伊402とは、大東亜戦争中に大日本帝國海軍が建造・運用した伊400型/潜特型潜水艦3番艦である。1945年7月24日竣工。作戦に従事する事なく終戦を迎え、1946年4月1日、ローズエンド作戦により海没処分。
概要
大日本帝國海軍が建造した超大型潜水艦。第二次世界大戦で就役した潜水艦の中では最大級の大きさを誇り、この巨体記録は1962年に原子力潜水艦ラファイエットが、通常動力艦では2012年に中国人民解放海軍が032型潜水艦が就役するまで保持されていた。
アメリカ東海岸への対地攻撃と通商破壊を企図し、1942年1月13日より設計を開始、6月頃に設計完了、改マル五計画で18隻の建造が決定した。ところが戦況の悪化で建造数を18隻から5隻に減らされ、最終的に就役したのは伊400、伊401、伊402の3隻のみとなる。
潜水艦は隠密性を重視する故に小型化が絶対視されるのだが、潜特型は攻撃機としても運用可能な水上機・晴嵐3機を格納するべく、敢えてその逆に進化し、このような巨躯を持つに至った。規格外の大きさのため水上航行であれば連続4ヶ月、地球を1周半できる長大な航続距離を持つ。これは理論上地球のどの場所にも攻撃して帰投出来る事を意味していた。ちなみに日本・アメリカ間だと三往復可能。
また潜特型は40口径14cm単装砲1門、25mm三連装機銃3基、同単装機銃1基、艦首魚雷管8門と丙型潜水艦以来の重武装を持ち、それでいて水中航行性能や急速潜航秒時は良好で、実際に伊401艦長を務めた南部伸清少佐は「性能は意外と良かった」「大きい割に小回りが利いて、潜航秒時も1分を切るくらい優秀」と語っている。
潜水艦に航空攻撃を行わせる発想は世界的に見ても革新的で、航空機格納筒の設計は、アメリカ海軍巡航ミサイル搭載潜水艦のミサイル格納所に流用されたと言われる。
もちろん、大型化によって潜水艦の命とも言える隠密性は大きく損なわれ、同じく大型潜水艦の伊351とは対照的に居住性も劣悪で、テーブルが無い上に、寝台は士官と下士官のみに用意され、兵は床で寝る羽目になるなどの欠点も抱えていた。また伊402には晴嵐が搭載されず、建造中にガソリン輸送艦へと改造されていたため、潜水空母としての活動は一切行っていない。
要目は排水量3530トン、全長122m、全幅12m、最大速力18.7ノット(水上)/6.5ノット(水中)、重油1750トン、乗員157名、安全潜航深度100m。兵装は40口径14cm単装砲1門、25mm三連装機銃1基、同単装機銃1基、53cm艦首魚雷発射管8門、九五式酸素魚雷20本、特殊攻撃機晴嵐3機、四式1号10型射出機1基。電測装備として22号水上電探、13号対空電探、シュノーケル、四式水中聴音機、三式探信儀を持つ。
艦歴
伊四〇〇型潜水艦の項も参照。
1942年9月に策定された改マル五計画において、特型一等潜水艦第5233号艦の仮称で建造が決定。建造費は臨時軍事費から捻出された。
1943年10月20日に佐世保海軍工廠で起工、1944年9月5日進水、1945年3月7日より艤装員事務所を設置して事務を開始する。6月29日午前0時29分、141機のB-29が佐世保市街地に向けて焼夷弾の投下を開始、1分後に全砲台へ「対空戦闘砲撃始め」の号令が下り、軍港内も慌ただしくなるが、敵の狙いは市街地だったため軍港や工廠への被害は殆ど無く、工期に悪影響は及ばなかった。
通常、潜水艦の乗組員に充てられるのは潜水学校練習生を卒業した者だが、伊402は他の潜水艦とは比較にならない重武装を持っているので、艤装員選定時に戦艦大和、伊勢、日向から1名ずつ歴戦の機銃手の引き抜きを行い、対空能力の底上げを図る。そして7月24日に無事竣工を果たす。初代艦長に中村乙二中佐が着任するとともに第6艦隊第1潜水戦隊へ部署。
就役後は第6艦隊の司令部がある呉に向かうべく佐世保を出港。道中の佐世保近海、関門海峡、瀬戸内海、呉近海はB-29の度重なる機雷投下で通航不能レベルにまで機雷封鎖されていたものの、針に糸を通すような操艦で無事呉まで辿り着く。
