項羽とは、古代中国の武将である。紀元前232年生まれ、紀元前202年没。
ちなみに姓が項、名が籍、字が羽というので「項籍」と記す場合もあるが、
一般には項羽の名で知られている。よって、本項も下記以降は「項羽」で統一して記述する。
生い立ち
秦の始皇帝が中国を統一した時、秦に滅ぼされた楚の将軍、項燕の孫。父を早くに亡くしたため叔父の項梁に養われていた。
文字や剣術を覚えようとせず兵法を学んだがあらましだけで満足して学問をやめたことや、始皇帝の行列を観て「いつかあいつにとって代わってやるぞ」と叫んだという逸話で知られる。
身の丈は8尺余り(約180cm超)で、鼎を持ち上げるほどの力があり、才気はとてもすぐれていたため、人々から認められていた。
挙兵
紀元前210年に秦の始皇帝が死に、二世皇帝であった胡亥が暴政を行うと、紀元前209年に各地で反乱が勃発した。項梁と項羽は会稽郡(浙江省紹興市)の郡守(後の太守)を殺し打倒秦の兵を挙げる。このとき、項羽は郡守を討ち取ったのみならず、その周りにいたものを百名近く倒してしまった。そのため、会稽の役所にいたものは全てひれ伏し、項梁に降伏した。
紀元前208年、項梁は秦討伐の兵をあげ、項羽は項梁の武将として、従軍することとなった。項梁は項羽に一軍を率いさせて、襄城という城を攻めさせた。項羽は襄城を落とすと敵兵を全て生き埋めにして帰ってきた。また、沛という土地で決起した劉邦も項梁の配下として従ってきた。項羽はどこかの時点で、この劉邦と義兄弟の契りを結んだ。
一方、秦軍も反乱軍に対して、討伐軍を繰り出してきた。秦軍を率いることになった章邯は、秦への反乱をはじめに起こした陳勝の主力を率いた周文と戦うことになった。この周文は項羽の祖父である項燕に仕えていた人物であった。章邯は周文を討ち取り、続いて、陳勝も討ち取ってしまう。
項梁は参謀となった范増の進言により、楚の王族の末裔に「懐王」の称号を奉り戦いの大義名分を得る。章邯はまた、斉の王であった田儋、魏の王であった魏咎を次々と討ち取っていく。秦への有力な反乱軍は項梁率いる楚軍のみに絞られていった。
叔父・項梁の死
ついに、項梁は東阿という土地で、章邯の秦軍と激突する。項羽は項梁の武将として、劉邦や黥布らとともに活躍し、章邯を打ち破った。
項羽は劉邦とともに、項梁の別動隊を率いて、秦軍を各地で破った。項羽が討ち破った人物の中には、郡守の一人であった李由(秦の丞相であった李斯の長男)もいた。李由は戦死した。
しかし、項梁は項羽と劉邦が李由を討ち取ったと聞き、秦軍を侮って油断をする。章邯は項梁の油断を見て取ると、秦からの全面的な援軍を受けた後、夜襲をかけて、項梁を打ち破った。項梁はこの戦いで戦死した。
項羽もまた、項梁の死を聞き、軍を返した。楚軍は彭城に集まり、懐王を中心にして体制を立て直す。
章邯は、楚はこのまま弱体化するものとみなして、北の趙を攻める。秦では新たに、北のオルドスの地に匈奴に対抗するために駐屯していた王離率いる秦軍を反乱軍の鎮圧に投入してきた。この王離は項羽の祖父・項燕を破った秦の将軍である王翦の孫にあたる人物であった。
秦軍は章邯・王離の軍あわせて40万人にのぼった。秦軍を率いる章邯は項羽の叔父・項梁の仇であり、王離は祖父・項燕の仇の孫にあたる。項羽は闘争心に燃えた。
楚軍を率いる
積極的に秦との戦いを求める項羽に対して、懐王は楚軍を二つに分けて、本隊を支援する別動隊を劉邦に任せ、本隊は項梁の敗北を予言していた宋義という貴族出身の人物を上将軍に任じて、指揮をとらせた。項羽と范増・黥布はこの宋義の本隊の武将とされた。楚軍は鉅鹿(河北省邢台県)において籠城していた趙の救援に向かうこととなった。秦軍40万人に対し、楚軍の本隊はわずか5万人であった。
年は越して、紀元前207年になったが、宋義は行軍の途中で46日も楚軍をとめ、隣国の斉の大臣に宋義の息子がなるように工作を行う。宋義の思わくは楚と斉との同盟にあったと思われるが、宋義はこのことを項羽らに説明しようとせず、趙への早急な援軍を進言する項羽に対して、「秦軍を疲れさせるための計略である」と話した上、「虎や狼のような命令に従わないものは斬る」という項羽に対してあてつけた軍令を出した。
項羽は、宋義の行動は私欲によるものとみなし、宋義が兵士を大事にしないことも理由にして、懐王の命令を偽って、宋義を斬る。范増・黥布は項羽に従った。さらに、項羽は懐王から上将軍になる追認を得て、楚軍本隊の指揮をとり、鉅鹿に向かった。
繰り返すが、秦軍は名将である章邯・王離率いる40万人に対し、楚軍は5万人である。また、趙の軍も鉅鹿にいる内外あわせて5万人程度であり、援軍に来ていた魏・燕・斉の軍もそれぞれ数万人程度しかいなかったと考えられる。しかも、圧倒的な強さを持つ秦軍に対して、楚軍をのぞいた諸侯の軍すべてが戦意を失っている状況であった。
それでも項羽は進んだ。
鉅鹿の戦い(天下分け目その一)
項羽はまず、黥布に命じて、先行して章邯と戦わせる。戦いそのものは苦戦したが、兵糧が絶たれ、鉅鹿の城を攻めていた王離の軍の兵糧は乏しくなってきた。
ここで、項羽は残りの全軍を率いて河を渡り、釜を壊し船を沈めて(破釜沈船(はふちんせん)、食糧を3日分のみ残して、不退転の決意を示す(後世、これは項羽の『背水の陣』とも呼ばれる)。
