名波浩 単語

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名波浩ななみ ひろし1972年11月28日 - )とは、日本の元プロサッカー選手導者である。
サッカー日本代表サッカー日本代表コーチ

現役時代のポジションMF。177cm70kg。利き足は左足。

概要

静岡県藤枝市出身。正確なテクニックキックが持ち味の左利きゲームメーカー。また、周りの味方を活かすことにも定評があり、一緒にプレーした選手からは賞賛のが多い。中でも、中田英寿が「を合わせなくても次のプレーが予測できた、オレ人生で最高のパートナーだった」と評価している。

ジュビロ磐田日本代表で活躍。ジュビロ磐田では、クラブ黄金期の中心選手として活躍し、3度のJリーグ優勝など数々のタイトルを獲得。特に全制覇した2002年では「N-BOX」と称された名波を中心にした戦術がハマり、圧倒的な強さを披露している。

日本代表では1995年デビューすると10番を背負い、ジョホールバルの歓喜と呼ばれた1997年日本ワールドカップ初出場に貢献。1998 FIFAワールドカップでも10番を背負ってプレーしている。

1999年にはイタリアセリエAのA.Cヴェネツィアで1年間プレー2000年AFCアジアカップでは日本を2度アジア王者に導き、大会の最優秀選手にも選ばれている。

2007年に現役を引退した後は導者に転身。古巣であるジュビロ磐田松本山雅FC監督を務め、2023年からは森保一監督のもとで日本代表コーチを務めている。

現役時代の経歴

プロ入り前

静岡県藤枝市にて4人兄弟の末子として出生。サッカーが盛んな藤枝市という環境らのもあり、物心つくうちからサッカーに熱中する。少年時代は時間があれば電話友人を呼び出してサッカーに明け暮れていた。やや肥満気味でゲーム中あれこれ図することから付けられたあだ名は「ジャイアン」。外でサッカーが出来ない時はらと自宅でボール蹴りにじ、部屋の調度品を破壊していた。

藤枝市立西益小学校入学し、休み時間はサッカー放課後き地や田圃、大手公園(通称チビッコ広場)で日が暮れるまでボールを蹴り、ディエゴ・マラドーナプレー衝撃を受け左足の技術を磨く。小学2年生時に西益サッカー団のセレクションに参加。当時のコーチを驚嘆させるほどのセンスに溢れた左足を持っていたが、入団の条件が小学3年生以上だったため落選。小学3年生時の再挑戦時には、更に技術に磨きがかかっていた。小学校4年生時、既に同世代との試合では圧倒的なプレーを見せていた浩は飛び級で年長チームに所属するようになった。この頃のポジションは左ウイング

中学藤枝市立西益中学校入学高校静岡県内でも屈サッカー名門校だった清水市商業高等学校に進学。サッカー熱で藤枝市清水市の対立がしかったこの当時、担任から藤枝市内にある全ての高校入学を待ち望んでいると助言され1度は進路を保留するも、最終的に希望していた清水商へ進む。高校時代は、後にJリーグで切磋磨することになる大岩剛、山田裕、了洋、望月重良らと共に高校総体、ユース選手権を制覇している。

高校卒業後は、1993年Jリーグ発足が決まっていたこともあってプロになることを希望し、海外留学を考えていたが、が反対したこともあって進学を選択。順天堂大学に進学する。大学在学中にはバルセロナオリンピック代表のメンバーに選ばれるなど、卒業後のプロ入りが確実視されていた。

ジュビロ磐田

1995年Jリーグジュビロ磐田へ入団。大卒ルーキーながらもハンス・オフト監督から才を高く評価され、入団後すぐにレギュラーを獲得。高校の1年先輩であり、1年先に入団していた藤田俊哉と共に中盤のとして活躍。には現役ブラジル代表のドゥンガも加入し、チーム黄金期への土台を作りあげていた。2年となった1996年には初めてJリーグベストイレブンに選出。

1997年以降の磐田はこの年にJリーグ初制覇を果たすと、鹿島アントラーズとの「二強時代」と呼ばれる常勝軍団へと成長。1997年の初優勝時は、ワールドカップ最終予選のために不在となっていたものの、1998年1stステージでは中山雅史ギネス級の記録的なゴールラッシュをお立てし、優勝を飾る。Jリーグで3年連続ベストイレブンに選出。もはやトッププレイヤーであることはもが認めるところとなっていたが、中田英寿イタリアセリエAセンセーショナルな活躍を見せていたこともあり、視線の先は海外へと向けられていた。そして、1999年チームアジアクラブ選手権優勝Jリーグ 1stステージ優勝に導くと、海外移籍を表明する。

