この項目では、将棋の歴史について書いていく。
将棋はチャトランガ系のゲームであり、「王を取ったほうの勝ち」というルールを基本として多くの派生遊戯が生まれた。日本ではその内「本将棋」と呼ばれるものが最も一般的となっている。
囲碁と並んで日本の伝統文化として長い歴史の中で大いに発展し、日本人の国民的ゲームとして愛されてきた。
将棋の原型は古代インドで遊ばれていたチャトランガと言われている。同じ系統のゲームとして欧州のチェス、中国やベトナムの象棋(シャンチー)、棋將(cờ tướng)、朝鮮のチャンギ(장기、將棋)、タイのマークルックなどがある。
日本へ将棋が伝来したのは東南アジア経由と中国朝鮮半島経由の二説があるがどちらも確定できる物証に乏しい。日本国内では、11世紀の平安時代に将棋の駒や将棋のことを書いた文書が出てきている。この頃の将棋は、王将がなく両方とも玉将であった。12世紀の将棋を書いた文書では平安将棋(玉将・金将・銀将・桂馬・香車・歩兵の6種を使ったもの)、平安大将棋(平安将棋に銅将・鉄将・横行・猛虎・飛龍・奔車・注人を加えたもの)と呼ばれる二種類の将棋が載っている。13世紀には平安大将棋に更に駒を加えた大将棋と呼ばれるものが流行したが、複雑化しすぎたために14世紀にはルールが簡略化されて駒が減っていき、中将棋、小将棋と呼ばれるものへと変化した。16世紀に小将棋から醉象が取り除かれて現在の本将棋が完成した。
駒が減っていくにつれて、取り合いのみでは決着がつかないことが多くなったため、取った駒を自分のものとする「持ち駒」の仕組みが誕生したと推測されている。このルールはチャトランガ系のゲームとしては将棋独自のもので他国には例がない。
徳川家康が天下を取ると、家康が愛好していた囲碁将棋で、その上手なものに俸禄を支給し始めた。これは後の将棋所と囲碁所の原型とされる。当初は、本因坊算砂が囲碁将棋両方を統括していたが、後に大橋宗桂が1612年に囲碁から独立し、現在ではこれが将棋所の確立、将棋の名人の始まりとされる。ただし、名人も将棋所も囲碁家、将棋家の勝手な名乗りであり、当時は幕府公式のものではなかったようである。ちなみに、現在残っている最古の将棋棋譜は1607年の大橋宗桂と本因坊算砂のものである。
宗桂の死後、その子宗古は大橋姓を得て二代名人二代大橋宗古となる。また、大橋家とその分家である大橋分家、二世名人大橋宗古の娘婿で三世名人伊藤宗看に始まる伊藤家の三家が将棋所を名乗って、将棋の家元制度が確立された。
将棋所は毎年江戸城で将棋を指すお城将棋を行いその棋力を競った。更に、その三家は代々、将棋の名人位を争った。
当初、大橋本家の当主が名人位をとり、適任者がいない場合他家の当主が就任していたが、度重なる当主や後継ぎの死亡により大橋本家は衰退する。
一方伊藤家は、宗看の養子伊藤宗印の息子らの時代に、三代伊藤宗看を名人、伊藤看寿を名人候補とし、更に彼らの兄弟である八代大橋宗桂が大橋本家当主とし、更に、伊藤印達五段、伊藤看恕七段を輩出した。加えて、囲碁所との席次を巡って争うほどに栄え、ここに伊藤家は全盛期を迎える。また、歴代名人は代々詰将棋を幕府に提出していたが質的にもこの時代が頂点となる。
然し、伊藤看寿の死亡により、名人候補が不在となった伊藤家は伊藤宗看の死亡により名人位を手放すこととなった。やがて、名人位は宗看の甥であり、八代大橋宗桂の子であった九代大橋宗桂へと渡るが、この頃になると、大橋本家、伊藤家ともに奮わなくなる。
こうした中でも将棋所の将棋は幕府の保護の下、六代大橋宗英を頂点として隆盛を誇る。宗英は「近代将棋の祖」「最強の家元名人」と後に称される。
だが、幕末に近づくにつれ、幕府衰退に伴う支援減少と人材の減少により、将棋界と家元は下降調に至る。
その一方で、幕末には大橋柳雪、天野宗歩ら家元に捕らわれない在野の棋士たちが活躍し始める。特に天野宗歩は多くの門下生を持ち、その存在は後の大矢東吉、小野五平らの台頭へと繋がっていく。