項羽は一気に鉅鹿に向かう。そこでは王離率いる20万人の秦軍が鉅鹿を攻めていた。秦軍におびえきった趙・魏・燕・斉の諸侯の軍は楚軍が来ても呼応して戦おうとはしない。
だが、項羽には勝算があった。項羽は楚軍だけで戦うことに決めて、楚軍を指揮して、数では圧倒する秦軍を包囲して攻撃する。楚の兵は一人で秦軍10人相手に戦わないものはなかった。楚軍は9戦して秦軍を破り、甬道(ようどう)という秦軍に兵糧を運ぶための防衛施設付きの道路を破壊し、秦軍の兵糧を絶った。秦の将軍である蘇角を討ち取り、渉閒は焼身自殺した。王離も捕らえた。
この戦いを傍観するだけであった諸侯の将軍たちは、楚軍の勝利後に項羽に面会した時には平伏して顔もあわせることができなかったと伝えられる。諸侯の将軍たちの多くは、自分たちの王よりも項羽の部下となることを選び、項羽は諸侯の軍を率いる上将軍となった。(これは「従長」と呼ばれる戦国時代における孟嘗君や信陵君と同様の立場にあたり、当時としては項羽が楚に反した行動とはみなされなかった)
しかし、鉅鹿の南の棘原では、まだ、章邯が30万人程度はいたであろう秦軍を率いていた。項羽は寄せ集めに過ぎない諸侯の軍を率いて、章邯に連戦連勝する。章邯は秦に援軍を求めたが、秦の実権を握る趙高は章邯を責め、拒絶した。
咸陽争奪戦
しかし、順調であった項羽の戦いに暗雲が立ちこもる。諸侯の軍を率い、もはや楚の懐王の将軍であることを超えた存在となった項羽を懐王が警戒し、力を制限しようと画策していた。
この部分は史記の記述も曖昧であり、学説でも様々な議論があるが、どうやら、当初は懐王の打ち出した単なる秦打倒のスローガンに過ぎなかった「一番先に函谷関を抜けて、関中(戦国時代の秦の領地であり、秦の都・咸陽(陝西省咸陽市)が存在する本拠地)に入ったものを関中王とする」と楚軍に約束した「懐王の約」を懐王が実効性のあるものとして、それまでは鉅鹿にいる項羽の支援にあたり、各地の秦軍と戦っていた楚軍の別動隊を指揮する劉邦に命じて、咸陽を目指すことを命じたようである。
劉邦はこれに応じ、関中王となるべく、咸陽を目指して進軍を開始する。義兄弟であり、戦友であった劉邦はこの時から項羽の宿敵となった。
項羽と戦う章邯もまた秦の名将であり、大軍を率いている。項羽は戦いを有利に進めながらも、半年にも及ぶ戦いを繰り広げた。(小説や漫画ではよく王離が倒された後、すぐに章邯が捕まったり、降伏したりしているが実際は長い戦いを行っている)。項羽が章邯の軍をひきつけている間に、秦軍の勢力の弱まった地帯を抜けて劉邦は咸陽へと進む。
項羽は趙の将軍である司馬卬(司馬懿の先祖)に咸陽を目指させるが、劉邦はこれを阻止する。もはや劉邦の敵対行動は明らかであった。
項羽は章邯の降伏を受け入れ、関中王にあたる雍王に任じた。項羽ももはや、劉邦を関中王にするつもりはなかった。(なお、「懐王の約」は当時としては重いもので劉邦の方に理があるとする学説も存在する)。
紀元前206年、項羽は20万人を超える章邯の秦軍を受け入れて、60万人もの大軍で関中を目指した。
しかし、劉邦はすでに函谷関からではなく、南の守りのうすい武関から関中に入っており、秦は劉邦に降伏していた。
項羽は関中に向かう途中で反乱の気配が見えた20万人を超える秦軍を全て穴埋めにして殺してしまう。(なお、章邯とその部下であった司馬欣、董翳、章邯の弟である章平は生きていることから彼らの一族とその直属軍は許したものと考えられる)
鴻門の会
関中は劉邦によってすでに落とされており、関中に入るための関所である函谷関が劉邦の軍によって守られていた。項羽は進軍を防がれていることを知ると、大いに怒り、黥布に命じて函谷関を落とし、関中に入った。項羽の軍は40万人を数え、劉邦の軍は10万人程度であった。
項羽は范増の進言により、劉邦を攻めようとするが、劉邦の参謀となっていた張良と親しい項羽のもう一人の叔父である項伯がとりなしたため、劉邦の謝罪を受け入れた。劉邦を招いた宴席において、范増は劉邦を暗殺しようとしたが、項伯が阻止し、最終的に項羽は劉邦を許してしまう(鴻門の会)。
これが破滅をもたらす結果になるとは知らずに。
西楚の覇王
項羽は咸陽の都を落とし、始皇帝の一族を滅ぼす。咸陽の都は諸侯の軍による略奪にあい、そのため、咸陽に保管されていた書物の大半が失われた(なお、始皇帝の焚書により地方に存在した書物も焼かれていたため、存在していた書物のほとんどがこの時に失われた)。懐王は「懐王の約」により、劉邦を関中王とするように主張し続けたため、項羽は「『函谷関を抜けて』ないから劉邦は懐王の約を守っていない」という屁理屈は言わずに、懐王を義帝としてまつりあげ実権を奪い、秦を滅ぼした諸侯や将軍たちの代表として、秦討伐に功のあった者に論功行賞を行い、自身は「西楚の覇王」を名乗り彭城(江蘇省徐州市)を本拠とする。
この時、韓生という人物が「関中を都にすれば天下に覇をとなえることができる」と進言したが、秦の宮廷が全て焼け落ちており、故郷がある東の土地に帰りたいと考えた項羽はこれを断る。この後、韓生が「楚人は猿が冠をしているようなものと言うが、その通りだ」と言っていると聞き、韓生を処刑する。