ヴェネツィア

1999年イタリアセリエAACヴェネツィアに移籍。背番号ジュビロ時代と同じ「7」。三浦知良中田英寿に次ぐ3人日本人ジョカトーレとなる。セリエA開幕戦のウディネーゼ戦では途中出場し、移籍後初アシスト記録10月28日コッパ・イタリアペスカーラ戦での決勝ゴールが移籍後初ゴールとなり、2000年1月23日第18節のウディネーゼ戦でセリエA戦初ゴール記録。しかし、クラブは前のシーズン大車輪の活躍でセリエA残留に導いたアルバロ・レコバ埋めとして名波を獲得しており、左利きテクニシャンという共通項はあるものの、プレースタイルポジションが異なっていたことから首からの評価は低く、下位に低迷するヴェネツィアでは守備強度の低さが懸念視されて満足な出場機会が得られず、ベンチを温める時間も長くなっていた。結局、ヴェネツィアが降格したことから1年で退団となり、足跡を残すことなくイタリアを去ることとなった。

ジュビロ磐田復帰

2000年ジュビロ磐田に1年ぶりに復帰。この頃から膝の負傷に悩まされるようになり、2000年はわずか5試合の出場に留まる。2001年も怪で欠場が多く、名波を頂点に置いた「N-BOX」が導入されるようになるも、17試合の出場で終わる。ここから右膝半月の負傷によって1年近い長期欠場を余儀なくされてしまう。
ちなみに「N-BOX」は当初予定されていた「世界クラブ選手権」に磐田が出場予定で、その対戦相手であるレアル・マドリードとの試合を想定して、彼を中心としたフォーメーション「N-BOX」という戦術が作られていた。しかし、肝心の世界クラブ選手権がスポンサーの都合で中止になり、名波自身も右膝を怪をし、1年の長期離脱となり、N-BOX構想は頓挫したかと思われた。

2002年も怪との戦いではあったが、コンディションが整うようになったシーズン後半戦は前年から導入された「N-BOX」の中心としてきを取り戻すようになる。この年の磐田のサッカー世界でも類を見ない、実にチャレンジングな攻撃的なスタイルとなり、中山高原直泰の強な2トップを活かすピッチ上の指揮官として名波の存在なくして成立しないスタイルでもあった。名波の復活と共にった磐田は、圧倒的な強さで他チーム駕してしまい、史上初となるJリーグ全制覇を達成。30歳の名波にとってもキャリアハイと言えるシーズンとなった。シーズン終了後には4年ぶりにJリーグベストイレブンに選出される。

頂点を極めた2002年だったが、2003年以降はコンディション不良に悩まされることが増え、名波の調子と共に磐田の黄金期終焉チームの成績も下降線を辿り始める。2005年あたりからは若返りを薦める山本昌監督の方針もあって出場機会が減るようになる。

セレッソ大阪

2006年8月、出場機会をめてセレッソ大阪へ期限付き移籍。当時J1リーグ最下位で降格の危機に直面していたチーム救世主として期待される。名波加入によってチームは盛り返すようになったが、結局セレッソはこの年J2リーグ降格となる。

東京ヴェルディ

2007年にはラモス瑠偉監督からの誘いもあり、J2リーグ東京ヴェルディ1969へ期限付き移籍。しかし、慢性的な膝の怪によってコンディションが整わないため満足な出場機会を得ることができず。チームJ1復帰の標を果たせたが、名波はわずか17試合の出場に終わる。

ジュビロ磐田復帰

現役引退匂わせていたが、クラブからの要請もあって2008年ジュビロ磐田へ復帰。だが、低迷するチームになることはできず、この年の11月12日に現役引退を表明する。

日本代表

順天堂大学在学中にバルセロナオリンピック出場をU-23日本代表に選出。1992年アジア最終予選では3試合に途中出場するが、チームは敗退している。

1995年プロ1年ながらも加茂監督から日本代表に選出される。8月6日コスタリカ戦でスタメンとして出場し、A代表デビューを飾ると、この試合で初ゴールマーク。さらに2試合となったサウジアラビア戦でもゴールを決めると、加茂監督からの信頼を得て、代表のに定着する。

1996年になると背番号10を託され、攻撃の中心としての役割を任される。当初は所属クラブと同じ攻撃的MFとしてプレーするが、アトランタオリンピック後に前園真聖中田英寿が代表に入ってきてからは視野の広さ、冷静な判断、展開を買われ、一列下がったボランチにコンバートされる。

