五代十国とは、10世紀(907~960)の中国の時代区分である。
概要
具体的には朱全忠による唐の滅亡(907年)から、趙匡胤(ちょうきょういん)の即位(960年)までの時代である。
この約50年の間に華北では5つの王朝(後梁、後唐、後晋、後漢、後周)が覇権を競い、一方で華中、華南では10の地方政権が独立して成立していた。
後梁
907年、唐を倒して後梁をたてた朱全忠は開封に都を定め、初代皇帝となり、ここに五代十国時代が始まる。しかし建国時の後梁の領土は唐の1/4にすぎず、各地には晋王の李克用、前蜀の王建など天下を狙う武将達が存在した。その多くは唐の辺境の将軍である節度使出身であった。また同じ頃、耶律阿保機(やりつあぼき)が率いる遊牧民族の契丹は北アジアや中央アジアに勢力を広げており、万里の長城を超えて中国国内への進出を狙っていた。
907年、李克用は長男の李存勗(りそんきょく)と共に後梁へ侵攻を開始。李克用は片目が不自由であったため「独眼竜」と呼ばれ、また彼の軍隊は全員黒い衣装を着ていたので鵶軍(あぐん、カラス軍団の意)と呼ばれ、その強さを恐れられていた。しかし、朱全忠に比べ政略や謀略という面で劣っていた李克用は朱全忠に遅れを取り、朱全忠打倒を果たす前に死去し、李存勗がその跡を継ぎ晋王を名乗った。
そんな中、体調を崩した朱全忠は自分の跡を養子である朱友文に継がせようとしたが、これに怒った実子の朱友珪が912年に父である朱全忠と朱友文を殺害してしまった。しかし朱友珪自身も翌年に弟の朱友貞に謀反を起こされ死亡。こうして朱友貞が皇帝となった。
この隙をついて晋の李存勗は、知恵袋の馮道(ふうどう)の勧めで契丹との和平を結んだ後に後梁へ攻め込んだ。李存勗は後梁の基地を次々と攻め落とし後梁の首都、開封に迫っていった。李存勗は916年に黄河の岸に達し、923年には魏州で皇帝として即位して新しい国を建てた。これが後唐である。その年の秋には荘宗(李存勗)は大軍を率いて黄河を渡り開封へと進撃した。末帝(朱友貞)はこれに対抗できず自殺。後梁はわずか2代、17年で滅んでしまった。
後唐
しかしその後、都を洛陽に移した荘宗は唐の朝廷に習って宦官を復活させ側近政治を行ったため批判が強まった。また荘宗は贅沢な暮らしを好んだため馮道は引退してしまった。
その後、華北で反乱が起き、荘宗は義兄である李嗣源(りしげん)に鎮圧を命じるも、これを不服に思った李嗣源は926年に荘宗に反旗を翻し、軍を率いて洛陽を落としてしまった。こうして李嗣源は後唐の皇帝の座についた。
明宗(李嗣源)は引退していた馮道を召還し、そのアドバイスに従って宦官を遠ざけ、財政の立て直しをはかった。また、皇帝直属の軍隊をつくり皇帝の権力を強めることにつとめた。明宗の時代は大きな戦いもなく、それなりに平和であったが933年に明宗が病気で倒れると、次の皇帝の座を巡って再び激しい権力闘争が始まった。3代皇帝の閔帝(李従厚)は即位後はずか半年で殺され、934年に末帝(李従珂)が4代目皇帝になった。
その後、河東節度使の石敬瑭(せきけいとう)が反乱を起こしたので末帝はこれを兵糧攻めするも、石敬瑭と結んだ契丹の攻撃を受け、936年に後唐は滅び、石敬瑭は太原(晋陽)で帝位につき国号を晋とした。これが後晋である。
後晋・後漢
後晋は援軍を送ってくれた契丹に臣下の礼をとり、毎年30万匹の絹布と、燕雲十六州を契丹の耶律徳光に送った。燕雲十六州は万里の長城の南、河北省・山西省の北部の地域で、現在の北京や大同を含む広大な地域であった。この地域は地政学的に重要な地域で、この地域を巡って北方民族と中華は後々に長いこと争うことになる。
一方その頃、朝鮮半島では918年には開城(けそん)を本拠地とする王建が高麗を建国し、935年には朝鮮半島を統一した。
937年、石敬瑭は都を洛陽から開封に移した。942年に石敬瑭が亡くなるとおいの石重貴(せきじゅうき)が跡を継いだが、石重貴は契丹への貢ぎ物を拒否したため、946年、契丹の皇帝、耶律徳光は開封に軍隊を送り、出帝(石重貴)を捕虜にした。ここに後晋は2代12年で滅んだ。このとき契丹は打草穀騎と呼ばれる略奪部隊を作り河北地域を荒し回った。また契丹は翌年の947年に国号を遼と改めた。しかし打草穀騎は後晋の農民の激しい抵抗にあり、遼軍は北方に追いやられた。