この行賞は元々、各地で決起した王を僻地に追いやり、秦との戦いで功績をあげた将軍たちをその王の主要な土地を分割させて、王とするというものであり、後世に「項羽の十八王封建」や「項羽の十八王擁立」と呼ばれるものであった。章邯は司馬欣と董翳とともに、秦の土地を支配する「雍王」となり、咸陽に一番乗りして秦を滅ぼしたとしたとはいえ、勝手に関中王となろうとした劉邦は、漢中(陝西省漢中市)に左遷することにして「漢王」に封じた。黥布もまた「九江王」に封じた。
項羽としては、元々の王に反して秦と戦うために自分に従ってきた各国の将軍に報い、降伏した章邯たちとの約束を履行した行賞であったが、この行賞は多くのものたちが不満を持つ結果となった。
そのため、旧斉国(山東省)や旧趙国で反乱が起きる。また、漢中に押し込めたはずの劉邦が決起し、章邯たちから関中を攻めとる。
紀元前205年、項羽は黥布に命じて、かつての主君だった義帝(懐王)を僻地に追いやりこれを殺害した。
項羽はまず斉を討伐することにした。秦攻撃に援軍を出さなかった斉に対して、項羽は激しい虐殺や略奪を行う。そのため、斉における抵抗は激しいものになった。
この時、劉邦は項羽が義帝を殺害したことを大義名分に項羽討伐を諸侯に呼びかけ集めて、項羽を攻め立てた。その兵力は56万人にのぼった。
彭城の戦い(天下分け目その二)
劉邦は項羽が斉との戦いを行っている間に、項羽の本拠地の彭城を落とす。項羽はすぐにわずか3万人の兵力で取って返した。対する劉邦軍は、実戦経験豊かな劉邦を総大将に、中国史に名だたる名将である韓信が大将、同じく中国史に名高い名戦略家である張良が参謀となっており、圧倒的大軍である56万人の兵力を有していた(ただし、韓信にはついては、史記を見ても、彭城にいたという確証はない)。
項羽は劉邦軍が警戒しているであろう彭城の北や東を避け、あえて彭城の西側に回り、油断している劉邦軍を攻撃する。劉邦側の戦死者は20万人をはるかに越え、睢水という河は漢軍の死体で流れが止まったと伝えられる(彭城の戦い)。
だが同時に本拠地を一度は落とされていた項羽のいる楚が受けた被害も大きく、劉邦は取り逃がした上に、京・索というところで、楚軍は敗北し、滎陽のあたりで漢軍と膠着状態になってしまう。
劉邦との戦い
紀元前204年、劉邦の外交による項羽陣営の切り崩しが行われ、九江王となっていた黥布が項羽に反して劉邦につく。項羽はすぐに武将の龍且を派遣して討伐する。討伐は成功するが、その間に劉邦は勢力を盛り返していた。
さらに、劉邦は劉邦から独立した魏・趙を韓信に討伐させる一方で、参謀の陳平の計略により、離反策を項羽側に仕掛ける。項羽は次第に、参謀の范増や武将の龍且・鍾離昩・周殷を疑うようになった。范増は項羽に疑われ権限を奪われたことに抗議して、立ち去っていった。項羽は劉邦が守る滎陽を囲むが、劉邦は身代わりを立て、脱出してしまう。項羽は滎陽を落とすが、関中にいる蕭何からの補給を受けつつ、韓信の軍を奪った劉邦はまた勢力を盛り返した。また、群雄であった彭越が劉邦側について項羽の補給を絶ち、ゲリラ戦を展開する。項羽は劉邦との戦いに度々勝利するが、次第にその勢力を減退させていった。
紀元前203年、項羽が彭越を討伐している間に、武将の曹咎が劉邦と戦ったが敗北して自害する。また、斉を討伐した韓信に対して、斉への援軍として龍且を派遣したが、龍且も韓信に敗れて戦死する。楚は決定的な打撃を受けてしまった。
項羽は劉邦と広武山において対峙する。項羽は劉邦の父と妻(後の呂太后、呂雉)を人質にとっていたが、劉邦は意に介さず、項羽も彼らを殺害はしなかった。項羽は劉邦との一騎打ちによる決着を求めたが、劉邦からは当然のことであるが断られる。というか、誰がそんなものを受けるだろうか。
項羽は楚の勇者に命じて出撃させてが、漢軍には楼煩(ろうはん、騎馬民族の国家)人の弓の名手がいて、楚の勇者を三人まで討ち取ってしまう。項羽が自ら出撃すると、その楼煩人はおびえて、逃げ去ってしまった。
劉邦は項羽と谷間をへだてて、項羽と話しをすると、項羽の今まで犯した十の罪を数え上げる(なお、約半分はほとんどいいがかりである)。項羽は言葉を返さずに、伏せていた弩から放った矢によって劉邦を傷つけたが死にいたらしめるに至らなかった。
兵糧不足におちいっていた項羽は劉邦との講和に応じ、劉邦の父と呂雉を返し、楚に軍を返すことにした。
だが、それもまた、劉邦の計略であった。
垓下の戦い(天下分け目その三)
劉邦は盟約を破り、項羽の軍を追撃する。不意をつかれたにも関わらず、項羽は劉邦軍を打ち破った。しかし、項羽の武運もここまでであった。
劉邦が王の地位を約束したため、韓信と彭越が項羽討伐の軍を起こした。また、かつての部下であった黥布も項羽討伐のために劉邦のもとに集まり、項羽の武将であった周殷も項羽を裏切った。
紀元前202年、項羽は垓下(安徽省蚌埠市)という所に追い詰められる。漢についた勢力は垓下に集まってきた。
項羽は10万ばかりいた楚軍を指揮して戦った。漢軍は韓信の軍だけでも30万人いた。中国史上名だたる名将同士の決戦は、兵力差があるとはいえ、韓信の一方的な勝利で終わった。項羽は初めて敗れた。
四面楚歌
この時大敗した楚軍が防塁にこもり、漢軍に包囲された。夜になると四方の陣から故郷である楚の歌が聞こえてきた為、項羽は今や自軍が孤立している事を知り、大いに嘆いた。これが敵に囲まれて孤立することを表す熟語「四面楚歌」の由来である。
