もっと、熱くなれよぉおおおおおおおお!!!
松岡修造とは、諦めない、絶対できる、いつもポジティブ、しかし暑苦しいという元プロテニスプレイヤーである。
東京のヒートアイランド現象の原因、いや地球温暖化の原因の一つとも言われており、地球温暖化を食い止めるには、彼を宇宙に飛ばすしか方法がない。しかし、彼を宇宙に飛ばすと地球の温度が-273℃になるともいわれ、その温度差は物理法則にすら囚われていない。
炎の妖精の異名を持ち、ニコニコ4大妖精の1人として数えられている。
人物概要
松岡修造 | |
基本情報 | |
---|---|
国籍 | 日本 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1967年11月6日 |
身長 体重 |
188 cm 85 kg |
選手情報 | |
利き手 | 右 |
バックハンド | 両手打ち |
デビュー年 | 1986年 |
引退年 | 1998年 |
テニス選手テンプレート |
AB型、元プロテニスプレイヤー。
現在は主にタレントやテレビキャスターとしても活躍している。
主な出演番組は『くいしん坊!万才』(レポーター)、『報道ステーション』(スポーツキャスター兼コメンテーター)、『修造学園』(主演)など。テレビCMにも多数出演しており、2008年CM起用ランキングでは木村拓哉と並んで1位を獲得している。(ニホンモニター株式会社調べ)。
キャスターとしての仕事の際は英語が堪能であるのを生かし、同時通訳や英語でのインタビューなどをこなす事もある。
人柄は情熱や茶目っ気あふれる熱血漢で、現役時代から現在に至るまで数々の名言・エピソードを残している。現役引退後もその熱血ぶりは健在であり、テレビ出演時にもその様子が窺える。
松岡修造オフィシャルサイト(外部リンク)では、松岡修造メッセージと題し、修造からのビデオメッセージ「こんなあなたに…」が公開されており、氏の人生観に沿った熱烈な応援メッセージやはじけっぷりの数々を見ることができる。
東宝株式会社の社長である松岡功の次男で、曽祖父は阪急阪神東宝グループの創始者である小林一三である。本格的にプロテニスを目指したころ、父親からは反対され援助を受けられない時期もあった。実はその父も有望なテニスプレイヤーであったが、事業に専念する為にテニスから一切足を洗っていたため、松岡修造は父親がテニスをしていたことすら知らなかったという。また、兄も全日本大学選手権に出場するほどのテニスプレイヤーであった。
家系
氏の出生や家系に関しては、Wikipediaには記述があるものの、氏の公式ホームページ(外部リンク)に掲載されているプロフィールには、テニスを始める以前の記述や家系に関する記述は一切ない。メディアにおいても氏の家系について触れられることはないため、氏の輝かしい功績は実力で勝ち取ったものであることがうかがえ、氏も出生に関して特別視している様子はないようだ。
…だが、氏の長女である稀惺かずとが26.1倍(2017年度)の超難関として知られる宝塚音楽学校に合格したことにより、その関係が一気に取り上げられるようになる。彼の祖母は元宝塚の星組男役として活躍していた千波静、高祖父には宝塚歌劇の創始者、小林一三という”歌劇一族”という一面が一般にも知れ渡ることに。ちなみにいとこの田中里衣も元宝塚です。
その他にも曾祖父や曾叔父には名だたる実業家や社長の名前が出るわ出るわ、両親やきょうだいにも何だか凄い面子がズラリと並ぶ…。ぶっちゃけ、漫画でもこの規模の家系はボツになるレベルなので、興味がある人は是非Wikipediaの記事で確かめてみてほしい。
略歴
- 1977年 本格的にテニスを始める。
- 1984年 慶応高校から、テニスの名門である柳川高校(福岡県)へ編入する。
- 198X年 世界的に有名なコーチのボブ・ブレット氏との出会いから、高校を中退し単身フロリダへ渡米する。
- 1986年 フロリダのパーマーアカデミーを卒業する。同年、 プロのテニスプレイヤーとしてデビューした。
- 1988年 世界ランキングTOP100入りを達成する。
- 1992年 4月の韓国オープンにおいて、日本の男子プロとして初のATPツアー優勝を達成する。
1992年 6月のステラアルトワ・グラスコート選手権で準優勝し、世界ランキングを自己最高の46位にまで上げる。
