三浦知良 単語

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ミウラカズヨシ

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三浦知良(みうら かずよし)1967年2月26日-)とは、日本サッカー選手である。
ポルトガルリーガポルトガル2のUDオリヴェイレンセ所属。元サッカー日本代表

称は「カズKAZU)」、「キングカズ」。一般メディアでもカズという称で呼ばれることが多い。

概要

UDオリヴェイレン#11
三浦知良
基本情報
日本
出身地 静岡県静岡市
生年 1967年2月26日
身長
体重
177cm
72kg
選手情報
利き足 右足
ポジション FW
プロ入り 1986年
学歴
所属クラブ
サッカー選手テンプレート

静岡県静岡市出身。1990年代日本サッカーを引っったサッカー選手ポジションはFW。若い頃のポジションウィング、その後センターフォワードポジションを移した。

16歳のときに単身ブラジルへ渡りプロとなり、帰した1990年代以降はスター選手としてJリーグ誕生で空前ブームを起こした日本サッカー界を牽引する存在となり、ラモス瑠偉武田修宏北澤豪らと共にヴェルディ川崎黄金期を築いている。1994年にはアジア人として初めて世界最高峰のリーグと呼ばれたイタリアセリエAプレーしている。

サッカー日本代表としても長年エースとして活躍。1992年ダイナティカップ優勝AFCアジアカップ優勝に貢献し、日本サッカーの顔となる。しかし、でもあったFIFAワールドカップとは縁がく、1994年大会では後にドーハの悲劇と呼ばれるロスタイムでの失点によって後一歩で出場権を逃し、1998年大会では本大会直前のスイス合宿で落選となる。

2012年にはフットサル日本代表として、フットサルワールドカップに出場。

Jリーグ初年度の1993年には初代のJリーグ最優秀選手賞を受賞。1996年にはJリーグ得点王にいている。日本代表としては、通算55得点記録しており、釜本邦茂に次ぐ歴代2位記録を持っている。1993年には、アジア年間最優秀選手賞を受賞。

50歳を越えてなお現役であり、54歳にして日本トップリーグであるJ1リーグに出場し、Jリーグの最年長出場記録立。2017年J2リーグでは50歳14日でのゴールを決めており、公式戦における世界最高齢でのゴール記録立している。

プロとしてサッカーへ取り組むストイックな姿勢を評価するコーチが多い。また後輩ファンへの面倒見の良さでも知られ、後に海外トップリーグで活躍する選手たちにもを与えている。ピッチ外でもスター選手として振る舞うことを意識しており、映画ゴッドファーザー」のを受けたファッション面も注を集めている。

1歳年上の三浦泰年も元サッカー選手であり、元日本代表。読売クラブヴェルディ川崎や代表で一緒にプレーしたこともある。また、2022年に移籍した鈴鹿ポイントゲッターズ監督を務めている。

夫人はタレントモデル三浦りさ子(旧姓 設楽りさ子)。長男俳優三浦獠太、次男は格闘三浦孝太。

背番号「11」が代名詞となっており、練習用のビブスでも11番をつけるほどの強い着とこだわりを持っている。ゴールパフォーマンスであるブラジルサンバオリジナルアレンジした「カズダンス」は有名で、後に真似をした選手もいるほど。サッカー関連のゲームにおいても、カズダンスが反映されている。

サッカー日本においてメジャースポーツに押し上げた火付け役であり、功労者でもある。

経歴

生い立ち

戚も含めてサッカー好きで、サッカーに関わる仕事をしているという環境で生まれたこともあり、の泰年と共に2歳の頃からサッカーボールを蹴り始めている。

小学校入学してからは方の叔父監督を務めていたFCに入り、サッカー漬けの毎日を過ごしていた。小学4年生のときに父親が2度逮捕をされたことがきっかけで両離婚。以降は母親の姓である「三浦」を名乗るようになる。この頃から将来はプロサッカー選手になることを見ていたものの、当時の日本にはプロサッカーリーグが存在せず、父親叔父もあってブラジルプロになることが標となっていった。

高校サッカーの名門校である静岡学園高校へ進学。しかし、テクニックは高かったものの体が小さかったことから評価は低く、1学年の修了を待たずに中退し、ブラジルプロサッカー選手すことを決断する。高校サッカーの名将として知られる井田勝通監督からも「99不可能だからやめておけ」と反対されたが、わずか8カ中退15歳にして後が人生の賭けに出る。

ブラジル時代

1982年に単身ブラジルに渡り、CAジュベントスのU-17チームに加入。しかし、そこで待っていたのは想像以上の洗礼だった。寮の環境は清潔なものではなく、寮生から所持品を盗まれたこともあった。最初は言葉も分からず、練習でも弱小国から来た小さな少年にパスが回ってくることがかった。孤独と周囲の偏見に苦しみながら、できることは死にもの狂いで練習に喰らいつくことだけだった。を諦めて日本へ帰することも検討したが、リオ公園で貧しい少年たちがサッカーをする姿を見て翻意している。