項羽は部下と共に別れの宴を開き、愛妾である虞美人(ぐびじん)、愛馬である騅(すい)との別れを惜しみ、「垓下の歌」と後に呼ばれる詩を読んだ。
力拔山兮氣蓋世(力は山を抜き気は世を蓋ふ)
時不利兮騅不逝(時利あらず騅逝かず)
騅不逝兮可奈何(騅の逝かざる奈何すべき)
虞兮虞兮奈若何(虞や虞や若を奈何せん)我が力は山をも動かし、我が気迫は世を覆うほどに強い
しかし時勢は不利であり、我が愛馬の騅は進もうとしない
騅が進まないのに一体何が出来るだろうか
虞よ、虞よ、そなたに何をしてやれるだろうか
宴の後、項羽は騎兵800名だけを連れて包囲網を脱出しようと、南へと向かう。
最期
追いすがる漢軍との戦闘により兵は数を減らし、東城に着いた時には28騎のみになっていた。さらに、漢軍の数千の騎兵が追いすがってきていた。
項羽は脱出できないと判断して叫ぶ。「兵を起こして8年。七十数戦して敗れたことはなく、常に敵を破り、ついに天下をとった! 今、苦戦しているのは、私の戦い方が悪かったというわけではない。天が私を滅ぼそうとしているからだ! 死ぬことは決意した。ここまでついてきてくれた諸君のために決戦し、必ず三たび勝利して、敵将を斬り旗を奪い、諸君らに天が私を滅ぼすのであって戦い方が悪いというわけではなかったことを証明してみせよう!」
項羽は言葉通り、追いかけてきた漢軍を蹴散らし、漢軍の2将を斬り、1将を退け、三度勝利し、百人近くを討ち取った。項羽は2騎を失っただけであった。
項羽は漢軍の包囲を突破すると、長江の渡し場である鳥江(安徽省巣湖市)へと至った。出迎えた亭長(田舎の交番もしくは出張所の長ぐらいの役人)は項羽に船を用意し、長江を渡って江東において王となり再起を図るように申し出た。
しかし項羽は「かつて私は江東の若者八千を率いて江を渡ったが、今は一人も帰る者がいない。そなたらが私を再び王にすると言ってくれても、どのような顔で彼らに会う事が出来ようか」と笑って断り、亭長に騅を与え、部下と共に漢軍に向けて最後の突撃を行った。
※この時の項羽の行動については矛盾しているという意見があるが、項羽は元々包囲を突破できるとは考えておらず、天が自分を滅ぼすものと考えて、死を一度決意していたことは注意すべきである。
項羽は獅子奮迅の戦を見せ、一人で数百人の兵を殺したが、自らも負傷した。そこに旧知の呂馬童がいるのを見つけると「お前に手柄をやろう」と告げ、自ら首をはねて死んだ。
莫大な褒賞がかけられた項羽の遺体を漢軍の兵士は殺し合いをしてまでも奪い合い、その亡骸は5つに千切れてしまったという。
項羽の死後も江東・江南を領していた楚国では、独自に王を立て、斬首されるものが8万人にのぼるほど激しく抵抗したが短期間で鎮圧された。最後に魯が降伏したことで、楚国は滅亡した。
その後劉邦は項羽を魯公の礼で手厚く弔い、呂馬童をはじめとした5名に対して領地を五等分して渡した。
その評価
『史記』の著者司馬遷は項羽の評価を手厳しめに書いてはいるが、劉邦と同じ「本紀」に載せて彼を天下人として扱うだけでなく様々なエピソードを盛り込んでいる。
「四面楚歌」に見られるような滅びの美学は彼を悲劇の英雄として昇華させ、劉邦とは対照的な人物として、今なお多くの人にその印象を焼き付けている。
また、帝を擁立して自身は覇王となり広大な領地を有して、多くの諸王を従える項羽が実行した天下の体制は、後に郡国制を採用して皇帝に即位した劉邦の建国した漢の体制に比べ、劉邦が帝と覇王を兼任した皇帝に即位したこと以外は大きな違いはなく、国家体制の構想としては全くの見当違いではなかったことが近年、評価されている。
項羽について
項羽の戦術能力
項羽については、創作作品において、項羽個人の武勇の強さや兵士たちの激情に訴えた決死の決意をともなった士気の上昇のさせ方が強調されたため、「突撃や突貫ばかりに特化した猛将」というイメージが存在する。
しかし、本文において述べた通り、大勝利を挙げた鉅鹿の戦いや彭城の戦いにおける急激な進撃は速攻による奇襲の効果を狙ったものと考えられ、数万人も率いながら奇襲的な攻撃に成功している。また、いたずらに突撃を行ったわけではなく、包囲を行い、弱いと考えられる部分を攻撃しており、項羽が高度な戦術能力を有していることが分かる。
項羽の部下であった黥布は、劉邦に謀反を起こし劉邦の軍と戦った時、黥布は軍陣を項羽の軍陣そっくりにしており、劉邦はこれを見て憎んだ、と伝わっており、項羽の陣法が模倣されるほど優れていたことを推測させる。
項羽の少年時代のエピソード自体が剣術よりも兵法に通じていたことを示すもので、『史記』の書かれた当時から、項羽は武勇よりも兵法に通じていた人物であるという認識があったことを示している。
『漢書』芸文志に「項王一巻」という書物が存在したことが記されており、これが本当に項羽自身の著作であるかはともかく、これも『漢書』が書かれた後漢時代でも項羽が兵法に優れている人物と認識されていたことを示している。
逆に突撃や突貫については、垓下の戦いでは、韓信相手に正面から叩き潰そうとして撤退された上で両翼から包囲されており、必ずしも項羽が長じていたとは断言できない。
項羽の略奪と虐殺について