1992年 しかし、同年ウィルス性の病気により3ヶ月の療養を余儀なくされる。 - 1993年 3月に病気から復帰し、5大会でベスト8入りを果たす。しかし、世界ランキングは100位以下で終わる。
- 1994年 世界ランキングは100位以下のままで、苦しい戦いが続いた。
- 1995年 ウィンブルドン選手権において、日本人の男子テニス選手として62年ぶりのベスト8入りを果たす。
- 1998年 春に現役引退。
ニコニコ動画における松岡修造
テニス選手として確かな実力と輝かしい経歴を持つ松岡修造であるが、ニコニコ動画における氏のイメージはそれとは大きく違っていた。
全ての始まりは、2008年の年始に投稿された「【松岡修造】ニコニコユーザーへ向けて応援メッセージ【熱血】」である。
動画冒頭、松岡修造個人が掲げる新年のテーマについて語る2本の動画は、彼らしく熱いとはいえそれほど可笑しい内容ではなかった。しかしその後に映し出される、遠くから突然「頑張れ頑張れできるできる」と謎の声援を発しながらカメラへ走り寄ってくる松岡修造の映像は正にシュールであり、締めに発せられた「北京だって頑張ってるんだから!」は、一見しただけでは到底理解出来ないものであった。その後に続く動画も、心に響く良い言葉を言っているものの、熱すぎる口調と奇妙なシチュエーションが相まってやはりシュールであった。動画のラストを飾った、寒いダジャレの後に披露されるお茶目な氏の姿からは、最早日本テニス界を代表する偉人らしさは感じられない様相であった。
この何とも言えないシュールさが受け、一部ではあるがニコニコ動画においても氏の存在が話題となり、氏の活躍を記録した様々な動画(素材)が有志によってアップロードされ始めたことから、徐々に氏の動画を素材としたMADが作られるようになる。
やがて、2008年夏以後に投稿された「Xepher - SHUZOMix」「Hot knows...」「松岡動画流星群」等のヒットを期にMAD素材としての人気・知名度が一気に高まり、更には、uni Nano Diaとのタイアップ企画「修造式!英単語・四字熟語道場」と「修造の家庭訪問!」のあまりの暑苦しさと面白さから、氏の人気は更に加速。その後も氏の新たなビデオメッセージの公開や番組・CM出演などを通じてMAD素材となる動画が一層増え、それに合わせて修造MADの幅も日に日に広がっていった。
当初のMADでは決まって言動やパフォーマンスのシュールさが強調されていたが、現在は氏の直向きな思い、心に響く応援メッセージを前面に押し出した所謂"正統派MAD"も数多く投稿されている。2009年5月1日には、「Hot knows...」が松岡修造動画初の100万再生を達成。他にもニコニコ動画でヒットしたMAD動画は数知れず、特に氏の情熱だけを一心に詰め込んだ関連動画は「松岡天満宮」として、就活生や勝負所を控えた人たちの間で密かな人気を誇っている。
2009年10月22日には、テニスマガジン12月号(発売日:2009年10月21日)の連載コラムにてとうとう松岡本人がニコニコ動画における数々のMADの存在に触れ、それらを容認した。
更に2009年10月26日「松岡修造の「熱い」MAD動画 「元気もらえる」とネットで人気」と題されたコラムがYahoo!Japanのトップに掲載。[1]
「怒るとかそういうことよりも、僕は『ホント、よくできているな』と思って見ている。凝った編集には『あっぱれ!』をあげたいし、逆に出来が悪いものには、もっと頑張ってくれないかな、と思うほどだ。こんなに一所懸命に作ってくれて、感謝したいくらいだ。みんながいい作品(?)を作れるように、僕たちも、もっと強烈なものを作るべきだなと思っている。」
上記のコメントのように、松岡本人は自身の映像や声を素材としたMAD動画の存在に対して寛容であり、怒るどころかむしろ喜んでいるようである。氏は実際にそれらの動画を見て、個人的に評価をしているらしい。
このようにいつでも熱く、時にシュールさを醸し出した氏の動画の存在は、今やニコニコ動画における「元気」「情熱」の象徴として捉える事も出来る。物事と真摯に向き合い、今を生きる人々を積極的に応援し続けるその生き様が変わる事が無いからこそ、非常に多くのニコニコユーザーに愛されるに至ったのだろう。そんなこんなで氏は今日でも定期的に自身のオフィシャルサイトで新たなビデオメッセージをアップロードしたり、様々なCMや番組に出演しては、ニコニコ動画のみならず日本中のファンに元気と笑いを与えている。
