矢風(峯風型駆逐艦)とは、大日本帝國海軍が建造・運用した峯風型駆逐艦6番艦である。1920年7月19日竣工。大東亜戦争を生き残り、1948年9月に解体完了。
概要
大日本帝國海軍が建造した史上初の純国産一等駆逐艦。艦名は「矢が飛んでいる時に生じる風」を意味する。
今までの日本駆逐艦はイギリス式の設計をベースに改良を重ねていたが、仮想敵アメリカの巡洋戦艦が33ノットを超える高速性を発揮するとの情報を得たため、太平洋の荒波下に耐えられるだけの凌波性と、敵主力艦を捕捉出来る高速性能の確保が最優先事項となった。しかし今までのイギリス式設計では太平洋の荒波に耐えられず要求性能を達成できない。ここにきて帝國海軍は師匠イギリスの下を離れて、自力での新型駆逐艦開発を迫られたのである。このような背景で新設計されたのが峯風型駆逐艦だった。
第一次世界大戦後、帝國海軍はドイツから賠償艦として得た駆逐艦5隻を徹底研究。先んじて建造された樅型二等駆逐艦の設計を基礎とし、凌波性を強化するべく樅型駆逐艦同様に艦首楼甲板を艦橋の直前でカットしてウェルデッキを設け、ここに魚雷発射管を設置して、甲板を越えてきた波を受け止められるようにし、船首楼甲板に青波が打ち込んできた際の対応策として舷側に丸みを付け、艦橋も船体中心部に移動して波の直撃を避けられるよう工夫。この設計は第一次世界大戦前のドイツ海軍が水雷艇S90以降に採用していた方式である。また主砲は全て一段高い位置に配置した上で防楯を装備。これらの改装により、これまでの駆逐艦と比較して航洋性が大きく向上した。
艦首はスプーン・バウと呼ばれる日本艦独特の形状を採用。これは洋上決戦用に開発した一号機雷(連系機雷)に自軍の艦が引っかからないようにするための対策だった。
高速性能を発揮すべく、日本ではまだ国産化されていないパーソンズ式インパルス・リアクション・ギアード・タービンを搭載し、谷風型と比較して機関出力が13%向上、計画速力の39ノットを実現した。航続距離も、14ノットで3600海里と艦隊随伴型駆逐艦として満足に足る性能を獲得し、峯風型駆逐艦は成功と言っても過言ではなかった。実際、当時の列強各国は、峯風型に比肩しうる駆逐艦を持っていなかったと言われるほど、高性能を有していたのである。計画では天城型巡洋戦艦の護衛を務めるはずだったが、関東大震災の影響で天城型の建造が中止されたため実現していない。
しかしパーソンズ式は、日本の技術力では手に余るもので、各艦とも公試中や竣工直後にかけてタービン翼が折損するなどの主機故障が多発、外国産のタービンは信用ならないとして、帝國海軍は国産の艦本式タービン開発に乗り出した。また燃料消費の多さも無視できない問題であった。
要目は排水量1215トン、全長102.6m、全幅8.9m、出力3万8500馬力、最大速力39ノット、乗員148名。兵装は三年式45口径12cm単装砲4門、6.5mm単装機銃2丁、六年式53cm連装水上発射管3基、一号機雷16個。
戦歴
駆逐艦時代
1917年度八四艦隊案において峯風型駆逐艦9隻の建造が決定。第6号一等駆逐艦の仮称が付けられる。
1918年1月24日に駆逐艦矢風と命名され、建造費202万8415円を投じて、同年8月15日に三菱造船長崎造船所で起工、1920年4月10日進水、そして7月19日に無事竣工を果たした。横須賀鎮守府へ編入されるとともに姉妹艦と第2駆逐隊を編制。矢風は姉妹艦の中でも特異な運命を歩んでいく事となる。
1926年12月1日に第2駆逐隊は大湊要港部へ異動。カムチャッカ半島付近の北洋漁場は、その権益を巡ってソ連と対立状態にあり、操業中の日本漁船が銃撃を受けたり、あるいは拿捕・抑留される事件がたびたび起きていた。ソ連の嫌がらせに対抗すべく第2駆逐隊は4隻を交互に派遣して目を光らせる。
1931年、第2駆逐隊(矢風、峯風、澤風、沖風)は第1航空戦隊に編入され、空母赤城と鳳翔の直衛艦として、不時着水した機体から搭乗員を救助するトンボ釣りに従事。1932年1月に第一次上海事変が勃発した際には、矢風は第1航空戦隊の護衛として上海沖に進出し、揚子江口にて哨戒任務に従事した。
この頃になると、艦齢的に峯風型は竣工時の性能を発揮出来なくなり、最大速力も34~35ノットに低下、24ノット以上で走航するには海軍大臣の許可が必要になるほどだった。老朽化ゆえに空母の直衛任務へと回された訳である。