項羽といえば、略奪や虐殺のイメージが強いが、直接の表現があった襄城、新安(20万人を越える秦兵の生き埋め)、咸陽、斉攻撃で行ったもの以外は、常態として行っていたというのはあくまで創作における話であり『史記』にはそのようには書かれていない。劉邦が項羽に向かって語った十の罪もそのことは含めていない。外黄という城を攻めた時も抵抗されたことに怒って成人男子を生き埋めにしようとしたとしたが、少年の進言によってとりやめたと特筆されている。
襄城については、余り攻略に意味がない、あるいは距離がありすぎると考えられる土地であるため、実際に攻略や虐殺が行われたことを疑う研究者も存在する。新安はいまだ関中にいる秦や劉邦と敵対しており、その段階で秦の兵士たちが謀反を起こした時にはいかなる不測の事態が発生するか分からない。斉については兵士や民衆はとんでもないとばっちりではあるが、斉が秦討伐において、非常に消極的な姿勢であり、そのため項羽の叔父である項梁の戦死の原因の一つとなり、また、斉が積極的に、項羽の論功行賞により作られた天下の体制を崩壊させるように仕向けたのは事実である。項羽が斉に対して大きな怒りを感じる理由は存在する。
また、劉邦の数えた項羽の十の罪の一つに、「秦の宮殿を焼き、秦の皇帝の墓を盗掘して財物を手に入れた」というものがあるが、地下にあった兵馬俑には盗掘と焼却の跡が一部あるが、始皇帝陵については、手つかずの状態となっていることも現在では分かっている。
創作における項羽の略奪や虐殺については、『史記』に記された韓信たち劉邦の部下や存在が危ぶまれる懐王の老将たちが項羽の戦闘について、「残滅しないことはなかった」と語った言葉から、いつしかそれが前提であるとして語られて通説になったものと考えられる。そのため、項羽が戦闘において略奪や虐殺を当たり前のように行っていたかについては、注意を要する。
ただし、咸陽において保管されていた書物は項羽の咸陽攻略後に間違いなく失われており、劉邦の数えた項羽の十の罪としてあげられてもいるため、全く略奪を行わなかったとは考えにくい。
項羽の人格について
項羽はかつて項羽に仕え、劉邦に仕えた韓信と陳平によってその人格が評されている。
韓信によると、「項羽が怒り叱咤すると、みな、恐れるほどであるが、すぐれた武将に任せることができない。これはただの「匹夫の勇」である。項羽は人に会うと、優しく接し言葉遣いは丁寧で、病人に涙を流しながら飲食を分け与えるほどであるが、功績がある人物に地位や土地を与えることをとても惜しむ。これはいわゆる「婦人の仁」である」とのことである。
陳平によると、「項羽は人を信じることができず、自分の一族や妻の一族ばかり取り立てており、すぐれた人物を用いることができない。確かに、項羽は謙虚で、人を愛しており、礼儀や名誉を大事にする人物は好んで仕えるが、論功に対して賞することは惜しむため、多くの人物が仕えたがらない」とのことである。
確かに、様々な欠点を持った項羽であるが、自分に反した人物すら評していることから、創作における傲慢な人格像とは異なり、礼儀正しく、親族や部下を大事にしたことは間違いないようである。
また、劉邦に仕えた随何も項羽について「軍の先頭に立ち、重い資材を運んでいる」と評しており、軍営にいてふんぞり返ることはしていなかったことも分かる。
項羽が一族ばかり大事にすることについても、劉邦も漢王朝の建国後は相次ぐ部下の謀反や謀反疑惑により、最終的に成長した息子や一族ばかり信任して各地の王に封じていること、
功績に対する行賞が少ないと評される件についても、劉邦は約束した恩賞が余りにも大盤振る舞い過ぎて、恩賞をくだし始めたのは、韓信の楚王廃位の後であり、その後もなかなか恩賞がくだされず、謀反を考える家臣が多かったことが伝えられること、についても注意を要する。
項羽の論功行賞について
項羽は秦を滅ぼした後、「項羽の十八王封建」や「項羽の十八王擁立」と呼ばれる秦を滅ぼした論功行賞を諸侯の代表者として、行っている。これについては、項羽が咸陽に集まった諸侯の軍を解散して、それぞれを封じた土地に帰還させた後わずか数か月で完全崩壊したところから後世に酷評されている。学説でも高く評価しているものは皆無である。
しかし、封じられた十八王を項羽と義帝(楚の懐王)を含めてあわせて20名を分類すると、
1 秦滅亡以前に秦に反乱し、六国(楚・斉・趙・魏・韓・燕)の王を名乗っていたもの
2 六国の将軍として項羽とともに戦い、あるいは項羽を助け、秦討伐に功績をあげたもの
項羽、黥布、呉芮、章邯、司馬欣、董翳、田都、田安、張耳、司馬卬、申陽、臧荼(12名)
3 項羽に従ってはいないが、秦討伐に功績をあげたもの
劉邦、共敖(2名)
に分類できる。
項羽に親しいものたちばかりが優遇された不公平な行賞という評価も大きいが、項羽の一族や范増たちは王位に封じられず、項羽の感情のみで決められたものではない。項羽に親しいとされる項羽自身を含めた12名が王位に封じられたことについては、『史記』の記述を読むと、多くは鉅鹿の戦いにおける功績と、項羽とともに関中に入り、秦を滅ぼしたことが重視されており、項羽から見ての軍功重視であることが分かる。
項羽が自分と親しい他国の将軍を王位に封じたのは、六国の王の権力を奪い、義帝(楚の懐王)からの自立を図る意図が含まれることは間違いないが、各地の王から離れて項羽に従い、秦討伐に功績を挙げた将軍たちや王に封じられる約束で降伏した章邯に行賞を行える人物は項羽以外にいなかったことも注意を要する。
