楢(松型駆逐艦)とは、大東亜戦争中に大日本帝國海軍が建造・運用した松型/丁型駆逐艦12番艦である。1944年11月26日竣工。門司にて大破状態で残存。
概要
艦名の由来はブナ目ブナ科コナラ属の落葉高木の総称から。どんぐりの成る木として有名。またウィスキーやワインの樽に用いられる材木で、楢という漢字も「酒の香気が漏れる様子」「酒を管理する長」の意味を持つ象形文字に由来する。ヨーロッパではキングオブフォレストと呼ばれているとか。
ちなみに楢の名を冠した艦は本艦で二代目。先代は1917年4月30日に竣工した楢型駆逐艦1番艦楢で、1940年11月15日に除籍となり、戦時中に解体されて船体の一部が呉や吉浦港の浮き桟橋となった。
ガダルカナル島争奪戦やそれに伴うソロモン諸島の戦いにより、多くの艦隊型駆逐艦を失った帝國海軍は、安価で大量生産が可能な駆逐艦の必要性を痛感し、これまでの「高性能な艦を長時間かけて建造する」方針を転換。1943年2月頃、軍令部は時間が掛かる夕雲型や秋月型の建造を取りやめ、代わりに戦訓を取り入れ量産性に優れた中型駆逐艦の建造を提案。ここに松型駆逐艦の建造計画がスタートした。とにかく工数を減らして建造期間を短縮する事を念頭に、まず曲線状のシアーを直線状に改め、鋼材を特殊鋼から入手が容易な高張力鋼及び普通鋼へ変更、新技術である電気溶接を導入し、駆逐艦用ではなく鴻型水雷艇の機関を流用など簡略化を図った。
一方で戦訓も取り入れられた。機関のシフト配置により航行不能になりにくくし、主砲を12.7cm高角砲に換装しつつ機銃の増備で対空能力を強化、輸送任務を見越して小発2隻を積載、九三式探信儀と九三式水中聴音器を竣工時から装備して対潜能力の強化も行われている。これにより戦況に即した能力を獲得、速力の低さが弱点なのを除けば戦時急造型とは思えない高性能な艦だった。
要目は排水量1262トン、全長100m、全幅9.35m、最大速力27.8ノット、乗組員211名、出力1万9000馬力。武装は40口径12.7cm連装高角砲1基、同単装高角砲1基、61cm四連装魚雷発射管1基、25mm三連装機銃4基、同単装機銃8基、九四式爆雷投射機2基。電探装備として22号水上電探と13号対空電探を持つ。
艦歴
1944年6月10日に藤永田造船所で起工、8月25日に駆逐艦楢と命名され、10月12日に進水、11月11日、艤装員事務所を設置して事務を開始し、そして11月26日に無事竣工を果たした。初代艦長に27歳の若手・本多敏治少佐が着任する。竣工と同時に呉鎮守府へ編入され、訓練部隊の第11水雷戦隊に部署。
11月27日午前9時、瀬戸内海西部にいる第11水雷戦隊と合流すべく大阪を出港、11月29日午前8時から12月4日午前10時まで呉に停泊し、同日14時に安下庄まで移動して第11水雷戦隊と合流。旗艦酒匂の指導を受けながら姉妹艦と慣熟訓練に従事する。同時期、フィリピンでは決死の多号作戦が行われ、一刻も早くこの作戦に参加するべく日々厳しい訓練に臨む楢であったが、訓練完了を待たずして多号作戦は終結してしまった。
12月16日と17日の両日、僚艦と亀川に寄港して宇佐神宮に参拝。12月28日より呉に入港。楢、椿、桜の3隻は四式射撃装置を三型に換装した。
1945年1月5日、第11水雷戦隊と合流しようと係留運転を行っていたところ、両舷復水器の塩分が上昇し、運転不能になる問題が発生したため、椿に基地物件の託送を依頼したのち調査と修理を実施、1月9日午前9時に呉を出港して八島泊地で戦隊と合流する。翌10日14時29分、酒匂から将旗を移して一時的に戦隊旗艦となり、軽巡酒匂、駆逐艦椿、桜、欅と出動諸訓練を実施。1月11日午前0時20分に酒匂へ将旗を戻した。1月15日、呉に寄港。
