前田遼一(まえだ りょういち、1981年10月9日 - )とは、日本の元サッカー選手、指導者である。
現役時代のポジションはFW。183cm78kg。利き足は右足。
兵庫県・神戸市出身。Jリーグ通算177ゴールを記録した日本を代表するストライカーであり、2009年と2010年にはJ1リーグで2年連続での得点王に輝いている。プロ入りから14年間ジュビロ磐田でプレーし、黄金期の後の時代のエースとして活躍。
183cmの身長もあり、頭・右足・左足・どこからでもゴールを決めることができる。「フォワードはボールがないときの動きがすべて」と語り、オフザボールの動き、献身的な守備などが評価され、元々がトップ下の選手だけあって足元の技術も高い。
日本代表には2006年に選出されたのが最初である。日本代表でも基本的にフォワード、ザック体制下では主に1トップで出場している。2011年のAFCアジアカップでは日本の4度目の優勝に大きく貢献していたが、その後不調に陥ったことでFIFAワールドカップ出場は果たせなかった。
現役引退後は指導者となり、2023年より日本代表のコーチに就任し、第二次森保JAPANを支えている。
1981年10月9日、兵庫県神戸市で生まれる。1歳のときにアメリカへ移住し、小学校1年生までの6年間をロサンゼルスで過ごしている。小学2年生のときに日本へ帰国し、東京都の小学校に通うが、小学3年生のときに横浜市の小学校に転校しており、現在も実家は横浜市にある。2歳年上の兄の影響でサッカーを始め、小学3年生の頃から本格的に取り組むようになった。
暁星高校への進学を決め、中学校は暁星中学校へ進学。この頃から頭角を現し始め、東京都選抜やナショナルトレセンに選出。中学時代はDFも含めていろいろなポジションを経験している。
高校生になり、暁星高校へ進学。1年生の頃から試合に出場しており、2年生のときには国体の東京都選抜に選ばれ、帝京高校に在籍していた田中達也と共にベスト8入りしている。3年生のときにはキャプテンを任されたが、全国高校選手権には一度も出場できなかった。それでも、高校在学中にヴェルディ川崎の強化指定選手に登録されるなど、プロから注目される逸材として評価されていた。卒業後、慶応義塾大学への進学が決まっていたが、高校の監督の薦めもあってプロ入りを決断。
2000年、J1リーグのジュビロ磐田に入団。入団当初は攻撃的MFだったが、当時の磐田は二列目に多くのタレントが揃っていたことからユース代表でも務めていたFWがメインポジションになる。5月3日、J1リーグ1stステージ第10節川崎フロンターレ戦で後半39分から出場し、Jリーグデビューを果たす。しかし、プロ1年目はこの試合のみの出場となった。
2001年も層の厚い磐田でなかなか出場のチャンスを得られなかったが、8月28日のナビスコカップ準々決勝第2戦ジェフユナイテッド市原戦でプロ初ゴールを記録。9月1日、J1リーグ2ndステージ第1節清水エスパルス戦で公式戦2試合連続となるJリーグ初ゴールを決める。その後、スタメンで起用されることもあったが、リーグ戦9試合2ゴールに終わる。
2002年もFWの序列で5番手という厳しい立場にあった。さらにこの年に右膝外側半月板縦断裂の重傷を負い、長期離脱を経験。リーグ戦4試合ノーゴールに終わる。
プロ4年目となった2003年シーズンは3月8日ナビスコカップ予選第1節浦和レッズ戦で公式戦2年ぶりとなるゴールを決める。シーズン後半戦になると高原直泰の海外移籍に加え、中山雅史が恥骨結合炎により欠場したことによって2トップの一角として起用されるようになり、9月には4試合で3ゴールを記録するなど結果を残し始める。リーグ戦では28試合7ゴールとこれまでよりも飛躍し、ナビスコカップでは9試合5ゴールという成績を残す。2004年元旦の天皇杯決勝セレッソ大阪戦ではロドリゴ・グラウの決勝ゴールをアシストし、タイトル獲得に貢献。