なお、楚の懐王は「懐王の約」に従って劉邦を関中王にすることを求めており、懐王に従えば、項羽と章邯たち項羽に従った人物の望んだ恩賞はくだされることはなかったことも間違いない。
また、項羽が関中をすてて、彭城を都としたことについての批判も多いが、項羽の構想はあくまで自国の楚を中心とした、多くの小国による体制であり、彭城を都にしたことを積極的に評価する研究者が存在する。
また、上述した通り、項羽が行った帝を擁立して自身は覇王となり広大な領地を有して、多くの諸王を従える「項羽の十八王封建」は、後に郡国制を採用して皇帝に即位した劉邦の建国した漢の体制に近く、国家体制の構想としては全くの見当違いではなかったことは注意を要する。
劉邦の数えた項羽の十の罪について
広武山において、劉邦が項羽に対して宣言した十の罪は以下の通りであるが、全てある程度は項羽の立場において擁護ができる。「劉邦に都合のいい、いいがかりが多い」ととなえる研究者も複数存在する。
罪の一、懐王が「先に関中に入ったものを王とする」と命じたのに、関中に先に入った劉邦を左遷し、漢王としたこと。
本文参照。懐王の約束は「ただのスローガン説」と「厳しい制約説」が分かれるが、後者だとしても項羽はともかく、他の国の諸侯や諸将がその約束に拘束されることはない。懐王にしても項羽に対抗するために言葉をひるがえした可能性がある。劉邦を漢王に封じることは、項羽が単独で決めたことではない。また、劉邦は、章邯が雍王に封じられ、関中王になれないことを恐れ、懐王や諸侯の盟主である項羽に許可をとらず、函谷関を封じている。鴻門の会において劉邦はその罪を項羽と諸侯に謝罪したはずである。その謝罪を劉邦はひるがえしたことになる。
罪の二、項羽は懐王の命令を偽り、宋義を殺して、上将軍の地位についた。
本文参照。項羽は宋義の行動を任務放棄及び職権乱用で兵を苦しめた上での不忠の行いと解釈しており、あくまで戦時における非常事態の上での行動であった。また、懐王も追認している上に、項羽は結果を出して趙を救い秦に勝利している。項羽の行動が懐王の許可を得ずに独断で行ったものであるというのなら、宋義も同じように(少なくとも項羽や范増の視点から見れば)独断で行動している。宋義のような行動の後に、自立して王になった事例も同時代に存在する。
罪の三、項羽が趙を救った後、懐王の元にもどって報告するべきなのに、諸侯や兵を脅して関中に入った。
史書には項羽が脅して関中に入ったという記述はない。項羽は懐王の臣であるとともに、諸侯の盟主であり、その同意を得て関中に進撃している。また、劉邦自身も関中に入った後、懐王のもとにもどって報告していない。
罪の四、懐王は、「秦の土地に入ったら、暴虐・略奪してはいけない」と約束させたのに、項羽は秦の宮室を焼き、皇帝の墓を掘り、その財物を納めて自分のものとした。
懐王が本当に約束させたなら、言い訳はしにくいが、これは項羽のみならず、懐王の臣ではない諸侯や諸将とともに行ったことであり、どこまで拘束力があるか不明である。また、略奪もここで言われているほどではなかった。(上記の「項羽の略奪と虐殺について」参照)
言い訳はしにくいが、項羽のみならず、懐王の臣ではない関中に入った諸侯や諸将とともに行ったことである。また、過去、秦が他国に行ってきた侵略行為や胡亥時代の(始皇帝時代も存在した可能性は充分にある)暴政を考えると、兵たちの気持ちは抑えがたいものがあったであろう。
罪の六、だまして、秦の兵20万人を生埋めにして、その将軍(章邯・司馬欣・董翳)を王とした。
章邯たちを王にしたのは章邯への降伏条件であり、これは項羽のみならず、懐王の臣ではない関中に入った諸侯や諸将とともに行ったことである。また、懐王も追認していた可能性がある。秦の兵の生き埋めは行わなければどのような不測の事態が起きたか分からない。また、この事件は劉邦が関中に入った後のことであり、劉邦がすぐに秦が降伏したことを項羽に伝え、函谷関を封じて自立するような動きをしなければ、起きなかった可能性もある。
罪の七、項羽はともに戦った諸将を、良い土地の王とし、元の君主を追い出して、臣下に主君への反逆させるように仕向けた。
上記の「項羽の論功行賞について」参照。項羽のみならず、懐王の臣ではない関中に入った諸侯や諸将とともに行ったことである。
罪の八、項羽は、義帝(元の楚の懐王)を追い出して、彭城を自らの都とし、韓王の土地を奪い、梁と楚の土地を併合して、多くを自分の領地にした。
上記の「項羽の論功行賞について」参照。また、秦を滅ぼしても、また、戦国時代にもどっては意味がない。項羽が覇王として天下の盟主となり、天下の秩序を守るためには、大きな力を持つ必要がある。秦を滅ぼすことに最大の功績のあった天下の盟主となった項羽だから許されることであり、義帝がそれだけの領土をもらうことに納得する諸侯や諸将は存在しない。実際、劉邦もほとんど同じことを行っている。
