第101号哨戒艇とは、1922年4月1日に竣工したイギリス海軍のアドミラルティS級駆逐艦スレイシアン(HMS THRACIAN)を、1941年12月25日に大日本帝國海軍が鹵獲したものである。無事終戦まで生き残った後、イギリスに返還されて1946年2月に解体。
艦名のスレイシアンとは古代東ヨーロッパのバルカン半島に住んでいたトラキア人の事。
第一次世界大戦中の1916年半ば、イギリス海軍はドイツ帝国海軍が建造中と目される新型駆逐艦に対抗するため、大型で強力なV級やW級駆逐艦を生産していたが、その情報が誤りだと判明。そこで海軍本部は1917年2月、以前のアドミラルティ改R級の設計に基づいた新たな小型駆逐艦アドミラルティS級の設計に着手する。戦訓や用兵側の提案を取り入れた結果、アドミラルティ改R級とは異なる設計となった。
将校と海軍本部が協議したところ、主に荒天時の航行能力と夜間戦闘能力の強化に力を入れるべきだとし、かなり強いシアとフレアを付けた事で高い凌波性を獲得。荒天下でもC級軽巡洋艦と並走出来るほどだった。また夜間行動中の艦橋士官が眩しさで目がくらむのを避けるためにサーチライトを後方へ移している。設計当初はアドミラルティ改T(トレンチャント)級と呼称とされ、艦名の頭文字が「T」に統一されるはずだったが、1917年11月に海軍委員会がS級に改名。これはR級駆逐艦にも「T」から始まる艦名があって紛らわしいからだったという。非常に高い完成度を持った優秀艦だったようでオーストラリアとカナダに供与された他、ロンドン海軍軍縮条約で多くの姉妹艦が廃棄されたにも関わらず、第二次世界大戦勃発時に11隻が在籍していた。
諸元は排水量1075トン、全長84.1m、全幅8.1m、出力2万7000馬力、搭載重油301トン、最大速力36ノット、乗組員90名。武装は40口径10.2cm砲3門、39口径40mm高角機銃1門、53.3cm連装魚雷発射管2基、45cm単装魚雷発射管2基。鹵獲後は排水量1150トン、出力1万馬力、速力25ノットとなり、武装は10cm単装砲3門、7.7mm単装機銃1丁、61cm連装魚雷発射管1門。
1918年1月10日、ホーソン・レスリー社シアネス造船所で起工。しかし第一次世界大戦後の財政難により海軍支出が制限されて工事が遅延され、1920年3月5日にようやく進水、1922年4月1日に竣工を果たした。
1927年1月7日に香港を拠点とする第8駆逐艦隊に編入。活動の場を極東へと移す。1932年2月12日にケント州チャタム造船所へ戻って長期の整備を受ける事になり、予備役に編入される。翌年の6月、余剰に生産されていたスレイシアンの鐘100個を1ポンドから10ポンドの価格で叩き売り。1936年10月26日に再び中国方面へと舞い戻った。
1937年8月8日、香港の北方にあるチラン岬沖にて上海行きの中国国家航空会社のシコルスキーS-43旅客飛行艇が墜落。直ちにスレイシアンと中国船が事故現場に派遣され、生存者8名を収容、翌9日午前6時30分に香港へ帰投した。
それから間もない8月13日夕刻、第二次上海事変の発生により日本と中華民国は本格的な武力衝突を開始。スレイシアンが拠点とする香港はイギリス領だったため攻撃こそ受けなかったが中国国民党を支援する援蒋ルートの一つなので早々に目を付けられる。イギリス本国もその事を理解しており、1938年8月18日に増援の駆逐艦サネットとスカウトを香港に派遣した。10月21日、帝國陸軍第21軍が広東省を占領した事で香港とマカオが孤立。だが戦雲が立ち込めるのは極東だけではなかった。
