シュリニヴァーサ・ラマヌジャンは、20世紀インドの数学者。通称「インドの魔術師」
その科学文明をバカにしたような人生は、例え数学に興味がなくても腹筋崩壊物である。インド人パネェ。
やせいの すうがくしゃが とびだしてきた
生まれはエリート階級バラモンの出。但し階級と貧富は関係なくて、基本的には貧乏な家庭。元々優秀な少年で順調に勉学を収め、末は判事か外交官かと将来を期待されていた。……数学に出会うまでは。
ある時ラマヌジャンは「純粋数学要覧」なるイギリスの古い数学書を手に入れる。これは数学史に燦然と輝く名著……でもなんでもなく、当時の受験参考公式集で、式の証明法も碌に書かれていない簡易便覧だった。そんなのがラマヌジャンのせいで歴史に名を残しちゃったのだから大概である。ラマヌジャン少年はパズル雑誌を解くが如く公式を次々と解読していき、その後は自分で問題を作り始める。パズル職人と化したラマヌジャンはどんどん成績を落とし、奨学金を打ち切られて学校をドロップアウト、みごとなまでの転落人生である。その過程でオイラー以来の数学の主要な成果を殆ど独りで再発見してしまう。数学史上最大の才能の無駄遣いである。
その後港湾事務所の事務員として拾われるのだが、ここの上司は理解のある人で、規定の仕事をこなせば後の時間は自由というライセンスを与えられる。そんな風にして悟りを開いた環境で独自研究に精を出し、見つけた事実や作った問題は専門誌に投稿という形で発表していたらしい。ちょっとしたハガキ職人といえよう。
しかしこの研究は長く続かなかった。というのも、ラマヌジャンの問題が余りに高度すぎて専門の数学者ですら誰も理解できないのである。「だったらロンドンさいくべ!」と言ったかは知らないが、ラマヌジャンは当時の宗主国であったイギリスの専門家に宛てて手紙を出す。「僕はインドで事務員の仕事をしています。空いた時間で数学をやってて、こっちの専門家は「驚異的」と褒めてくれるんですがどうなんでしょうか?」と。
結果は大半が黙殺。色々理由はあるが、内容が決定的に不味かった。というのも、学生レベルの初歩的な内容が含まれているかと思えば、超高度で意味不明のカオスな数式も書かれており、おまけにどれ一つ証明が付いていないのである。こんな手紙が突然インドから送られてくれば、普通は誰だって無視するであろう。
だが、一人だけラマヌジャンのヤバさを嗅ぎ取った男がいた。根拠は「こんなレベルの高い詐欺師がいる訳ない」男の名はゴッドフレイ・ハロルド・ハーディ。一世紀低迷していたイギリス数学界を建て直した再建屋である。彼は同僚のリトルウッドも呼んでとっくり考えた結果、訳が判らないレベルの天才から手紙が来たと結論して二人して驚愕した。
ハーディはすぐさまラマヌジャンをイギリスに招聘するよう手配しつつ、貰った手紙に返事を出し、急いで証明を送るように求めた。ところがラマヌジャンは証明が何だかわかっていなかった為、替わりに新たな定理(?)をまた山ほど送り付けた。こうして数学史上稀に見るカオス文通が何度か繰り返され、とうとうあきらめたハーディはラマヌジャンのイギリス来着を待つ事にしたのだった。ラマヌジャン27歳の時である。
イギリスにおけるラマヌジャン・ハーディの共同研究は、その変さ加減で数学史に名高い。ラマヌジャンは「寝てる間に神さまが教えてくれた」などのワケの分からない理由で凄い事実を発見するのだが、それを証明しろと言われても何を聞かれているのかが分からない。今風に言えば「ソース出せといわれても目で見た事実だし」といった所だろうか。リトルウッドに基礎を教えさせようとしても、教えようとするそばからガンガン新しいアイディアを出してくるので講義どころじゃなくなってしまう。しょうがないのでハーディはイタコに徹し、ラマヌジャンには言うだけ言わせて自分は御神託の証明を付けていった。これはハーディGJと言わざるを得ない。
しかしハーディとの蜜月も長くは続かなかった。研究はわずか数年で終りを告げる。折悪しく第一次世界大戦の最中だったこともあって、イギリスの飯の不味さ環境の悪さはラマヌジャンには堪えたらしい。衰弱し帰国したラマヌジャンはしばらくして死去。三十二歳の若さであった。
数学と才能
僕はもうおしまいだぁ!