義帝は明らかに罪がある劉邦に肩入れし、己と劉邦に都合がいい盟約を押し付けて、項羽のつくろうとした天下の秩序を乱そうとした(ただし、懐王の約は項羽に対してはかなりの拘束力があり、項羽の方が不義であるという説も有力なのは注意)。また、北では斉が西では劉邦が決起し、義帝が応じれば、かなり危険な存在となりうる。元々、義帝は楚の末裔といってもただの羊飼いであり、楚は項羽の叔父である項梁が立ち上げたものであるという意識が楚の軍にも強かった。
罪の十、人臣でありながら君主を弑殺し、降伏したものを殺し、不公平な政治を行った。盟約の主でありながら、誠実ではない。項羽は天下の許されないところであり、大逆無道である。
今までのことの繰り返しで特に意味はない。ここでは、本来なら、罪の十に数えられるべき罪が数えられていないことに留意する必要がある。もし、劉邦が懐王の許可をとって、関中王に封じられて函谷関を封じたのなら、ここで項羽の罪に数えるはずである。また、襄城や斉での虐殺についても述べられておらず、韓信や懐王の老将の語る項羽が日常的に行っていたはずの略奪についても項羽の罪に数えていないことも注意する必要がある。
以上、項羽に都合のいい言い分である可能性があるが、全て劉邦の言い分通りとはならないことは注意すべきである。
項羽神の信仰について
項羽は劉邦の建国した前漢時代は神や偉人として祀られたという記録はないが、項羽の死後約200年経った後漢時代から、項羽は呉の地に楚王の廟がつくられて祀られ、557年に建国された南朝の陳王朝の時代には軍神として祀られるに至った。
さらに、唐代に至って、項羽は天命に逆らった人物としての評価を受けながらも、異民族から国を守る国家守護の軍神として祭り上げられ、書道において有名な顔真卿によって碑が復旧されている。
南宋の時代においても、1161年の中国の北半分を支配した金王朝(女真族の国家)の軍が南宋を攻撃した時、項羽の廟を焼こうとした金の軍隊に対して、項羽があらわれてにらみつけ、大いにさけんで追い払ったという伝承が残っている。項羽は、金の軍から南宋を護ったと解されて、南宋王朝から霊祐王とされた。
現在では項羽神に対する信仰は廃れたようだが、死後1300年後まで祀られる対象となっていたことは特筆に価する。
後世の創作
『通俗漢楚軍談』
中国の講談を江戸時代に翻訳した講談小説。横山光輝『項羽と劉邦』はこれをベースにした作品である。
項羽は勇敢で武勇優れ、身近な人物には優しい部分もある反面、略奪や虐殺を行い、短慮で怒りっぽく部下をののしり、范増らの諫言に耳を貸さない人物に描かれる。そのために人望を失い、劉邦に韓信や陳平が寝返ることとなる。また、政略や軍略において、張良や韓信に遠く及ばなかった。
垓下の戦いの後、張良の策略による四面楚歌で兵が去り、さらに虞美人が自害して、天命が自分にないことを悟り、死を覚悟してからは、武人として勇ましい覇王の名に恥じない戦いを行った後で、自害する。
司馬遼太郎「項羽と劉邦」
自身に逆らう相手には容赦のないほどの残虐さで攻撃するが、身内や部下に対しては限りなく優しいという二面性をもって描かれる。
白の甲冑を身にまとい、圧倒的な武勇でもって敵対勢力をたびたび粉砕する。章邯の大軍に挑む際、小山から一気に駆け下り敵陣を一撃で切り裂き、敵将を討ち取る描写は圧巻。しかし咸陽落城後の論功行賞で身内ばかりを優遇し諸侯に反感を持たれてしまう
また自身の根拠地を戦略的に有利な漢中を選ばずにあえて故郷の彭城を選んだこと、劉邦が父親と不仲であったのに対し項羽は礼儀を重んじ、身内の項梁や項伯をあくまで立てたことなどから懐古的な主義を持つ人物として描かれる。
本宮ひろ志『赤龍王』
上記の司馬遼太郎『項羽と劉邦』と『史記』、久松文雄の『史記』(原作:久保田千太郎)のうち『項羽と劉邦』をベースとした漫画作品。
北斗の拳やドラゴンボールが連載中であった週刊少年ジャンプにおいて連載される。作品自体は打ち切りではあったが、それまでは「ひげ面の大男」のイメージが強かった項羽が、「シュッとした感じのイケメン」像に変えた作品である。
項羽は武勇すぐれるが、気性が激しく、かなり自己中心的な人物であり、政治的には短慮に描かれる反面、(韓信の口から)部下をいたわり、武人の矜持を大切にし、虞美人への愛に生きる人物に描かれる。
作品の最後では主人公を劉邦から奪い、垓下の戦いでは、たった7万人の兵力で、韓信率いる80万人の大軍相手に30万人を倒しながらも、敗北したと描写され、鳥江において最後の勇戦を見せた後、自害する。(実は、突破して脱出するつもりはなかったのに、結果的に脱出できる目ができたというところは『史記』と同じである)
作品の最後は項羽をたたえる見開きと、その後、(文字と背景だけによる)劉邦が韓信たちを誅殺したという内容の見開きという衝撃の終わり方をする。
大山タクミ『バウンダー 最強の少年 項羽』
項羽を心優しい、正義感が強い主人公として描いた漫画作品。項羽は項氏の出身ではなく、実の両親は始皇帝の暴政によって殺されているという設定。この作品の秦軍は老人や子供であろうとも、少しでも法に反したら容赦なく民を殺戮していくところが特徴。龍且がヒロインという変わった作品でもある。
項羽は決起前に張良と韓信と出会っており、その後の展開が期待されていたが、残念ながら、会稽郡守・殷通を殺害して決起した時点の2巻で連載終了している。
光栄「項劉記」