既に晴嵐を用意する事が出来なかったからか、建造中(異説では就役後)、飛行機格納庫に航空揮発油用輸送設備が設けられており、本土決戦用の航空兵力展開に伴う航空揮発油の蓄積補充のため、東南アジアにガソリンを取りに行く計画が予定されていたという。戦後の写真を見るに射出機は撤去されなかった模様。
灼熱の太陽が甲板を焼き、絶え間ないセミしぐれが廃墟と化した軍港内に鳴り響く。空梅雨だったため、長らく呉には雨が降っていなかったものの、沖縄方面から北上してくる台風の影響で8月3日と4日は久々の雨となり、そしてすぐ高気圧によって透き通るような青空が戻ってきた。この頃になると、毎朝午前8時半頃にP-38などの敵戦闘機が2機編隊で現れ、適当に目標を見繕って機銃掃射を加えていくという通り魔的な攻撃が行われていたが、反撃すると必ず執拗な反復攻撃を受けるので対空射撃は控えられていた。
8月11日午前10時40分頃、呉軍港に硫黄島より飛来したムスタングP-51戦闘機14機が襲来。速力の速い戦闘機だったため空襲警報が鳴らず完全な奇襲となった。海軍工廠潜水艦桟橋に停泊中の伊402、伊36、伊159、伊47は順次出港して沖合いへ退避しようとするも、最も大型で内側に係留されていた伊402は逃げる間もなく2機のP-51の攻撃が集中、豊富な対空兵装を活かして反撃し、敵機1機撃墜の戦果を挙げた。しかしその直後に後方へ至近弾が落下、艦尾左舷外殻に破孔が生じて機銃給弾員2名が爆弾の破片で軽傷を負う。
第6艦隊規定の功績等級によれば、航空機撃墜は戦艦もしくは空母撃沈と同等とされ、艦隊司令の醍醐忠重中将から佃慶夫砲術長に恩賜の短刀が授けられている(これは回天特別隊の隊員に贈られた短刀と同じもの)。これが伊402唯一の戦果兼戦闘であった。
8月15日の終戦を呉工廠内で迎える。玉音放送が流れてもなお、「終戦なんてデマだ」という声が強く、艦内では出撃準備が進められ、第6艦隊旗艦・筑紫丸や潜水艦基地隊支援のもと、夜通しの物資積み込み作業が行われた。醍醐中将も出撃には前向きで「中央を説得して必ず出撃許可をもらってくる」と積極的に交渉。しかしついに最後まで出撃許可は下りず、戦いは終わってしまう。
戦後
9月に進駐してきたアメリカ軍へ投降。アメリカ軍は実際に投降するまで潜特型の存在を知らなかったという。10月、生き残った潜水艦は未だ掃海が済んでいない海域を通って佐世保に向かうよう命じられ、伊402はアメリカ軍搭乗員の指揮下で佐世保に回航した。11月15日除籍。
ソ連はアメリカに対し、戦後協定に基づいて日本潜水艦へのアクセスを要求、戦後、急速に米ソ関係が悪化していた背景もあり、アメリカは日本潜水艦の技術がソ連に渡る事だけは避けたいと考え、早急に撃沈処分しようと考えた。このため1946年3月26日、ワシントンD.C.で開催された潜水艦士官会議にて「全ての日本海軍潜水艦を撃沈処分する」旨の命令が発せられ、処分作業にローズエンド作戦の名称が付けられた。処分場所は五島列島福江島東方沖。
日本国内に唯一残った潜特型だったからか、作戦前にロバート・M・グリフィン提督や幕僚が伊402と伊58を視察している。そして4月1日に波201と波202に挟まれながら五島列島沖へ移動。乗組員をLST戦車揚陸艇に移乗させた後、米駆逐艦エヴァレット・F・ラーソンとグッドリッチの砲撃により沈没。五島列島沖で処分された潜水艦24隻のうち最後に処分されたという。
沈没地点は長らく不明だったが、2015年8月16日、日本テレビの番組「真相報道バンキシャ」の取材チームが五島列島沖の水深200mに沈む伊402と思われる格納筒を発見、近海に眠る潜水艦24隻の中で最初に位置が判明する。しかし東シナ海には流れがあり、濁りもあるため海底調査は難航。次いで2017年9月7日にラ・プロンジェ深海工学会が伊402の位置を特定したと発表。航空機格納筒、射出機、14cm単装砲などが特定の決め手となった。日本近海に沈む唯一の潜特型という事で引き揚げを望む声も散見される。
関連動画
関連項目
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