2月7日に桜とともに呉を出港、8日、9日、10日の3日間は柳、桜と大津島で第一特別基地隊の訓練に協力。2月16日と22日に出動訓練を行ったのち、2月25日、大津島で欅と再び訓練協力を実施、その後、第11水雷戦隊より訓練協力後は呉に回航するよう指示が下り、同日中に呉へと帰投。いよいよ楢は実戦投入を迎える事となる。
3月1日、姉妹艦欅と第一海上護衛隊に編入。船団護衛任務を命じられる。次いで翌2日午前10時30分に呉を出港して同日中に門司へ回航。現地でヒ99船団と合流する。
この船団は1ヶ月前に就役したばかりの非常に貴重な3TL戦時標準タンカー第五山水丸1隻のみで、護衛兵力は楢、欅、朝顔、海防艦宇久、新南で構成されていた。船団の指揮は朝顔艦長の森栄大尉が執る。第五山水丸は航海速力15ノットで長大な航続距離を持つ優秀船であり、護衛する側にとっても大変やりやすかった。また森栄艦長の進言で第五山水丸には超短波電話機と有能な電話員4名が追加配備されている。
2ヶ月前に起きた米機動部隊の南シナ海襲来により、それまで比較的賑わいを見せていた本土・南方航路が急激に減少、南号作戦が終結した3月頃にはもう南航する船団は完全に途絶えていた。そんな中、久しぶりにシンガポール行きの南航船団が再開された訳である。
門司港で停泊中の間、護衛艦艇の5隻は作戦打ち合わせ、通話訓練、放流信号訓練などを毎日慌ただしくこなし、念入りに練度を高めていく。朝顔の艦長は開戦時より護衛を務めてきたベテラン、楢と欅の艦長も各々に1個船団を任せられるほど優秀で、海防艦2隻の艦長は日本海運界の一流船長と粒揃いだった。遅れて門司に入港してきた第五山水丸の船長も遜色ないベテラン。これには船員及び乗組員も「今度の船団は凄いぞ」と士気を大きく盛り上げたという。
3月11日17時10分、人員と軍需品を載せたヒ99船団を護衛して門司を出港、約1時間後に沖合いにある六連泊地に移動し、翌12日午前7時30分に高雄へ向けて出発する。敵の勢力圏を突っ切る形になるため当然ながら難易度は非常に高く、「馬公まで行けたら第一の成功、サイゴンまで行けたら第二の成功」と言われていたほど。目的地シンガポールへの到着予定日は3月27日午前11時。船団速力は第五山水丸に合わせて15ノットとした。
出発後、波が穏やかな海域を利用して輪形陣による回転整合、視覚信号を使わない電話による各種陣形運動を実施したところ、寄せ集めにも関わらず機敏な動きを見せた事から、森大尉は「相当の無理が効く」と喜んだ。朝顔がこれまで護衛してきた船団の中で最も練度が高いと言える。航行中の3月15日、楢、桜、椿、欅、橘、柳の6隻で第11水雷戦隊隷下に第53駆逐隊を編成された。
3月16日午前1時、朝鮮半島南部を離れて外洋に出ようとした時に豪雨と遭遇。航行に不安を覚えた船団は居金島で一時待機する。ここで第一護衛艦隊司令部から反転帰投命令を受領。来た道を引き返していき、加徳水道を経由して翌17日19時10分に六連へ帰投、ヒ99船団の編制が解かれた。代わりに門司から佐世保に向かう2ET戦時応急タンカー第二高砂丸の護衛を朝顔と行い、3月18日より佐世保で修理を受ける。
楢が内地に帰投した頃、アメリカ軍が沖縄に対する激しい艦砲射撃と空襲を開始、これを受けて連合艦隊は天一号作戦発動を命令、第11水雷戦隊は戦艦大和率いる第一遊撃部隊の指揮下に入れられ、4月4日、欅と佐世保を出港して志々伎湾に移動、4月8日には門司にまで進出しているが、第11水雷戦隊の練度不足を憂慮されて第一遊撃部隊から外された事で作戦中止、翌日安下庄に戻った。