2004年シーズンは4月頃からレギュラーに定着するようになり、安定して試合に出場するようになる。6月には5試合で3ゴールを決めるなど、好調さを見せる。9月18日の2ndステージ第5節鹿島アントラーズ戦では前半にゴールを決めるが、後半に2枚目のイエローカードを貰い、プロ初の退場となる。終盤戦はゴールから遠ざかったが、精力的な動きでポテンシャルを見せ、前年を上回るリーグ戦8ゴールを記録。
2005年は開幕からノーゴールが続いていたが、4月28日、第8節浦和戦でのシーズン初ゴールを皮切りに3試合連続ゴールを決め、調子を上げる。7月9日、第15節セレッソ大阪戦ではプロになって初めてとなるハットトリックを記録。7月17日の第18節東京ヴェルディ戦でも2ゴールを決める。9月3日、第22節大分トリニータ戦でゴールを決めたことでキャリア初のシーズン二桁得点を達成。その後怪我で1か月ほど離脱したものの25試合12得点とストライカーとして合格点の成績を残す。
2006年も初ゴールは開幕から10試合目のヴァンフォーレ甲府戦とスロースターターとなるが、尻上がりに調子を上げる。7月12日の第11節ガンバ大阪戦でJ1通算100試合出場を達成。黄金期のメンバーに衰えが見える中でチームを引っ張る中堅という立場となり、9月9日のアルビレックス新潟戦で2ゴールを決めると、ここから5試合連続ゴールをマークするなどゴールを量産。最終的に自己ベストを上回る15ゴールを記録。
2007年は右膝半月板損傷によって出遅れるが、5月下旬に復帰後の5試合で5ゴールを決めるなど攻撃の大黒柱として高レベルのプレーを見せる。また、この年からいわゆる「デスゴール」のジンクスが始まり、初ゴールの相手となったヴァンフォーレ甲府は降格している。このシーズンは22試合と出場試合数は少なかったが、3年連続二桁得点となる12ゴールを決める。
2008年はまたも半月板損傷によって序盤を欠場し、復帰したのは5月に入ってからだった。復帰後はコンディションが回復せず、シーズン初ゴールは7月26日の東京ヴェルディ戦だった。エースの前田の不調が響いた磐田はJ2降格の危機に直面するほど低迷するが、10月5日の第28節コンサドーレ札幌戦で3年ぶりとなるハットトリックを達成。チームは最終的にJ1・J2入れ替え戦でベガルタ仙台相手に勝利し、辛うじてJ1残留を果たす。
2009年は久々に開幕からピッチに立つが、スロースターターなのは相変わらずで初ゴールを決めたのは4月11日の第5節ジェフユナイテッド千葉戦だった。ここから例年通りゴールを量産するようになり、6月に5試合で3ゴール、7月は4試合4ゴール、8月も4試合4ゴールと夏場に固め取りする。10月25日の第25節名古屋グランパス戦では自身3度目となるハットトリックを記録。11月21日第32節浦和戦で2ゴールを決め、キャリア初のシーズン20ゴールの大台に到達。このシーズンはキャリア初の全試合フル出場を果たしたことで怪我が多いというイメージを払しょくし、初のJ1リーグ得点王とベストイレブンのタイトルを獲得。
2010年は3月20日のJ1第3節アビスパ福岡戦でJ1リーグ200試合出場を達成。3月27日の第4節京都サンガ戦が犠牲者でシーズン初ゴールを決める。11月27日、J1第33節名古屋戦でヘディングシュートを決め、史上最年少でのJ1通算100ゴールを達成。積極的にプレスを掛け、味方のスペースを作る動きと正確なトラップ、懐の深いポストプレーで確実にボールを繋ぐ多様な働きに加え、通年での活躍によって前年より減ったもののシーズン通算17ゴールを記録。ジョシュア・ケネディと同点ながら2年連続でのJ1リーグ得点王のタイトルと2年連続でベストイレブンに選出。また、11月3日のナビスコカップ決勝サンフレッチェ広島戦では120分間を戦い抜き、2ゴール1アシストの大活躍で磐田に久々となるタイトルをもたらす。さらに大会の最優秀選手にも選出されている。