項羽と劉邦を題材としたこのゲームでは、当然の如く項羽が最強の戦闘力を持つ。戦闘・体力共に100。戦闘力ナンバー2の黥布が91だからその能力は圧巻である。ただし一騎打ちは結構ランダム性が高く、劉邦にすら負けてしまう姿も一度だけスタッフに目撃されている。(項劉記事典にて)
コーエー「三国志」シリーズ
「いにしえ武将」という隠し武将として三国志Ⅵより登場。武力はもちろん100であり戦闘能力の評価は呂布よりも高い。特に三国志11では列伝の冒頭でいきなり「中国史最強の武将。」と言い切られておりその凄まじさを物語る。固有特技「覇王」は全ての攻撃がクリティカル(2倍ダメージ)になるというまさに西楚の覇王にふさわしい最強の能力である。
隠し武将だからか残念ながら呂布のような一騎討ち補正は存在しないことが多いが、11における決戦制覇モードでは……
京劇「覇王別姫」
中国の伝統芸能・京劇において『覇王別姫』にて項羽と虞美人の物語が描かれる。
1922年に名女形・梅蘭芳によって演じられた人気演目で、愛する男に貞節を近い、また足手まといになる事を拒んで自害する美姫と、覇王と呼ばれた男の悲劇的な最期を描いている。
また演目に仮託し、清代末期の京劇俳優の愛と葛藤を描いた映画『さらば、わが愛/覇王別姫』(チェン・カイコー監督)が1993年に公開。レスリー・チャンが妖艶な女形を演じ、話題となった。
関連書籍
司馬遷『史記Ⅳ 逆転の力学』 徳間書店
司馬遷『史記〈4〉逆転の力学』 徳間文庫
『史記』について、歴史の流れを追う重要な部分を、原文、読み下し文、平易な翻訳、注釈、寸評をくわえて、時系列に並べた解説書。歴史の流れをとらえて内容を理解するのが、とても分かりやすい。また、歴史の流れの道筋から外れる部分は、テーマごとに分けて同じように解説しており、故事成語となった有名なエピソードも把握できる。
項羽と劉邦の活躍と戦いについて、関連する本紀・世家・列伝を時系列で分かりやすく理解できる。
また、冒頭にある「解題」によって、(古典的な説明ではあるが)楚漢戦争における項羽と劉邦の『史記』における特徴が、短く分かりやすく解説されている。
文庫は絶版であるが中古で安く購入できるし、図書館にどちらかを置いている可能性が高い。
書籍で楚漢戦争を調べたい人に、まずはおすすめしたい解説書である。
秦の滅亡までを調べたい人は、あわせて3巻を読んで欲しい。
シブサワコウ(編集)『項劉記ハンドブック (シブサワ・コウシリーズ)(光栄)』
「文字だけでなく、イラストや簡略な地図もある書籍で項羽たちについて調べたいなあ・・」とか、「小説的な掛け合いを含めた、人物についてもっと知りたい」という人にはこの書籍がおすすめ。
無双シリーズや歴史シミュレーションゲームで知られるコーエーテクモゲームスの前身である光栄がつくった歴史シミュレーションゲーム『項劉記』のコンピューターゲームの攻略本。
ゲーム自体の評価は高くなく、余り売れなかったようであるが、基本的な歴史解説とともに第五章の簡略な年表とゲームに登場する92名の人物解説がされている。また、ゲーム解説部分についても人物の掛け合い形式で書かれているため、楽しんで読める人なら、なんとなく地理や形勢についても理解が深まるのでおすすめである。
特に135頁からの「覇王、逆襲す!!」は項羽好きな人には読んで欲しい。
永田英正『項羽―秦帝国を打倒した剛力無双の英雄』 (PHP文庫)
項羽の数少ない伝記の一つであり、文章は読みやすく、とてもスタンダード。史記の翻訳よりも読みやすい。ただし、『史記』を中心とした史実の項羽の人物を描いた伝記ではあるが、『通俗漢楚軍談』も読んでいたためか、項羽が戦争において、当たり前に略奪や虐殺をしていたと解釈している。内容も昭和41年時点の研究のものである。
佐竹靖彦『劉邦』、『項羽』(中央公論新社)
学術研究書でありながら、項羽への愛に満ちあふれた作品。『劉邦』が先に刊行され、その内容を踏まえた上で『項羽』が刊行された。内容はそれなりに難しいがとても読み応えがある。項羽についての歴史書の記述に疑問をいだき、他の研究者の学説ばかりか、小説家である司馬遼太郎の説も踏まえ、項羽についての英雄論を展開している。
項羽好きなら、是非とも『項羽』の「序章」だけでも読んでほしい。
柴田昇『漢帝国成立前史』(白帝社)
学術書であるが、その中では比較的、文章が平易で読みやすい。発行が2018年と新しく、近年の学説を反映した研究が論じられている。できるだけ、フィクションや伝説・物語による先入観をとりはずし、史料(『史記』・『漢書』など)の読み直しによって、秦末楚漢戦争史像を構築し直すことを目的としている。
そのため、項羽の知性や人格、軍の略奪や虐殺などを失敗の原因とすることや、政治性・戦略性の欠如を批判することなどは全くなく、様々な学説や当時の様々な政治的背景や社会背景などを考慮にいれながら、秦末の反乱や楚漢戦争の経緯を考察している。
史記の翻訳を読んで項羽に興味を持たれた方は一読をおすすめしたい。
関連動画
関連項目
- 中国
- 漢王朝
- 覇王
- 司馬遼太郎
- 横山光輝
- 本宮ひろ志
- 三國志
- 項劉記
- 中国史の人物一覧
- 項燕
- 項梁
- 范増
- 項伯
- 鍾離眜(鍾離昩)
- 虞美人(虞姫)
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