1933年6月21日、矢風、沖風、澤風、峯風の4隻は横須賀工廠で軽質油格納所の新設工事を受ける。
1934年11月15日発令の駆逐隊編制で矢風は第2駆逐隊より除かれる。新型艦が次々に就役していく中、平和な時代に多数の駆逐艦を抱えられるだけの、財力と余力がない帝國海軍は、旧式艦を逐次予備艦に格下げしており、峯風型もその波に飲み込まれていった訳である。以降は呉警備戦隊、予備艦、警備駆逐艦などを転々とする。
1937年8月13日、第二次上海事変が勃発。ドイツ製の最新鋭武器を持った中国国民党軍3万からの攻撃を受け、苦戦を強いられている現地の守備隊4000名を支援するべく、8月17日、増援の陸戦隊を乗せた摂津とともに佐世保を出港、8月19日に馬鞍群島へ到着して、軽巡名取と第21駆逐隊に陸戦隊を移乗させた。
標的艦摂津との関わり
1922年、ワシントン海軍軍縮条約が締結。帝國海軍は新型戦艦陸奥の廃艦を免れるために、やむなく旧式戦艦摂津の廃艦を決定するのだが、条約には「廃棄する主力艦のうち1隻は標的艦にしても良い」という抜け道があったため、摂津を標的艦に改造して武装を全て取り払った。しかし、最初の数年間こそ艦隊附属の曳的艦として活躍したが、僅か数年で予備艦籍に編入。あとは呉軍港内に係留されるだけの日々を送る。
そんな中、帝國海軍は「ドイツで戦艦の無線操縦に成功した」との情報を得て研究に着手、ドイツの無線操縦技術やボイラーの自動燃焼装置を研究した結果、1928年、駆逐艦卯月で行った電動機と電池を用いたシステムの実験が成功、ついに国産の無線操縦受信装置を完成させた。
1936年に摂津の無線操縦爆撃標的艦への改造が決定、1937年1月から約半年かけ、呉海軍工廠で改造工事を行った。矢風はその操縦船に抜擢され、魚雷発射管と12cm単装砲の一部を撤去。
要請を受けると摂津と矢風は出港。目的地の砲戦海面に着くまで摂津は手動で操艦する。一般船舶が砲撃に巻き込まれないよう太平洋上で砲戦訓練を行う事が多かったという。目的地に到着後、整備担当者が艦を停止させ、艦内各部を点検したのち矢風へ移乗、それが終わってから摂津を狙った砲戦訓練を始める訳である。矢風から放たれる電波信号を受信し、摂津は発進・停止・面舵・取舵・加速・減速などの運動を行う。
炸薬ではなく砂を詰めた模擬弾を使うとはいえ、着弾による衝撃で空中線が切断され、応答能力が低下するのが問題だったものの、矢風の操縦によって、摂津は本当に人が乗っているかのような操艦を見せ、後に煙幕の展開まで可能になるなど、実戦さながらの有益な爆撃訓練を海の荒鷲たちに提供した。砲戦訓練が終わると担当者は摂津に帰艦。艦内のチェックと航行準備を行って母港へ帰投する。
当初は無人のラジオ・コントロール式だったが、1939年から1940年にかけての第二次改造工事で有人式に改められ、重巡の砲撃訓練、航空機の雷撃・爆撃訓練のみならず、摂津側も爆撃訓練中に回避と弾着観測を行えるようになった。後に空母や戦艦の艦長となった人の中には摂津による滞空戦闘時の爆撃回避訓練を受けた経験者も少なくなかったという。開戦時に母艦航空隊が世界最高の練度を誇っていたのは、ひとえに矢風と摂津の助力のおかげと言えるだろう。
このため、戦闘に直接寄与する艦ではないにも関わらず、1940年4月20日に矢風と摂津のコンビは連合艦隊附属に編入され、同年10月11日に横浜沖で挙行の紀元二千六百年特別観艦式では、摂津と揃って第二列に配置。
標的艦矢風
1941年12月8日に大東亜戦争が開戦。矢風は本土近海で哨戒任務に従事する。
1942年1月19日朝、安下庄から柱島泊地に向かう戦艦大和、陸奥を駆逐艦三日月とともに護衛、午前11時30分に目的地まで送り届けた。3月2日、安芸灘にて神田明少尉と他2人が乗った特殊潜航艇・甲標的が沈没事故を起こしたため、水上機母艦日進とともに行方不明者を捜索するも発見出来ず、翌3日夜になってようやくダイバーが甲標的を発見、しかし内部からの応答は無かった。
開戦に伴って標的艦が全く足りず、また摂津の性能が陳腐化して標的艦としては使いづらくなった上、トラックやラバウルなどの遠隔基地に鈍足な摂津を持っていくのは困難と判断され、操縦船の矢風も標的艦へ改造される事となる。