1984年ごろにキンゼ・デ・ジャウーのU-20チームへ移籍。当時のクラブ会長からプロになるために必死練習に打ち込む姿を見たことでカズのことを気に入り、息子のように可がっていた。また、この頃にはポルトガル語が話せるようになり、ブラジルでの生活染み始めたことで左ウイングの選手として頭を現すようになる。1985年8月にはキンゼ・デ・ジャウーの一員として日本に凱旋し、SBSカップに出場。中山雅史武田修宏のいた静岡県高校選抜と対戦している。11月には、ブラジルの若手の登竜門とも言うべきタッサ・サンパウロに出場。ここでの活躍が後のプロ契約に繋がっていく。

1986年2月24日、19歳の誕生日を迎える二日前に名門であるサントスFCプロ契約を交わす。4月19日、サンパウロ州選手権のジュベントス戦でスタメンに抜され公式戦にデビューするが、緊のあまりミスを連発する酷い出来で、チームメイトドゥンガから叱責されている。5月には短期の特別契約をSEパルメイラスと交わし、キリンカップ出場のため日本へ帰日本代表寺康が所属していたヴェルダー・ブレーメンと対戦。ブレーメン戦では1アシスト記録している。

ブラジルへ帰後、サントスに復帰したもののブラジル代表選手が多く所属するチーム満足な出場機会は得られず、公式戦の出場は2試合のみだった。そこで他チームでの武者修行を決意し、1986年10月南部パラナ州のSEマツバラへレンタル移籍。翌年2月には正式契約を交わすと、レギュラーを獲得。ウイングとしてドリブル突破を仕掛け、代名詞となった跨ぎフェイントと切り返しから決定機を作るスタイルから「日本ガリンシャ」と呼ばれるようになる。南部三州リーグ優勝に貢献し、パラナ州選手権でもゴールこそかったが縦に仕掛けてのクロスアシストを量産した。

1987年10月ブラジル北東部のCRBへ移籍し、日本人としては初めてブラジル選手権に出場。ここでも得意のドリブル突破によってチーム軸となり、チーム随一の人気者となる。1988年2月には、ユース時代に所属していたキンゼ・デ・ジャウーへ移籍。3月19日の全選手権第5節SCリンチャンス戦では、右からのクロスをヘディングで合わせたリーグ戦での初ゴールを含む1ゴール1アシストの活躍によって強相手のジャイアントキリングの立役者となる。この試合はブラジル全土にテレビ中継されており、カズ名前ブラジル中に知れわたり、ブラジルサッカー専門誌は左ウイングの年間3位に選出。このシーズンの活躍によって、ジャウーから名誉市民賞を贈られている。

1989年2月には、南部パラナ州のコリチーSCへ移籍。サントス、パルメイラス以外のこれまでの所属チームべて規模の大きいクラブだったが、ここでも中心選手となりパラナ州選手権優勝に貢献。この年の7月には、ブラジルへ遠征してきた日本代表との試合にも出場している。この頃は好調を維持しており、面下では当時イタリアセリエAに所属していたコモへの移籍話が浮上するほどだった。

1990年2月、古巣であるサントスFCと再び契約を交わす。プロになったばかりの4年前とは違ってレギュラーの地位を確保。そして、4月29日の宿敵パルメイラスとのダービーマッチでは1ゴール1アシストの活躍で勝利に貢献。この試合のMVPに選ばれ、翌週のブラジル最大のスポーツ雑誌「プラカール」の表となる。この年の7月日本への帰が決まると、ラストゲームではキャプテンマークを巻いて出場した。

読売クラブ/ヴェルディ川崎

1990年7月、次なる標である日本代表としてワールドカップに出場するという標を達成するためにJリーグ発足が着実に進む日本への帰を決意。日本サッカーリーグJSL)の読売クラブへ移籍する。10月28日NNK戦でリーグデビューを果たすと、PKでの初ゴールと3アシストという々しい活躍で周囲の期待に応える。読売が伝統的にブラジル式のスタイルを踏襲していることもあってフィットするようになり、1990-1991シーズンリーグ優勝に貢献し、リーグベストイレブンにも選ばれる。Jリーグ発足が正式に決まったため、最後となった1991-1992シーズンJSLではリーグ最優秀選手賞に選ばれる活躍を見せ、チームを連覇に導いている。