外部メディアにおける松岡修造
テレビ番組
[HV]報道ステーション スポーツコーナーキャスター
(月)~(金)*21:54~23:10 テレビ朝日 *日によっては出演しない場合あり ⇒関連サイト
[HV]松岡修造のくいしん坊!万才 11代目レポーター 2000年より出演
(月)21:54~22:00 フジテレビ 提供:キッコーマン ⇒関連サイト
[HV][新]松岡修造の情熱チャージ 熱血!ホンキ応援団 メイン司会者
(土)19:00~19:57 テレビ朝日 (冠番組) ⇒関連サイト
松岡修造はバラエティには1年に1回だけと決めているらしい。
そして、ゲストで登場する時、だいたい予想もできない場所から登場する。
2010年からは毎年「夢対決!とんねるずのスポーツ王は俺だ」 でとんねるずと対戦しているが、全て修造側が勝っている。
CM出演
- 任天堂 ニンテンドー3DS 『マリオテニス オープン』 2012年5月 ⇒ 関連動画1 / 2
- 任天堂 ニンテンドー3DS 『マリオ&ソニック AT ロンドンオリンピック』 2012年3月 ⇒ 関連動画1 / 2
- P&G ファブリーズ 2012年3月 ⇒ 関連動画1 / 2 / 3
- ブラウン オーラルB デンタプライド 2012年2月 ⇒ 関連動画1 / 2 / 3 / 関連サイト
- 眼鏡市場 2011年11月 ⇒ 関連動画1 / 2 / 3
- 任天堂 Wii 『みんなのリズム天国』 2011年7月 ⇒ 関連動画
- 富士薬品 2011年4月 ⇒ 関連動画1 / 2 / 3
- アサヒビール ダブルゼロ 2010年7月 ⇒ 関連サイト
- SCEI PSP 『みんなのテニス ポータブル』 2010年2月 ⇒ 関連動画
- Panasonic ラムダッシュ ES-LA92 2009年5月 ⇒ 関連動画1 / 2
- ロッテ クーリッシュのどごし☆パラダイス! 2009年5月 ⇒ 関連動画
- 三菱鉛筆株式会社 uni Nano Dia 2009年?月 ⇒ 関連動画1 / 2
- ベネッセ 進研ゼミ 小学講座 2008年11月 ⇒ 関連動画
- 紳士服コナカ 2001年~ ⇒ 関連動画
- 資生堂 uno 2007年5月 ⇒ 関連動画
- 生和建設 2007年~ ⇒ 関連動画
- 任天堂 Wii 2007年3月 ⇒ 関連動画
テニス選手・指導者としての松岡修造
彼の熱血漢の根源として、出自を投げ捨てて打ち勝った選手時代の雑草魂を抜きに語ることは出来ない。ニコニコ動画ではややもすればネタ的芸能人のように扱われるが、実際には日本テニス界にとって重鎮であり、また類まれな功績を残した人物でもある。
修造の父もテニス選手で、デビスカップ日本代表も経験した他、全日本ランキング元3位の実力者だったものの、家業のため大学卒業後はテニスから決別した経緯もあり、子供達にも選手としての経歴を話さなかった。
テニスとの出会い
8歳の頃、姉の影響で兄とともにテニスを始める。当時の修造少年は体型もテニス選手としては悪く、また悪戯をするなど多少素行が悪かったのに比べ、兄は体型にも恵まれ、またセンスも抜群であったため、周囲の注目は兄の方に向いていた。後年になって松岡本人も「世界に通用する素質があったのは自分より兄」と語っている。
見返してやりたい、自分は才能がないと言われ、自らもそれを自覚しつつも劣等感をバネにテニスへの情熱は増していき、名門テニスクラブである桜田倶楽部の門を叩いた。
学業と両立せよという校長の言葉も無視するほどテニスに対して打ち込んだ努力が実り、ついに全国中学生テニス選手権で優勝という成功を収めた。
慶應義塾高校に入ると修造少年も一時麻雀の誘惑に負けてしまうが、ある日ふと「こんなんでよいのか、テニスがもっと強くなりたいと思ったんじゃないのか、目標がないまま大学に行って、成り行きで社会人になるそんな人生でいいのか」と自問自答する。
激しい葛藤の末「このままではダメだ。俺はテニスがしたい。強くなりたい。ここは甘え地獄だ」と言う境地に達する。慶應義塾高校から決別し、テニスの名門高校柳川高校に、両親や周囲の反対を押し切って、自らを鍛え直すために転校することを決心する。