2011年シーズンの最初のゴールは5月7日のモンテディオ山形戦の2ゴールとなる。その後もコンスタントにゴールを決めていたが、7月に負傷によって1か月ほど戦線を離脱。復帰後は9試合で6ゴールを決めるなど、好調さを維持し最終的に14ゴールを記録するが、3年連続の得点王を逃す。シーズンオフにイングランド2部のウェストハムからオファーを受け度英しメディカルチェックまで受けるが、就労ビザがネックとなって移籍は実現せず、磐田に残留することとなる。
2012年は3月25日のJ1第3節ガンバ大阪戦がリーグ戦での初ゴールとなる。この年は1トップとして起用され、相手からのマークが厳しくなる中でつぶれ役としても奮闘していたが、9月に入ってから調子を落とし9試合ノーゴールとなる。最終節で1ゴール1アシストを記録し最終的に13ゴールでシーズンを終える。なお、リーグ戦初ゴールの相手となったG大阪がまさかのJ2降格となったことでデスゴールのジンクスがこれまで以上に注目されるようになる。
2013年はこれまでホットラインを築いていた駒野友一の移籍に加え、デスゴールのジンクスが一般メディアにまで騒がれるようになった影響で調子を落としてしまう。チーム状態の悪さもあって負担が増え、得点チャンスが大きく減ってしまう。怪我による離脱もあり、22試合8ゴールという不本意な結果となる。この年リーグ戦初ゴールを記録した浦和が降格しなかったことでデスゴールのジンクスはここで終えるが、磐田が17位となりJ2リーグ降格が決定する。
J2降格となったことでJ1クラブへの移籍の話も浮上したが、2014年も磐田でプレーすることになる。初のJ2でもゴールを量産し、エースとしてチームを牽引。シーズン後半に名波浩監督が就任すると第34節愛媛FC戦からはチームキャプテンに任命される。チームトップの17ゴールを記録するなど奮闘したが、チームはJ1昇格プレーオフで山形相手に敗退。オフにクラブから大幅な減俸を提示されたことでJ1クラブへの移籍を希望し、14年間を過ごした磐田を退団する。
2015年シーズンにJ1リーグのFC東京に完全移籍。シーズン前半戦はマッシモ・フィッカデンティ監督の戦術にフィットできず、武藤嘉紀が好調だったこともあってスタメンを外れることが多かった。6月27日のJ1リーグ1stステージ第17節清水戦で2ゴールを決め、移籍後初ゴールを記録してからは復調し、レギュラーに固定されるようになる。9月12日の2ndステージ第10節ヴィッセル神戸戦では6年ぶりとなるハットトリックを記録。苦しいシーズンとなったが最終的に9ゴールという成績となる。
2016年は開幕からレギュラーとしてコンスタントに出場。AFCチャンピオンズリーグではグループステージ第6節ビンズオン戦での2ゴールによりチームの決勝トーナメント進出を決める活躍を見せる。以前のような得点力は見られなくなったものの、味方の攻め上がりを促すポストワークも健在で、チームトップクラスの走行距離を記録し、シーズンでの敵陣における空中戦勝率で日本人最高値を記録するなどチームを助けていた。8月13日、2nd第8節神戸戦で史上5人目となるJ1通算150ゴールを達成。
2017年は大久保嘉人やピーター・ウタカらの加入によって出場機会が減ってしまう。8月9日、J1第21節大宮アルディージャでJ1通算400試合出場を達成。、シーズン通してレギュラーを獲得出来ず、J3リーグに所属するFC東京U-23の試合に出場する事もあり、リーグ戦では26試合1得点に終わる。
2018年は開幕から3試合はスタメンで起用されたが、その後はディエゴ・オリヴェイラ、永井謙佑の控えに回ることが多く、9月にはJ3リーグのFC東京U-23で4試合に出場することになる。12月1日の最終節浦和戦でゴールを決め、Jリーグでの15年連続得点記録を辛うじて維持したが、シーズン終了後に戦力外通告を受けて退団となる。
