U-532とは、第二次世界大戦中にドイツ海軍が建造・運用したIXC/40型Uボートの1隻である。1942年11月11日竣工。通商破壊により連合軍商船8隻(4万6895トン)撃沈の戦果を挙げた。1945年12月9日にデッドライト作戦で海没処分。
概要
IXC/40型とは、1940年に設計された前級IXC型の小改良タイプである。
IXC型の設計をベースに外径殻を拡大し、同時にバラストタンクも大型化させた事で、燃料搭載量が6トン増加、これに伴って長大な航続距離に更なる磨きが掛かった(IXC型の2万370kmから743km増大して2万1113km)。このためフランスから無補給でカナダ沖やケープタウン沖まで長駆が可能。水上速力もIXC型より微増している。
IXC/40型は160隻が起工、このうち87隻が就役し、残り71隻はXXI型量産優先のため建造中止となる。ちなみにU-532、U-183、U-510は日本の神戸港までやってきた数少ないUボートだった。
要目は排水量1144トン、全長76.76m、全幅6.86m、燃料搭載量214トン、連続航行日数84日、安全潜航深度122m、最大速力18.3ノット(水上)/7.3ノット(水中)、急速潜航秒時35秒、乗員44名。兵装は53.3cm魚雷発射管6門、魚雷22本、45口径10.5cm単装砲1門、SKC/30 37mm単装機関砲1門、20mm連装機関砲2門。電測装備として電波探知機、電波探信儀、水中聴音機を装備する。
戦歴
1940年8月15日、ドイツヴェルトAG社のハンブルク造船所に発注、建造資材調達完了に伴って、1942年1月7日にヤード番号347を刻んだ竜骨を設置して起工、8月26日進水、そして11月11日に無事竣工を果たした。初代艦長にはオットーハインリヒ・ユンカー少佐が着任。
ユンカー少佐は過去にU-33の艦長を務めた事があるが、一度も出撃していないため艦長としては新米同然と言えた。しかし彼は約4年間、魚雷試験司令部に所属し、そこでUボートに関する徹底的な訓練を受けた身なので、歴戦の艦長に匹敵するほどの知識を持つ。
就役とともに訓練部隊の第4潜水隊群へ編入。11月12日から15日までハンブルクのエルベ河で試験航海を、11月18日から12月6日までキールで試験を行い、12月7日にシュヴィーネミュンデに寄港したのを機にバルト海へと移動。ここで慣熟訓練と兵装の公試に従事する。
1943年1月8日より16日まで、東プロイセン外港ピラウにて第26潜水隊群と魚雷発射訓練を、1月19日かせ21日までゴーテンハーフェンで第27潜水隊群と戦術演習を実施。訓練中に部品が摩耗してしまったので1月22日に急遽シュテッティンへ寄港している。続いて1月31日から2月6日にかけてダンツィヒで第25潜水隊群と砲撃訓練を行う。
2月11日、ハンブルクに戻って残工事を行い、最後はキールの造船所にて、3月23日まで出撃に向けた最終調整と最終艤装を実施する。
1回目の戦闘哨戒
1943年3月25日午前8時、霧に包まれたキールを出港。最初の戦闘航海に赴く。カデカット海峡を通過し、翌26日21時43分、ドイツ占領下ノルウェー南部のクリスチャンサンへ寄港、燃料補給を受け、そして3月27日午前6時50分に出発した。4月1日、ロリアンに本拠を置く第2潜水隊群へ転属。
ノルウェー西岸を北上、Uボートの通り道だがイギリス軍の警戒も厳しいアイスランド・フェロー諸島間の海域を突破して、北大西洋に無事進出したU-532はU-71、U-108、U-258、U-381、U-413、U-438とともに哨戒線へと進撃、グリーンランド南東やアイスランド南方を狩り場に定めて遊弋を開始する。