1997年1998 FIFAワールドカップ アジア予選では急成長を遂げる中田と共に中盤でゲームメイクを担当。最終予選では第3戦となったホーム韓国戦でからの底したマークによって封じ込まれ、チームは逆転負け。10番を背負う名波に対し、メディアからは「10番失格」という辛辣な批判が寄せられる。その後、加茂監督更迭され、岡田武史コーチ監督に昇格。自身の調子も上がらず、予選敗退の危機に直面したこともあり、名波には不要論さえ囁かれていた。迎えたアウェイでの韓国戦、負ければ敗退が決まる中、名波は左サイド相馬直樹と見事な連携を披露し、復活。後半にはチームの2点も決め、勝利に大きく貢献。あれだけ批判していたメディアも手のひらを返し、名波を絶賛する。その後も最後まで最終予選を戦い抜き、日本ワールドカップ初出場の悲願達成に貢献する。

1998 FIFAワールドカップ フランス大会でも10番を付けて出場。初戦のアルゼンチン戦では自身のボールロストからガブリエル・バティストゥータの決勝ゴールを許してしまう。その後、第2戦と第3戦と全試合にフル出場したものの、チームは3戦全敗に終わる。

岡田監督の後任となったフィリップ・トルシエ監督からも代表に呼ばれ、中田が不在だった1999年コパ・アメリカ1999ではトップ下を任されるが、チームは惨敗。プレーの精を欠いたこともあり、トルシエ監督からは「名波は一生リーダーになれない選手」との場で批判される。

それでも、イタリアでの挑戦が失敗に終わった2000年AFCアジアカップ2000で代表に復帰。シドニーオリンピック世代の若いメンバーが多く入って来た中、ベテランとしてチームを牽引。初戦となったサウジアラビア戦では、代表では3年ぶりとなるゴールを決める。準々決勝のイラク戦では、代表では初となる1試合2ゴールの大活躍を披露する。この大会は代表キャリアでもっともいた時期と言え、左サイドで起用された中村俊輔ポジションを入れ替えながら円熟味のあるゲームメイクチームオーガナイズムする。圧倒的な攻撃を発揮した日本は二度アジアカップ優勝を果たし、攻撃の中心となっていた名波は大会の最優秀選手に選出。コパ・アメリカで名波を酷評したトルシエも称賛を惜しまなかった。

ところが、2001年に入って右膝半月の負傷によって長期離脱。10月欧州遠征メンバーに帯同するも、怪を再発させてしまう。結局、2002 FIFAワールドカップメンバーからは外れてしまう(後に、当時代表監督トルシエは雑誌のインタビューに、ケガがなければ絶対に呼んでいたと話している)。

ジーコジャパン最初の試合に召集されるも、「自分の右膝は際試合にはとてもついていけない」とジーコ監督に告げ、代表を引退クラブでの試合に専念する。

国際Aマッチ 67試合 9得点(1995-2001) 

現役時代の個人成績

シーズン クラブ リーグ 試合 得点
1995 ジュビロ磐田 Jリーグ 51 3
1996 ジュビロ磐田 Jリーグ 30 3
1997 ジュビロ磐田 Jリーグ 21 5
1998 ジュビロ磐田 Jリーグ 33 7
1999 ジュビロ磐田 J1リーグ 15 4
1999-00 ヴェネツィア セリエA 24 1
2000 ジュビロ磐田 J1リーグ 5 1
2001 ジュビロ磐田 J1リーグ 17 1
2002 ジュビロ磐田 J1リーグ 24 1
2003 ジュビロ磐田 J1リーグ 27 3
2004 ジュビロ磐田 J1リーグ 29 3
2005 ジュビロ磐田 J1リーグ 26 1
2006 ジュビロ磐田 J1リーグ 10 0
セレッソ大阪(loan) J1リーグ 13 2
2007 東京ヴェルディ(loan) J2リーグ 17 0
2008 ジュビロ磐田 J1リーグ 13 0

個人タイトル

引退後の経歴

引退後はジュビロ磐田クラブドバイザーに就任。2009年4月5日より、テレビ朝日サッカー情報番組『やべっちF.C.』のレギュラーになる。この頃から解説者として活動するようになり、テレビ朝日系列スカパー解説者として活躍。テレビ朝日日本代表戦ではピッチレポーターとして解説をし、放送席で解説を務める松木安太郎セルジオ越後は「居酒屋実況」と呼ばれるほど奮するとを忘れてしまうことが非常に多くなるため、ピッチから冷静かつ的確に解説を行う名波の存在が欠かせないものとなっていた。

2010年1月10日には「ミスターレフティ メモリアルマッチ」と題した盛大な引退試合が開催され、三浦知良中田英寿中山雅史高原直泰といったジュビロ磐田や代表で共に戦ったメンバーが集結。また、名波と交の深いMr.Children桜井和寿ナインティナイン矢部浩之、ペナルティ脇田寧人、土田晃之といった著名人も試合に出場している。