才能だけならば史上最高クラスとの呼び声も高い。ハーディに言わせると、当時最高の数学者だったヒルベルトが80点でラマヌジャンは100点なので、そのセンスは推して知るべし。出来不出来のムラはともかく、余人の追随かなわぬ高みを見る事の出来た人物なのは間違いない。ちなみに他の100点候補は、神話級数学者アルキメデス、近代科学の父ニュートン、数学王ガウスといったいずれも人外の面々である。ハーディとリトルウッドは、ラマヌジャンを他にもオイラーやヤコビ級とも形容している。インドから突然オイラーがやってきて自分の横で仕事を始めてパニックしない数学者などいない。ラマヌジャンの才能を受け止めるには正直ハーディでも力不足だったが、彼はそれでも頑張った。色々うまくいかない点もあったらしく、体調不良とホームシックも重なり鬱ったラマヌジャンは自殺未遂までやらかすが、彼を励まそうとハーディは大運動して、王立協会とトリニティ校のフェローとして認めさせてトリニティにあるフェロー専用の芝生の上を好きに歩ける権利を勝ち取らせた。異常に分り難いが当時の英国面的に最大級の礼を尽くした訳である。ハーディはラマヌジャンを見出したことを数学に対する自分の最大の貢献と呼んで、生涯誇りにしていた。
ただし、どんなボンクラな学生でも知っているような初歩を知らない所がある為、総合能力という点ではややランクが落ちる。何も知らなかったから自由に発想できたのか、知っていたらもっと凄いことをしていたのか、真実は誰にも分からないが……。但し勘違いしてはいけない。ランクが落ちてなお数学史上に輝く異様な天才である。ただの予想一個ですら20世紀の数学を牽引し、病床で書き散らしたメモで超弦理論の数学的な基礎を創造し、1729とかいう何の変哲もない数字でさえ、彼の手に掛かると時代に遥か先駆けてK3曲面の発見に繋がる。触れるもの全てを黄金に変えるミダス王の手を持つあんちゃんだったのである。
21世紀の展開(ラマヌジャンあるある)
言うてもラマヌジャンは20世紀初頭の人なので、100年も経てばすっかり過去の人… かと思うと相当違うのがまたよく分からない点である。2016年、シュピーゲル誌の取材に応じたケン・オノに言わせれば、それどころか今がいっちゃん盛り上がってるまであるという。ラマヌジャンの研究は時代から余りにカッ飛んでたので、例え定理の証明はできても何を意味するのかやっぱ分からん例が多かった。やがては数学界も追いつくのだが、ぶっちゃけ半世紀遅れでやっととかいうレベルで、その証拠に数学論文におけるラマヌジャンの引用数は1970年代に入って爆上がりしたという。関連したラマヌジャンに関する新発見は21世紀に入っても続いた。幾つか例を挙げると:
- 擬テータ関数
21世紀の話題だとこれが最も有名かも。病床のラマヌジャンがハーディに宛てた最後の手紙が数学史上の初出となった特殊な関数の族だが、以来80年以上もの間、一部に進展があったものの、そもそも手紙に書かれていたラマヌジャンによる定義と実例がちゃんと噛み合っているかさえ判らなかった。それでもこの関数族には何か尋常じゃないものがある、と数学界の一部では近年寧ろ関心が高まって来ていた。何故かというと、20世紀後半に進展した様々な分野の数理解析 ― 数学のみならず、理論物理や化学や癌研究の分野も含む ― の中に、この関数族が何故か出現することが判ってきたからである。えらい深いことを説明抜きでしれっと残してたのが何十年か経ってから判明するのがラマヌジャンあるあるである。
状況が大きく進展したのが2002年のことで、Zwegersによって、一見正則な保型形式というだけに見える擬テータ関数が、実はマース形式と呼ばれる非正則な保型形式と関係しており、本質的に重さ1/2の擬モジュラー形式であることが示された。これが突破口になり、以後2003年~2013年頃にかけて、Bringman、Ono、Griffin、Rolen、Rhoadesらによって、擬テータ関数が調和弱マース波動形式と呼ばれる非正則な保型形式の正則部分の影であること、擬テータ関数の一般式、任意個数の生成方法、ラマヌジャンの定義から正にラマヌジャンの実例が導かれること、ラマヌジャンの原定義と現代的な定義との間の差異、等々が明らかになった。これは総括するととんでもなく難しかったらしく、オノに言わせると、擬テータ関数の解明は「地球に2分間立ち寄った宇宙人がヘビとフンコロガシに出あい、この2種類の生物から地球の生物の全体像を想像するようなものだった」。そして気付いてみれば、“モジュラー性のウェブ”などと呼ばれる現代数論のド本流に位置する豊かな景色と関連する話題だったことが判った。