2019年1月13日、J2リーグのFC岐阜に移籍することが発表される。5月5日、J2第13節FC琉球戦で移籍後初ゴールを決めると、続く第14節ツエーゲン金沢戦で2試合連続ゴールとなる2ゴールを決める。シーズン前半戦は途中出場がほとんどだったが、後半戦になるとスタメンで出場することが増える。9月14日第32節ファジアーノ岡山戦でJリーグ通算500試合出場を達成。34試合5得点という成績を残すが、チームはJ2リーグ22位と低迷し、J3リーグ降格となる。
2020年シーズンはスタメンで起用される機会もそこそこあったが、11月4日のJ3第25節Y.S.C.C.横浜戦のゴールがこのシーズンでの唯一のゴールとなった。シーズン終了後、契約満了により退団。その後、JFLのクラブからオファーも受けたが、2021年1月14日に現役引退を表明。
暁星高校時代の1999年よりU-18日本代表に選出。2000年にはU-19日本代表として11月にイランで開催されたAFCユース選手権2000に出場。FWとして1ゴールのみながらも柔軟なボールコントロールと閃きでチャンスを作って3アシストを記録し、準優勝に貢献。大会のMVPに選出され、この年のアジア年間最優秀ユース選手賞に選出される。2001年6月にはアルゼンチンで開催されたFIFAワールドユース選手権2001にU-20日本代表として出場。全試合にスタメンで出場したが、グループリーグ敗退に終わっている。
U-20代表での活躍が評価され、2001年10月にフィリップ・トルシエ監督率いるフル代表の候補合宿に初めて選出される。
その後は山本昌邦監督率いるアテネオリンピック代表に選出。2004年3月にはアテネオリンピックアジア最終予選にU-23日本代表として出場。おもに攻撃的MFとして起用されたが、本大会のメンバーからは外れている。
ジーコ監督率いる日本代表では一度も選出されなかったが、2006年10月にイビチャ・オシム監督によって初めて日本代表に招集され、2007年8月22日のカメルーン戦で日本代表デビューを果たす。オシム監督にとって最後の試合となった10月17日のエジプト戦でスタメンに起用され、代表初ゴールを決める。
2008年に岡田武史監督が就任してからはたびたび代表に呼ばれていたものの、Jリーグ得点王に輝いた時期でありながらもコンディション不良や監督が求める1トップ像にマッチしなかったことから定着できず、2010 FIFAワールドカップの予備登録止まりで本大会のメンバーからは外れている。
2010年10月にアルベルト・ザッケローニが監督に就任してから代表に定着。2011年1月にカタールで開催されたAFCアジアカップ2011では1トップのレギュラーとして全試合に出場。巧みなポストプレーと気の利いた動き出しで二列目の本田圭佑や香川真司、岡崎慎司らにスペースを与える交通整理の役割がハマり、グループリーグ第3戦のサウジアラビア戦で2ゴールを決め、準決勝の韓国戦では同点ゴールを決めるなど日本の4度目の優勝に貢献する。
その後もザックJAPANの1トップのファーストチョイスとして起用され続け、2012年6月からの2010 FIFAワールドカップアジア最終予選では全試合に出場。二列目との好連携で攻撃のリズムを作り出し、初戦のオマーン戦、第2戦のヨルダン戦で2試合連続ゴールを記録、第4戦のイラク戦でもゴールを決め、日本の首位での最終予選突破に貢献する。2013年6月からのFIFAコンフェデレーションズカップ2013でも3試合全てに出場し、イタリア戦ではアンドレア・ピルロを抑え込んだ守備が評価されるなど本大会でのメンバー入りは確実なものと思われた。
ところが、2013年後半から怪我やチームの不振によって調子を大きく落としたことで代表から遠ざかり、その間に柿谷曜一朗や大迫勇也が台頭。ワールドカップイヤーの2014年には所属するジュビロ磐田がJ2に降格したこともあり、2014 FIFAワールドカップの本大会メンバーから外れる。
| シーズン | 国 | クラブ | リーグ | 試合 | 得点 |
|---|---|---|---|---|---|