1867年(明治元年)の幕府崩壊に伴い、将棋所の家禄がなくなると、将棋家達は新たな支援先を探すこととなる。1879年(明治12年)に十一世名人位を襲位した八代伊藤宗印は将棋の本を出版するなどして、棋界の立て直しに尽力したが捗々しくなく、1893年(明治26年)に死去してしまう。この時、伊藤宗印の死によって伊藤家は断絶し、大橋分家の九代大橋宗与は投獄死、大橋本家の十二代大橋宗金は棋力が乏しかった。将棋三家に名人相当の人が存在しなかったため、大橋家所属の小野五平が明治31年(1898年)に名人位を継いだことで家元制は完全に崩壊してしまう。
一方で、明治時代から発展し始めた新聞が将棋と結びついて現代まで続く将棋の支援者となった。当初は、江戸時代に作られた詰将棋を掲載していたが、次第に指し将棋の棋譜も載せるようになった。1908年(明治41年)9月11日には萬朝報が初めての新聞棋戦「高段名手勝継将棊」を開催してその棋譜を新聞に載せた。当時は将棋の八段が少なく、ましてや八段同士の対局は1886年(明治21年)4月10日に大矢東吉八段と小野五平八段が対戦して以来であったため非常に話題となった。この頃は大きな大会を別とすれば、将棋家には対局料は支払われておらず、本業を別に持っているのが普通であった。(例えば、後に名誉名人を送られた小菅剱之助は実業家として名を残している。)だが、この棋戦では棋士に対局料が払われており、これを契機として、新聞各社も続々と新聞棋戦を催して報じ始めていき、衰退の途上にあった将棋界は再興の道を歩むこととなった。
家元の権威が無くなった後、将棋界は様々な団体が設立されていた。中でも高齢であった小野五平の跡を巡って、井上義雄、関根金次郎、阪田三吉が有力視されており、将棋団体は彼らとその弟子らによって離合集散を繰り返す。
萬朝報記者の三木愛花は、将棋の取り組みをより円滑にするために将棋団体の設立を訴えて関根金次郎を中心とした将棊同盟會(のち将棊同盟社)の結成に至る。だが、この団体も井上と関根の対局実行を巡って分裂し、井上義雄を中心とした将棊同志會が結成された。更に、関西では打倒関根を掲げて、大阪朝日新聞社の後援をうけた阪田三吉が関西将棊研究会を結成した。阪田は小野の免状を受けて八段に上り、1914年には井上を破り、1917年には関根を破って大いに威を上げた。更に、将棊同志会から東京将棊社(のち東京将棋研究会)が分裂。土居市太郎の昇段を巡って、関根らが将棊同盟社を脱退し、東京将棊倶楽部が結成。木見金治郎らが東京将棋倶楽部を脱退し、棋正会を結成。井上が死去して将棋同志會が自然消滅。1921年に小野が死去し、関根が名人位襲位。これを契機として、東京の将棋団体は合同の機運を見せ、関東大震災の後、1924年(大正13年)9月8日に東京将棊倶楽部、東京将棊同盟社、東京将棊研究會の三団体は関根名人を名誉会長、土居八段を会長とする東京将棋連盟を結成し、これがのちの日本将棋連盟の原型となる。このとき、大崎熊雄、金易二郎が、同年9月に木見金治郎が、翌年2月に花田長太郎が八段に昇段した。わずか半年で四人の八段昇段を決めたことで、阪田(というよりその後援者)がこれに怒って関西の有志支援の下で大阪名人を名乗ってしまう。これに東京将棋連盟は追放を決定し、以後阪田は東京の棋戦に参加できなくなってしまう。1927年には棋正会が東京将棋連盟に合流して日本将棋連盟に改称する。阪田門下の神田辰之助が十一二會を結成し、阪田は孤立することとなった。
十二世名人小野五平は名人位を襲位した時点で67歳と高齢だったにもかかわらず、91歳と長命で死んだため、名人候補であった井上義雄は逝去し、十三世名人関根金次郎はなかなか名人位を継げなかった。関根も当時としては長命であり、このため、実力のあるものが名人位を継げない可能性を考慮した関根は1935年に引退の意思を発表し、実力制名人戦開催を発表する。ところが、この最中に神田辰之助七段を八段昇段とするかで日本将棋連盟は分裂し、分派は十一日會と合わせて日本将棋革新協会を結成した。なんとか関根が兄弟子の小菅剱之助とともに調停し、合同を果たして、将棋大成会を結成し、ここに将棋団体は統一された。また、金易二郎が仲介して阪田が将棋大成会に参加したことで、1937年に家元制崩壊以来の将棋界統一が達成された。
名人位は関根の弟子、木村義雄が就位して、ここに終生名人(一世名人)の制度は終焉する。木村は以後9年、5回にわたって名人位を守り木村時代を築く。1949年には九段戦(後の十段戦、竜王戦)が始まり、塚田正夫が優勝するなど活躍した。