1939年9月3日に第二次世界大戦が勃発。イギリス本国がドイツとの戦争状態に入ったのである。香港は主戦場より遠く離れていたものの、航海中のドイツ商船を拿捕するよう命じられ、スレイシアンは南シナ海のパトロールを開始。10月18日からは機雷敷設任務に従事するべく造船所で魚雷発射管と機銃を取り外し、機雷40発と新たな機雷敷設用レールを搭載。補助巡洋艦イェウンとともにランタオ海峡に機雷原を設置する。それが終わると機雷とレールを降ろして11月から哨戒任務に復帰した。
1940年4月12日、イタリアとの関係悪化を懸念して軽巡リヴァプールがアデンへ向かう事になり、スレイシアンはマニラまで護衛について見送った。5月1日に香港を出港、ウラジオストク沖でソ連海軍の動向を監視する。6月7日夜、軽巡ドーントレス、駆逐艦スカウト、サネットと香港沖で夜間訓練に従事。
1941年1月より再び機雷敷設任務に従事し、1月23日に138個の機雷を、2月11日に140個の機雷を西ラマ飛行場近海に敷設。10月21日、対日関係悪化に伴うアメリカとの合意で西ラマ飛行場近海に更なる防御機雷を敷設している。緊張が高まり続ける11月からは本格的な戦争準備が始まり、ミールスベイ東部と西側出入り口に停泊地と港を守るための防御機雷を敷設、12月に入っても機雷敷設を続けていた。
1941年12月8日、大日本帝國は米英蘭豪の四ヵ国に宣戦布告し、遂に日英は戦争状態に突入した。
援蒋ルートの一つである香港を前々から攻略しようとしていた帝國陸海軍はあらかじめ戦力を移動させており、同日午前3時、帝國陸軍第23軍第38師団1万5000名が中国大陸側から九龍半島へ突入。広東省からは9機の九七式戦闘機に護衛された第45戦隊の九八式直接協同偵察機12機が出撃し、九龍の啓徳飛行場を銃爆撃して駐機中の民間機や練習機の大半を地上撃破していった。午前5時30分にクリストファー・M・マルトビイ少将が侵攻が誤報ではないと確信に至った事で香港の全守備隊が戦闘態勢を取る(香港の戦い)。スレイシアンは機雷敷設中に日本軍機の爆撃を受けたが無傷で済んだ。21時、姉妹艦スカウトとテネドスが香港を脱出してシンガポールに移動したため、スレイシアンは香港を守る唯一の駆逐艦となった。
侵攻してくる日本軍に対抗するため哨戒しながらラマ島、ランタオ島、レマ島に機雷を敷設し、ラマ島へ上陸しようとする日本軍の船団を攻撃。また隙を見て造船所へ入渠、不要となった機雷敷設用装備を取り払って武装と交換した他、ストーンカッター島からの撤退支援も行っている。
12月13日未明、マルトビイ少将は九龍半島からアバディーンに英印軍を撤退させる決断を下し、午前4時、輸送船団の護衛をスレイシアンに命令。2時間後に九龍半島へ到着したスレイシアンは英印軍の香港島撤退を援護、午前9時30分までに撤兵を完了させる。その後、旧型砲艦ロビンとシカラを率いて香港南岸へ向かい、日本軍陣地を砲撃した。
12月15日夜、燃え盛る海岸を横目に哨戒中のスレイシアンはグリーン島を通過した先の九龍湾で、日本兵を乗せた2隻の河川汽船と交戦。これを撃沈する戦果を挙げたがラマ島沖で座礁してしまう。幸い深刻な浸水被害は無かったが燃料タンクが破裂。何とか離礁してアバディーン造船所に入渠するも、翌16日に九七式重爆撃機27機の編隊が造船所を爆撃して施設が大破。乗組員3名が死亡したばかりか修理の目途すら立たなくなったため携帯用火器やその他物資を揚陸。
12月17日に出渠したスレイシアンは翌日レパルス湾ラウンド島に乗り上げて座礁放棄。4インチ砲を撤去するべくクレーン船を呼んだ上で爆破処分する予定だったが、日本軍の急速な進軍速度を受けて断念。日本軍機は座礁中のスレイシアンを狙って爆撃を繰り返したものの命中弾は出なかった。
12月19日にスレイシアンを含む艦船の乗組員約200名が中央軍事基地防衛のため駆り出された。この基地は12組の地下バンカー、補給本部、歩哨小屋、弾薬や武器を保管する倉庫で構成されており、イギリス軍にとって最後の砦とも言えた。戦闘の終盤では守備隊の一団がスレイシアンの残骸に数日間避難していたとの記録もある。しかし努力むなしく12月25日に香港は陥落。主力艦艇は既に退却していたが、スレイシアン、砲艦数隻、モーターボートの小隊、魚雷艇が取り残されていた。