4月7日に第31戦隊へ転属。第53駆逐隊は第一部隊に部署し、安下庄付近での待機を下令される。4月10日、安下庄を訪れた特別便船から九三式魚雷三型4本、10cm高角砲通常弾500発、25mm機銃弾5000発、1500名の生糧品15日分の補給を受けた。4月12日に旗艦花月で砲術懇談会を実施。4月15日、第二艦隊の解隊により作戦行動可能な水上部隊は第11水雷戦隊と第31戦隊のみとなる。第一遊撃部隊の沖縄突入失敗に伴い、4月20日、大本営は大規模な再編を行い、第31戦隊に半壊した第二水雷戦隊の残部を統合、連合艦隊に編入した。
4月26日午前7時45分に予定作業を終えて安下庄を出発し、小積泊地に移動。
5月4日から8日まで呉に停泊。B-29の度重なる機雷投下や空襲によって瀬戸内海西部は訓練地に適さないほど危険な場所となりつつあった。5月下旬、第11水雷戦隊は比較的機雷の投下が行われていない日本海側への脱出を命じられる。
5月21日午前11時に軽巡酒匂、駆逐艦楢、欅、桜、柿、楠、菫が呉を出発、14時15分に安下庄へ進出する。次いで5月25日午前9時45分、安下庄を出発して十重二十重に機雷封鎖された関門海峡の突破を図るが、同日16時45分に部埼灯台沖5.4海里で桜が触雷小破してしまい、17時30分、戦隊は急遽門司へと退避。18時頃には泊地付近の第二航路を通りがかった船舶3隻が触雷沈没しており、如何に門司周辺が危険な場所であるかを物語っている。
損傷を負った桜は海峡突破を断念。呉に帰投させるべく楢、欅、椿が桜の伴走を務め、5月26日午前7時に部埼泊地を出発、同日中に呉まで送り届けた。以降は瀬戸内海西部で活動。
触雷
6月30日、関門海峡西口を通過中に触雷大破。艦尾屈曲、艦後部浸水、航行不能、2番砲塔使用不能などの重傷を負ったものの、かろうじて受信機3台の故障を直して門司救難支部に救援を求める事に成功、応急処置を施しながら何とか下関まで退避する。幸い死傷者は出なかった。
艦内では修理が行われていた一方、やる事が無い乗組員は近くの巌流島に上陸したり、艦を覆う擬装網を編むための材料を山に取りに行ったり、帰郷許可が下りて家族に顔を見せに行ったりしていたという。7月2日午前0時10分、彦島と新地を除く下関市の市街地を狙った焼夷弾攻撃が行われ、主要地域は焼け野原と化したが、これらの爆撃は軍事的要衝や軍需工場地帯を目標としていなかったので、楢への被害は無かった。7月15日付で呉鎮守府部隊所属の特殊警備艦に指定。
8月6日に広島市へ原爆が落とされた後、広島出身の兵には特別休暇が出され、家族の安否を確認しに行ったものの、家は焼失、家族は全滅というケースが多かった。
戦後
そして8月15日、下関にて大破航行不能状態で残存。若干の保安要員以外は全員退艦していた駆逐艦楡と違って終戦時まで乗組員が乗っていた模様。その後、乗組員たちは荷物をまとめ、逐次退艦・復員していったが、中には「艦が動くようになったら、これから海賊になるんじゃ」と意気込む者もいたとか。11月30日除籍。
まともに航行できない楢は当然特別輸送艦には選ばれず、他の姉妹艦が復員輸送任務に従事する中、ずっと門司で係留されていた。1947年に放置中の楢を収めた写真があり、それによると後部煙突に識別用の「ナ」の文字が見え、特別輸送艦にならなかったためか武装解除されておらず、12.7cm単装高角砲にカバーが掛けられているのが分かる。
関連項目
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