新島八重(にいじま・やえ 1845~1932)とは、幕末~昭和時代に活躍した日本の砲術家・教育者・看護婦・茶人である。
同志社の創立者である新島襄の妻で、2013年の大河ドラマ「八重の桜」の主人公となったことから、その名が一般にも知られるようになった。名前は「八重子」と読む場合も多い。
概要
砲術師範を務める会津藩士・山本権八の三女として生まれる。長兄は、後に新島襄の同志社創立に協力した山本覚馬。先祖は武田信玄の軍師として有名な山本勘助と伝えられている。
父・権八は男子の跡取りがいなかった山本家の息女・佐久の婿となり、八重の他にも合計三男三女に恵まれたが、うち覚馬・八重、末弟の三郎以外は早世した。八重は幼い頃から男勝りの活発な性格で、13歳の時には四斗(約70㎏)の米俵を持ち上げるなど怪力の持ち主だった。裁縫など女性らしい仕事は苦手だったが、父や兄の背を見て育った八重は、幼い頃から砲術に興味を持ち、覚馬の指導の下で女性ながら鉄砲の名手となる。
八重の少女時代については、後年に八重が自ら語ったこと以外、記録も少なく不明な点が多いが、覚馬が藩主・松平容保に従って上洛中に、覚馬の紹介で山本家に寄宿し、会津藩の蘭学助教授となっていた川崎尚之助と結婚する。この時八重は21歳、当時としては晩婚であり、両親は男勝りの八重が生き遅れずに済んだと安堵したらしい。
幕末のジャンヌ・ダルク
ところが、それから数年も経たぬうちに江戸幕府が倒壊し、会津藩は薩長中心とする新政府から賊軍の汚名を着せられてしまう。勝海舟らの尽力によって江戸は戦火にさらされずに済んだが、幕末の動乱で多くの仲間を失った薩長の怒りの矛先は、会津に向けられることとなる。
容保率いる会津藩は各地で転戦するが、新式銃やアームストロング砲など武装力で勝る新政府軍に対し、覚馬の努力も虚しく近代化に遅れた会津軍は苦戦を強いられ、八重は鶴ヶ城(会津若松城)に籠城。鳥羽・伏見の戦いで命を落とした弟・三郎の形見を付け、男装して他の兵士に混じり、スペンサー銃を武器に戦いに身を投じる。薩長軍の奇襲に加わったり、薩摩軍の大山弥助(後の大山巌)を狙撃し負傷させるなどの武勇伝を残した八重は、後世「幕末のジャンヌ・ダルク」と呼ばれるようになる。
しかし、物量ともに勝る薩長軍の度重なる攻撃で、遂に容保は降伏。長年住み慣れた故郷だけでなく、この戦いで父・権八も失った八重は、はるか北方の下北半島に置かれた斗南藩に渡った尚之助と別れ、出稼ぎのため米沢で暮らすこととなる。
新島襄との出会い
1871年、八重をはじめとする山本家は、薩長軍に囚われ処刑されたと思われていた覚馬が生きていることを知り、覚馬を頼って京都に向かった(覚馬の先妻・うらは、この時離縁する)。約9年ぶりの再会に、八重は目や足が不自由となった覚馬を支えながら、その覚馬の案によって作られた新英学校及女紅場で働き始める。ここで八重は、英語や印刷技術を学び、新たな西洋文明に接することとなる。
また、京都府知事・槇村正直が汚職事件で窮地に陥ると、そのブレーンだった覚馬は槇村を助けるために東京に向かい、八重もこれに同行。覚馬は佐久間象山の塾以来の知り合いだった勝海舟をはじめ、管見を評価した岩倉具視や木戸孝允など、幕末~明治政府の重鎮と交渉し、槇村の釈放に成功する。八重は勝・岩倉・木戸に好印象だったが、槇村を糾弾した江藤新平とその門人は嫌っていたらしい(言わば敵なので仕方ないが)。また、八重はこの時に前夫・川崎尚之助と再会したとも言われているが、こちらは実際の所よくわかっていない。貧しい斗南藩を救うために、外国人商人と米の調達の契約を結んだ尚之助だったが、契約先に騙されて訴訟を起こされてしまい、その裁判の最中だった。この翌々年に尚之助は病に倒れ、失意の内にこの世を去る。
最初の夫・尚之助を失い悲しみに暮れる八重だったが、その直後に新たな出会いが待っていた。覚馬の知り合いの宣教師・ゴードンの家を訪れた際、八重は靴を磨く青年と出会う。それが二番目の夫となる新島襄との出会いだった。使用人と間違えた八重は通り過ぎてしまったが、それからしばらくして、今度は襄が覚馬の家を訪ねた時、井戸の上に板を敷き、そこで裁縫をする八重を襄は見かける。驚いた襄は、覚馬から八重の話を聞き、興味を持つようになったと言われている。
1875年10月、襄と八重は婚約。その翌年1月2日に八重は受洗、その翌日に2人は京都で初めてとなるキリスト教式の結婚をした。八重が歴史の表舞台に、本格的に出始めるのはこの時からである。
ハンサムウーマン
襄はかねてから、西を向けと言われたらずっと西を向くような封建的な女性を好まず、当時の日本人女性としては珍しく、男性と対等に渡り合い臆することのない八重を大変気に入っていた。また、襄はかつてアメリカでお世話になった知人に八重のことを「美人ではないが、生き方がハンサムな女性です」と語っている。写真を見る限り、確かに八重はお世話にも美人とは言えないが、顔よりも八重の逞しさに惹かれたのだろう(田中好子や綾瀬はるかが演じていることもあり、ドラマやイラストの八重は、見た目も麗しい美人、さらには萌え系の美少女として描かれることが多いのだが)。