だが依然として謎も残っている。ラマヌジャンは手紙の中で関連するモジュラー形式と擬モジュラー形式の値の数値的比較を(途中を飛ばして結果だけ)示しているのだが、これがどうやったのか分からない。当時の知見ではモジュラー形式は計算できても、擬モジュラー形式の計算法は未解明だった筈で(何せ計算法が判明したの2006年だってるし)、にも関わらず1の根(例えば平方根である-1)では両者の絶対値がほぼ一致することをラマヌジャンは正しく指摘していた。ラマヌジャンが知ってた筈がないのに、知ってたとしか思えないのである。 - 深リーマン予想
リーマン予想はリーマンゼータ関数の臨界領域における非自明解の実部の値を扱うが、深リーマン予想はもう一段深く広く虚部を含めて考えて、臨界領域におけるオイラー積の(超)収束性からリーマン予想をも導くという、リーマン予想攻略の最前線に位置する予想の一つである。研究史的には1980年代から徐々に形成され、2011年に初めて命名された。深リーマン予想は数値解析に適した性質を持ち、黒川信重はその計算結果を見ればリーマン予想を充分に確信できると述べている。この深リーマン予想の核心に当たるのはs=1/2である場合のオイラー積の漸近式で、赤塚広隆が2013年頃に定式化した。
ところで、ラマヌジャンにはイギリス滞在中の1915年に専門誌上で発表した「高次合成数」という有名な論文がある。これはラマヌジャンの主要な業績の一つにも数えられるそこそこ長い論文だが、実は掲載時点で後ろの1/3がばっさりカットされていた。当時は絶賛第一次世界大戦中で物資不足だったので、少しでも紙をケチりたい出版サイドの意向で結果そうなったらしく、未掲載部分は何とそのまま埋もれてしまった。以後、内容が世に知られないまま永い時が過ぎた。でも幸いにも手書き原稿は散逸せず残っていて、1988年になって遂に手書き版が写真製版で出版、更に1997年にはラマヌジャンに因んで創刊された学術誌「ラマヌジャン・ジャーナル」の創刊号に全編が掲載された。
さて、問題はその70年以上埋もれてた未公開部分の中身である。その中のあるページをよく見たら、深リーマン予想の核心に当たるs=1/2である場合のオイラー積の漸近式がまんま書かれてたのだった。しかも勿論偶然じゃなくて、同じページにリーマン予想やメルテンス予想の精密版も一緒に書かれてたのでガチだった。s < 1でオイラー積は収束しないから、普通は解析接続して別式に置き換えて考えるのに、発散してもいいからもしそのまま臨界線上でオイラー積の値を漸近計算したらどうなるか… リーマン予想を追った研究者達が21世紀に至って辿り着いた新理論の核心部分の扉を開いてみたら、何故か100年前のラマヌジャンが先着してたのである。100年前に書かれ70年埋もれてた古い論文を開いてみたら最先端の数学が出て来たという衝撃。ラマヌジャンがやってたことの意味を他の数学者達が理解できるようになるまで本当に100年掛かったのだという驚き。2017年末にニコ動に上がった黒川信重と小山信也の対談動画「ラマヌジャンを語る」でも本件に触れているが、この話をする時の御両人はラマヌジャンに呆れてるのかデレてるのか傍目に見ていて味わい深かった。 - タクシー数とK3曲面
この話は、日本語での紹介としてはWikipedia日本語版のラマヌジャンの記事で言及されたのがほぼ初出だろう。そのせいか、ラマヌジャン絡みで1729に言及するブログは数多あれど、21世紀になってやっと判ったこの数字の由来について書いてるとこは殆どない。詳しくはあっちを見て欲しいが、こんなのを見つけてくる辺り流石オノ、ラマヌジャンの研究者を以て自負してるのも伊達じゃねーなと思わされた。これもまた、ただの数オタトリビアかと思ったら無闇に深過ぎて数学史に影響が出たというラマヌジャンあるある例である。
おまけ: 盟友ハーディ