3月から5月にかけて工事を行い小型標的艦に改装。兵装を全て外し、上部構造物を金網で覆うなどの対爆弾防御を施した。とはいえ元は駆逐艦に過ぎない矢風には1kg演習弾に耐えられる程度の簡単な防御しか施せなかった。ただ、速力は24ノット(44km/h)を発揮出来たため、17ノットしか出せない摂津と比較して十分な性能を持っていた。7月1日の改装でアンテナ以外の部分が一瓩演習爆弾改三に耐えられるよう強化。そして7月20日に特務艦籍となり標的艦へ艦種変更、これにより峯風型駆逐艦より外された。
こうして生まれ変わった矢風は標的艦任務に従事すべく、8月16日に横須賀を出港、マーシャル諸島ルオットに進出し、8月31日から9月27日まで第4空襲部隊の雷撃訓練に協力、次いで機動部隊より爆撃訓練の協力要請があり、10月2日、トラックに回航されて爆撃訓練の標的艦を務める。それが終わると10月13日から10日間タロアにて爆撃訓練に協力した。11月11日には最前線基地のブカにまで出張している。サイパンを経由して12月11日、呉に帰投。12月24日より基地航空部隊附属となる。
1943年1月16日に呉を出港。トラック・ラバウル間で船団護衛に従事する。
3月6日、カビエン南方にて護衛任務中、第34号哨戒艇(旧樅型駆逐艦薄)と衝突事故を起こしてしまう。矢風は艦首部分を亡失、第34号哨戒艇は艦前部が沈没し、何とか防水処理に成功した後部のみが、トラックへと曳航されていった。一方、矢風はラバウルに移動して特設工作艦山彦丸によって応急修理。トラックを経由して内地に帰投した。続いて4月12日より5月22日まで呉海軍工廠で本格的な修理を受け、簡易型艦首を装着する。
6月1日、古賀峯一連合艦隊長官の命により第1基地航空部隊・第11航空艦隊へと編入、マーシャル方面とラバウル方面で標的艦訓練に従事するよう命じられる。続いて6月7日に桜庭久右衛門少佐が着任。桜庭艦長は、矢風に砲が装備されていないのを見て、潜水艦に対する威嚇用に、木造の偽砲2基を造らせ、前甲板と後甲板に配置した。またこの頃に爆雷8個と機銃3基を装備。少なくとも丸腰ではなくなった。
6月10日に呉を出港。宇品から佐伯沖まで移動する陸軍特種船あきつ丸、摩耶丸、凌水丸を途中まで護衛し、それが終わるとマーシャル方面に進出。6月19日より、クェゼリンにて第22航空戦隊の爆撃訓練に協力、7月15日まで、毎日午前4時30分より午前7時45分まで演習弾を受け続け、合計57発が矢風に命中した。訓練終了後、波風と帝洋丸に横付けして燃料補給を受ける。7月21日にトラックまで戻って再び燃料補給。
7月26日よりサイパンにて第751航空隊の雷撃訓練に協力、7月31日までに23本中10本の魚雷が矢風に命中する。8月13日にサイパンを出港、ロタ島西方15海里で、トラック発横須賀行きの特設運送船五洲丸と合流・護衛を行い、同日中にサイパンまで送り届けた。
8月31日、再びサイパンを出港、9月1日午前11時に特設給油艦富士山丸、東亜丸、給油艦鶴見からなる第8283船団と合流し、駆逐艦玉波とともに護衛、翌2日トラック諸島の春島錨地に投錨した。9月10日より春島東方海面で機動部隊の爆撃訓練に協力。機動部隊の訓練だけあって投じられる演習弾も多く、2日間で354発の投弾を受け、このうち54発が矢風に命中している。
9月12日午前7時頃、翔鶴所属の戦闘機1機が矢風の前マストに激突する事故が発生、矢風は煙幕を展開して訓練中止を求め、救助作業を行うも、乗っていた搭乗員は死亡した。翌日から訓練が再開され、10月5日まで毎日3回の爆撃訓練を実施。10月6日にも訓練が行われたが、米機動部隊がウェーク島を爆撃して、第22航空戦隊の零戦や一式陸攻に大損害が発生したため、午後の訓練は急遽中止となり、米機動部隊に艦隊決戦を挑むべく連合艦隊は直ちに出撃準備を開始する。
10月17日に戦艦武蔵を旗艦とする機動部隊がトラックを出撃、基地用レーダーがあるブラウン島へと進出した。翌18日、矢風は特設運送船東亜丸を護衛してトラックを出港、10月21日、機動部隊が停泊中のブラウンに到着して燃料補給を受ける。そして10月23日、機動部隊は敵を求めてブラウンを発つが、会敵に失敗してしまい、何ら戦果を挙げられないまま、10月26日にトラックへ帰投、貴重な燃料を無駄にする結果となった。