| 2000 | ジュビロ磐田 | J1リーグ | 1 | 0 | |
| 2001 | ジュビロ磐田 | J1リーグ | 9 | 2 | |
| 2002 | ジュビロ磐田 | J1リーグ | 4 | 0 | |
| 2003 | ジュビロ磐田 | J1リーグ | 28 | 7 | |
| 2004 | ジュビロ磐田 | J1リーグ | 27 | 8 | |
| 2005 | ジュビロ磐田 | J1リーグ | 25 | 12 | |
| 2006 | ジュビロ磐田 | J1リーグ | 27 | 15 | |
| 2007 | ジュビロ磐田 | J1リーグ | 22 | 12 | |
| 2008 | ジュビロ磐田 | J1リーグ | 22 | 8 | |
| 2009 | ジュビロ磐田 | J1リーグ | 34 | 20 | |
| 2010 | ジュビロ磐田 | J1リーグ | 33 | 17 | |
| 2011 | ジュビロ磐田 | J1リーグ | 28 | 14 | |
| 2012 | ジュビロ磐田 | J1リーグ | 33 | 13 | |
| 2013 | ジュビロ磐田 | J1リーグ | 33 | 9 | |
| 2014 | ジュビロ磐田 | J2リーグ | 37 | 17 | |
| 2015 | FC東京 | J1リーグ | 30 | 9 | |
| 2016 | FC東京 | J1リーグ | 29 | 6 | |
| 2017 | FC東京 | J1リーグ | 26 | 1 | |
| FC東京U-23 | J3リーグ | 2 | 0 | ||
| 2018 | FC東京 | J1リーグ | 18 | 1 | |
| FC東京U-23 | J3リーグ | 8 | 3 | ||
| 2019 | FC岐阜 | J2リーグ | 34 | 5 | |
| 2020 | FC岐阜 | J3リーグ | 25 | 1 |
現役引退発表と同時に2021年シーズンより古巣であるジュビロ磐田U-18のコーチに就任することが発表され、指導者としてのキャリアをスタートさせる。
2022年にはジュビロ磐田U-18の監督に就任。1年後に高校生ながらトップチームに昇格した後藤啓介を指導している。
2023年1月17日、名波浩と共に日本代表コーチに就任することが発表される。
2007年以降、前田がシーズン最初のゴールを決めた相手がもれなくJ1から降格していることから、ネット上では死刑執行人、死神、アサシン前田等と呼ばれることがある。この初得点は通称「デスゴール」と呼ばれ、これでJ2に降格にしたチームは少なくとも2年はJ2で苦しむという傾向にある。ナビスコカップはカウントされず、PKでのゴールも有効。
| シーズン | 初得点試合 | 相手 | 順位 | 降格チームのその後 |
|---|---|---|---|---|
| 2007年 | 第14節 | ヴァンフォーレ甲府 | 17位降格 | 降格から3年後の2010年にJ1昇格 |
| 2008年 | 第19節 | 東京ヴェルディ | 17位降格 | 降格から16年間J2に在籍 |
| 2009年 | 第5節 | ジェフ千葉 | 18位降格 | 降格から15年以上J2沼に浸かる |
| 2010年 | 第4節 | 京都サンガ | 17位降格 | 降格から12年間J2に在籍 |
| 2011年 | 第10節 | モンテディオ山形 | 18位降格 | 降格から3年後の2014年に昇格 |
| 2012年 | 第3節 | ガンバ大阪 | 17位降格 | 3試合を残し2位以内が確定、1年でのJ1復帰を果たす。 |
| 2013年 | 第5節 | 浦和レッズ | 6位残留 | ― |
特に2012年シーズンでは対象が前シーズン3位のガンバ大阪であっただけに、シーズン途中からNHKや民法各局でもこのジンクスについて報道され大きな注目を集めた。そして最終節で前田擁する磐田に敗れたガンバはクラブ史上初の降格が決定、「前田伝説」は途切れずガンバをはじめ多くのJリーグサポーターを震撼させた。