後晋にかわって後漢を建てた劉知遠は突厥出身のトルコ系の武人の家柄であったが、皇帝となってわずか1年で病死してしまう。18歳の隠帝が跡を継ぐも、2年後側近の兵に殺された。後漢の治世はわずか3年。五代の中で最も短命な王朝であった。
後周
951年、後漢の有力武将であった郭威は部下に推され後周をたて皇帝となった。これが後周の太祖である。郭威は内政に力を注ぎ、国力の充実をはかるも954年に死去した。郭威の一族は、後漢の隠帝に殺されていたため、養子の柴栄(さいえい)が二代目皇帝として即位した。
世宗(柴栄)は馮道をまた重用したのだが、馮道にとってこれは5つ目の王朝であった。後唐、後晋、遼、後漢、後周と五朝十一皇帝に仕えた馮道を、人は不倒翁と呼んだ。また、この頃には後に宋の初代皇帝となる趙匡胤も台頭し始めていた。
華北が北で5つの王朝を交代させている間、華中や華南では10の地方政権が存在していた。華北をおおよそ統一した後周は中国統一のためにそのうちの一つ、後蜀を攻めることを決定する。955年、世宗の柴栄は自ら後蜀を攻撃し、4つの州を奪い取った。こうして西方の脅威を取り除いた後周は937年に南唐への侵攻を開始した。南唐は徐知誥(じょちこう)により建国された国家で、金陵に都を置き十国の中で最も豊かな経済力と高い文化を誇っていた。
南唐の抵抗にあいつつも958年、後周は南唐の長江以北の14州60県を奪取した。進退窮まった、李昪(徐知誥)のあとを継いでいた李璟は後周へ服属することを決めた。
南唐を屈服させた後周の次の敵は遼と遼を後ろ盾にしていた北漢であった。959年、世宗は趙匡胤とともに燕雲十六州を奪い返すために軍隊を派遣した。後周軍は各地で遼軍をやぶり、瀛州と莫州を取り返すも世宗が倒れたことにより汴州(開封)へ退却。跡をついだのはわずか7歳の柴宗訓(さいそうくん)であった。960年に趙匡胤は再び遼や北漢と戦うために北進するが、その途中、趙普と趙匡義の推戴を受けて皇帝となった。五代十国という時代はここで一区切りにされるが、この後も趙匡胤の中国統一の戦いは続いて行く。
十国
- 呉(902年-937年)
- 前蜀(907年-925年)
- 荊南(907年-963年)
- 呉越(907年-978年)
- 楚(907年-951年)
- 閩(909年-945年)
- 南漢(909年-971年)
- 後蜀(934年-965年)
- 南唐(937年-975年)
- 北漢(951年-979年)
また、十国以外の国として李茂貞の岐(901年-924年)と劉守光の燕(895?911年-913年)がある。
呉
群盗の出身の楊行密が現在の南京周辺を支配した政権。黒雲都と呼ばれる軍勢を率いたことによって台頭したが、頼り過ぎたが故に黒雲都の指令官である徐温と張顥が実権を握るようになる。
楊行密が死んだ後の君主は完全に傀儡であり、徐温と張顥との権力争いは徐温の勝利に終わる。が、その徐温も禅譲直前に病死、その養子である徐知誥に禅譲することによって4代で滅んだ。
南唐
禅譲によって南唐を建国した徐知誥は、楊行密に拾われた正体不明の孤児で、才能を見込まれたが楊行密の子たちとは折り合いが悪かったため徐温の養子になる。ここで才能を発揮し、徐温の実子たちを差し置いて後継者へと成り上がり、ついには国王にまでなった。皇帝即位後は唐の宗族と自称して李昪と改名、国名も唐にちなんだものとした。
国を運営するうえで最重要物資である塩の生産地を抑えていたため、十国の中では最強といわれていたが李昪は外征よりも内政に力を尽くした。その姿勢はまさしく名君といってもよかったが、外征をしなかったことが結果的に最悪な展開を迎えてしまう。
2代目の李景は外征を推し進め、内乱に乗じて楚と閩を滅ぼすがその後の処理がまずく、得た領土を手放すことになってしまう。その上、文人気質で実務に疎い傾向にあったため、後周の世宗に敗北、大幅な領土の割譲など後周の属国になることを余儀なくされてしまう。
3代目の李煜は国を保つことに保身するが、結局は後周の後継である宋に攻め込まれて滅ぼされることとなった。