指導者としての経歴

ジュビロ磐田

2014年9月25日シーズン途中にジュビロ磐田監督に就任し、導者としてのキャリアスタート。当時J2リーグに降格し、失速していたチームの立て直しを任され、J1昇格プレーオフ圏の4位にまで入るが、プレーオフ準決勝でモンテディオ山形に敗れ、1年での昇格を逃す。

2015年は新加入のジェイやアダイトンGKのカミンスキーといった外国人選手の活躍や若手の小林希、川辺駿の飛躍もあり、11月24日に行われたJ2最終節大分トリニータ戦に勝利し、アビスパ福岡と勝ち点82と並んだが得失点差で2位となり3年ぶりのJ1復帰が決定する。

2016年1stステージは8位とまずまずの成績を残すが、2ndステージでは開幕から9試合未勝利で低迷。最終節まで残留争いに加わることになるが、何とか13位でシーズンを終え、最低標だったJ1残留を果たす。2017年元日本代表の中村俊輔又堅が加入。すでにピークは過ぎたと見られていた二人だったが、中村俊輔は攻撃の中心として機し、又も14ゴールを決め復活。14節から19節まで6連勝を記録し、ACL出場争いに加わる。当初の予想を大きく上回り、年間6位とここ10年では最高の成績を残す。

2018年シーズンは、前年の結果以上の「トップ5」を標にスタートしたが、アダイトンムサエフの長期離脱や前年セットプレーからの得点に多く貢献した中村俊輔の怪などがし、昨シーズン得点50点だったものが、35点とリーグワースト2位の得点にまで低下。期待されたギレルメは横浜F・マリノス戦で相手選手とスタッフ暴力を振るうという愚行を働き、5月契約解除となる。深刻な得点不足に苦しむチームは大きく低迷。起爆剤としてシーズン途中に大久保嘉人が加入するも調子は上がらず。16位でシーズンを終え、J1参入プレーオフに回ることに。ここで東京ヴェルディ勝利し、辛くもJ1残留を果たす。
だが、名波監督の采配の引き出しのさに対してファンメディアから懐疑的なも聞こえるようになり、自身も限界を感じて辞任するつもりでいた。しかし、磐田社長木村と強化本部長服部の慰留を受け、続投を決意。このとき、おっさん三人でながらにり合ったというエピソードが残されている。

2019年シーズンも第16節終了時点でチームリーグ17位と低迷。6月30日に行われた第17節の川崎フロンターレ戦で敗れた後、自らけじめをつけるためサポーターのもとへ行き、磐田のコールリーダーに辞任する旨を伝え、試合後の会見で監督を辞任することを発表する。

松本山雅

磐田の監督を辞任後、2年ほど現場から離れ、解説者に戻っていたが、2021年6月21日J2リーグ松本山雅FC監督に就任。伊藤翔など実績あるストライカーの補強などで辣腕を振るうが、チームを立て直せず松本J3リーグ降格という最悪の結果に終わる。ちなみに名波就任後の成績は就任前よりも悪化していた。

2022年松本山雅監督を任されるが、勝てばJ2昇格圏内の2位に浮上するという試合でことごとく勝ち点を落とした上、下位チームを相手にした時の勝点の取りこぼしが多かったことも大きくき、最終順位は4位で終了。1年でのJ2復帰はならなかった。自身も新型コロナウィルスに感染し、揮を執れない時期もあった。シーズン終了後に退任。

日本代表コーチ

2023年1月より、森保一監督率いる日本代表コーチに就任。ジュビロ磐田時代に選手・監督の両方で一緒だった前田遼一コーチとして入閣している。第二期JAPANで偽のサイドバックが導入されているのは名波の発案と言われている。

監督としての成績

シーズン クラブ リーグ 順位 獲得タイトル
2014 ジュビロ磐田 J2リーグ 4位※1
2015 ジュビロ磐田 J2リーグ 2位
2016 ジュビロ磐田 J1リーグ 13位
2017 ジュビロ磐田 J1リーグ 6位
2018 ジュビロ磐田 J1リーグ 16位
2019 ジュビロ磐田 J1リーグ -※2
2021 松本山雅 J2リーグ 22位※1
2022 松本山雅 J3リーグ 4位※1

プレースタイル

自ら「右足はつっかえ棒」と言する程、ほとんど右足は使わずに左足のみでプレー完結するのが特徴。右サイドに流れたときですら右足は使わず、理な体勢からでも左足でクロスを上げていた。

その左足から放たれる長短織り交ぜた正確なキックゲームメイクするタイプMF高校大学ジュビロ入団当初まではトップ下でプレーしていたが、日本代表加茂監督に展開と守備への適性を買われ、ボランチへコンバートされる。以後、代表やドゥンガ退団後の磐田では中盤の底に位置して、ゲームの流れをコントロールする役割を果たした。

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