スレイシアンの艦体は砲艦宇治によって鹵獲され、現地で修理を行う。
1942年7月10日、帝國海軍はスレイシアンを離礁して第2工作部で再度修理。
9月27日午前8時、元スレイシアンの乗組員を含む捕虜1816名を乗せたT型貨物船りすぼん丸が香港を出港。ところが上海に向かっていた途上の10月1日、東福山島沖で米潜水艦グルーパーの雷撃を受けて沈没し、元乗組員7名も犠牲となっている。奇しくもこの日、帝國海軍はスレイシアンに第101号哨戒艇という名前を与えて横須賀鎮守府横須賀防備隊に編入した。10月20日、佐世保海軍軍需部から第101号哨戒艇用の回航要具を横須賀防備隊へ貸与するよう訓令が下る。
11月25日に修理完了。年末頃に本籍地の横須賀へ回航された。第101号哨戒艇として新たな生を授かったスレイシアンは東京湾方面でタンカーや輸送船の護衛任務に従事。特異な見た目から敵艦と誤認される恐れがあったためか、通常艦尾に掲げるはずの軍艦旗をかなり目立つ後部マストに掲げていた。
1943年1月6日に杉本安政予備少佐が艇長に着任。最初の任務は神子元島南方に座礁した日盛丸の救難であった。続いて1月13日、敵潜からの雷撃を受けて損傷した會幸丸が銚子北方海岸に投錨。直ちに長浦を出港した第101号哨戒艇は翌14日午前6時に現場海域へ到着し、日本海難救助株式会社所属の那須丸が救助作業を行っている間、周辺の対潜警戒を実施する。午前9時から那須丸による會幸丸の曳航が始まると2隻を護衛しながら東京湾方面に移動。1月15日に安全圏の館山沖へ到達して護衛を終了した。
1月16日、東京湾を出発してきた特設運送船乾祥丸を北緯33度線まで護衛。1月19日には特設水上機母艦君川丸の護衛に参加。17時40分に野島埼灯台沖17海里で敵潜の気配を察知して爆雷3発を投下しているが、何事も無く犬吠埼で護衛を終了した。1月31日には第1131船団の護衛に参加。
2月15日、内令第238号により類別等級が正式に哨戒艇となる。
護衛任務以外にも物資の輸送も引き受け、2月17日に女川行きの爆雷を積載して横須賀を出港、翌日女川に到着して運んできた爆雷を揚陸した。帰り道に特設運送船菊川丸を護衛する。2月25日に筥崎丸を護衛したのを機に神戸へと進出。活動の範囲を東京湾周辺から内地近海へと徐々に広げていった。老朽艦ゆえに艤装品の一部に漏水があったり、左舷軸管パッキング挿入部に甚だしい漏洩が確認されていたため、3月30日から4月14日午前9時50分に出渠するまで、横須賀工廠で修理を受けている。
5月6日午前7時25分、第7505船団護衛のため館山を出港。同日16時頃、海上を吹く風が強くなり、東栄丸と相洲丸を伊東沖に一時退避させる一幕もあったが、その後は何事もなく進み、5月8日21時15分に日ノ御埼を通過したところで護衛を完了。翌日午前9時13分に神戸に入港した。帰路の5月10日午後12時1分、神戸を出港し第8510船団を護衛しながら横須賀に帰投。
6月7日14時28分、軽質油運搬艦足摺と洲崎を護衛して長浦を出発。6月9日午前9時50分から14時まで由良で給油を行った後、17時45分に神戸へ到着して、護衛任務を完了させた。6月16日午前6時58分、長浦を出発した第101号哨戒艇は、横須賀からトラック諸島に進出する戦艦金剛、榛名、特設空母冲鷹、龍鳳、雲鷹等からなる艦隊の前路対潜哨戒を、神子元島南方海域から北緯34度線まで行う。翌17日午前7時に横須賀へと帰投。7月3日午前9時10分から午前11時46分にかけて第二倉庫岸壁で重油の補給を受ける。
8月15日、内令1662号により横須賀海軍水雷学校の訓練哨戒艇に指定。