4月10日から16日までウルフパック「レルチェ」(10隻参加)。続いて航空偵察に基づいて4月16日から「メイズ」(34隻参加)に所属し、SC船団やHX船団に対する作戦を実施するが、U-532は北東方向に孤立した敵船舶を発見した程度で、戦果を全く挙げられないまま4月26日に解散となってしまう。
4月27日より「スター」(16隻参加)に所属。アイスランド・グリーンランド間で、南西方向に向かうとされる敵低速船団を待ち構える。
4月28日、イギリスから北米に向かう、42隻の輸送船と7隻の護衛艦艇からなるON-5船団を発見、5月2日午前5時14分にまず魚雷4本を、続いて2本を扇状に発射し、明確な爆発音を2回聴音した。ところが戦果は無く、護衛艦艇に発見から15時間に及ぶ追跡と爆雷投下を受けて散々な目に遭う。
5月4日に「スター」を離脱してドイツ占領下フランスへの帰路に就く。翌5日、U-461と合流して燃料、メトックス電波探知機、食糧を受領。5月15日にロリアン軍港に帰投した。
2回目の戦闘航海
7月3日、2回目の戦闘航海に臨むべくロリアンを出撃。今回の目的地は日本占領下ペナン基地であった。ドイツ海軍は、連合軍の対潜警戒が甘いインド洋での大規模通商破壊を企図し、ペナンを拠点とするモンスーン戦隊を結成。第一波として11隻のUボートをロリアンから出撃させた。U-532もその1隻である。
7月15日、敵機1~2機による急襲を受け、何とか急速潜航が間に合ったものの、機銃掃射で軽微な損傷を負う。敵機は近隣の船団を護衛中の護衛空母から飛来したと推測された。
如何に航続距離が長いIXC/40型と言えど、無補給で東南アジアまで長駆するのは不可能だった。このためU-487より燃料と食糧10日分の補給を受けるはず予定であったが、その前にU-487が撃沈されてしまい、7月20日に代艦としてU-160から燃料補給を受ける……はずが、36時間待ち続けてもU-160は現れなかった(後に撃沈されていた事が判明)。7月26日、U-516よりようやく燃料補給を受けられた。
8月30日に一年中天候が荒れている喜望峰へと差し掛かる。荒天を突破して無事インド洋に到達した9月1日、待機中のドイツ給油船ブラーケと合流。U-168、U-183、U-188、U-533とディーゼル燃料、潤滑油、食糧、弾薬などの補給を受ける。9月7日、補給を終えた各艦はインド洋で通商破壊を開始、U-532はインド半島南端を狩り場に指定された。この時、日本海軍潜水艦もアラビア海で通商破壊を行っていたため、同士討ちを避けるべく、担当エリアを南北に分け、更に潜水艦への攻撃は厳禁としている。
9月19日、チャゴス諸島南西にて、アデンからオーストラリアにリン塩酸8475トンを輸送中の英蒸気船フォート・ロンギュイユ(7128トン)を雷撃により撃沈。乗員59名中57名が死亡した。生存者2名はイカダで漂流したのちスマトラ島に漂着して日本軍の捕虜となる。
9月29日20時56分、ラッカディブ諸島南西で英商船ブリティッシュ・パンフシャー(6479トン)を雷撃で撃沈。10月1日、インド南西沖で英自動車運送船タフシニア(7267トン)を水上砲撃で撃沈し、茶やマンガン鉱石などの一般貨物7038トンもろとも海底に葬り去る。
10月11日16時30分、大時化の海の中、インドより出港してきたばかりのMB-50船団を襲撃、インド商船ジャンバラ(3610トン)の左舷に2本の魚雷を命中させる。シャンバラは遭難信号を発したが、約10分後、船員たちはイカダを降ろして船を放棄、被雷から25分後に力尽きて沈没していった。船団唯一の護衛艦艇カルナティックが爆雷を投下するもU-532は離脱に成功している。
10月19日、MS船団に対して魚雷3本を発射。しかし魚雷防御網に阻まれて失敗してしまった。