ここから、松岡修造の人生は思いもよらない方向に向かって進み始める。
心の故郷、柳川高校
柳川高校での練習はすさまじいスパルタ教育であったが、自ら進んで厳しい場に行くことを臨んだ修造少年にとってはむしろ歓迎するものだった。
1984年にはウィンブルドンのジュニア部門かインターハイ出場かで迷ったが、恩師や学校の仲間の義に報いるためインターハイに出場し、シングルス、ダブルス、団体戦の全てを制した。こうして修造少年にとっていつしかかけがえのない故郷となっていった。
1985年、再び同様のことが起きたが、今度は監督と母親の反対を押し切りヨーロッパ遠征を選択。世界を相手にそれなりの健闘をし、実りある遠征となった。
この時でもまだ修造少年は自分がプロテニス選手になるとは思っていなかった。ところが休学中のある日、桜田倶楽部のコーチから「テニスの世界的名コーチ(ボブ・ブレッド)が来日するので、練習を見てもらわないか?」と声をかけられた。
そう、実は欧州遠征にブレッドコーチが偶然居合わせ、修造少年のテニスの才能を見抜いていたのである。ブレッドコーチは修造の練習を見て、帰国後すぐに「明日にでもアメリカに来い。日本にいたら強くなれない」というメッセージを送る。
いざアメリカへ
1985年11月、修造青年はアメリカのテニスクラブで外国人選手に混じってテニスをするようになる。
そして、言葉の壁を乗り越えるため、日本語の本や雑誌など辞書を除くあらゆる日本語を排除した。多くの日本人が何年学んでも英語が身につかない中、修造青年は数カ月後にして言葉の壁を見事乗り越えた。自ら困難に向かってそれを物ともしない松岡修造とは本当に立派な男である。
現地のハイスクールも無事卒業、奨学金とともにアメリカの大学への進学を予定していた修造青年に「腕試しにプロの試合に出てみないか?」と言う言葉を投げかけられた。
さしもの修造青年もこれには動揺し「自分はまだプロの試合に勝てない」と漏らしたが「つまらない恐怖心を持つな!人間には思いもよらない能力がある。5年間頑張ってみろ。運がよけりゃ修造は世界100位内に入る力がある(この予言は見事的中する)」という言葉に心機一転。ATPツアー最下位カテゴリの予選に出場。これは誰でもエントリーはできるが、ATPポイントがなかった修造青年は予選からの7試合連続勝ち上がってやっと本戦出場し、ポイントを得られるという厳しい道程が待っていた。
そして、ブレッドの言葉通り修造青年は自分の予想に反し、予選を勝ち上がり本戦出場しATPポイントを8ポイント手に入れることができた。そして、ブレッドは大学に行かずそのままプロになることを勧め、修造青年も悩んだ末にプロ選手になることを決意。父はあっさりと認めたが母は猛反対した。しかし、最終的には修造青年の熱意に折れたのであった。
プロテニス選手としての躍動
プロテニス選手になった松岡であったが、両親は資金面の援助を一切行わないという条件だったため、金銭面で困窮し、予算の切り詰めのため、食べ物にも困ることも多かった。
アジア出身のテニス選手は当時は今よりも珍しく、無名の選手だったため練習相手もおらず、必死に練習相手になってほしいと懇願しても、誰も相手にしなかった。しかし松岡はそれにへこたれず、とにかく強くなりたい一心で壁打ちをしている選手に声をかけ、多く拒否されながらも運良く承諾されれば「いい練習になった」と喜ばれたいがため、全力以上の力を出して練習に臨んだ。
こうして松岡の練習はいつしか質の高い練習として評判となり、練習相手として受け入れられるとともにそれが自分自身にとっても練習となり、松岡のテニスのレベルは飛躍的に向上した。
1988年まではツアー下部大会を中心に転戦、その間コーチのブレッドがボリス・ベッカーと契約したため新しいコーチと契約。
1988年1月に全豪オープンで予選を勝ち上がり、全世界のテニス選手が憧れるグランドスラムに初出場、4月には当時271位だった松岡は、世界7位のミロスラフ・メチージュ相手に勝利するという快挙を成し遂げたのである。
続く全米オープンではグランドスラム初勝利を達成、ソウルオリンピックにも出場した。様々な活躍もあり松岡のランキングは82位に急上昇。JTAのランキングも日本人トップとなり、「世界に通用する日本人テニス選手」として注目される。