Jリーグ前年度であり、チーム名がヴェルディ川崎に変わった1992年Jリーグヤマザキナビスコカップからキャプテンに就任し、大会では予選リーグからゴールを量産。準決勝の鹿島アントラーズ戦、決勝の清水エスパルス戦では連続して決勝ゴールを決め、10試合10得点という荒稼ぎで優勝に貢献し、大会のMVP得点王を受賞。この年の日本年間最優秀選手賞も受賞し、開幕間近となり盛り上がりを見せるJリーグの顔として期待が集まる。

Jリーグスタートとなった1993年カズの他にもラモス瑠偉武田修宏北澤豪といったスターが集まったV川崎だったが、欧州路線を進めるチームスター選手の間で内紛が勃発。加えて日本代表の試合による過密日程ので自身も5月26日の第5節鹿島アントラーズ戦でようやくJリーグゴールが生まれるなど苦しみ、1stステージは期待外れの内容となる。しかし、ビスマルクの加入でストライカーとしての役割に集中するようになった2ndステージでは6試合連続ゴールを決めるなど、爆発12月7日浦和レッズ戦ではJリーグでは初めてハットトリック記録。これまでのチャンスメーカーからストライカーへとプレースタイルを変え始めたのもこの時期だった。2ndステージ18試合で15ゴールという大活躍でステージ優勝を勝ち取る。年間王者を決めるチャンピオンシップ鹿島戦でも2試合連続でゴールを決め、V川崎を初代のJリーグ王者へと導く。この功績が評価され、初代のJリーグ年間最優秀選手賞を受賞。また、この年は前年に続いて日本年間最優秀選手賞とアジア年間最優秀選手賞にも選ばれる。12月には世界選抜の一員としてACミランとのチャリティーマッチに出場し、ウーゴサンチェスゴールアシストしている。

1994年1stステージは前年の2ndステージを上回るハイペースゴールを量産し、22試合で16得点記録になると、当時世界最高峰のリーグだったイタリアセリエAへの移籍話が浮上。クラブ会社である読売新聞渡辺恒雄社長チームの顔を手放すつもりはなく猛反対するが、必死の説得によって1年間の期限付きという条件で移籍が認められる。

ジェノア

1994年イタリアセリエAジェノアCFCへの期限付き移籍が決まり、アジア人初のセリエAプレイヤーとなる。しかし、この移籍劇はジェノア側がジャパンマネーによる商業的な価値を期待したものであり、ユニフォームの胸ロゴ日本企業KENWOOD)が起用されたこともあり、入団会見では「スポンサーを得るために獲得したと言われているが、どう思うか?」などと辛辣な質問も浴びせられた。

プレシーズンでのアピールが成功したこともあり、1994-95セリエA開幕戦でスタメンを獲得。当時世界最強軍団と呼ばれたACミランとの対戦に日本中が期待したが、前半途中にフランコ・バレージと突した際に骨折と眼窩系神経を損傷するアクシデントに見舞われ、1カの戦線離脱を余儀なくされる。復帰後の第12節サンプドリアとのジェノヴァダービーにスタメンで出場すると、右足アウトサイドでのゴールを決め、セリエAゴール記録。しかし、不振のチーム三度監督交代に見舞われ、代表戦出場のためにチームを離脱したこともあってその後はスタメンを外れることも多くなり、結局イタリアでの挑戦はダービーでの1ゴールのみに終わり、ジェノアはセリエBに降格。

地元メディアからは「壊れた木」と揶揄されるなど、不本意な結果となったが、このカズの挑戦は日本人選手に海外挑戦という新たな標を見出すこととなり、後の日本人選手の海外での活躍の礎となった。

ヴェルディ川崎

面下で交渉していたトリノへの移籍話も囁かれたが、渡辺社長との約束を優先し、1995年ヴェルディ川崎へ復帰。復帰初戦となったベルマーレ平塚戦でいきなり2ゴールを決めると、9月には2試合でハットトリックを決めるなどイタリアでの憤をらすかのようにゴールを量産。イタリアから帰後は改造に励み、重量感のある本格ストライカーへと変貌していた。2ndステージのみの出場だったにも関わらず23ゴール記録し、Jリーグベストイレブンにも選出される。

1996年は、シーズン途中にクラブと対立したラモスが退団するなどチーム震が走り、ナビスコカップでは優勝したものの、Jリーグでは7位に低迷。常勝軍団に陰りが見える中でも1人好調を維持し、27試合で23得点という記録を残して初のJリーグ得点王のタイトルを獲得。第76回天皇杯ではチーム優勝に貢献し、これで日本国内のメジャータイトル全てを獲得したことになる。

30歳となった1997年は、怪が相次いだこともあって調子を大きく落とし、移籍してきた前園真聖と共にチームが初の二桁順位に終わる程低迷した原因となる。この頃から始まった不調の原因は、改造で体が重くなった分、本来の俊敏さが失われ、身体のバランスが悪くなったからだという摘もある。