ところが、あまりにこのジンクスが有名になりすぎたあまり、2013年シーズンはシーズン開幕当初から報道が過熱し、たまりかねたクラブが自粛を呼びかけたほどだった。この年は浦和レッズ相手に初ゴールを挙げたものの、チームは試合終盤の失点がかさみ勝ち点を伸ばせない。前田も9得点に終わり、2桁得点が4年連続で途切れてしまった。結局、ジュビロ磐田が早々に初のJ2降格が決まってしまい、一方の浦和レッズは終盤まで優勝争いに絡んで悠々とJ1残留を決めている。
こうして、「デスゴール」のジンクスはひとまず終焉を迎えた。中には今までの呪いが自分たちに帰ってきた……と見る向きもあるようだが。
その後のシーズンはどうなったかというと、2014年の初ゴールはカマタマーレ讃岐であったが、讃岐はJ2・J3入れ替え戦を戦うことになったがAC長野パルセイロに勝利して残留。2015年は上記のとおりFC東京に移籍したのだが、その時の初ゴールは浦和であった。その浦和は1stステージ優勝、年間2位でチャンピオンシップへの出場を決めており、どうやら完全に「デスゴール」ジンクスは消滅したようである(FC東京も年間4位で降格とは無関係の安全圏である)。
なお、2006年の初ゴールは第10節のヴァンフォーレ甲府であった。この年の甲府は15位で残留を決めている。
若手時代はFWと攻撃的MFを兼任していたが、ジュビロ磐田で主力に定着してからはFWに固定され、オールラウンドな能力を持つ技巧派のストライカーとなり、派手さはないものの、極めて効率的でクレバーな動きを得意とする玄人受けする選手であった。
運動量が多く、ゴール前での嗅覚やポジショニングに優れ、相手を惹きつけないように動いて危険なエリアにいつの間にか現れるタイプであり、献身的なポストプレーやチームプレーを重視し、豊富なサッカーIQとデータ分析能力を活かした戦術理解度も特徴的だった。
滞空時間の長いヘッド、正確な両足のシュート、そしてパスを引き出す能力は当時の日本人FWの中ではトップクラスであり、激しいマークを受けても一瞬のスピードで交わし、自身でゴールを奪うだけでなく2列目からの飛び出しに絶妙に合わせ、精度の高いポストプレーで数々によってチャンスメーカーとしても高く評価された。
ストライカーでありながらエゴが少ない選手であり、自分のゴールよりもチームプレーを優先させ、代表に定着していた時期もチーム戦術を理解したうえでチームプレーに徹し、当時勢いのあった本田圭佑や香川真司のポテンシャルを活かすことを考えていた。また、守備でも手を抜かずに献身的に相手にプレッシャーをかけ続けていた。
メディアやファンからは「力強さが足りない」と指摘されており、相手DFを強引にこじ開けたり、1人でゴールを決め切るようなプレーは得意としていなかった。
を受賞掲示板
53 ななしのよっしん
2014/07/13(日) 01:47:14 ID: MlV36sHi2x
W杯で日本が敗れてからザックジャパンの4年間を振り返ると、この人があの戦術の1トップに一番適してたんだなぁ、と思う。
ボール持ってない時の動きや守備意識など、凄く気の利く選手だった。大迫・柿谷・大久保の方が前への推進力はあっても、この点は誰も持ってなかった。
もう2年若ければ、とないものねだりをしてしまう。 長文失礼。
54 ななしのよっしん
2015/05/03(日) 22:44:05 ID: TPqzFT1++L
55 磐田
2022/08/28(日) 13:28:55 ID: Bliz4oC83h
現役復帰しねぇかな…
急上昇ワード改
最終更新:2025/12/16(火) 10:00
最終更新:2025/12/16(火) 10:00
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