10月20日18時54分、マンガロール南方60海里でBM-51船団を雷撃し、魚雷1本が英油槽船ブリティッシュ・パーパスの右舷船首に命中、爆発によって生じた浸水で船首を喪失させたが、致命傷には至らず、自力でコーチンに向かった。攻撃後、BdUよりペナンに向かうよう指示される。
インド洋で4隻(2万4484トン)撃沈の戦果を挙げたU-532は10月30日にペナン基地へ入港。ペナン到着を以ってモンスーン戦隊所属となった。
3回目の戦闘航海
1944年1月9日、ペナンを出撃してインド洋での通商破壊を開始。U-532には南方産の錫、ゴム、タングステン、キニーネ、アヘンが積載されており、インド南西部での作戦後はドイツ本国へ帰投する予定だった。
1月11日23時40分、セイロン南方350海里にて、英商船トリオーナへ向けて魚雷2本を発射するが、対魚雷網に阻まれて僅かな損傷しか与えられず、トリオーナはオーストラリア方面に逃走した。1月17日には護衛艦3隻を伴った商船を発見。だがレーダーを持っていたので襲撃は不可能だった。
1月25日夜、潜水艦を警戒してジグザグ運動中のリバティ船ウォルターキャップ(7176トン)を発見。翌26日午前0時27分、右舷に魚雷を撃ち込んで損傷を負わせ、浮上したのち甲板砲による砲撃で後部機関室に命中弾を与えて、2分以内に沈没させた。
1月28日、ドイツ補給船シャルロッテ・シュリーマンと合流すべく移動を開始。2月2日には詳細な合流地点が指定され、誤ってシャルロッテを攻撃するのを防ぐため、シャルロッテが通る可能性がある海域で独航船への攻撃を禁じられる。ところがシャルロッテはイギリス艦隊に捕まり、2月11日に撃沈されてしまう。いつまで経ってもシャルロッテが現れないため、2月16日、代艦のU-178より燃料補給を受ける。
2月22日、U-532は未だシャルロッテと合流していない事を報告、BdUはシャルロッテが撃沈された可能性が高いと判断し、東南アジアから急遽ブラーケを出撃させている。
3月11日、モーリシャス南東1000海里にて、ヨーロッパに帰国するU-532、U-168、U-188がブラーケと合流し、翌12日午前1時35分にU-168への給油が完了。ところが以降は悪天候に阻まれて作業が捗らなくなり、午前9時17分に一時中断、波風が穏やかな場所を求めて南西方向に移動する。そして午前10時56分よりU-168への給油が始まるも、7日間に渡って合流地点を見張っていた、護衛空母バトラー所属のソードフィッシュに発見され、3隻のUボートは一斉に急速潜航、ブラーケは眼前で成す術なく撃沈されてしまった。敵機の脅威が去った日没後、U-532、U-168、U-188はブラーケの生存者を救助。このうちヨーロッパへ帰国予定のU-532とU-188は生存者をU-168に託し、合計198名の生存者がU-168に乗艦した。
一度は帰国の途に就くU-532だったが、ブラーケ撃沈に伴って、燃料不足に陥っていたUIT-24へ自身の燃料を渡す事となり、3月18日に喜望峰南方でUIT-24と合流、手渡された給水ホースを使って送油を開始する。しかし天候悪化によって波は荒れ狂い、2隻は激しく揺さぶられ、給水ホースを叩きつけて引き裂こうとする。更にサメが周辺に群がってきためUIT-24の機銃掃射で何匹か仕留めている。時間が経つごとに天候は悪化の一途を辿り、何本も給水ホースが破れる被害を受けつつも、何とか40トンの給油に成功、マダガスカル島南東よりペナンを目指す。
U-532はUIT-24を気遣って通商破壊時以外は可能な限り寄り添ったという。
3月27日午前10時20分、シドニー発コロンボ行きの英商船ツラギ(2281トン)を発見、約9時間の追跡を経て、19時40分にモルディブ諸島近海で雷撃を行い2本が右舷に命中、僅か30秒で沈没していった。積み荷の小麦粉1850トンと郵便袋380個は海の藻屑と化した。