1998年はコンディションは戻ることがなく、前年のワールドカップ最終予選で怪を抱えたままプレーしたもあってキレが失われ、前年の4得点に続き、この年も28試合5得点という庸な成績に終わる。さらに、この年の年末に会社だった読売新聞が事業から撤退したことでクラブは大規模な経営縮小を余儀なくされ、高年俸のベテラン選手達のリストラが敢行される中でカズもその対となる。

クロアチア・ザグレブ

チームを追われる格好となったカズは再び海外挑戦へと動き、1999年1月クロアチア プルヴァ・リーガの強クロアチア・ザグレブへ2年契約で移籍。デビュー戦ではアシスト記録したもののPKを失敗。次第に出場機会も減ってしまい、5月23日のオシエク戦では退場となる。結局ゴールが生まれることはなく、シーズン終了後には戦力外通告が出され、わずか半年で退団となる。

京都パープルサンガ

さらに海外でのプレーを模索されていたが、1999年7月元日本代表監督である加茂周から熱心な誘いを受けたこともあり京都パープルサンガへ移籍する。復帰初戦のヴィッセル神戸戦で2ゴールを決めるなど期待に応え、2ndステージでの9位フィニッシュに貢献する。ちなみにこのシーズンJリーグにおいて一11番以外の背番号(36)を付けたシーズンとなった。

2000年キャプテンマークを巻き、遠藤保仁松井大輔朴智星といった若手が多く加わったチームの先頭に立って奮闘。33歳となったが一時期の不調から全に復調し、5月13日神戸戦ではJリーグ通算100ゴールの大台に立つ。しかし、自身の好調ぶりと反例する形でチームは大きく低迷。1stステージは最下位に終わり、自身を京都に誘った加茂が解任となる。2ndステージも経験を活かしてチームを牽引し、ゴールを量産。11月23日には古巣のV川崎を相手にハットトリックを達成。この年は得点ランキング3位の17ゴールという成績を残しキング復活を印付けたが、チームは最後まで浮上できずにJ2降格。そして、シーズン終了後、自身にとっては2度となるゼロ円提示を出されてしまう。

ヴィッセル神戸

2001年J1リーグヴィッセル神戸へと移籍。V川崎時代に監督だった川勝良一が監督を務めていたこともあって信頼を受け、加入直後からキャプテンを任され、前年を最後に現役を引退した永島昭浩に変わるチームリーダーとなる。第2節のFC東京戦で移籍後初ゴールを決めると、新スタジアムである神戸ウイングスタジアムこけら落としとなった横浜F・マリノス戦では巧みなトラップで相手をかわしてのゴールを決め、3万人の観客の前で千両役者ぶりを発揮。2シーズン連続での二桁得点となる11ゴール記録し、建材ぶりをアピールする。

2002年は、代表でもコンビを組んだ二が加入し、久々に2トップを組むことに。1stステージ第3節のガンバ大阪戦でシーズンゴールを決め、久々となるカズダンスも披露。しかし、35歳となったことで流石体的な衰えも見え始め、フル出場が減ってしまう。2ndステージでは臀部の負傷によって長期欠場を余儀なくされ、シーズン3ゴールに終わる。

2003年になると、オゼアスと播戸二の2トップファーストチョイスとなったことでバックアッパーが立ち位置となる。チームは残留争いに巻き込まれる苦しいシーズンとなったが、オゼアスが出場停止となった2ndステージ終盤の鹿島戦でスタメンのチャンスが巡ってくると、素ターンからの先制ゴールを決める。その後もチームを牽引し、J1残留に貢献する。

チームオーナー楽天グループ三木浩史が就任した2004年も控えに回ることが多くなるが、1stステージ第11節のガンバ大阪戦でシーズンゴールを決め、これでJ1舞台で11年連続でゴールを決めた一の選手となる。2ndステージにはパトリック・エムボマと瀬智行が加入したことでポジション争いが化。この年もチームは低迷し残留争いに巻き込まれるが、スタメンの座を掴んだシーズン終盤に3試合連続でのゴールを決め、またしてもJ1残留に貢献する。

2005年は開幕3試合連続ゴールを決め最高のシーズンスタートとなったが、次第にチームは低迷するようになり、監督交代が続いたことで自身も出場機会を失うようになる。7月にパベル・ジェハークが監督に就任すると全にチームから構想外となり、キャプテンの座を三浦に譲る。7月26日イングランドボルトン・ワンダラーズとの善試合に出場したのを最後に神戸を退団する。