阪田の名人僭称以来、関西では名人位の奪取、打倒木村が叫ばれていた。この中で台頭したのが木見金次郎門下の升田幸三、大山康晴であった。大山は1950年にタイトルに昇格した九段戦で1期目、2期目で優勝し、1952には名人位を木村から奪取して木村の後継者となった。その大山に待ったをかけたのが兄弟子である升田である。升田は1957年には当時の全冠(名人戦、九段戦、王将戦)を独占して大山を無冠に追い込み、特に1956年の王将戦では名人であった大山に香車を引いて勝つという偉業を成し遂げた。
これに奮起した大山は1959年には升田を無冠に追い込み三冠を達成。以後、升田をタイトルに寄せ付けなかった。大山は1967年の棋聖戦まで50期にわたってタイトルに登場し続けた他、1963年(昭和38年)から1966年(昭和41年)にはタイトル19期連続獲得するなど昭和の将棋界に君臨する。名人位18期13連覇、王位戦12連覇、王将戦20期9連覇、棋聖戦16期7連覇など生涯でタイトル合計80期を達成した。
大山時代には、加藤一二三、二上達也、山田道美、内藤國雄、有吉道夫といった若手が大山の覇権に挑んだものの大山の固い守りの前に受け潰されていった。
大山の固い守りを破ったのが、中原誠である。中原は1968年の棋聖戦に初タイトルを獲得すると、1970年には十段位、1972年には名人位を奪って、翌年に大山を無冠に追い込み中原時代を開いた。中原は、彼を中心に棋界は回っているという意味で「棋界の太陽」と称され、名人戦9連覇、1977年には5冠を達成するなど強さを誇った。
このように強さを誇った中原も、1980年頃からタイトル保持数を減らして行き、1982年(第40期)名人戦で加藤一二三に名人を失陥位して無冠に転落する。同年に中原は十段を取り返して、棋界の第一人者の地位は変わらなかったものの、以前ほどの圧倒的な強さは見られくなった。同時に、当時6つあったタイトルが6人によって分けられ、将棋界は戦国時代へと突入した。この時期、中原と並んで活躍したのが米長邦雄である。1985年には十段戦七番勝負フルセットを戦った末に、十段位を中原から奪い3人目の4冠となる。このため、米長は世界一将棋の強い男とも称され、この時期は中原・米長時代と言われた。
この時代は前時代の覇者大山の他、加藤一二三、二上達也、森雞二、桐山清澄、内藤國雄、有吉道夫、大内延介、森安秀光らもタイトルを競った。
中原が威を落とす中で、名人となったのは関西から彗星のごとく現れた俊才谷川浩司である。1983年に21歳という若さで加藤一二三を破って名人位に就任した俊英は覇者中原に対して優勢であった。
更に、谷川に少し遅れて1980年代後半からは、昭和55年にプロ入りした55年組と呼ばれる棋士たちが活躍し始める。55年組の内、依田有司を除く高橋道雄、中村修、泉正樹、島朗、南芳一、塚田泰明、神谷広志の七人とその同世代である田中寅彦、福崎文吾、井上慶太はタイトル戦を争い或いは記録を残して昭和後期から平成初頭の棋界を盛り上げた。彼らの台頭によって、再び1987年には7つのタイトルが7人で分け合うこととなった。
彼らが活躍する中でも、谷川はタイトル保持数を増やし1991年には史上4人目の4冠に加えて中原に続く全冠経験も達成する。
棋界の第一人者となった谷川であったが、谷川時代を築くには至らなかった。1989年に羽生善治が竜王位の最年少タイトルを獲得したのを皮切りにチャイルドブランドまたは羽生世代と呼ばれる、羽生善治と同世代の棋士たちがタイトル挑戦或いは獲得し始めたのである。
特に、羽生善治は1988年度にはNHK杯に優勝し、将棋大賞で対局数、勝利数、勝率、連勝の4部門と最優秀賞を獲得。1990年に竜王位を谷川に奪われたものの、4か月後の1991年3月には棋王位を獲得。そのまま、1992年には3冠、1993年には3人目の5冠を達成する。同年には、佐藤康光に敗れ4冠に後退するも、1994年には前年に初の名人位を取っていた米長から名人位を奪取、佐藤から竜王位を取り戻して史上初の6冠を達成。残る王将戦を賭けて谷川に挑んだ。ところが、王将戦番勝負の最中に起こった阪神大震災で被災した谷川は返って奮起し、フルセットの末防衛に成功した。