1989年には日本人で13年ぶりとなるツアーシングルス準優勝や、ダブルス部門でツアー初優勝するなどの好成績を収めていき、松岡はこれからの躍動が期待される順風満帆なテニス選手としてさらなる活躍が期待されていた。
怪我との戦い、そして復活
しかし、両膝の半月板の故障により、ツアーの一時離脱を余儀なくされる、自ら困難を打ち破ってきた松岡にとって最初の狂いだった。1990年にはランキングは181位まで転落、そのうえさらなる3本の靭帯断裂という大怪我で、選手生命さえ危ぶまれたが、不屈の闘志で1991年には復活。この時当時世界ランキング9位だったピート・サンプラスと対戦し、勝利するという快挙を達成した。
1992年には韓国オープンに出場し見事優勝。日本男子シングルスとして史上初、錦織圭が登場するまでは史上唯一の優勝を果たした。
また、6月のツアーでは当時世界ランキング2位だったステファン・エドベリに勝つなど、度々番狂わせを演じている。
そして、この活躍により、自己最高位である世界ランキング46位を記録、錦織圭が登場するまではこの記録は日本人最高位であった。
しかし、またしても単核球症に感染し、長期入院を余儀なくされる。
松岡修造のハイライト。1995年ウィンブルドン
プロテニス選手時代で最も有名な功績は、1995年のウィンブルドン選手権におけるベスト8出場であろう。日本の男子テニスにおいては62年ぶりの快挙であり、氏が日本における最高峰のテニス選手であったことを示す輝かしい功績である。プロ時代、度重なるケガや病気に悩まされながらも、その逆境を跳ね除けた後にこの栄誉を勝ち取っており、氏の実力とテニスに掛ける情熱が本物であったことを窺い知れる。
特に4回戦で勝利した時、松岡は感動のあまりコートを駆け巡って喜びを表現し、芝のコートに倒れこんで天を仰いだ。その様子は誰もが感動する所であるが、数えきれない苦難を、時に自らに貸しながら手に入れた栄光であったことが伺える。
準々決勝ではウィンブルドンの1番コートでピート・サンプラスと対戦。第一セットを奪うものの続く3セットを奪われ準決勝進出はならなかった。
怪我と引退、引退後
しかし、その後は再び怪我に悩まされ、ランキングも低迷。特にウィンブルドン後の全米オープンでは肉離れで倒れこみ、ルールの欠陥から失格するまで誰も触れることが出来ずに痛々しい姿が映るという衝撃の場面もあった。
これをきっかけに「シュウゾウ・マツオカルール」としてメディカルタイムアウトの規則が改められた。その後、このルールは再び改正されて現在に至っている。
現役引退後はジュニアの指導・後継者の育成に力を入れており、いくつかのテニス関連団体に所属している他、テニス活性化プロジェクト「修造チャレンジ」を自ら主催している。錦織圭も修造チャレンジに参加したことがあり、当時から松岡修造にその実力を評価されている。
錦織圭に関しては「自分とは格が違う」と繰り返し述べており、また「46位の選手」と謙遜することもある。修造チャレンジの時は錦織は弟子であったが松岡は「今は彼が自分の師匠」と語っており自ら「師弟逆転宣言」を行った。
ジュニア指導の実績を買われ、2012年には日本テニス協会強化本部副本部長及び理事に推薦され、就任した。
プレースタイル
いわゆるビッグサーバーで、早い展開のグラスコートを得意とした。前に出るサーブアンドボレーもあり、サーブが好調ならばトップ選手でも苦戦するレベルであった。
一方、体も固くスタミナにも難があり、メンタル面にも弱点が遭った。また、上記のプレースタイルだったため、クレーコートは大の苦手としていた。
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- 炎の妖精(ニコニコ4大妖精)
- しじみ(蜆)
- 東方熱血漢
- 松岡投稿祭(修造投稿祭、1月4日は松岡投稿祭)
- 4月23日はシジミ祭
- 7月3日は松岡ウィンブルドンベスト8祭(松岡ウィンブル祭)
- 11/6は松岡誕生祭
- 松岡修造殿堂入り/しじみ殿堂入り
- シジミリオン/ダブルシジミリオン/トリプルシジミリオン
- 修造合作MADリンク
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- 反骨の御曹司
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