横浜FC

2005年7月下旬に出場機会をめてJ2リーグ横浜FCへ移籍。8月27日ヴァンフォーレ甲府戦で初ゴールを決めると、途中加入ながらも4ゴール記録
11月には、この年設立したばかりのオーストラリアのAリーグに所属するシドニーFCリーグ戦4試合限定のゲストプレイヤーとして期限付き移籍。首位アデレードとの直接対決で2ゴールを挙げる活躍を見せる。12月日本で開催されたFIFAクラブ選手権にも出場し、2試合にフル出場している。なお、前身のトヨタカップなども含めて、この大会に出場した初の日本人選手となる。

横浜FCに戻った2006年は選手兼任の監督補佐に就任(登録上は選手扱い)。開幕直後に監督が解任となり、かつてオフトJAPANで2トップを組んでいた高木也が後任監督となる。さらに2トップを組むのはフランスW杯予選で組んでいたという勝手知ったるメンバーに囲まれた環境の中で39試合に出場し6得点記録。大きな怪く1年間チームを牽引し、クラブ史上初となるJ1昇格に貢献する。

40歳となった2007年は2年ぶりにJ1舞台に復帰。9月15日サンフレッチェ広島戦で日本人選手最年長ゴール記録するなど24試合に出場するが、戦的に大きく劣るチームは最下位に沈み、10月々と1年でのJ2降格が決定。それでもJ1最終節の浦和戦では、左サイド阿部を抜き去ってからのクロスというブラジル時代に得意としていた形で決勝ゴールアシストし、浦和優勝を阻む。

再びJ2で戦うこととなった2008年は攻撃的MFでの起用が多くなり、チーム事情のためにボランチで起用されることもあった。10月25日の第41節愛媛FC戦でJリーグ通算150得点となるシーズンゴールが生まれたが、この1ゴールのみに終わる。翌年の2009年も第2節のロアッソ熊本戦でPKによるゴールを決めたものの、16位にまで低迷したチームでまたしてもこの1ゴールのみに終わる。

2010年はかつて所属したキンゼ・デ・ジャウーからオファーを受けたが、横浜FCへの残留を決断。神戸時代の2005年以来となるキャプテンに就任。しかし、6月に右脚を負傷したことで出場機会が大幅に減ってしまう。それでも出場した試合では結果を残し、9月26日J2第38節カターレ富山戦では久々となるFKによる直接ゴールを決める。シーズン初スタメンとなった12月4日J2最終節大分トリニータ戦では、フル出場してゴールまで決め、自身の持つJリーグ最年長ゴール記録を43歳9か更新。この年、出場した試合数はわずか10試合だったにもかかわらず、サポーターが選ぶチームの年間最優秀選手に選ばれる。

2011年は30試合に出場したが、リーグ得点だっために、Jリーグ誕生からの連続ゴール記録は18年で止まってしまう。
2011年3月29日東北太平洋地震チャリティーマッチにおいて日本代表と対戦するJリーグ選抜でJ2一の選手として召集され、後半途中から出場。全世界にこの試合が放送される中、後半37分に田中マルクス闘莉王からのボールに反応し得点を挙げ、ゴール後に得意のカズダンスを披露。結果的に、この年に生まれたゴールは1ゴールのみだったが、震災によって暗い雰囲気に包まれた日本勇気を与える大きな意味を持つゴールとなり、カズ伝説に新たな1ページが加わった。カズはやはりカズでした!」

2011年12月には、横浜FCに所属しながらFリーグエスラー北海道Jリーグ選手として登録されたことで話題となる。2012年1月15日北海道府中戦の1試合限定で公式戦に出場。2月にはFリーグから特別表を受賞。

2012年以降は、毎年ゴールを決めるかどうかが注の対となり、ゴールする度にJリーグの最年長記録更新する状態となり、そのたびに全ニュースで大きく取り上げられるようになるが、そのことで「客寄せパンダ」と揶揄されるようにもなる。2014年は年間2試合のみの出場に終わり、いよいよ現役引退かと思われたが、2015年3月9日J2開幕戦ザスパクサツ群馬戦で9年ぶりに開幕スタメンをると、4月5日ジュビロ磐田戦でヘディンシュートを決める。48歳ながらシーズン3得点記録し、さらに契約を延長した事実海外でも報道されるようになり、イタリアのガゼッタ・デッレ・スポルトからは「時代を越した存在」と称賛される。2016年8月7日セレッソ大阪戦では、2点ビハインドの状況で途中出場するとゴールを決め、チームの逆転勝利に貢献する。

2017年、50歳の誕生日を迎えた2月26日シーズン開幕戦(松本山雅戦)にスタメン出場し、史上初の50代Jリーガーとなった。3月12日ザスパクサツ群馬戦では50歳15日でゴールを挙げ、Jリーグ最年長ゴール記録更新し、更にはイングランドのスタンリー・マシューズの50歳5日を上回りギネス世界記録認定された。以降は出場機会を減らしたため、カズJリーグでの得点はこのゴールが最後となっている。