羽生本人も周囲もしばらくは7冠の機会はないと思われたが、翌年羽生善治は全てのタイトルを防衛し、更に王将戦の挑戦権を引っ提げて帰ってくる。これに4戦連続で勝利したことで、羽生は囲碁界将棋界合わせて前人未到の7冠を達成した。更に、同年度棋王戦も勝利したことで年度七冠も達成している。谷川はこれ以後も永世名人となった1997年の名人位復位含め7期のタイトルを獲得するが羽生善治の活躍には及ばなかった。
羽生は1991年3月に、棋王位を獲得して以後、2018年12月に竜王位を失陥するまでの27年9か月にわたり、一冠以上を保持し続けた。また、7冠以後2018年に無冠に至るまでの七大タイトル延べ170期の内、過半のタイトルの保有、更に永世七冠の獲得をするなど平成の棋界に覇権を築いた。
また、この時期に村山聖、佐藤康光、先崎学、丸山忠久、羽生善治、藤井猛、森内俊之、郷田真隆の羽生世代が将棋界を席捲し、谷川や羽生世代のすぐ下の世代である屋敷伸之、深浦康市、三浦弘行、久保利明らとタイトルを競った。この中で佐藤は永世棋聖、森内は永世名人を獲得している。
こうした中で、2004年に若手では竜王戦に登場した渡辺明は竜王戦で9連覇、永世竜王永世棋王獲得、2012年に3冠となるなど気を吐いた。更に2010年ごろから将棋界を席捲した羽生世代が成績を落としていった一方、広瀬章人、佐藤天彦、中村太地、糸谷哲郎、豊島将之、菅井竜也、永瀬拓矢、斎藤慎太郎、高見泰地といった羽生世代より一回り以上年下の若手がタイトルを保持していく。2018年には、8大タイトルを8人が分け合う群雄割拠の状態が出現し、将棋界は覇者無き戦国時代へと突入したと言われた。更に2018年12月21日には羽生善治が無冠となったことで羽生世代のタイトル保持者がいなくった。また、2017年に史上最年少でプロ棋士となった藤井聡太は、翌年に対局数、勝数、勝率、最多連勝の四冠を獲得し、2020年には、最年少タイトル、最年少二冠と活躍している。
一方、2012年に始まった電王戦では米長邦雄と将棋プログラム「ボンクラーズ」との対戦が行われ、将棋プログラムが始めてプロ棋士に勝利した。2017年には当時名人だった佐藤天彦が当時最強の将棋プログラムponanzaと戦って敗れ、その登場以来、進歩を続けてきた将棋プログラミングが遂に人間の最高峰を越えたという結果となった。2020年では、将棋プログラミングによる研究成果をプロ棋士が取り入れるのも普通となっている。
掲示板
1 ななしのよっしん
2020/03/09(月) 18:54:12 ID: 6fhb9GutWd
@wagunさんへ
ご力作ではありますが、スレのコメント数を見る限り余りユーザーの関心を呼んでいない様で、遺憾に思います…
今後の広告等に期待するとして、個人的には、各種指摘の際に項目を明示出来る方が便利だという事も含めて、冒頭に『概要』等という表記を提案します。
>「王を取ったほうの勝ち」というルールを基本として多くのヴァリエーションが生まれた。
後件の文脈からは「ヴァリエーション=将棋系盤上遊戯」だと理解出来ますが、「~=将棋のプレイルール」という風にも解釈出来ますので、念の為に「~型将棋系盤上遊戯」といった、より詳細な表記を提案します。
「先手の玉将(後手の王将)を詰ます」という決着方式は、冒頭で詳説するにはくどくなるかも知れません。
とは言え、詳細は脚注を設けるなり他の記事に丸投げるするなりして、簡略であれより正確な表現にして頂ける様に提案します。
以上、宜しくご検討の上で今後の更新に反映させて頂ければ何よりです。
2 ななしのよっしん
2021/05/18(火) 15:35:22 ID: aiaWNTFY4x
中原→谷川→羽生って流れで書かれてるけど
羽生竜王誕生より後に中原が谷川から名人取り戻してたりして
結構まだら模様よな
急上昇ワード改
最終更新:2024/12/23(月) 02:00
最終更新:2024/12/23(月) 02:00
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