せっかくなのでラマヌジャンの盟友であるハーディについても少し触れておこう。
通常ハーディのことはラマヌジャン絡みか著書である『ある数学者の生涯と弁明』ぐらいしか話題にならない。ラマヌジャンがあまりにかっ飛んでいるため、対するハーディはいかにも19世紀生まれの秀才イギリス人といった感じに見られることが多く、実際それも間違ってはいないのだが、冷静に見ていくと彼も英国面全開のかなりの奇人である。
まずハーディがいかにもな英国紳士であったのは、その頑ななラッダイト的姿勢である。当時彼の研究室にはエレベーターや電話が据え付けられていたが、ハーディはこれを死んでも使おうとせず、どうしても電話をかけなければならない時は「後で部屋に来てくれ」と一言だけ言付けてすぐ切るという対応をしていた。文明国の長たる大英帝国最高の学者でありながら、合理化嫌い、機械嫌いを徹底する姿はもはや一人英国面ですらある。
数学に対する姿勢も合理性の対極にあり、物理や科学で役に立つ分野ではなく、純粋に数学のための数学である整数論が専門であることに誇りを持っていた。よく「数学なんか勉強して何の役に立つのか」という議論があるが、「役に立たないからいいのだ」とするハーディの見方はある種究極の回答だろう。もっとも、ハーディが役立たずの極みと考え愛した整数論も、暗号理論などで活躍するようになっているから、これも今となっては古き良き時代の幻想といった感はある。
自意識も独特である。ハーディで画像をググると分かると思うが、彼はかなりのイケメンで、晩年に至るまで端正な容姿の持ち主だった。しかし当の本人は自分を醜いと考え、決して顔を見ないようにするため、部屋には絶対に鏡を置かなかったという。出張でホテルに泊まらなければならない時も、部屋に入ってまずすることは鏡に布を被せて写らないようにすることだというから筋金入りである。当然ながら生涯独身であり、恐らく恋人などもいなかったと思われる。それでいてスポーツマンで友人も多かったというから、社交的なのかヒッキーなのかさっぱり分からない人である。あるいはこんな奇っ怪な性格だったから異国からやって来た風変わりな同僚と仕事ができたのかもしれない。
ところで有名な数学者の点数付けであるが、「自分は25点、リトルウッドは30点、ヒルベルトは80点、ラマヌジャンは100点」という言葉だけ見れば「ああ、ハーディは自分のことを謙遜してこんな点にしたんだな」と思うかもしれない。しかし、実はこの点数付け、前提としてまず採点に値する人間だけが対象のため、大半の並の数学者はまともな点すら貰えない。これは暗に「歴史に名を残す数学者を基準に、自分も25点ぐらいなら付けてもいいかな」といってるのである。ガウスやオイラーやラマヌジャンが100点だとして、その四分の一は点をもらえると言い切る度胸が果たしてどれほどの人間にあるだろうか。よってこれは実質的に「リトルウッドは俺よりすごいから英国No.1、No.2は自分、その他はどうでもいい雑魚」と読み替えてもいいだろう。
そもそもイギリス最高レベルの数学者で、ラマヌジャンの相手をできるほどの人間が赤点クラスなわけがなく、謙遜しているようで傲岸不遜という、英国紳士的な自負と自虐に満ちた面倒くさい評価が形となったのがこの点数付けといえる。結局のところ、比較対象となるラマヌジャンやピーク時のゲッチンゲンが凄すぎるだけで、ハーディも間違いなく超一流の天才だったのだ。
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関連項目
脚注
- *2人の共同研究が非常に多く、それだけでプラス1人分ぐらいの業績があるという意味のジョーク。一方で、「リトルウッドはハーディのペンネーム」(つまり、1人しかいない)という正反対のジョークもあったらしい。ちなみにジョークを紹介したハラルト・ボーア、ノーベル物理学賞を受賞した量子論の巨人ニールス・ボーアの弟で、自身もガンマ関数についての定理に名を残す数学者なのだが、「若いころサッカーデンマーク代表としてオリンピックに出場し銀メダル獲得」というとんでもない経歴を持つ異才だったりする。
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