2018年は出場試合9試合で出場時間は59分、2019年チームが昇格争いに絡んでいたこともあって3試合出場、出場時間109分でゴールはおろかシュートを1本も打てず、流石プロ選手として続けることの意義を疑問視するが増えるようになる。2019年11月24日J2最終節愛媛FC戦の終了残り3分で途中出場し、横浜FCの13年ぶりのJ1昇格決定の間をピッチ上で過ごす。

2020年は14年ぶりにJ1へ帰って来たことが話題となり、開幕前のキックオフカンファレンスでは神戸アンドレス・イニエスタとの2ショットが実現。9月23日J1第18節の川崎フロンターレ戦にスタメンで出場。2012年当時コンサドーレ札幌に在籍していた中山雅史が持つJ1最年長出場記録45歳2ヶ1日を53歳6ヶ28日に大幅に塗り替えた。注された14年ぶりのJ1での出場は4試合、出場時間68分のみとなった。

引き続き現役続行となった2021年は、3月10日J1第3節浦和戦でアディショナルタイムに途中出場。J1最年長出場記録を54歳12日へ伸ばす。しかし、その後はベンチにすら入れない日々が続き、最終的に年間の出場時間1分のみとなる。チームJ2降格となったこともあり、シーズン後は去就が注され、移籍話がメディアによって大きく報道される。

鈴鹿ポイントゲッターズ

2022年1月11日三浦泰年が監督GMを務めるJFL鈴鹿ポイントゲッターズに期限付きで移籍。新地でのデビュー戦となった3月13日JFL開幕戦ラインメール青森戦ではホーム史上最多となる4,820人の観客動員を記録。後半20分まで出場している。5月15日Honda FC戦で右太ももを負傷し欠場が続いたが、9月4日ヴィアティン三重戦で3かぶりにピッチに復帰する。10月9日クリアソン新宿戦では、11年ぶりに国立競技場ピッチに立ち、この試合で1万6218人というJFL史上最多となる観客動員を記録10月30日JFL第27節FCティアモ枚方戦ではPKによる移籍後初ゴールを決める。55歳でのゴール永井秀樹の持っていたJFL最年長ゴールを塗り替え、自身にとって4年ぶりの公式戦でのゴールとなった。11月12日の第29節FC大阪戦ではダイビングヘッドシーズン2ゴールを決める。
2023年1月16日、移籍期間満了により退団する。

オリヴェイレンセ

2023年2月1日現地時間11時11分にリーガポルトガル2(ポルトガル2部)のUDオリヴェイレンセに期限付き移籍することが発表され、55歳にして再び海外プレーすることになる。
4月22日、第29節デ・ビセウ戦の試合終了間際に途中出場し、56歳にして5かとなる海外での新デビューを果たす。同時にポルトガルプロとしてプレーした最高齢選手となる。

2023年6月22日にオリヴェイレンセへの期限付き移籍を延長することが発表される。

日本代表

ブラジルから帰して2か後の1990年9月に初めて日本代表に選出される。中国北京で開催された第11回アジア競技大会に出場し、9月26日バングラデシュ戦でスタメンに起用され代表デビューを飾ると、この試合で1アシストを含む3ゴール全てに絡む活躍を見せる。1991年7月1日に開催されたキリンカップサッカー91では、7月1日トッテナム・ホットスパー戦で2ゴールを決め、日本の大会初優勝に貢献。名実共に代表のエースとなった試合でもあった。

1992年オランダ人のハンス・オフト日本代表監督に就任。欧州式のスタイルを推し進めるオフトに対し、当初は同じくブラジルスタイルで育ったラモス瑠偉と共に反発する。しかし、8月北京で開催された第2回ダイナティカップ優勝すると、これまでとは見違えるチームとなった日本代表の当たりにしオフトに従うようになる。10月広島で開催されたAFCアジアカップ1992でも、攻撃の中心として活躍。グループリーグ終戦イラン戦で試合終了間際に劇的な決勝ゴールを決めると、試合後「込めました。足に」という名言を残す。決勝のサウジアラビア戦では、左サイドからのクロス高木也の決勝ゴールアシストし、日本にとって初の舞台でのビッグタイトルをもたらす。ちなみにこの年に優勝した2つの大会の両方で最優秀選手賞を受賞している。