前蜀
群盗出身で黄巣の乱で名を上げた王健が、蜀に割拠した政権。
戦乱の世ではあったが、天然の要害である地理条件と塩や鉄などの重要資源が産出することから経済発展に尽くし、別天地ともいえる平和な空間を造り上げた。文人たちが避難してきたことによって文化が花開いたが、その反面、秘密警察を作って国民を監視するなど暗い面もあった。
だが、その後を継いだ2代目が無能であり、蜀の天然資源に目をつけた後唐によってあっさり滅ぼされた。
後蜀
前蜀滅亡後の蜀の統治を任された孟知祥が混乱に乗じて独立。
前蜀譲りの経済力で文化が花開いたが、天下の険があることをいいことに外よりも内に向いてしまい、奢侈に走るのも前蜀と同じであった。そして、宋にあっけなく滅ぼされてしまう。
閩
群盗の王審知が福建に中心に割拠した政権。
初代の王審知は名君であったが、後継者に恵まれず、内紛の果てに南唐に攻め込まれて滅亡。
閩時代の遺物が今でも意外に残されている。
呉越
群盗の銭鏐(せんりゅう)が杭州を中心とした地域を支配した政権。
内政に務め、長江、東シナ海、南シナ海の結節点という立地を生かしての貿易国家として栄えた。その一方で細々としたものに税をかけていたと言われている。
周辺諸国と比較して後継者には恵まれていたため内紛が少なかったこと、強国に臣従して金で安全を買うことによって五代十国としては長期に渡って存続したが、宋が南唐を滅ぼして直接国境を接するようになると不利を悟り、自ら領土を献上する形で滅んだ。国としては一番まともな終り方であり、呉越公室は優遇されたという。
時代は流れて現代、子孫の一人が中国においてはロケット博士になり、もう一人の子孫はアメリカに渡ってノーベル賞を受賞をしているのだから、地下の銭鏐もさぞかしびっくりしているだろう。
楚
木工出身の群盗、馬殷が長沙周辺に割拠した政権。
経済国家であり、茶の販売が主な収入源だったため5代の国家には臣従、皇帝とは名乗らなかった。
馬殷は子沢山であったが、その息子たちが凡庸であったことから内紛が勃発、南唐に攻め込まれて滅亡する。
ちなみに馬王堆は馬殷の墓だという伝承があってつけられた名称であったが、実際に葬られていたのは全くの別人、そして馬殷よりも遙か古代の人だった。
荊南
丁稚出身で、後梁の朱全忠に才能を認められた高季興が荊州以下、3州の統治を任され、その後、独立した勢力。実は国家ではなく自治領という存在であり、員数合わせのために五代十国に組み込まれたのではないかという説もある。
十国中、もっとも小さい国家ではあったが大陸の中心という立地条件を生かし、五代の国のみならず、後唐や呉越といった国まで臣従、勢力の緩衝地帯と認識させることよって独立を保った。だが、宋の侵攻が始まると交通の要所という点から真っ先に攻撃目標とされ、宋に国軍を通過させろと脅されて認めるとそのまま占領されて滅んだ。荊南の滅亡により、十国が連携して宋を攻撃することが不可能になったので重要な意味を持つ。
ちなみに、万事休すとはこの国発祥の故事成語である。
南漢
劉隠が広東を中心に割拠した政権。ちなみに劉隠はアラブ系だったのではないかという説がある。
その頃の広東は中央から遠く離れていたので平和であり、南海貿易で栄えていたので国力も豊かであった。ただし、ベトナムの呉朝との戦いに敗れて独立を許し、これを契機に中華王朝のベトナム支配が終わったというのは重要な事件である。
特徴としては宦官大好き政権であったこと。宦官でないと役人として登用されない有様だったので人口100万人に対し、宦官の人口が7000人、末期には20000人に増加したといわれている。まともな状況ではなかったので、宋が侵攻するとあっさりと滅亡した。
北漢
後漢皇帝、劉知遠の弟である劉崇が甥の隠帝が殺された後、太原を中心として独立した政権。
誕生の経緯から後周、宋に敵対的ではあったが国力では叶わなかったため遼に臣従した。
遼の支援を受けて後周と対決するが敗北、内紛もあって4代で滅亡。北漢の滅亡により中国統一は完了した。
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