10月30日に連合艦隊附属となる。同時に連合艦隊からシンガポール行きの油槽船寶洋丸、玄洋丸の護衛を命じられた。
11月5日、シンガポールに向かう油槽船寶洋丸と玄洋丸を護衛してトラックを出港。しかし同日23時59分、トラック北西150海里にて、哨戒中の米潜水艦ハダックにレーダー探知され、1万トン級タンカーに3本、矢風に対して4本の魚雷を発射、幸い全て外れて不成功に終わる。船団は探照灯火を照射して砲撃を開始。が、翌6日午前0時5分頃、回避運動中に矢風は12ノットで玄洋丸の右舷後部に突っ込み、艦首屈曲・右舷へ6度傾斜・速力6ノットに低下してしまう。舵が効かなくなり旋回しか出来ない中、それでも矢風は爆雷を投下してハダックを必死に威嚇する。
1時間後ハダックは再び魚雷4本を発射。このうち2本が寶洋丸の船首と船尾にそれぞれ命中して大破、矢風にも雷跡が伸びてくるも、深度の調整を誤っていたのか、艦底の下を通過する思わぬ強運に恵まれた。また矢風の強運は続き、ハダックは先ほどの雷撃で魚雷を全て消費、トドメを刺す機会を逸して退却していった。
だが寶洋丸の損傷は大きく、一時は放棄も考えられた。午前10時頃、矢風は寶洋丸に接近し、内火艇を派遣して指揮官及び漂流中の船員を収容。そこへトラックから応援の軽巡長良が到着。曳航準備を進める長良を援護すべく午後より寶洋丸の周辺で対潜警戒を行う。17時30分には特設敷設艇金城丸が現場に到着。矢風は金城丸の護衛を受けてトラックに向かい、道中で合流した第33号駆潜艇、特設掃海艇第二能代丸、電線敷設艇立石の支援も受けつつ、11月7日午前8時30分にトラック北水道まで何とか逃げ延びた。
1944年2月7日、船団を護衛してトラックを出港、2月27日に呉へ入港した。後輩にあたる標的艦波勝が新たに就役し、次級の大浜も建造中という事で、旧式艦の矢風は外洋での標的艦任務を外され、以降は北海道などの内地方面で爆撃訓練に従事する。標的艦に改装された後も長らく艦内に無線操縦装置が残っていたが、もはや摂津を操縦する機会は無いと判断されたようで10月に撤去されている。
1945年に入ると燃料不足が深刻化。横須賀には矢風と大浜がいたものの、燃料が尽きた影響で回避運動が取れなくなり、木更津沖に錨泊して標的艦を務める事が多くなった。5月中に矢風へ供給された重油も僅か1トンである。5月1日、第131航空隊と第254飛行隊の雷撃訓練を実施、訓令に従い、5月9日から16日まで工廠に入渠して25mm単装機銃2基を追加装備した後、30日と31日に先の航空隊と雷撃模擬訓練を実施する。横須賀上空には度々B-29やP-51が出現または通過。警戒警報が何度も発令される中での訓練となった。
増大する敵機の脅威に対抗するためか、矢風の兵装は山内式5cm単装砲1門、九六式25mm単装機銃4丁、爆雷8個に強化されていた。
最期
1945年7月18日午後、米英合同機動部隊が戦艦長門を狙って横須賀を空襲。艦内火発電機修理のため横須賀軍港小梅1号岸壁に係留中だった矢風も対空戦闘に参加する。
15時50分、約250機の敵艦上機が横須賀上空に出現、矢風の対空砲火でTBFアヴェンジャー雷撃機に白煙を吐かせるも、2分後に右舷機関室付近へ至近弾を受けて8割が浸水、更に16時20分、矢風の右舷に横付けしていた電線敷設艇春島丸が直撃弾を喰らって沈没、その際に生じた爆風や破片により矢風も中破し、第三兵員室に浸水被害が発生、煙を上げながら右舷へと傾斜する。下士官2名、水兵3名が負傷。
被害は短艇1隻沈没、前部糧食庫艦底に亀裂、至近弾により破孔及び弛鋲発生、航行不能、弾片で右舷推進器支柱後方と後部倉庫水線下に破孔など。
空襲終了後、排水作業及び浸水遮断措置を行ったのち、沈没に備えて糧食、秘密図書、小錨、銃器類などを搬出、港務部から来た排水曳船2隻の助力を得て徹夜の排水作業に臨み、翌19日午前7時20分、長浦に曳航されて第二船渠へ入渠した。しかし修理工不足でこれ以上の修理は行われなかった。この状態のまま8月15日の終戦を迎える。
修理が完遂していない影響で浸水が進んで戦後に着底。1948年7月から9月にかけて解体された。
関連項目
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