1993年には、1994 FIFAワールドカップ アジア予選がスタートJリーグ開幕直前に開催された1次予選ではバングラデシュ戦で初のハットトリックとなる4ゴールを決めるなど、通算9ゴールを決める大活躍を見せる。エースとして圧倒的な強さでの最終予選進出に貢献した。
1993年10月カタール・ドーハでの集中開催となった運命アジア最終予選に挑む。Jリーグ開幕によって日本国内では空前サッカーブームが巻き起こり、悲願のワールドカップ優勝民の大きな期待を背負うこととなった。しかし、最初の2試合は相手の底したマークに苦しんで不発に終わり、1分1敗と崖っぷちに立たされる。だが、第3戦の北朝鮮戦で2ゴールを決めると、第4戦では長らく勝てなかった宿敵韓国を相手に値千の決勝ゴールを決める。重圧からか試合後のインタビューではを流していた。そして、勝てばワールドカップ出場権獲得となるイラク戦で、前半に3試合連続となる先制ゴールを決める。2-1でリードしたままワールドカップ出場は前となっていたが、試合終了間際のロスタイムに自らの守備を振り切られてクロスを上げられ、痛恨の同点ゴールを許してしまう。これによってほぼ手中にしていた本大会出場をあと一歩のところで逃すことになる。ドーハの悲劇と呼ばれるこの結末は、後のサッカー人生を大きく左右する出来事となる。

パウロロベルトファルカンが新監督となった1994年、ドーハのメンバーが大幅にいなくなった新しい代表でもエースとしての地位を担う。しかし、10月広島で開催された第12回アジア競技大会では、セリエA開幕戦で負った負傷から復帰したばかりのため本来の実が出せず、準々決勝での敗退を受けてファルカンはわずか半年で解任となる。1995年監督に就任した加茂周がチームに「ゾーンレス」を植え付けようとする中でもエースとしてコンスタントゴールを決める。1995年6月6日には初めてブラジル代表と対戦するが、の差を見せつけられ敗している。

1997年には、1998 FIFAワールドカップ アジア予選がスタート。数少なくなったドーハの悲劇を経験したメンバーとして高いモチベーションで挑んだカズは、1次予選のマカオ戦で1試合6得点記録し、釜本邦茂に並ぶ日本代表1試合最多得点記録立。1次予選6試合で10得点を決める荒稼ぎを見せる。
ホーム&アウェイでの集中開催となったアジア最終予選では、9月7日ウズベキスタン戦で4ゴールを決めてチームは大勝する。最高のスタートを切ったかに見えたが、9月28日ホームでの韓国戦で尾ていを負傷。試合に出場し続けたものの動きに精を欠き、以降の試合はノーゴールが続く。チーム韓国戦の逆転負けを皮切りに勝てない試合が続き、加茂監督が解任となって後任にコーチ岡田武史が就任する事態にまで陥る。自での予選突破が消滅したホームUAE戦後は、暴徒と化した一部のサポーターから罵を浴びせられ、昂する姿が報じられる。11月16日マレーシアのジョホールバルで開催されたイランとの第3代表決定戦では、岡田からの示を無視してFKを蹴り、後半18分に交代を告げられる。その後チームは延長戦までもつれ込んだ死闘を制し、初のワールドカップ出場権を獲得。後にジョホールバルの歓喜と呼ばれた試合は、カズの不動のエースとしての地位が揺らいだ試合でもあった。

ワールドカップイヤーとなった1998年だったが、不調から脱することができず、代表におけるFWの序列でも二、中山雅史、呂ワグナーに次ぐ4番手まで下がっていた。チームの中心も21歳の中田英寿へと移っており、直前の強化マッチでは1試合に出場したのみだった。本大会に臨む25人の代表補に残り、直前のスイス合宿に参加したが、6月2日岡田の口から「外れるのはカズ三浦カズ」の言葉と共に北澤豪市川と共に本大会の出場メンバーから外れることが明らかにされる。前回に続いてまたしても前でワールドカップが絶たれ、このニュース日本中に衝撃が走り、報道カズ落選一色となった。失意のカズチームに残らず、北澤と共に帰。帰後の会見に金髪で姿を見せると、「日本代表としての誇り、みたいなものは向こうに置いてきた」という名言を残している。その後、日本が本大会で3連敗したこともあり、カズ落選に怒る一部のファン岡田の自宅に嫌がらせをし、岡田家族に警護が必要になる事態にまで発展した。この決定について後に岡田は「あらゆるシュミレーションをして、出てこなかったのはカズ北澤だった。色々と言われたけど後悔はしていない」とっている。

その後、しばらくの間は代表から遠ざかるが、監督フィリップ・トルシエ京都での好調ぶりを評価され2000年1月に1年半ぶりの代表復帰を果たす。2月16日AFCアジアカップ2000予選のブルネイ戦では、2年半ぶりの代表でのゴール記録6月モロッコで開催されたハッサン2世国王杯のメンバーにも選ばれると、6月6日ジャマイカ戦でゴールを決める。しかし、若手が台頭した代表に定着することはできず、このジャマイカ戦が代表での最後の出場となった。トルシエからは人間性を買われ、代表スタッフとして2002 FIFAワールドカップに帯同するよう要請されるが、選手としての出場にこだわったため断っている。

