパラオ間で通商破壊を行うはずだったが、航行中の3月5日に中止となり、3月9日にバタビアへと入港。ディーゼルエンジン修理してヨーロッパに帰するための準備を始める。

最期

1945年4月21日夕刻、U-183は静かにバタビアを出発。日本軍誤射を避けるためには旭日旗が掲げられていた。というのもシュネーヴィント艦長がU-511日本へ回航していた時、日本潜水艦とは大きく異なる艦が原因で海防艦択捉に撃された事が過去にあったのだ。出港後しばらくはシュネーヴィント艦長自ら見りを担当していた。暗号解析でU-183の出港を知ったアメリカ軍は付近をしていた潜水艦ベスゴ(SS-321)に撃沈の命を出す。

4月23日、ジャワで潜航試験中のベスゴが浮上した時、帆船らしき艦を発見。同時にスクリュー音も探知された事でベスゴは攻撃体勢に入った。13時20分、狙われているとは露知らず、シュネーヴィント艦長は経験豊富な見り員6名と交代要員の操手を残して艦内へ入った。その直後、の左舷側に約5mの火柱が上がった。ソエラバハ北方のジャワにてU-183を待ちせていた潜水艦ベスゴが扇状に魚雷6本を発射し、うち1本が左舷中央部に命中したのである。たちまち艦に震が走り、艦に立っていた見り員たちは苦の表情を浮かべて倒れた。のハッチを突き破って艦内に流入した事で急速に沈没。生き残ったのは首席操手のカール・ヴィエスニフスキーだけだった(足、鎖骨の一部を骨折し、を3本失う重傷ではあったが)。彼は面に広がる膜の中心で仲間が現れるのを待ったがも姿を見せず、U-183の沈没から10分後に浮上したベスゴによって救助される。それから約1時間に渡ってベスゴが生存者の捜索を行ったものの一人として発見されなかった。U-183の残骸は戦死者60名と一緒に65mの海底に横たわった。捕虜となったヴィエスニフスキーは後の1946年1月ドイツへ帰

U-183は潜水艦に撃沈された2隻Uボートで、モンスーン戦隊が失った最後のUボートとなった。総戦果は5隻撃沈(2万6253トン)。2013年11月20日インドネシアダイバーがU-183もしくはU-168のものと思われる残骸が発見された。国立考古学センター海底考古学者シナリア・アディティアタマ氏はU-168ではないかと回答している。

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