襄が妻を「八重さん」と呼ぶのに対し、八重は夫を「ジョー」と呼び捨てにしていたとか、人力車に乗る際もレディーファーストで八重が先に乗ったなど、2人の逸話は数多い。同志社の生徒だった徳富蘇峰(当時は徳富猪一郎)は、型破りな行動ばかりする八重を西洋かぶれと非難し、しまいには伝説上の怪物である鵺のような女と罵倒した(襄の死後、蘇峰は謝罪している)。出る杭は打たれると言うが、八重はこうした誹謗をたびたび受けても、決して信念を曲げることはなかった。
八重は夫が立ち上げた同志社の教育活動にも参加し、女性が教育を受ける分校の同志社女学校(当初の名は同志社分校女紅場)の教師となり、母・佐久が寮監となった。ところが、八重は襄がアメリカから呼び寄せた女性宣教師スタークウェザーと衝突してしまう。八重は西洋の生活習慣を身につけて欧米的な指導を行った対して、スタークウェザーは日本の教育現場に入るため、江戸時代の封建的な教育を研究し、和食・和室など純日本風の生活を送っていた。日本人なのに革新的なフェミニストを尊ぶ八重と、アメリカ人なのにかつての日本の女性観を大切にするスタークウェザーという複雑な対立構造は、スタークウェザーが帰国、佐久が寮監を辞任するという結末を迎え、翌々年にはこの対立が尾を引いて女学校が閉鎖される危機にも陥った。閉鎖こそ免れたが、この責任を取って八重は教育現場から一歩身を引くこととなる。
日本のナイチンゲール~晩年
1890年、最愛の夫・新島襄が病に倒れると、八重はその最期を看取った。その2年後には兄・覚馬が他界し、その前後には母の佐久、姪のみね・久栄が相次いで亡くなった。襄との間に子がいなかった彼女は孤独になってしまうが、そのまま家でふさぎ込み続けるような八重ではなかった。襄の死後4ヶ月後、八重は日本赤十字社に加盟する。篤志看護婦人会の会員となった八重は、日清戦争・日露戦争時にそれぞれ広島・大阪に赴き、戦いで怪我や病気に苦しむ兵隊の看護活動を行った。共に働いた看護婦の中には、会津戦争の戦火を共にくぐり抜け、かつて自分が狙撃した薩摩の軍人・大山巌の妻となった大山捨松の姿もあった。日露戦争では敵方のロシア兵の命も救った八重は、「日本のナイチンゲール」と呼ばれるようになる。
同じ頃、八重は裏千家に入門し、「宗竹」の茶名を賜った。あれほど西洋文化に傾倒した八重だったが、やはり心の奥底では古き良き日本人の魂を失わずに持っていたのである。また、山本家が会津藩に仕えるきっかけとなった祖先の山本道珍が、茶人だったことも八重が茶の道に進む大きなきっかけにもなったのであろう。八重は茶道を通して、建仁寺の僧侶・竹田黙雷とも親交を深め、禅宗の法名と袈裟を賜った。この時マスコミは、クリスチャンの八重が、仏教に改宗したと大騒ぎしたという。
八重の茶道好きは後述するが、京都の女学校に茶道のカリキュラムを組ませるよう働きかけ、その顧問に自分の師匠である千猶鹿子とその子・圓能斎(十三世千宗室)を依頼するなど、女性の茶道進出においても大きな役割を果たした。それまで茶道は男子がするものだったのが、今では女性の比率の方が高くなっているのも、ひとえに八重の功績によるものが大きい。
1931年、既に80歳を過ぎた八重に吉報が飛び込んだ。今は亡き会津藩主・松平容保の孫娘・節子(後に勢津子と改名)が、昭和天皇の弟・秩父宮雍仁親王の妃となったのである。容保の尊皇の思いと裏腹に、長年朝敵と呼ばれ続けた会津の人々にとって、この結婚は非常に喜ばしいことであった。昭和天皇の即位時に天盃を授かるなど、八重は皇室とも深い繋がりを持っていたが、この出来事はそれら以上の栄光であっただろう。その4年後、八重は数え88歳の長命で天寿を全うした。先年から病気がちになっていたとはいえ、亡くなる3日前にも茶会で元気な姿を見せており、闘病生活で苦しむこともなく、安らかに大往生を遂げたのである。
トリビア
- 勝ち気な性格だった八重は、大の負けず嫌いだった。まだ若い頃、朝の一番風呂に入るというこだわりがあり、毎朝大急ぎで銭湯に向かった。しかし他の客に先を越されると、風呂にも入らず家に帰ってしまったという。
「2位じゃダメなんでしょうか?」→八重「1位じゃなきゃダメなんです」 - 会津戦争の最中、八重は頭に鉢巻きを付けて戦っていた。それを見た味方の兵士が帽子(恐らく陣笠か)を貸してくれ、それを被って城壁の近くを見回りに出かけたところ、突然帽子が地面に落ちた。実は敵の銃弾がこめかみをかすめたのだが、八重は怪我をせずに済んだ。後年八重は、「帽子がなかったら死んでいたかもしれない」と回想している。
- 筋金入りの銃ヲタだった八重だが、後半生は砲術の代わりに茶道に熱中し、織田信長の如く茶器コレクターとなった。ご存じの人も多いだろうが、茶道具は莫大なコストがかかる。そのため八重は意外にも浪費家の一面もあったらしく、同志社からの支給金だけでは足りず、借金までしていたと言われている。
関連動画
関連項目
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