フットサル日本代表

2012年にはフットサル日本代表電撃召集され、同年にタイで行われたフットサルワールドカップメンバーに選出された。本大会では途中出場中心にピッチに立つがゴールはならず。大会直前の壮行試合ではゴールを挙げている。

個人成績

シーズン クラブ リーグ 試合 得点
1986 サントス サンパウロ 2 0
マツバラ(loan)
1987 マツバ
CRB ブラレイロ・セリエA 4 0
1988 キンゼ・デ・ジャウー サンパウロ 25 2
1989 コリチー ブラレイロ・セリエA 21 2
パラナ州 24 4
1990 サントス ブラレイロ・セリエA 11 2
1990ー91 読売クラブ JSL1部 18 3
1991ー92 読売クラブ JSL1部 21 6
1993 ヴェルディ川崎 Jリーグ 36 20
1994 ヴェルディ川崎 Jリーグ 22 16
1994ー95 ジェノア(loan) セリエA 21 1
1995 ヴェルディ川崎 Jリーグ 26 23
1996 ヴェルディ川崎 Jリーグ 27 23
1997 ヴェルディ川崎 Jリーグ 14 4
1998 ヴェルディ川崎 Jリーグ 28 5
1998-99 クロアチア・ザグレブ プルヴァHNL 12 0
1999 京都パープルサンガ J1リーグ 11 4
2000 京都パープルサンガ J1リーグ 30 17
2001 ヴィッセル神戸 J1リーグ 29 11
2002 ヴィッセル神戸 J1リーグ 17 3
2003 ヴィッセル神戸 J1リーグ 24 4
2004 ヴィッセル神戸 J1リーグ 21 4
2005 ヴィッセル神戸 J1リーグ 12 2
横浜FC J2リーグ 16 4
2005-06 シドニーFC(loan) Aリーグ 4 2
2006 横浜FC J2リーグ 39 6
2007 横浜FC J1リーグ 24 3
2008 横浜FC J2リーグ 30 1
2009 横浜FC J2リーグ 30 1
2010 横浜FC J2リーグ 10 3
2011 横浜FC J2リーグ 30 0
2012 横浜FC J2リーグ 14 1
2013 横浜FC J2リーグ 13 2
2014 横浜FC J2リーグ 2 0
2015 横浜FC J2リーグ 16 3
2016 横浜FC J2リーグ 20 2
2017 横浜FC J2リーグ 12 1
2018 横浜FC J2リーグ 9 0
2019 横浜FC J2リーグ 3 0
2020 横浜FC J1リーグ 4 0
2021 横浜FC J1リーグ 1 0
2022 鈴鹿ポイントゲッターズ(loan) JFL 18 2
2022-23 オリヴェイレンセ(loan) リーガポルトガル2 4 0
2023-24 オリヴェイレンセ(loan) リーガポルトガル2

プレースタイル

ブラジルプロになったばかりの頃は、左ウイングであり、サイドでドリブルで縦に仕掛けて突破してクロスを入れてチャンスを作る典的なウインガータイプだった。彼のドリブルは強サイドステップを踏むフェイント、シザーズ(またぎフェイント)という独特のスタイルで、ブラジル仕込みの卓越したテクニックと一スピードで相手を抜き去る。

ブラジルから帰したばかりの頃は、左からカットインしてシュートに持ち込む形を得意としていたが、強引にシュートに持ち込もうとする傾向があり、さほど得点は高くなかった。

Jリーグが開幕した1993年のあたりから中央のよりFW的なポジションを取るようになり、ゴールに近い位置取りをするようになったことで決定が上昇。ウインガーからストライカーへとスタイルが変貌していった。元々ウイングだった特性を活かしてアシストも多く、ヴェルディ川崎黄金期の時代は今で言うとゴールチャンスメイクもできる万セカンドトップだった。軽量ではあったが、この頃がカズ全盛期だと言うも多い。

イタリアから帰した後は、改造に取り組んだことでフィジカルコタクトに強い、重さのある本格的なセンターフォワードタイプへとシフトしており、高さはかったがポジショニングやDFとの駆け引きで勝負しゴールを狙うタイプとなる。スピードが衰えた晩年は、より読みと駆け引き、ポジショニングを重視している。また、献身的に前線の守備をこなすようになったのも改造後である。

特筆すべきは左右両足で蹴れることであり、コーナーキックフリーキックを左右使い分けられるスイッチキッカーという世界的にもしいプレイヤーである。タレント軍団だった黄金期ヴェルディ川崎キッカーを担う程、CKとFKの精度も高い。

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