東南アジアや日本での活動
5月17日にペナンを出港。マレー半島沖は既にイギリスの潜水艦で溢れ返っており、U-532は魚雷を発見しやすい昼間を狙ってマラッカ海峡を通過していたが、英潜水艦タリ・ホーより雷撃され、何とか魚雷5本全て回避して事なきを得ている。翌18日シンガポールに入港。
6月23日、シンガポールを出港し、6月25日にバタビアへ寄港して南方産資源を積載。U-532、U-183、U-510、U-188、U-843に帰国命令が下り、道中でペナンに向かっているU-490から燃料を受ける手はずだったものの、出港する前の時点でU-490が失われていたため、東南アジアの各基地では修理出来ないバッテリーを交換するべく、日本本土への回航が決定した。
9月10日バタビアを出港、翌11日にバリクパパンに寄港して燃料補給を受け、9月12日に現地を出港、連合軍の警戒網を巧みにすり抜け、9月26日に神戸へ入港。ここでバッテリーの交換とオーバーホールを受ける。
12月10日、錫10.8トン、ゴム8.5トン、タングステン170kg、キニーネ500kg、アヘン200kgを積載して神戸を出港、12月23日にバタビアへ入港した。
12月26日、1135トンの日本の弾薬輸送船が突如爆発事故を起こし(雷撃を受けたとも)、U-532は無事で済んだ一方、港湾施設に甚大な被害が発生してしまう。その翌日、バタビアの外港タンジュンプリオクにU-195が入港。新たなモンスーン戦隊の仲間を出迎える。
5回目の戦闘航海
1945年1月3日、U-532はバタビアを出港。今度こそドイツ本国への帰国を目指す。
1月19日、同じく帰国の途に就いていたU-195のディーゼル機関にトラブルが発生、バタビアへ帰投するついでにU-532への給油を命じられ、2月9日にU-195から燃料補給と郵便物の託送を受ける。
3月10日、バイーア北東で英商船バロンジェドバーグ(3656トン)を雷撃により撃沈。砲手1名のみが戦死した。
3月28日午前5時45分、全くの無防備で航行している米商船オクラホマ(9298トン)を雷撃、1本が右舷側に命中したのち、積み荷の10万3199バレルのガソリンと灯油に引火して大爆発を引き起こし、船体から血のように流れ出た油にも引火して周囲が火の海と化す。全身火だるまと化したオクラホマは放棄され、そのまま沈没していった。乗組員36名と砲手14名が死亡。
だが、U-532はドイツまで辿り着けなかった。5月4日15時14分、自殺したヒトラーに代わって新たに総統の座に就いたカール・デーニッツ元帥は全てのUボート、特に海上作戦中の49隻のUボートに対し、戦闘を中止して基地に帰投するよう指示を出したのである。そして5月8日にドイツが連合国に降伏。戦えなくなったU-532は洋上でイギリス艦艇に投降。
駆逐艦アンソニーやサンダーランド飛行艇に先導され、5月10日、連行先のリヴァプールへ到着すると、U-532の司令塔より乗組員が出てきて白旗を掲揚、武装解除した。こうしてU-532の戦いは終わったのだった。
戦後
1945年5月13日、リヴァプールを出港、エリボール湖やアルシュ湖を経由して、カンブリア州バロー・イン・ファーネスまで移動。ここで乗組員は全員退艦させられ、イギリス軍の捕虜となる。最終処分が決定されるまではヴィッカース造船所で公開された。11月14日、イギリスは政治的判断から接収したUボートを全て自沈処分させるデッドライト作戦を計画、戦時賠償艦とならなかったU-532は処刑の日を待つばかりとなった。
12月9日午前11時21分、アイルランド北西部で英潜水艦タンティビーの雷撃を受けて海没処分。
関連項目
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