8月30日17時44分、山国丸、太東丸、武州丸からなる第8830船団を護衛して神戸を出港。翌31日午前10時30分に大王埼沖で太東丸と山国丸が分離、15時30分より特設敷設艇高千穂丸が護衛に加わった。17時2分、上空を旋回していた味方の対潜哨戒機が掛塚4.2海里沖で投弾。敵潜の襲撃と判断した第101号哨戒艇は高千穂丸とともに現場へ急行。17時20分より爆雷17発(九五式3発、英式14発)を投射して潜水艦撃沈を報じた。18時42分に攻撃を切り上げて武洲丸と合流し、9月1日午前5時50分に剣埼沖を通過したところで護衛を終了した。9月5日、長浦にて九五式爆雷24発を補充。
10月2日14時45分、空母改装中の水上機母艦千歳を護衛して神戸を出発、10月4日21時28分に横須賀へ到着した。
10月12日、父島沖で米潜水艦セロの雷撃を受けて航行不能に陥った給糧艦間宮を救援するよう横須賀鎮守府に命じられ、駆逐艦追風の爆雷18発を積載して長浦を緊急出撃、父島二見港へ進出する。10月14日20時38分、水雷艇千鳥に曳航された間宮が二見に到着。翌日午前9時50分に間宮を護衛して父島を出港、小笠原諸島南東で石炭運搬船朝風丸や駆逐艦追風とともに潜水母艦迅鯨が到着するまで護衛を行い、安全圏まで送り届けたところで護衛より離脱。10月17日14時34分に由良へ帰投。間宮は呉で修理を受けるべく豊後水道を北上していった。
11月4日より訓練哨戒艇になるべく横須賀工廠にて大規模改修を受ける。スレイシアン時代のイギリス製対空機銃、魚雷発射管、爆雷投射機を撤去して日本製のものに換装し、後部弾火薬庫を爆雷庫に改造して爆雷の搭載数を増加させた他、士官室や通路の新設、探照灯台に野菜庫を新設、左舷浴室後部に軽質油庫新設、左舷中部外板補強、前部マスト及び海図室の改造など、作り変える勢いで増備と交換を行った。
1944年1月18日に工事の大半を完了。横須賀沖で試験航海や諸公試に従事し、1月25日に残務工事を終えた。
2月11日15時33分に第7211船団(清洋丸のみ)を護衛して長浦を出港。由良を経由して2月13日午前8時6分に神戸へ到着して護衛任務を完了させるとともに整備を受ける。帰り道は第8216船団を護衛して横須賀に帰投。第101号哨戒艇は、護衛任務を行う傍ら水雷学校の訓練艦も務めるという、多忙でアクロバティックな動きを見せる。
3月2日22時24分、神戸発の第8302甲船団を護衛して出港。一時は荒天で伊良湖に退避したが3月7日午前0時に剣埼沖まで到達した事で護衛を終了。同日午前11時50分に長浦へ移動した。
神戸に停泊中の1944年3月15日、帝国哨戒艇籍から除かれて特第一号練習艇へ改名。船種を練習艇、所属を海軍水雷学校に定め、3月20日に除籍された。
横須賀にて、試製23号電探と北上もしくは大井から降ろされた61cm四連装魚雷発射管1基を搭載し、魚雷発射訓練や新型電探の実験に協力。後部マストにパラボラ式センチメートルレーダーが搭載され、特異な見た目が更に特異になっている。以降はずっと横須賀に留まって後進の育成に励んだ。
1945年8月15日の終戦時、横須賀で残存。自沈を試みたようだが失敗した模様。
終戦後、横須賀へ進駐してきた連合軍は横須賀の桟橋近くで係留されている特第一号練習艇もといスレイシアンを発見。9月中旬にオーストラリアの駆逐艦ネイピアとニザームの乗組員が特第一号練習艇に乗り込んだところ船の状態は劣悪だったという。10月にイギリスへ返還され、12月に英駆逐艦ウンディーネによって曳航。1946年2月に引き渡し地の香港で解体された。
スレイシアンの鐘は奇跡的に残り、現在はドーセット州プールのパブリックハウスに保管されている。
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